天夜奇想譚

天夜奇想譚 -狼- Chapter4

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kohaku

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―――数時間前。

 他の乗客と共に、出入り口に寄せられた移動式の階段に降り立つ。
 耳を刺激するジェット音と、空高くに照りつける太陽の日差しを浴びて2日ぶりに地上に降りたことに、彼女はやっと到着した、という事実を実感する。
 24時間以上、エコノミー席に縛り付けられていた身体を動かし、ゆっくりと固まっていた節々を解きほぐす。
 降車を促されるキャビンアテンダントの言葉に、慌ててお詫びを入れて階段を下りると、その様子を面白そうに見ていた、旅すがらに出会った女性に彼女は向き直る。
「それでは。長旅の間、思いがけずに楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございます」
 彼女は深々とお辞儀をすると、かしこまった彼女に心地の良い笑みを浮かべて、女性は手を振る。
「なに。こっちも道中、暇を持て余さずに済んだからね。――仕事の方はがんばってちょうだい」
 女性は、旅すがらのスタイルなのか、白いワイシャツにジーンズといった軽装であり、その赤い髪を後ろで束ねた顔は、モデルのような長躯と相まって、綺麗に整った笑顔を浮かべている。
 しかし、何処か人懐っこさを感じさせる笑みに、彼女は最後まで、その素材を台無しにするラフな格好を指摘する事はしなかった。
 規律や乱れを嫌う彼女としては、道中で知り合ったこの女性に、新たな価値観を持たせるだけの何かを感じ取っていたからだ。
「――途中で降りた韓国での事は、どうか内密にお願いします」
「分かってるわ。触れられたくないのはお互い様。お互い当然の出会いと別れをして、その立ち位置ゆえにいつか出会う時はどうなるかは考えない…。それでどうかしら?」
 期待していた限りで、最高の答えを返してくれた女性に、彼女は笑みを浮かべてひとつ、頷いた。
 それは、一人の戦士と一人の騎士の一時の交錯であったが、それはまた別の物語である。
 彼女は、お互いに最後の別れの挨拶を交わすことなく、背を向け合ってロビーへの道を行く。
 女性が西を、彼女が東を…だ。
 彼女はクーラーの効いた綺麗なロビーを早足で通り過ぎながら、スピーカーから流れる音に耳を傾ける。
『本日は、JAM航空機をご利用いただきまして、誠にありがとうございます。
 当208便機は、無事、10時24分に天夜市空港へと到着しました。
 次の便の出発は…』
 来るまでに勉強してきた異国語を、しっかりとヒアリング出来ていることを確かめると、彼女は女が持つには大き過ぎるトランクを開けて一枚の紙を取り出す。
 それは、四つ折にされた内側に、地名と住所、そして行き先を記された地図だった。
 そこに書かれた目的地の文字を見つめ――、
「さて、早く統括組織に合流しなければ…」
 目的地の名前を口にして、彼女は空港の出入り口を潜った。

         ◇
 すっかり日の暮れた道を走りぬけ、優希は家のドアを乱暴に開けた。
 転がりそうになる身体を何とか保って、履いていた靴を玄関に脱ぎ捨てると、自分の部屋のある二階へと階段を上がっていく。
「優希さん、帰ってきたんですか?」
「ただいま、お父さん」
 キッチンの方から顔をだした誠に、優希は振り返ることもなく返事を返すと、バタンと部屋のドアを開閉した。
 そんな娘の様子に、誠は不思議そうに首をかしげ、おたまを片手にキッチンへと戻っていった。

        ◇
 持っていた学生鞄を机に放り出すと、優希は飛び込むようにベッドへとうつ伏せに倒れこんだ。
 ぼふっとした感触と共に、嗅ぎなれた部屋の匂いに包まれると、溢れ出す汗と共に収まらなかった動悸が、僅かに落ち着きを取り戻す。
 大きく息を三度吐いて、ごろんと寝返りをうって天井を見上げる。
 顔を真っ赤にする優希の顔は、何もかもを忘れて一点の出来事に頭を混乱させていた。
 こちらの問いかけに答えず、名も名乗らずに去っていった相手。彼の姿を見失い、家路に着こうと歩き出してすぐに、優希はあの青年にされた事を思い出した。
 今も思い出す、甘い匂いをさせた黒い髪。
 一瞬だけ重なった、鋭くも綺麗な瞳。
 そっと首筋に近づいた、彼の――、
「わっわっわ――!!」
 また思い出しそうになって、優希は慌てて声を上げる。
 異性に…。それも見知らぬ人間に顔を近づけさせた事実に、優希はどうしようもない恥ずかしさと驚きを感じていた。
 高校生にもなって、まともに異性とお付き合いというものをしたことのない優希にとって、顔の近くに顔を近づけさせたという事は、駅から家までの距離をノンストップで走らせるくらいには、驚くべき出来事だった。
 別段、異性に苦手意識を持っているわけではない。
 まして、顔を近づけさせる前には、自分はあの青年に抱きかかえられていたのだ。
 そんな事を思い出して、優希はさらに顔をリンゴのようにさせてしまう。
 こんな所を、意地悪な兄に見られたらと思うと、優希には気が気ではない。
 しかし、一向に収まらない心臓の動きに、優希は傍にあった熊のぬいぐるみを引き寄せる。
それを胸に押し付けて、はぅ、と一息。
「キス、されるかと思っちゃった…」
 一番に気にしている事を口にして、優希ははぅ~、とため息をつく。
 そんな、軽挙妄動ぶりを発揮している優希の部屋に、強くも弱くもないノックがした。
「優希さん。どうかしたんですか?」
 父――誠の声に、優希は身体を起こすと、はいりますよ、という声と共に部屋のドアが開いた。
 ワイシャツにスラックスという井出達の上に、オレンジ色のエプロンをした誠が、ケーキと紅茶の乗ったトレイを片手に、ドアの前に立っていた。
「今日も学校お疲れ様です。甘いケーキでもどうですか?」
「――!! うん、食べる!」
 ケーキ、という甘い言葉に目を輝かせた優希は、ベッドから飛び上がると誠の元へと駆け寄る。
 まことの持つトレイに手を伸ばした優希は――しかし、ふいっと上げられたトレイをつかめず、手を宙に彷徨わせる。
「おやつは、まず服を着替えてからです。そのままじゃ、シワになってしまいますよ」
 優しく微笑む誠に、優希は兄と同じ意地悪な笑みを感じとり、優希はお預けをくらった子犬のように、出て行く誠にそっぽを向いた。

         ◇
「今日、学校から連絡がありました。なんでも生徒さんに今起きてる連続殺人事件の被害者が出たそうですね」
 キッチンのテーブルの上で、美味しそうにケーキを食べる優希を見ながら、誠はそんな言葉をきりだした。
 その内容で思い出した優希は、美味しそうに食べていた表情を曇らせると、最後まで取っておいたイチゴをそのままに、銀のフォークを皿の上に戻す。
「まだ、被害者が出たわけじゃないよ。行方不明ってだけで、まだ噂の連続殺人事件と同じかどうかはわかってないもの」
「――そうでしたね、失礼しました。ですが優希さん。お昼前に下校になったのに、こんな時間まで外を出歩いていては、僕も心配です。今度からはちゃんと何処に行くか告げてからにしてください」
「私、もう子供じゃないよ…」
「いいえ。貴女はいつまでも、僕と沙希さんの娘です。だから、あまり心配をかけないでくださいね」
 子供をしかる、というにはあまりにもやんわりとした口調に、優希は毒気を抜かされると同時、妙な罪悪感を感じてしまう。
 誰から見ても優しく物腰の柔らかい父親の姿を、優希はかつての幼い頃から頼もしく見ていた。
 いつも母親という存在が傍にいない自分に、柔らかな笑みを浮かべて手を引いてくれた父親を、優希は大好きだった。
 別に、母親である沙希を比較した事はなく、誠からいつも聞かされる沙希の話は、優希に沙希とその仕事に対する尊敬を持たせるには、十分だった。
 まあ、それで寂しくなかったかと言われれば、それは別の話ではあるのだが――。
「分かったよ、お父さん。今度からはちゃんと一言連絡を入れてから外出するから」
 そもそも、男手ひとつで実質二人の子供を育ててきた誠に、優希は逆らうような気はなかった。
 親というにはおっとりしたこの人を困らせるのは、何か違う気がしたからだ。
 優希の言葉に満足そうにうなずく誠は、最後のイチゴを食べた優希のお皿を下げると、キッチンへと下がった。
 それを見送った優希は、ふとテーブルに置いてあるエアーメールに気づいた。
 沙希からのその手紙に、優希は手に取ると――、
「お母さん。何時帰ってくるのかな」
「そろそろ日本には着いたころだと思いますよ。今日か明日か。まあ、沙希さんのことですから、まっすぐ家には帰ってこないでしょうけど」
 どうして、と追いかける優希に、洗い物をしていた誠は、柔らかな笑みを向けると、秘密です、と口に指を当てた。

          ◇
 最初に気づいたのは、自分が手当てを受けてベッドの上で寝かされているということだった。
 心地よい疲労感と気だるさに、見知らぬ天井であっても個々が何処かを確かめる気にはなれない。
 うっすらと思い出していく今までの出来事が、此処が天国なのだろうか、という思考にまで行き着いたところで、部屋のドアが開く音がした。
 聞いた事ぐらいしかない、「侍女」という言葉を想起させる井出立ちの少女が、男物の服を両手に持って、部屋へと入ってきた。
 黒と白のふわふわとした服は、西洋のメイドに近い印象があるが、それを纏う人間は、見紛うことなく日本人だ。
 それも、15、6にしか見えない少女である。
 そんな子供が侍女として働いている、という事実が、自分――早間雄吾の興味を惹いた。
「おい――」
「――っ!?」
 と気づけば声を発した雄吾の声に、少女はびくりと身体を硬直させると、ベッドの上で自分を見る雄吾に、少女は怯えた表情を見せる。
「――あ…。その、だな」
 その様子が一目で理解できた雄吾は、どういったものかと言葉を宙に彷徨わせ――、
「――!」
 はっ、と何かを思い出したのか。突然ぱたぱたとドアのほうへと駆けていくと、雄吾を残して出て行ってしまった。
 待て、と口を開くことも出来ず、伸ばした手を宙に彷徨わせた雄吾は、どうしたものか、と上げた手を下ろしてため息をつきながら頬を掻く。
「ちょ、どうしたのマチ!? そんなに服を引っ張らないでってば!!」
 廊下から聞こえる声に、雄吾は何事かと身を起こすと、先ほどの侍女が、一人の女性を連れて戻ってきた。
 動きやすい格好をした女性は、白いシャツを侍女の少女に捕まれ、シワにならないように服を庇いながら部屋の中へ入ってくる。
 ようやく立ち止まった少女に、ため息を吐きながら服を直す助成は、ベッドの上で自分達を見ている雄吾に気づき、
「――あら、おじさん起きたの?」
 と同でもよさそうに雄吾を見た。
 何を聞き、何を言えば良いのかを順を追って話そうとしていた雄吾は、
「とりあえず、お兄さんと呼べ!!」
 そんな言葉を第一に発していた。

          ◇
「しかし、思ったよりも元気そうで安心しました」
 マチ、という名の少女からシャツとジーンズを借りた雄吾は、二人の少女に連れられて、屋敷の居間へと連れてこられた。
 マチが連れてきた女性は、大人びていただけで、実際にはいま雄吾の目の前にいる少年と、さほど変わらないという話だった。
「さて、それじゃあ何から話しましょうか」
 ソファに座り、腕を組んでこちらを伺う少年に、雄吾は先日自分を助けた時の印象との違いを感じる。
 その違和感を抱えたまま、雄吾は別段意識した様子をうかがわせずに口を開いた。
「そうだな。まずはお前達が何者なのか、教えてもらおうか」
「それは、お答えできません」
「お前の名前は?」
「言えません」
 先ほどから、この繰り返しだ
「何が目的で、あの場所にいた」
「ああ、それはお答えできます。任務を失敗した教会の人間を、救助および保護、もしくは処理するためです」
「――処理?」
 最初の二つの言葉より、そちらが気になった。
「はい、処理です。相手は異形です。いくら教会の人間とは言え、《感染者》とならない訳ではありませんから」
 なるほど、と雄吾はうなずく。
「お前達は、教会所属の何かなんだな」
「お答えできません…と言いたい所ですが。良いでしょう、その通りです」
 楽しそうに微笑む少年に、雄吾は対照的に表情を険しいものにしていく。
 それすらも、少年はまるで愉しんでいるかのように、その笑みに淀みがない。
「俺は、こんな問答を続けている気はないんだがな」
「ええ。僕もこんな事をしている時間は惜しいです。ですので、今度はこちらから質問――というか、お願いをしても良いでしょうか?」
「お願い――?」
「ええ。貴方には、僕達の仲間になってもらいたいのです」

          ◇
 少年の言葉に、雄吾は一瞬その身の動きを止め――、
「はっ!!」
 心底馬鹿にしたような表情を浮かべた。
 その様子に、マチと一緒に椅子に座りながら様子を伺っていた琴歌‘きんか’が、がたりと椅子を倒して立ち上がった。
「良いよ、琴歌。落ち着いて…」
「でも、渚。こんな親父を仲間にする必要なんてないでしょ? どうしてわざわざ助けたりなんかしたのよ。こいつ、統括の人間でしょ?」
「彼は違うよ。あくまで統括に雇われた《庸兵》-マーセナリー-だ。たまたま統括側だったというに過ぎない」
 少年――渚の言葉に、琴歌と呼ばれた少女はしぶしぶと引き下がる。いつの間にかマチが起こした椅子に座りなおすと、琴歌はテーブルにあるクッキーを一枚取ると、つまらなそうにひとつ口で放り込む。
「まあ、そのお答えは予想していました。問題は此処からです」
 渚は別段慌てた風もなく、話を続ける。
「まどろっこしいのは好きじゃない」
「はい。なので、簡潔に訊ねます。
 いまから僕達の素性と本当の目的を話ます。その前に、貴方に協力を得られる確約が欲しいんです。《影取》の雄吾さん。
 ――貴方の力が必要なんです」

          ◇
 夜の天夜市に活気がなくなり始めて、数日が絶つ。
 連日紙面を賑わす殺人事件。未だ解決の兆しの見えない恐怖の事件に、真っ当な人間は夜の街に繰り出すものは少ない。
 それでも、決して無人とならないのは――、
「自分とは無関係、なんて思ってるのかしらね」
 見れば、周囲にたまっているのは、一人ひとりが何かしらで自分を表現する若者達の姿。
 20代もいれば、その華美な容姿とは裏腹に明らかに自分の子供と変わらない年齢の少年少女の姿もある。
 所々で見える警官が、そんな彼らを注意して回る光景もあるが、その場を立ち去る彼らが、大人しく家に帰るとは思えない。
 それでも、夜の街に賑わいが減っているのは確かなことだ。
「なんだか、ちょっと見ない間に此処もスラムみたいになっちゃったわね」
 別段、故郷というには長く帰っていない街並みに実感を持っていなかった自分には、アメリカや欧州のスラム街の印象が、妙な既視感を感じさせる。
 過度なネオンの明かりの端に、目的の物を見つけて、自然と早足になった。
 いつもは、もっと寂れた場所に構えていたはずの小さな屋台は、今は吹き溜まりの端に小さく明かりを灯していた。
 焼き鳥屋の赤提灯を下げた暖簾を潜って、使い込んだ長椅子ベンチの座布団に腰を下ろした。
「マスター、熱燗ひとつお願いね」
 こちらに背を見せて仕込みをしていた店主の老人が、こちらの言葉に無愛想な顔を向けた。
「おお! お前さん、沙希ちゃんかい?」
 こちらの顔に気づいた店主は、顔に驚きの表情を浮かべると、その皺の刻まれた顔に笑みを浮かべた。

          ◇
 鍋の湯で温められた熱燗が出てくると、沙希はお猪口に酒を注ごうとして、徳利を店主に取られた。
「再開の記念だよ」
 猪口を差し出す沙希に、店主は冷気に晒され湯気を出す中身を注いでいく。
 それを一口で飲み干すと、沙希は皿に乗った軟骨に手を伸ばした。
「元気そうじゃないか。今度は何年ぶりだい?」
「どうかな。一応3年前に日本には顔を出したけど、あの時は誰にも会わずに欧州へ戻ったしね」
「家族にも顔を出さなかったのかい? まあ、それじゃ誠くんたちが可哀想じゃないか」
「おじさん、私の性格知ってるでしょ…」
「まあ、可愛い息子たちに会えば、意志もゆらぐってもんかもなぁ」
 苦笑する店主に、沙希はやめてよ、と頬を赤くさせてそっぽ向く。
「で、今回はどんな用事で戻ってきたんだい?」
「今回は完全なオフよ。娘がもうすぐ誕生日だから、お土産片手に帰ってきたの」
 椅子の横に置いた大きなトランクを叩きながら、沙希は注がれた酒をくいっと煽る。
「じゃあ、こんな所で飲んでないで、早く家族のところに戻ってやんな。みんな待ってるだろう」
「良いじゃない。久しぶりにおじさんの顔が見たくなったんだから」
「沙希ちゃんみたいなべっぴんさんに言ってもらえるとうれしいがね。――オフならへんな事に首を突っ込むんじゃない」
「――何のことか分からないけど。私、お金にならないことには関わらない主義だけど?」
「よく言うよ。俺はまだ覚えてるぞ。誠君を引っ張りまわして、町中の悪がきをとっちめて回っていたお前さんのことを」
「何時の話よ、それ」
「高校生になって生徒会長なんてものに選ばれたところで、その暴れっぷりは直らんかったし。挙句は旦那と子供を残して、世界中を飛びまわっとる」
「その方が、私の性に合ってるからね」
「足を洗う機会は、いくらでもあったと思うがね」
 それは、責めているというには、何処か悲しげな声に、沙希は店主の言葉に反論するでもなく、皿の上に残ったももを口に入れる。
「――丘の上。まだあのままなの?」
「今じゃただの墓地だよ。去年、建物は全部取り壊された」
「――!? みんなのお墓は?」
「誠君のおかげで、墓地の隅に纏めて安置されてるよ」
「そっか…」
「あれ以来、誠くんもあそこには寄り付かなくなったがな。この街もどんどん変わっていく。このままだと、家族の心もどんどん変わっていくぞ」
「やだ。――怖いこと言わないでよ」
 くいっと最後の一杯を飲み干した沙希は、ふぅ、と大きく息を吐く。
 店主はそのまま沙希に背を向けて、仕込みの続きを始める。
 その姿を、沙希はじっと見ていた。

          ◇
 思い出すのは、楽しげに笑う子供達の笑い声だ。
 綺麗に手入れの行き届いた庭を、幼い子供達が楽しげに駆け回っていた。
 自分達には何もなかったけれど、誰も不満なんてなかった。
 自分達を愛してくれる母親がいて、たくさんの兄弟たちがいたから。
 自分は、そんないつも優しく自分達を見守ってくれる、せんせいの笑顔が好きだった。
 白く優しい手も、眠れないときに歌ってくれる綺麗な子守唄も、自分の名を呼んでくれる優しい声も。
 皆、せんせいが大好きだった。
 そんな時間を壊したあの影が、同時に蘇ってくる。
 忘れられないその顔を、自分は許せなくて全てを置いて飛び出した。
 大勢がそんな自分を叱り、だけど、あの人だけは優しい笑顔で送り出してくれた。
 元々、人並みの家族なんてものに縁はない。
 だけど、家族同然の人たちを傷つけた奴を、許せないぐらいには家族という存在を大切に思っている。
 だから、自分の家族を蔑ろにしても良いとは、思っていない。
だけど――、
「私、まだあの時間から動き出せていないのね」
 それは、誰に言ったわけでもなかったが、店主はため息を吐くことで応えた。
「お前さんは、もう組織の人間じゃない。大した事は教えてやれんぞ――」
 と、店主が振り返ったときだった。
「うう~、寒い! 親父、熱燗をくれ」
 不意に暖簾を潜って、無精ひげを生やした男が椅子に座った。

          ◇
「なんだ。同窓会なら他所でやってくれ。うちは気の利いたモンはだせないぞ」
 男――尾霧希を見るなり、店主は驚いた顔を瞬時に隠し、誤魔化すように鍋に火をつける。
 歓迎されてないのか、と訝しむ尾霧は、横に座る沙希に気づくと、よう、とまるでたまたまあった同僚に交わすような挨拶をした。
「警察も大変ね。危機管理のなってない市民を守るってのも」
「なんだ、見てたのか。あいつらにとっては、あの時間が何よりも大切なんだよ。殺人鬼の一匹や二匹で、それが駄目になるなんて耐えられないのさ」
 自分の分を差し出す沙希に、尾霧は先に出されていた自分の猪口を差し出す。
 そこに酒を注いだ沙希は、中身が空になると自分にももう一杯注文する。
「何時戻ったんだ?」
「今日の午前の便」
「お前がこの町にいるなんて珍しいな。仕事はどうしたんだ」
「今はオフ。久しぶりに長い休暇を手に入れたから、家族の顔を見ようと思ってね」
「それで、こんな所で油を売ってるのか?」
「まあ、なんていうの? なんて家族に会えばいいかちょっと年配の意見を聞きにね」
「うじうじ考える前に、さっさと会いに行け。会えば適当に言葉が出てくるだろうよ」
「ちょ、それって見も蓋もなくない?」
「阿呆。この歳になって家族のない俺にする相談じゃないだろうが」
 二人のやり取りに、尾霧は苦笑を浮かべてコートのポケットにしまっていた煙草を取り出す。
 皺くちゃのソフトケースから取り出した一本をくわえると、使い込んだ銀のジッポで火をつける。
「――柚子は元気?」
 火を消すと、尾霧は一度だけ大きく吸い込んで、周りに気を使いながら煙を吐き出す。
「つい先日あったよ。まあ、相変わらずだった」
「なんだ。まだ付き合ってんの、あんた達…」
「プライベートではもう別れたよ。職場も変わってからは、本当に久しぶりだった」
「そっか…」
 懐かしい顔に、懐かしい名前を出して、沙希は本当に同窓会みたいだな、と笑みを浮かべる。
「浅桐の奴は、元気なのか? 子供たちを押し付けられて、文句たらたらなんじゃないか?」
「何言ってんのよ。年下の子供たちの面倒を嫌がってたのはアンタでしょ」
「そうだったな。アイツは面倒見は良かったしな。こんなぐうたら妻の我侭にも付き合ってやれるんだ。大したもんだよ」
「アンタも、誠さんの爪の垢ぐらいの我慢があれば、柚子とももっとうまくいってたんじゃない?」
「――かもな」
 嫌味のつもりで返した言葉を、尾霧は何処か寂しそうに返すだけだった。
「なに、まだ未練たらたらなの?」
「いうなよ。情けなく思えてくる」
 これは重症だ、と沙希は酒を尾霧の猪口に注いでやる。
 久しぶりの再開だが、二人の間にあるのは沈黙ばかりだった。元々、これといって会話の弾む相手ではない。まして、相手に隠し事をしている自分には、うかつな事は喋れないという警戒が吐いて回る。
 家族に隠し事をする、というのはこういうことなのだろうか。
「ねえ。最近、丘には行ってる?」
 家族、という言葉がそんな話題を出していた。
「アンタは知らないだろうけどな。去年あそこは――」
「それならおじさんにさっき聞いた」
「―――あれ以来、行ってねえよ」
 吐き捨てるように、尾霧は中身を煽って飲み干す。
「そんなに酷いの?」
「面影なんて何ものこってないな。浅桐が墓だけはのこしたみたいだが…」
 そんな事より、と尾霧は立ち上がりながら沙希を見る。
「そこまで知ってるなら、今街がおかしいのは分かってるんだろう。こんな所にいつまでもいないで、早く家族の下へ帰るんだな」
「こんな所で悪かったな」
「いや、言葉のアヤだから。そんな怒んないでよ親父」
 それじゃ勘定、と尾霧はテーブルにお札を置くと、ゆっくりと暖簾を潜る。
「まだ仕事なの?」
「いや。ちょっと野暮用でね。――狼を探してるんだよ」
「――狼?」
 沙希の問いに、尾霧ではなく店主がぴくりと反応した。
 しかし、そんな店主に気づくことなく、尾霧は片手を上げて挨拶すると、夜の街へと消えていった。

          ◇
「それで、狼ってなに?」
 尾霧が去った後、沙希は店主に問いかけていた。
 既にその表情に酔いの色はなく、見つめる瞳は鋭さを持っていた。
 店主はため息と共に懐から一枚の写真を取り出す。
「これは、組織にも伝わっている情報だが。一匹の異形が欧州からこの天夜市に入った」
「それが、狼? でも、もう解決したんでしょ?」
「いいや。この狼を追って、統括と教会が共同戦線を張った」
「何それ。そっちの方がウソでしょ?」
「本当だよ。まあ、失敗したがな」
「それで?」
「今起きてる連続殺人事件。犯人はこの狼――狼男かその配下が犯人だと考えられている」
「それを、アイツが追ってるの?」
 どうして、と沙希は問う。
「それは、知らん。尾霧は統括は愚か、異形の存在もしらんはずだ」
「柚子――か」
 沙希はため息を吐くと、同じ様に立ち上がる。
「おい、言っとくが…」
「分かってるわよ。私は今はオフ。自分に関係のない事には関わらないわよ」
「そうは言うが、お前は…」
「勿論、家族に害が及ばないなら、ね」
 そう。いつも自分は家族の害になるものは全て滅ぼしてきた。それが、ひとつやふたつ増えたところで変わらない。
「アイツも、狼男も、家族に害を与えるなら変わらない」

 ――――どちらも、滅ぼし尽くしてやる。

To be continued

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