Moonlight Blue ◆hqt46RawAo
■ 『少女:悲哀の自己認識:路地裏~橋』 ■
三人分の足音がバラバラのリズムを刻みながら夜に反響して消えていく。
前方には先の見通せない夜道が続いていて、左右にはコンクリートの壁がぼんやりと街灯に照らし出されていた。
ゼクスマーキスと別れた後、エリアD-5路地裏の薄暗くて小汚い道のりを
福路美穂子は二人の魔術師と共に進み続けていた。
4メートル程前を先行しているコート姿の女――アオザキの背中を追って、疲れの溜まった両足をひたすらに動かし続ける。
「――で、その聖杯戦争ってのが……なんていうか……。七組の魔術師とサーヴァントが聖杯を巡って殺しあう……。って言っても伝わらないよなぁ……」
傍らからには、隣を歩く少年――
衛宮士郎の声が聞こえてくる。
彼との会話に集中することによって、美穂子は足を動かす億劫さをなるべく感じないようにすることが出来ていた。
暗い道中における士郎の存在は、疲労感を大きく紛らわせてくれる。
(気を、使わせちゃってるな……)
士郎は努めて明るく話そうとしているようだった。
美穂子は、人の『感情の動き』を読むことには長けていた。
『超能力』的なものでは決して無いものの。
その『観察眼』の精度は既にある種の『能力』と言える域にあるだろう。
『場』の状況を速く正確に把握すると共に、相対した人物の心理状態をあくまでその人の表情や挙動のみ察知する。
それを元の世界では、ずっと卓上でこなしてきたのだ。
普通の人では気がつかないような僅かな心の機微も、美穂子は見逃さずに感じ取る事ができた。
だからこの時、士郎が少し無理をしている事も分ってしまっていた。
彼は何も気にしていないように話し、平静を装ってはいる。
しかし時折その横顔や挙動に、迷いや焦りの色が通り過ぎるのが垣間見えてしまう。
そしてその理由も、アオザキやゼクスと話す士郎の姿を見ていた美穂子には瞭然の事であった。
この場において誰よりも焦燥と苦悩を感じているのは士郎のはずだ。
にも拘らず、誰かに心配を掛けないようにと、彼は全てを背負い込んでいる。
その心遣い為を無下にしない為にも、礼の言葉を口に出す事は出来ない。
だからせめて、彼の心が今より少しでも軽くなるようにと、
自身の疲労も焦燥も憂慮も、全て士郎に悟られぬよう心の内へと仕舞いこんで。
美穂子もまた、なるべく明るく話すことを意識しつつ、士郎の言葉を聞いていた。
「うーん。これを人に説明するのはここに来て二回目なんだけど、やっぱりどう話すか悩むな……」
「理解できない部分は私から質問するから、とりあえずは衛宮くんの話しやすいように話してみたらどうかな……?」
「……わかった。でも断っておくけど、普通の人にしてみればかなり信じがたい話になるぞ?」
「それはきっと大丈夫。今ならどんな荒唐無稽な話でも、信じられそうだから」
――聖杯戦争。
『イリヤ』『
バーサーカー』に続き、またしても士郎の口から飛び出した聞きなれない単語。
名前だけではどのような物かを予想する事は出来なかったが、
『戦争』という言葉がつくからには穏やかなものではないのだろうと思われた。
「まず、魔術師っていう存在があって――」
美穂子はひとまず士郎の説明に耳を傾け続けた。
「――それでサーヴァントっていうのが――――で、聖杯っていうのが――」
魔術、魔法、マスター、サーヴァント、聖杯。
聞かされた話は確かに士郎の言うとおり、事情を知らない人間には信じがたい話であったことだろう。
とはいえ、この場所で様々な経験を経た今の美穂子にはもう、なんの引っかかりも無く彼の話を納得出来てしまっていた。
「――とまあ、色々ややこしい説明をしてきたけど。
最初に言ったように、七組のマスターとサーヴァントが『手に入れれば何でも願いが叶う聖杯』を巡って最後の一組に為るまで殺しあう。
聖杯戦争を簡潔に言えばこんな感じかな。全部、元の世界での俺の仲間の受け売りなんだけど……」
そして、先程彼が言った『イリヤ』は七人のマスターの内の一人であり、『バーサーカー』はイリヤのサーヴァントであったと言う事。
他にも何人かのサーヴァントがこの島に連れてこられていることや、最後に士郎自らもまたマスターの一人であったことを告げて、
士郎の話は締めくくられた。
「…………」
美穂子はすぐに返事を返す事が出来なかった。
士郎が語った聖杯戦争の、ひいてはサーヴァントについての話。それは想定よりも、今の美穂子にとって関連性の在る事柄だった。
美穂子がこれまで戦ってきた大敵達の正体。
ヴァンと
平沢唯を殺害し、
伊達政宗に致命打を与えた巨人――バーサーカー。
片倉小十郎を殺害した紫髪の女――
ライダー。
「……そっか――」
だが、それらを知って沸きあがる感情は既に無かった。
少し前の、憎悪に支配されていた頃の美穂子であれば、果たして何を考えたか分らない。
けれど、美穂子もう知っていた。
今の自分にとって重要なものは、大切な人たちを奪った敵の名前ではなく、大切な人達が残した思いだけなのだと。
いまさら誰かの仇の正体を知ったところで、心が揺らぐ事は無い。
だから、この時に囚われていた感慨はまったく別のこと。
「――それじゃあ衛宮くんは、ここに来る前からずっと戦ってたんだ……」
そんなことだった。
美穂子は思う。
日常から非日常に引きずり出された自分に対して、非日常から更なる非日常へと引きずり出された彼。
はたして、その心境はいかほどのものなのだろうか。
辛くは無いのか?
いや、辛いはずだ。普通の人間であれば、彼が言ったように、少し魔術が使える以外は普通の学生であったのならば。
そんな過酷な戦いの連続には絶えられないだろう。
少なくとも美穂子には出来なかったことだ。なのに、どうして彼はそこまで強く在れるのだろうか?
そんな単純で大きな疑問に――。
「――え? いやっ……俺は別にそんな大した事は……。戦いは全部
セイバーがこなしてばっかりで……俺は全然何も……出来てないよ」
士郎は少し悔しそうな表情を浮かべながら、どこか的外れな答えを返していた。
そうじゃない、と。美穂子は心中で思う。
敵と戦うことや、役に立ったかではなく、疑問はもっと根本的な事だ。
どうしてそんなに、命を掛けた戦いに『場慣れ』してしまっているのか? ということ。
「俺にはまだ、何も出来てない……誰も救えてない……」
けれども、士郎の言葉からは決定的な感情のズレが感じられていた。
デパートの屋上で、漆黒の武者と対峙したあの時と同じ。
圧倒的な力不足を理解していて、立ち向かえば必ず死ぬという事が分っていながらも、誰かを助ける事に迷いが無い。
それはもう自己犠牲の領域すら超えた、ある種の歪。
彼はとても哀しい生き方をしてきたのではないか、と。
ふと、美穂子はそんな思いに駆られていた。
「だいたいセイバーの奴、女の子の癖に自分が戦うんだって聞かなくてさ……。そりゃ確かに俺は半人前だけど……」
そんな美穂子の心中を知るはずもなく、
ブツブツと愚痴を吐くかのようにセイバーについて語る士郎の横顔はどこか懐かしそうで、どこか辛そうだった。
その表情に、大切な人を失った自分と似たものを見つけて、美穂子の感慨は流されていく。
「半人前だけど……今の俺なら……あの時より少しは戦えるかもれないのに……」
呟いた士郎の視線は、何も無い手の甲のあたりに向けられていた。
それはきっと、彼にとって最大の心残りなのだろう。
セイバーの名前は、既に放送で呼ばれている。
それが意味することなど明白だ。
士郎もまた、美穂子と同じく大切な人を失っている。
死した人への思いを抱えている。
「って、悪いな。なんか、愚痴みたいになってた……」
それきり口を閉ざす士郎。
彼の思いに対して、美穂子が言える事など何も無い。
これ以上、その思いに踏み込むことは出来ない。
士郎が今感じてる思いは、きっと彼だけにしか理解できないものだから。
美穂子の中の死者への思いが、美穂子だけのものであるように。
「ううん、気にしないで。気持ちは分るから……」
けれども、思いを共有することは出来なくとも、その一端を知る事なら出来る。
思いを抱えて生きているのは自分だけではない。皆それぞれ懸命に戦っているのだ。
それを実感することで、美穂子は少しだけ勇気をもらう事が出来ていたから。
ひっそりと、心中で彼に感謝する。
同時に、それを彼にも返してあげたいと思う。
「私も、その人に会ってみたかった。とても綺麗で、高潔な人だったのでしょう?」
「……ああ……うん。まあな」
そして、軽く戸惑いながらも、少しだけ誇らしそうに士郎が頷いたとき。
「開けた場所に出るぞ。 一応、警戒はしておけ」
前を歩くアオザキの重苦しい声が、暗い路地裏道の終わりを告げていた。
窮屈な路地裏を抜け、一転して広い道路に出た。
どうやら、ここは既にD-5中央都市部からは相当離れた西端の住宅街のようで、
もう美穂子の視界に高くそびえるビル郡は無く、まばらに民家が立ち並んでいる光景だけが広がっている。
道路の先を見ると、そう遠くない距離に橋が見えた。
息苦しさから解放され、一つため息をついた美穂子と士郎だったが、先行するアオザキはずんずん先へと進んでいく。
「っと、そうだ! セイバーの話をしてたら忘れそうになってたんだけど……」
アオザキを追って、美穂子が早歩きを再開したとき、ふと士郎が声を上げた。
「そもそも何で聖杯戦争の話をしたかっていうとだな」
イリヤとバーサーカーの説明ついでに、サーヴァントの危険性を語ったものかと思っていたのが、どうやら違うらしい。
確かに考えてもみれば、士郎が言った人物達――サーヴァントはもうライダーを除いて全て放送で呼ばれてしまっているし、
最後のサーヴァントであるライダーですら、もう生きているのか死んでいるのかも分らない。
今更サーヴァントの危険性について話す意義は少ないだろう。
とすると、聖杯戦争を知らせる事そのものに意味があったようだ。
「えっと、これも俺の仲間の受け売りなんだけど……」
そんな前置きをして、士郎は語った。
このバトルロワイアルに関する一つの『仮説』を。
様々な世界から参加者をここに集めた要因は聖杯の魔力によるものではないかということ。
この殺し合いは聖杯の行使を目的としたものではないかということ。
つまり、『バトルロワイアルとはルールを捻じ曲げて、規模を拡大した聖杯戦争で在る』という可能性について。
「……なるほど……ね」
納得する。人を生き返らせる魔法の正体。
それは美穂子も今までずっと考えてきた事であったが、
知らない異世界に聖杯という願望器があったならば、事の次第はずっと簡単なものとなる。
と同時に、『仮説』を語った士郎の表情に、ある変化を読み取って、
そちらに気が行ってしまっていたので。
「福路は、どう考えてたんだ?」
士郎からの問いに、少し反応が遅れてしまった。
「えっ?」
驚いたように顔を向けた美穂子に対して、士郎はあくまで興味本位と言った様子で聞いてくる。
「だから、福路は主催者の力に関して、どんなふうに考えていたのかってことなんだけど……」
「……あ……えと……私は……」
美穂子が考えていた死者蘇生の力。
ついつい、だらりと垂れ下がった制服の左袖に目が行ってしまう。
かつてそこに在ったモノ。そして、未だに己が内に潜むモノ。
それこそが美穂子の考えていた死者蘇生の正体であり。
「それは……」
やはり、語る事は憚られた。
今の自分の身の上についてを語る事は、彼への負担になる気がしていたから。
「もっと……詐欺みたいなモノなんじゃないかって。ほらあの帝愛の人たちって、信用できないから……」
代わりに、そう言ってはぐらかした。
美穂子は士郎という人物について、少しずつだが理解し始めていた。
この少年は、誰彼構わず助けようとするし、なんでも背負い込もうとする。
見ず知らずの者や、過去に自分を殺そうとした者すらも。
それは聖杯戦争で敵同士であった筈のイリヤという少女を本心から心配している事や、
あの屋上で迷う事無く美穂子を助けようとした行動からも伺えた。
そしてなによりも――あの時、士郎に投げかけられた言葉を憶えている。
『――死ぬな!いますぐ助けるから!だから――』
だからこそ、彼には知られたくなかった。
「詐欺……? それってどう――」
「あ、そういえば。衛宮くん。
もしかして、その仮説を考えた人が、
白井黒子さん?」
だから、士郎が事をより深く追求する前に、美穂子は先程考えていた予測をぶつけてみた。
「へ? あ……ああ、そうなんだけど……なんで分ったんだ?」
どうやらそれは図星だったようで、話を逸らすことに成功する。
「なんとなく、そう思ったから……かな」
実際に、美穂子は少し鎌を掛けていたのだが、根拠はちゃんとある。
『受け売りの仮説』について語る士郎の表情には、彼がアオザキやゼクスと白井黒子に関して話していた時と同じような表情が浮かんでいた。
それは焦燥感と、もしくはそれ以外の何か。
信頼感のような、それで居て何より気遣っているような。
ほんの僅かに、特別な感情を浮かべていたように思われた。
「聞かせてもらっても、いいかな? 西に居るその白井って人や、衛宮君の仲間の人たちについて……」
美穂子の提案はこの場において、もっともな意見のはずだ。
二人は未だに、まともな情報交換を済ましていない。
そんな理屈に加えて、美穂子は少し気になってもいた。
最良の選択だったとはいえ、士郎があれほどに悩み、そして選んだ後も未だに苦悩している選択肢。
その結果優先した白井黒子とは、はたしてどのような人物なのだろうかと。
「ああ、もちろんだ」
当然の如く、士郎は快く引き受けて、彼が今まで関わってきた者達について話し始めた。
会話の合間にも、目的地までの距離は縮まっていく。
三人が辿り着いたD―5西端の橋には、既に崩壊の兆しが見え始めていた。
バーサーカーとライダーによって散々痛めつけられた木材は多くの部分が欠損しており。
今このときも軋みを上げ続けている。
そんな場所をアオザキは臆する事無く進んでいき。
美穂子もまた士郎と共に、朽ち掛けている足場におずおずと足を乗せた。
「そう……。そんなことが……」
「ああ、だから急がないと」
不安な足場に意識を割きながらも、美穂子と士郎の情報交換は未だに続いている。
今は士郎から、士郎がこれまでに体験した一連の出来事を聞いていた。
ここまで、彼はあまり殺し合いに乗った者とは遭遇していないようであったが。
この島での初戦となった先の戦闘の最中、彼と共にいた白井黒子は銃撃により重傷を負ってしまったらしい。
「俺が不甲斐ないから、白井はあんな事になったんだ……。だから絶対に助けないと……」
士郎はそんな事を言ったが、
流石にこの発想には美穂子も異を唱えた。
「そんな……。どうして衛宮くんがそこまで責任を感じているの……? そもそもあれは私が――」
三回目の放送を聞いてから漆黒の武者と対峙するまで、美穂子の記憶は混濁している。
しかし、先の戦闘の火蓋を切ったのは自分であったことを、おぼろげながらも覚えていた。
そして今隣を歩いている少年に向かって手を上げたことも。
だから非が在るとすればそれは美穂子であり、責められるべきも同様のはずで、無論甘んじて受けるつもりだった。
にも拘らず、士郎は美穂子の言葉を手で制して言う。
「俺は、アイツと約束したんだ……」
「……約束?」
「ああ。一緒にこの世界から生きて帰る……って約束。だからアイツは、俺が守ってやらなきゃ……駄目なんだ」
「………………」
士郎の目は真っ直ぐだった。
ここに居ない白井黒子に告げるように。誓いを反芻するかのように、言い切った。
美穂子は少し、呆気に取られてしまう。
改めて自分の考え――やはり白井黒子が士郎にとって、特別な人物であるという事を確信する。
そう、特別なのだ。
誰彼構わず平等に助けようとする、まるで『
正義の味方』のような衛宮士郎という人物の中で。
唯一、白井黒子だけが特別な価値を持とうとしている。士郎本人が自覚しているかどうかは分らないが。
ただ一つ言えた事は、あの戦いのおり、士郎は誰よりも白井黒子を優先したかったはずだ。
なのに、それを押し切ってまで福路美穂子を救いに来た。
その矛盾した行動にこそ、彼の苦悩と、歪の正体があるのではないかと、美穂子は思う。
そして、その歪の形は今の美穂子の在り方と、どこか似ているような気がしながらも。
この瞬間迷いに揺れている士郎と、彼に守りたいと想われている白井黒子のことを、美穂子は少し羨ましく感じてもいた。
守りたいと願う、大切な人。
それは美穂子にとって、もう既に失われていて、二度と戻らないものだ。
けれども、士郎と黒子にはまだ互いが残っている。
彼らの大切な人は失われていない、まだ生き続けている。
それは何よりも幸福なことだと、美穂子は心から思う。
やり直したいと思った。
もう間違えない、負けないと誓った。
だから美穂子まだ生きている、生きてここ居る。
もう一度だけ、勝つ為に戦う事を決めたのだ。
それでも、失ったものは戻らない。
これはどうしようもない現実だ。
戻らないからこそ、何よりも尊い価値がある。
故に死者の蘇生など嘘っぱちだと、美穂子は思う。
金や殺人で大切なモノを取り戻す事など、出来る訳がない。
そんなことは絶対にしちゃいけない、と。
大切な人をたくさん失った今だからこそ、美穂子には断言することができた。
そんな感慨と共に、美穂子もまたこれまで体験してきた事を、アンリマユや自分の状態については伏せつつ士郎に話した。
士郎は少し顔を顰めながらも、最後まで黙って美穂子の話を聞いていた。
話終えたとき、士郎は少しだけ顔を伏せてしまったので、美穂子に士郎の心中を図る事は出来なかった。
一通りの情報交換が終わり、橋の中央まで来たときだ。
「なあ、アオザキ。そろそろ教えてくれないか?」
士郎が、先行するアオザキに近づいて声を掛けた。
「アンタ、どうして俺達を助けた? 俺達の味方だって言ってたけど、具体的に何が目的なんだ?」
未だ不明瞭なアオザキの正体。
橋を渡りきる前に、それを問い質しておこうと考えたのか。
士郎は少し詰問するような口調だった。
美穂子はそれをひとまず後ろから見ていることにする。
自分が続いたところで話が拗れるだけであろうし、魔術師同士である二人の間には軽い専門用語が飛び交っており、正直入っていけそうに無い。
だから、話の内容は後で士郎に教えてもらうことにした。
小さな声で為されている前方の会話から取り残されて、自分だけが世界から隔離されたような錯覚に陥る。
壊れかれた橋の上。
思わず足を止めて、橋の下に流れる川を見下ろしていた。
あたりは酷く静かだ。
ビル郡の光も、背後に遠い。
今は月明かりだけが美穂子の世界を照らしている。
人と人との喧騒も、虫の声もここには無い。
ただ、夜風が頬を撫でていくだけで――。
穏やかに、時間が流れていく。
士郎とたくさん話した余韻も手伝って、心が少し軽くなっていたからだろうか。
「『生きて』……『この世界から出る』……か」
気がつけば、その言葉をなぞっていた。
生きて、この世界から脱出して、それからどうするのか。
そんな『先』の事を美穂子は初めて考えた。
真っ先に浮かんだのは自分の事を『お姉ちゃん』と読んでくれた三つ子たちの存在で。
出来る事なら、生きて帰る事が出来たなら、華菜の代わりに自分が守ってあげたい。
もう一度、あの日常へと――。
「――――――っ!!」
そんな、儚い空想は、目の前に結ばれた像によって、呆気なく壊されてしまった。
「私は……いまさら……何を……」
月の光に煌いた川の水面に映る、美穂子自身の姿。
在るべき片腕を失った少女。この世全ての悪を身に宿した少女。
そんな変わり果てた自分の姿を見て。
急速に、心が冷えきっていく。
立ちくらみのように、一瞬だけ前後不覚に陥って。
全身を包む悪寒。絶望の味を思い出した。
――なにを馬鹿な。今更あの暖かな日常の中に、戻れるとでも思っているのか?
美穂子は自嘲する。
自分は今、なんて甘い幻想を抱いていたのだろうか、と。
そして、いまさら何に絶望しているのか、と。
全てが終わった後の事など、『先』の事など、果たして自分に用意されているか分らない。
今の自分がどれだけ日常からかけ離れてしまったのか、歪な存在になってしまったのか、そんな事は自覚していた。
日常に帰れるなんて、到底思えない。
きっと、自分は救われない。
左肩が、悲哀を喰らうように、厳かに疼く。胸が締め付けられるようだ。
こんな事はずっと前から分かっていた事なのに。とうに覚悟していた筈なのに。
自分の姿を見た。現実を再認識した。
ただそれだけの事で、こんなにも心が痛む。
水面に映る現実に、圧しつぶされそうになっている。
けれども、それは考えてもみれば当たり前の事だろう。
いくら美穂子が数々の体験を経て、強くあろうと振舞っても、高貴な決意を固めていても。
結局、その心の本質は、普通の日常を生きてきただけの、普通の少女のものだった。
平気で居られるわけが無い。
美穂子は疼く左肩を押さえがなら、静かに眼を閉じる。
本音を言えば、怖くてしかたがなかった。
どうしようもなく、苦しかった。
泣きたいくらい、辛かった。
けれど自分には、それを訴える資格など無いと思っていた。
自分の間違いを許す事は出来ない。
失った人たちの事を思うと、自分だけが救われていいなんて思えなかった。
そして最も明確な罪の形にも、つい先程直面したばかりだ。
士郎は気が付いていないようだったが。
数十分前に出会い、そしてすぐに別れた
ゼクス・マーキスという男。
彼はきっと――死ぬだろう。
あの怪我で動き回って、無事で済む筈が無い。
『ならば良い。後は我々と共に主催に立ち向かってくれるのであれば言う事はない』
強い決意と共に走り去る彼を、美穂子にも士郎にも止めることは出来なかった。
ゼクスもまた美穂子に思いを残していき、美穂子も彼に誓いを返した。
この意志を貫きたいとは思うけれど。
それでも、やはり許されるとは思えない。
様々な感情が綯い交ぜになって美穂子の中を駆け巡っている。
ただの少女の限界を超えた精神疲労。
それを美穂子は暫く立ち尽くしたまま、左肩を押さえ、両目を瞑り、じっと耐えていた。
たった一人で、一人ぼっちで苦痛に耐えて続けていた。
それが罰なのだと、背負うべき業であると言うように――。
「大丈夫……私はまだ……大丈夫だから……」
失った人たちを脳裏に思い出して、唱えるように断言する。
託された思いこそが、今の美穂子を支えている。
彼らの分まで勝利するという意志こそが全ての原動力だ。
ただ一つ、自分が正しいを思ったことを為す。
目の前の事からは絶対に逃げない。
「私は……まだ……戦えるから……負けないから……」
この強い思いが在る限り、『この世全ての悪』なんかには絶対に負けたりしない。
例えどれほど辛くても、苦しい道のりであったとしても。
今の美穂子には、自分は間違えていないと強く言える。正しい気持ちで戦っていける。
ならば、それで十分だ。
立ち向かうべきものは分っているから。後は自分の役割を見つけ出すだけ。
「絶対に……勝つからね……みんなの分まで……」
左肩の疼きが、少しずつ退いていく。
美穂子はゆっくりと右眼を開いて、水面に映った自分の姿を今一度、正面から見据えた。
曇りのない青い瞳が、美穂子を見返している。
「もう、泣かない」
もう、自分の世界が揺らぐ事は無い。
「いつか終わりが来るまでは、精一杯生きてみせる。生き抜いてみせるから――」
その言葉だけを水面の自分に告げて。
美穂子は少し距離が離れそうになっていた士郎の背中を追い、再び歩き始めた。
もうすぐ、橋の向こう側だ。
最後に美穂子は思う。
どうか、かの二人には報われてほしい、と。
せめて救われる事のない自分の分まで、
彼と彼女とが無事に再会し、そして約束を果たしてほしい、と。
そんなことを、静かに祈っていた。
■ 『魔術師:根源に至る道:橋の中間~橋の終わり』 ■
橋の中間地点にて。
「アンタ、本当はどうして俺達を助けた? 俺達の味方だって言ってたけど、具体的に何が目的なんだ?」
問いかける少年――衛宮士郎に対して、
さてどう答えようか、と。
魔術師――
荒耶宗蓮は一瞬だけ思案を巡らせていた。
「善意だけって訳じゃないんだろ?」
続けられた言葉も、計算の内。
いつかは問われる事だと思っていた。
とはいえ、どの程度事情を明かすかは、そのときの状況に応じるもの。
「――然りだ。
おまえ達に私の協力者足りえる価値が在るからこそ、私は危険を冒してでもあの場に赴いた。
理由は先程にも言ったとおり、現状おまえはこの島で生存している唯一の魔術師であるからだ」
とりあえずは、あらかじめ用意してあった返答を返して様子を見ることにする。
今のところ、荒耶の言葉に嘘はない。
そして当然の事だが、やはり荒耶の想定通り、この説明では士郎も納得がいかないようだ。
「じゃあ、俺に協力してほしいことってなんだ? そもそもアンタは一体何者なんだ? 首輪をしていないってことは――」
「全てを話せば長くなる」
繰り出されかけた質問の嵐を、ゼクスマーキスに放った言葉と同じもので圧し留める。
「だが、そうだな。肩書きとしての素性と、おまえを助けた具体的な理由については、今の内に軽く述べておく事にしよう」
――今はそれでいいだろう、と。
押し通すような視線と共に魔術師は言う。
士郎もまずは話を聞こうと決めたのか、「わかったよ」と一つ呟いて暫し口を閉じる。
そうして、荒耶宗蓮は開示するべき真実と吹き込むべき虚実を、目の前の少年に与え始めた。
「察しているだろうが私は主催者側の人間だ。ただし、連中とは既に袂を分っている。故、多少ばかり身動きが取りにくい状況に在る。
私の目的はこの状況の打開。その為におまえの力が必要だ」
その前置きは、かつてアステカの魔術師に語ったものと似たような内容であった。
「確かに、ここに来る前のおまえは魔術師として酷く半端者であった。同じ世界からここに来た者の中では最弱と断言できる。
何故、連中はあれほど多くのサーヴァントを呼び出しておいて、マスターの中からおまえ一人を選んだのかは私も知らぬが……」
荒耶は未だに真実を述べ続けている。
実際、マスターの中から士郎だけがここに呼び出されている事は荒耶も疑問に思っていた。
このバトルロワイアルにおける黒幕の正体を知っていればこそである。
「だが、衛宮士郎は成長する事が可能である。
事実として、おまえは己の力の本質を理解し、それなりに戦えるほどの力を付け始めている。
そして、お前の魔術はここが底ではない」
「どういう……意味だ?」
さて、ここからが本題だ。
荒耶にとって、そして士郎にとっても。
「実態は私が話さずとも、それを得る事が出来れば自然に知れる事だろう。
行使が可能となれば、おまえは殺し合いに乗った者達や主催者に対して、かなり有用な切り札となる。
そして、そのための下地は既に出来上がっている。故に、残る必要な工程にも私は協力しよう。
だが今は身体を休める事が先決だ。魔力が枯渇した状態では何を為す事もできん」
一気に言って、荒耶は士郎から視線を切り、歩みのスピードを上げた。
取り残された士郎は未だに何か聞きたそうな様子であったが。
荒耶はもうこの場ではこれ以上語らぬと背中で示す。
そうして、魔術師は己の思考の中へと埋没していった。
衛宮士郎は荒耶が与えたきっかけを見事に掴み、自身の本質を完全に理解しつつある。
しかも、最大の課題であった『膨大な魔力』と共に、こちらの手の内に転がり込んできたのだ。
美穂子の身に刻まれたアンリ・マユの疑似魔術刻印の一部を士郎へと移植し、
魔力の流れを作れば、士郎は固有結界を展開出来る程の出力を得るのだ。
見込みの薄かった策が、現実に為そうとしている。
『衛宮士郎の固有結界をもってして抑止力を打開し、
両儀式を手中に収め、根源へと至る』
その方法。
残る大きな課題は衛宮士郎を如何にして両儀式にぶつけるか、だ。
三人が向かう島の西には、式と共に数々の思惑を抱えた者達の姿が在る。
ならば幾つかに分けれた西側の集団。
そこに蔓延るそれぞれの思惑、誤解や不和を利用するのが定石か。
荒耶はその具体的な方法に思慮を働かせ続ける。
そこへもう一度、背後から挟まれる士郎の声。
「なあ最後にもう一つだけ、教えてもらってもいいか?」
魔術師は前を見つめたまま、返事を返さない。
士郎はそれを無言の肯定と受け取ったのか。
「福路は……今どういう状態なんだ?」
その問いに対して。
なるほど確かに、この男は聞き及んでいた通りの『正義の味方』だなと納得しつつ。
「……やめておけ。アレはもう、おまえにはどうにも出来ない存在だ」
荒耶はつまらなげに、振り返る事も無くそう言い切った。
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最終更新:2010年05月24日 00:49