「敵襲!敵襲!」
伝令の叫びでボロナン・ド・デブシネ議員兼軍事総督は飛び起きた。
厳密には
アルコ・イリスの培った市民軍の伝統ではそれは“敵襲”ではなかった。アルコ・イリス軍における敵襲の定義とは自部隊を目標とする彼部隊の襲撃を指す。が、この時イリコ・ニボシ軍は部隊を襲撃しようとはしていなかった。部隊と部隊の間の空間そのものを目標として作戦行動を行っていた。
その戦いは参謀の名前を取ってピアッツ会戦と後に呼ばれ、やがて訛ってピッツァ会戦と呼ばれ、さらに後には存在を抹消された。永遠に記憶を消したいほどにその決着はあっけなく、かつ無惨なものであった。
数世代先を行くようなイリコ・ニボシの戦術により防衛側の前線は気がついた時にはすでに崩壊していた。部隊司令部は真先に丸い軍団に襲撃され、混乱を抑えるべく放たれた伝令は味方部隊にたどりつく前に油の匂いのする影に追い回された。安全な場所などどこにもなく、常に四方から剣戟の音と襲撃者が戦闘の合間に飯を食う咀嚼音が聞こえる。ごりごり、しゃもしゃも、くちゃぴちゃ。
異様な恐怖であった。元々は志願兵主体の市民軍であるアルコ・イリス軍の士気は地に落ち、隊列も何も無く虹を目指して敗走した。飛べる魔術学院部隊の学徒兵士たちには何人も俺も連れて行けと兵士がすがりつき、結局飛べずもろとも捕虜になった。少数の離陸に成功した生徒が見た物は、細い釘のようなアルコ・イリス兵の周囲を走り回る球形の影ども。後に製作された北方のピンボールや東方の蓬莱玉入れといったゲームは、実はこの戦闘が元になっているという。
前線の兵士の多くは敵中に孤立し降伏を余儀なくされた。捕虜の辱めを受けた中には襲撃側兵士三人にのしかかられあえなく気絶したデブシネ議員もいた。
逃亡できたのは半数に過ぎなかった。一度走り出せば追い付かれないことだけが敗者の救いであった。イリコ・ニボシ軍は飯を食って捕虜をまとめてまた飯を食ってから悠々と追撃に移った。
アルコ・イリスは攻囲された。
※
「まあ……それは、忘れたい歴史になるでしょうけど」
デブの軍団になすすべもなく敗北した、と自分の祖国について教えられたい人はいないだろう。しかししかし。
「いや、ないでしょ」
ティムには他に言いようはない。荒唐無稽もいいところだ……とは言いながら、ついつい引きとめられて聞いてしまっている。花嫁花婿コンテストはもう完全に始まってしまっているが仕方がない。この話だって老人のホラ話として紙面を埋める、積みネタにできるかもしれないと現金な打算も働く。
一方老エルフは若者に昔話を否定されむっと顔をしかめる。
「失敬なガキだ。最近のガキは礼儀を心得んやつばかりだ。よろしい、これを見ろ」
老人は大事そうに胸に下げていたネックレスをシャツから引っ張り出す。一枚の古い銀貨がティムの前に付きだされる。
「これは?」
「わしだ」
銀貨には若く美しいエルフの端正な横顔が彫り込まれている。年月によりややくすみ、すり減ってはいたが彫られているエルフの気品と覇気を銀貨は今も忠実に残している。『勇敢なる市民の守り手』と古い飾り文字がかすかに読みとれる。
「市民軍の出撃を記念し急遽造られた銀貨だ。敗北でわしの名誉が地に落ちると、全て回収され鋳潰されてしまったが……わしは捕虜になりながらも、市と市民に忠誠を誓っていたものを。そうだ、結局わしがこの街を救ったのだ!」
※
三か月間、攻囲戦は奇妙な停滞と共に続いていた。イリコ・ニボシ軍は果実が熟すのを待つように、包囲を続けたまま力攻めせずにいたずらに日を過ごしていた。アルコ・イリス周辺の農作物を収奪して食うのに忙しかったし、攻城戦に付きものの「登る」「くぐる」「屈む」といった行為が苦手なせいもある。
前線にイリコ・ニボシ議会は多数の増援を送り出していた。たった千人で数十万都市の包囲を続けるのは容易ではないということももちろんあるが、それ以上に豊富な食料のある前線に市民が行きたがった。次々適当に編成されては送り出される部隊。ついには市民の大半が前線に出たと言う。
アルコ・イリス市内では食料がいつ尽きるのか、市民たちが不安げに噂を交わす日々が続いている。自分らの食う分ではなく、外の攻囲軍が食う食料のことである。近隣の食糧を貪りつくしたら、餓えによって凶暴化し苦手な行為もものともせずに食料を奪いに襲いかかって来るであろう。そのときこそアルコ・イリスの命脈が絶たれることは火を見るより明らかだ。
獣扱いである。だいたい当たっていた。
すでに主戦派は影響力を失い、市民には重い厭戦感情がのしかかっている。講和を望む声が大きくならないのは、到底受け入れられない条件が付きつけられるに決まっているからだ。領土や賠償金などではない。お前らは飯を食うな、と侵略者は要求するに違いない。
もはや熱狂はなく、悲壮な覚悟で市民は城壁を見つめている。
さてその獣に囚われた元市民の英雄、ボロナンは毎日拷問を受けていた。武器庫に使っている農家の二階に軟禁されていた。部屋はまあいい。貴族暮らしをしていたボロナンにとっては薄汚い屋根裏だが、贅沢を言えた身分ではない。
食い物である。だいたいが肉料理、しかも揚げていた。一度揚げた肉にもう一度衣をまぶして揚げてそれを揚げた肉で挟む、と言ったような名状しがたい料理が毎食毎食吐き気がするほど積み上げられ頼んでもいないのにおかわりが出る。元々森で生きる種族であるところのエルフにとって生き地獄以外の何物でもない。毎晩吐いた。
「こ、殺せ……短剣をくれ……」
うわごとのように呟くボロナンの前にまたしても揚げたての何かが山積みされた皿が叩きつけられる。恐怖に目を見開き脂汗を浮かべるボロナンに、加害者は肉越しに微笑んだ。
「たくさん食べてね。まだまだあるんだから。おかわりが欲しかったらいくらでも作ってあげる。どうしたの?ラムのカットレット砂糖きび炒め和えは嫌い?他のものが食べたいの?何が欲しい?」
「名誉ある死をくれ」
「もう、ボロったら」
うわごとのように呟くエルフの言葉を冗談と解釈し、砂糖をまぶしたような甘い声で笑う妙齢な女性。マシュマロに良く似ていた。遠征軍の中核ピアッツ・デ・ブチキン参謀その人である。
※
「えっ女性?」
「そうだ。言ってなかったか?」
「言ってません。それに語尾にデブが付くんじゃなかったですか?」
「わしの前ではイリコ・ニボシ訛りは使わなかった。気を使っていたのだろう」
「あれイリコ・ニボシ訛りなんだ……」
※
人間は己に無いものを求めるという。己に無いというか己にありすぎるものを持ってないエルフに尋問した時から、戦術一筋に青春を捧げてきた参謀は恋に落ちた。一目ぼれ、というやつだ。軍人は一人の乙女に帰った……当事者にしてみれば肉色の恐怖である。淫靡な意味ではない。
こうしてボロナンの内臓にダメージの来る過剰に甘い三カ月が過ぎていた。
参謀が恋にうつつを抜かしているがためにイリコ・ニボシ軍が積極的な攻勢に出られなかったとするならば、ボロナンがアルコ・イリスを救い続けたというのもあながち間違いではない。
だが、いつまでも白皙のエルフを思う日々をピアッツはすごせなかった。参謀としての才能を、戦争が放っておかなかったのだ。戦いが二人を引き裂いた。引き裂かれなければエルフは膵臓あたりを壊して死んでいただろう。
ある日、泣きはらした目をしてピアッツがボロナンの軟禁されている部屋に入って来た。食われる、と特に根拠なくボロナンは思った。
あなたの街を明日攻めることになった、とピアッツは言った。とうとう侵略者を養う食糧が尽きたのだ。数十万人のアルコ・イリス市民が食えるだけの食糧があったはずだが、どういう訳かもう餓えの気配さえ漂い始めているらしい。それはよかった、と心からボロナンは思う。
捕虜に異常な厚遇(当事者にとっては拷問だが)をして付きっきりになっていたことは、さすがに軍内部で問題になったのだ。当たり前である。
「きっと帰って来るから」そう言ってけなげに笑って見せるピアッツ。はよ行け、と心の中で叫ぶボロナン。若い二人はすれ違う。
去りがたかったのか、ピアッツはじっとボロナンを見る。嫌な予感がしつつもボロナンは捕食者に睨まれたようにすくみあがっている。
「戦場に花と散るのなら……せめて……せめて、あなたの温もりを手向けにッ」
にじり寄るピアッツ。ようやく真の身の危険を悟るボロナン。いやいやするように首を振るエルフに飛び付きレスリングか何かのように押し倒すピアッツ。
床が抜けた。
ひと時の気絶からボロナンが覚めた時、下の武器庫に保管されていた槍がピアッツを串刺しにしていた。天才戦術家の壮絶な戦死、一人の乙女の早すぎる死。
「………………えっ、これ俺のせい?」
一方司令部。攻撃に備え、アルコ・イリスに潜入していた密偵が報告のために帰還していたのだが、その密偵による報告は司令部に深刻な衝撃をもたらした。
報告自体には特に目新しい事はなく、それは問題にならなかった。
問題になったのは密偵自身の姿だ。
「お前……誰デブ」
イリコ・ニボシ訛りもあらわに驚愕の表情で密偵を囲む高官たち。
「?……お忘れですか?何と情けない、我が身を削る思いで敵地に潜んでいたものを」
細い肩を怒らせ上官に抗議する密偵。均整の取れた痩身の男の姿がそこにはあった。数ヶ月の潜入生活のためにすっかり訛りも抜けている。正確にはアルコ・イリス訛りが染みついていた。
「細い」「痩せた」「減った」
高官たちが驚きを隠さず密偵を凝視する。やがてその視線は羨望のまなざしに代わっていく。
誰も好きで太っているわけではないのだ。
「お前……どうやって痩せたデブ?」
太った腕を付きつけて聞く高官。もはや敵情などはどうでもいいと言わんばかりだった。言われて驚いたように密偵は自分の体を見下ろす。
「ああ、そういえば少し身が軽いとは思ってはいましたが。いえ、特に何も。普通にアルコ・イリス料理を食べていただけで」
「それだけデブか?」
「そうですね。若干淡泊な料理ではありましたが、アレはあれで美味い」
おおなんということか、アホほど揚げて砂糖をまぶすイリコ・ニボシ料理を数ヶ月離れただけで!高官たちにさざ波のように動揺が広がっていった。
戦争遂行にとって真に致命的な打撃は軍事上の敗北ではない。敵国に対する自国の文化的優位性、その確信が揺らいだ時にこそ深刻な危機は起きる。まさに軍首脳部にそれが発生しようとしていた。
「………アルコ・イリスを占領したらそれが食える訳デブか」
「それは無理デブ。我々が攻撃したらアルコ・イリスは廃墟になるまで抵抗するデブ。本国も食料消費地を破壊するよう求めていたデブ」
「陥落させたら永久に失われるデブか……」
ひそひそと打ち合わせる軍高官たちを不思議そうに眺める密偵。その密偵に司令官は奇妙なことを聞く。
「アルコ・イリスは講和を望むデブか」
密偵は驚きながらも市民たちの厭戦感情を説明する。融和的な条件さえ折り合えば、きっとアルコ・イリスは城門を開くだろうと。
軍高官たちは短いが激烈な議論を交わした。祖国への裏切り、とか反逆行為、とか物騒な言葉がきれぎれに密偵に聞こえた。やがて司令官が断を下し、ボロナンを呼ぶようにと伝令が出された。
参謀を死なせたのだから今度こそ食われる、と諦観に満ちてボロナンが司令部にやって来ると、そこには敵軍の首脳たちが丸々とひざまずいていた。不思議なことに伝令から参謀の死を聞かされても、司令官はただ「不幸な事故デブ」と呟いただけだった。
「我々は戦争の惨禍を食い止めるため、名誉ある講和を選ぶデブ。条件はただ一つ、アルコ・イリス共和国は慈悲を持ってわが軍全員の亡命を受け入れて欲しいデブ。デブシネ議員には講和の使節に立っていただきたいデブ……」
意味のわからないことを言うデブ。戦争が終わるのだ、と理解するまでボロナンにはずいぶん時間がかかった。
アルコ・イリスは唐突な講和に安堵し、そして深く恥じた。ボロナンは忌まわしい記憶として街で疎まれ、そして全てを失った。数ヶ月の暴食で健康も害し、ついに酒浸りの日々を送るにいたる。
街に住民として越して来た元敵国の人間とは感情的に根深い対立が残ったものの、すぐに新住人が痩せて見分けがつかなくなったことで徐々に消えて行った。
遠征隊および大半の市民が謎の全滅を遂げたイリコ・ニボシは混乱に陥った。やがて次々と残った少数の住人が南の元敵国に移住し、都市そのものが放棄されるにいたる。今ではイリコ・ニボシの名前さえかなたに風化しようとしているのだ。
アルコ・イリスではこの忌まわしい、かつ住人に無用の対立を生みかねない事実を語ることはタブーとされ、そして二〇〇年が過ぎて歴史からも抹殺が完成されつつある。ただ、ひそやかに祭りによって祝われた戦勝記念日が名目を変えてその名残をとどめている……
※
「アホか」
思わず素でつぶやいてしまうティム。語り終えた老人は酒瓶の転がる卓に突っ伏し眠りこけている。
この老人は二百年の間に幾千本の酒瓶を空にしたのか。その空き瓶からわき出した妄想に違いない。ただ一つだけ真実があるとすれば、この老人にも若く美しい頃があったということだけだろう。あの銀貨に刻まれた横顔は、確かにいびきをかいて寝ている老人の面影にある。
しょうもない話に無駄にした時間を取り戻すためにティムは花婿花嫁コンテストの会場に走る。
酒と銀貨と寓話じみた戦争譚と。そして祭りの空気と。
ふと、奇妙なアイディアがティムの脳裏に湧く。
花婿コンテストで市民の評判を得た麗しいエルフの青年が、採点時には忽然と姿を消していた。そんな謎めいた小話がアルコイリス・クロニクルの紙面を飾ったのは翌日のことである。
最終更新:2011年07月05日 10:58