七つの虹の影と揶揄めいて呼ばわる大貧民街──外壁の更に外に広がるラソンブラ地区を連れ立って歩く二人組が居た。
数週間前、
アルコ・イリスに流れ着いた死人使いインフェル・ヴェルノ・ネヴィカーレと、彼に取り憑く赤い死神グリムである。
虹の都で用事を済ませた後も滞在することを決めたふたりは、七つの大通りの何処でもなく、お世辞にも治安が良いとは言えない無法の土地を仮の宿にするべく選んだ。
光から遠く闇に近い場所ほど、己らに相応しいとばかりに。
「それにしてもあの塔はでかいな。外壁の外からでも良く見える」
建物が出鱈目に立ち並び、まるで迷宮のような様相を呈する道──何も知らぬ者を頑迷に拒み餌食とするような造りは虹影地区の気風そのものに近いとも言える──を、危うげなく進んでいきながら、ふと視界に入ったアルコ・イリス市街中央に佇む白亜の姿に、グリムは小さく感想を漏らす。
霊質の影響がさして強くない場所では自然とグリムが手を引いて歩くことの多くなる相手、インフェルへと話しかける声でもあった。
「ぼくには見えないけれど、精密な術式の群れと無数の魔力の塊が連なって、空まで届けとばかりに伸びているのは感じるよ。流石は大陸中に名高い"虹星の叡知(アルマゲスト)"だ。興味深いけど、長く直視すると目に痛いね」
グリムへと答えて返しながら、インフェルは軽く目頭を押さえて都市の中心部から目線を外す。物質的には盲いているが、その分魔力など本来見えざるものを過敏に感じ取るインフェルの目からすると、塔の偉容は太陽を仰ぎ見るようなものだった。
「興味があるならいっそ門戸を叩けば良かったではないか。お題目によると"虹星の叡知(アルマゲスト)"の魔術学院は『あらゆる学術の徒を受け入れる』らしいぞ?」
「ぼくに今更魔術学校の徒弟になれと? 霊媒術、死霊術は元来民間畑の魔術だよ、グリム。象牙の塔で、書物をなぞるだけでは修めえない。こと、この分野に限って言えば──ぼくたちの方が真理に近い」
からかうにも似て囃してくる死神に対して、つんと取り澄ますように血の気のない唇を尖らせたインフェルからは、珍しく確かな自負が覗く。
「インフェルも存外負けず嫌いよな。──まあ、己(おれ)としては、貴様が塔に近づかぬならばそれに越したことはないが」
「けしかけようとしたくせに?」
じいと、光のない白眼を向けてくる死霊術師へと、グリムは軽く肩を竦めて見せた。
「頷かぬと解かっていて言ったことだ。そう根に持つな。己が近づきたくない理由は、解かるだろうに」
「……グリムが塔に行きたくないのは、あそこから君の同属の臭いがするから?」
「ああ。気配からして『成り上がった』類だろうが、何処にどういう繋がりがあるともしれぬ。進んで顔を合わせたくはないな」
"堕ちた死神"──本来生と死、摂理の輪を正しく巡らせる役を担う死神でありながら、その職務に背を向けて存在しているのがこのグリムである。境界を渡り、生死の別を乱すといえる死霊術師を守護し、共に在る所からしても彼が種の外れ者であることは明白だった。
他の死神というのは、グリムにとってはできるならば会いたくない存在。下手をすればその場で交戦という可能性も否定できない相手であった。
もっとも、僅かに眇められた血玉の双眸に浮いていたのは、恐れなどという繊細な感情ではなく、億劫さを厭う色でしかなかったが。
「面倒臭いことになるのは御免だ。インフェルとしてもそうだろう?」
「うん。君に何かあるのも楽しくないし、そもそも、ぼく自体死神にも塔にも歓迎されるものじゃないし、ね。ほら、ぼくって、半分死体だし、動く禁術書みたいなもの、じゃない? 正体が知れたら、抹消対象か研究対象。どっちになると思う?」
白すぎるほどに白い手を、霧がかる新月の朧に過ぎる光に翳しながら、インフェルは小さく首を傾げて見せた。
都市の出入りにおいて問題になるような経歴こそない──元々アルコイリスは来訪者の市外での行動には沿う頓着しない土地柄であるが──ものの、死者の声を拾い上げ、その無念を晴らしながら旅をするインフェルには後ろ暗いことも少なくない。時に死者の側に立って動き、それと知られぬように法を犯したことも一度や二度では利かなかった。
そもそも死霊術には、『非常時や正当なる理由がある場合を除き、広域に対する破壊や汚染、無用の苦痛を与える、目に見えて残虐である、人の尊厳を侵す等の非人道的な魔法の使用を制限する』、世界的魔法盟約"最も疾き光の風"条約に置いて禁術指定、準禁術指定を受けるものが多い。
インフェルノの頭の中には、かの条約に諸に抵触する、師父より口伝で授けられた数多の死霊術の秘儀、良識ある魔術師が眉を潜めるようなおぞましい邪術の知識が数え切れぬほどに詰まっている。
また、彼の身体は、死霊術師の名門たるネヴィカーレ一族の秘術によって、半ば死に半ば生き、凍れる時を永く閲する不死者のそれだ。
不老不死の怪物。摂理の外に在る者。魔術的な研究価値はある意味では計り知れぬし、あるいは即座に抹殺されても文句は言えない。
「どちらになるとしても、だ。その時は、何を殺してでも守ってやる。貴様を連れて地の果てまで逃げおおせてやろうとも。己は貴様を気に入っているからな。インフェル」
繋いだままの手にほんの少しだけ力が入るのに、気づかぬグリムではなかった。強く、骨に届けとばかりに握り締めて返す。
青貝の髪の死霊術師を振り返り、赤い死神は、秀麗な顔を皹入らせるようにして、獰猛に笑った。
「おかしな話だよね、グリム。君こそ、ぼくみたいな中途半端はいちばんに消しにかからないといけないはずなのにねえ」
痛覚の鈍いインフェルにとっては、骨が軋るほどに手を包むグリムの力はけして悪いものではなかった。其処に確かに、己を想う相手がいると実感できたから。
答えるあまやかなウィスパーボイスは、皮肉げな言葉と裏腹に微かに震えて嬉しげだった。
「──そういう柵の何もかもが面倒になったから、己は死神から堕ちたのだ」
そう口にした後、グリムの唇から不意に亀裂の笑みが掻き消え、何かに気づいたようにモノクルの下の赤目を猛禽のように動かす。
次の瞬間、グリムは物も言わずに繋いだインフェルの手を己の方に引き、近づいた痩身を、素早く肩に担ぎ上げる。荷物を持つような抱き上げ方だった。
「グリム?」
「話に夢中になりすぎたな。ここが野良犬の巣窟だと忘れておったわ」
されるがままに肩の上、きょとんと白く濁る双眸を瞬いた青年へと、死神は不機嫌も顕わに零す。
夜の虹影地区をうろつく余所者ふたりを、獲物と定めた近隣の住人が集まってきたようだった。
近づく人の気配を敏感に読み取り状況を察したグリムは、いざという時に備えて、この状況では移動に多少難のある相方を直ぐ傍に引き寄せたのだ。
「囲まれている。大方、物盗りの類だろう」
「……本当、だ。前に三人、後ろに二人」
「どうする? 全員貴様の『お友達』になって貰うか?」
暗に皆殺しにするかと尋ねたグリムに対して、インフェルはゆっくりと首を横に振って見せた。
「そうだね。……それも悪くない。でも、ここには暫く滞在するつもりだから、初日からご近所に喧嘩を売るようなことはやめておこうよ。変に目をつけられたら、当分面倒くさいことが続くよ?」
「確かにな。ならば──撒くか。インフェル、大人しくしていろ。さもなくば、振り落とすぞ」
歪な建物たちの影、脇道から武装した人影が飛び出してくる──それよりも数瞬き疾く。
元より暴れるような性分でもない屍術師の腰に腕をしかと回しながら、赤髪の死神は、舗装されていない地面を蹴り、建物の上部へと一気に飛び乗った。
そのまま、息もつかずに幅の大きい跳躍を繰り返し、屋根から屋根へと移動。あっという間に先まで二人が居た場所が──獲物を見失って悪態を吐く男たちの声が遠ざかっていく。
「グリム、丁度良い。このまま真っ直ぐ東へ行ってよ。そこが目的地だ」
「心得た。しかし、初めからこうしていれば良かったな。七面倒くさい地上の迷い路など歩くのではなかった」
指示を出す青年に従って、風のように、あるいはましらの如く、時に脆いそれも混ざって出鱈目に立つ建物たちの上を、器用に踏み抜かず、跳び、駆けていきながらぼやくグリム。
インフェルはそれを聞くと僅かに口の端を持ち上げた。
「虹影地区の路地迷宮。ぼくは結構おもしろかったよ。くるくるくる、回り道。君と一緒に歩くの」
「時々、貴様は変なことを楽しいというな」
おかしな奴だといいたげに眉を寄せたグリムに、インフェルはそうかな、と小さく首を傾げる。
「今もまた違った意味でおもしろいけどね。こうやって運んでもらうと楽だし、早いし」
「出血サービスだ、感謝しろ。貴様は流石にこういった場所を跳び回るのは難しいだろうからな──この辺りで良いか? インフェル」
「じゃあ、後で肩でも足でも揉んであげる。ここで合ってるよ、グリム」
囁くように会話を交わす短い時間の内に、人間離れした脚力を誇る死神の足は、早々に目的地に辿り着いていた。
抱き上げられた姿勢から降りようとインフェルがもぞりと動けば、抜け出すより早くグリム本人の手によって地面に下ろされた。
自分の足で地面に降り立つと、見えぬはずの目でそれでも辺りを見回し、うん、と満足げに小さく頷く。
「グリム、なかなか、住み心地の良さそうな所だろう? ──今日から、暫く、この場所がぼくたちの家になるんだ」
それから、両手を大きく広げて、うたうようにインフェルは宣言した。
だが、ここは、宿でも貸家でもなんでもない。建物すらない。貧しくともぼろくともそれでも家が続いていたのが途切れ、ぽっかりと空き地のように開けていた。
冷たく、暗く、不浄を含んだ土のにおい。死のにおいが濃く漂う。
インフェルとグリムには慣れ親しんだ雰囲気に包まれていた。
だが、普通の人間にとっては、まともに暮らせるはずもない空間だ。
なぜなら、そこは。
霧が立ち込め、ごく薄い月明かりが照らし出すのは、びょうびょうと風が吹くばかりの、その場所は。
草生い茂り、振り返られず、朽ち行くばかりの──見捨てられた、墓地であった。
最終更新:2011年07月05日 11:50