「先程から随分死の気配の濃い場所を目指していると思ってはいたが。成る程──己(おれ)たちが潜むのに、これより相応しい場所はない。しかし、墓地というにも哀れではないか? 此処は」
物事への頓着が薄いグリムが、珍しく憐憫めいた色を覗かせて呟いた。
ふたりが立つ周囲は、全く手入れもされず雑草が縦横無尽に幅を利かせ、ともすれば只の遊閑地にしか見えない。
よくよく見れば、折れかけた木片や割れた石塊──元は墓碑代わりだったのかもしれない──が地面に突き刺さっていたり、土饅頭が幾つも下草の合間から顔を覗かせているが、言われなければ誰も墓とは気づかないのではないか。そんな有様だった。
「──元々、お墓も買えないような人とか、素性も知れないような行きずりの死体が行き着く場所だったそうだよ。昔は一応、ほら──あっちにある小屋で墓守らしきことをやってたひともいたんだって」
少しの間を置き、インフェルは、まるで誰かに聞いたように朽ちた墓地の来歴を語る。実際今聞いた話なのだろう。この場所に留まる霊魂の類に。
白濁した双眸が、グリムが立つのと反対側に向けられる。そこにはあばら家というにも悲惨な、屋根と壁の名残と、木造の骨組みを残すばかりの粗末な小屋跡が残っていた。
「でも、何年か前に墓荒らしに殺されてしまって。後を継ぐひともいなかったから、そのまま。今でも時々埋葬に来る人はいるみたいだけど、まともに祭祀もされてないから……随分吹き溜まってるね」
インフェルは少しだけ目を伏せた。長い睫毛が目元に翳を作り、その顔は悲しそうにも見える。彼らにとっては現状は住み易いといってもいい心地であるが、それは必ずしも良いこととは言えなかった。
元来、正しい墓場というのは不浄とは遠いものなのだ。そこは死者の肉体が安らかに眠る場所であり、生者の哀悼と敬慕とを表し偲ぶ場所である。生と死が交わる地ではあるが、それはきちんと線が引かれた上でのことだ。概ね、墓所というものが神殿や教会に近く併設され、聖職者たちによって管理される場合が多いことからも、浄域であるべきと知れるだろう。
しかし、この場所は余りにも死の気配が濃かった。寒く、暗く、物寂しく、悲哀、怨嗟、憎悪、寂寥──無念と呼べる感情が、幾つも幾つも黒く澱んで渦を巻き、空気が殆ど瘴気に近くなってしまっている。これでは、長いこと居れば当てられてしまうだろうし、そうでなくとも不気味な印象や寒気から、ろくろく近づく者も居るまい。
サビシイ、カナシイ、クルシイ。ダレカ。
ココハサムイ。クライ。ネムレナイ。ダレカ。ダレカ。ダレカ。
──タスケテ。
嘆き、呻く霊たちの声なき声がインフェルとグリムの耳にははっきりと聞こえていた。
生前の自我がはっきりと残るほどに力や念の強い霊はいないようだが、辺りにはゆらゆらと鬼火が漂い始め、うっすらと人の形になりきらぬ白い靄のようなものが踊り出す。
視える存在であるインフェルたちに放置されるままの己らの不遇を訴えかけるように。
「つまり、掃除してここに住むということだろう? やれやれ面倒ではあるが致し方ないな」
こきりと肩を鳴らしてから、ぼうぼうと草茂る土地の中心目指して、死神は歩き出す。
彼の気配に、死霊らが恐れるようにさざめき、遠ざかるのを感じとり、グリムは少しばかりおもしろくなさそうな顔をした。
「大丈夫。グリムは君たちを強制的に昇華したりしない。何しろ職務放棄してる死神だからね」
鬼火や靄を労わるように、インフェルは虚空へとあまやかなウィスパーボイスで囁きかける。
その様子と声に、死霊術師のほうを振り返ったグリムは、きろりと片眼鏡の下にある赤眼で相方を睨みつけた。
「五月蝿いぞ、インフェル。とりなしなぞいらぬ。──己は土地を借りる代わりに労働してやるだけだ」
「怖がられてちょっと傷ついてたくせに。……草刈は任せたよ、グリム」
睥睨する死神の視線にも何処吹く風。インフェルはあくまでマイペースに言葉を返すばかりだ。
風に棚引く旗を押すような手ごたえのなさに、グリムは青貝の髪の青年を睨みつけるのを早々に止めた。
「まったく貴様は己を露払いにばかり使う。偶には労え。先刻、後で肩でも足でも揉むと言っていたな。腰もつけろ」
「安いものだ。いいよ、幾らでも按摩してあげる。その分頑張って?」
「フン、約束だ。忘れるでないぞ」
遣り取りをそこで一端打ち切ると、赤毛の死神は地に向けて屈みこみ、右手につけていた血色の手袋を外す。そして、肌ばかりは青ざめて白い五指と掌をぴたりと地面に着けた。
──刹那。
グリムを──正確には彼が手を着いた箇所を中心として、一帯に急激な枯渇が始まる。
それまで月明かりの下でも青々と茂っていた草の葉が萎れ逝き、水分を──否、もっとも根本的な生気の悉くを吸い尽くされたように枯れ果て、崩れ去っていく。
時間をかけてゆっくりと起きる風化が早回しに引き起こされたかのごとき激烈な変化だったが、土地や崩れかけた墓標などにはその侵食は及ばない。ただ草の海だけがその命を刈り尽くされ、最終的には欠片すら残さず消えていった。
僅かな時間で、墓地一帯を覆っていた蔦草の類は跡形も残さず枯れ落ち、姿を消していた。後にはただ、墓ともいえぬ墓たちと崩れかけの墓守小屋の跡地だけが残った。
「……グリムの"死の右手(デスズハンド)"はこういう時本当に便利だよね。土地に後遺症とかも起きないし」
「本来除草剤や殺虫剤等の代わりに使うようなものではないのだがな。このようなことにばかり使わせよってからに」
ぱちぱちと拍手を送ってくるインフェルに対し、何時の間にか薄ぼんやりとゆらめくオーラを帯びた右手を、赤い手袋の中に隠してしまいながら、グリムはぼやく。
先程起きた奇怪な現象を評した"生気を吸い尽くされた"という表現はあながち比喩でもなかった。
生い茂っていた草の海がありえぬ速さで枯れ朽ち果てていったのは、グリムが、生命力を、存在する為の力をその片手で奪い去ったからに他ならない。
伝説に歌われる"死神の大鎌(デスサイズ)"さながらに、"堕ちた死神(グリム)"の手は指向性を持ってか弱き命を刈り取るのだった。
「さて、己の仕事は終わったぞ、インフェル。次は貴様が働くが良い」
軽く手を払って立ち上がったグリムの言葉に、インフェルは頷きを返す。
「うん、選手交代だ。みんな、待っててね? ぼくが、ここをちゃんと休める家にするからね」
途中からの言葉は、彷徨う霊たちへと書ける言葉。
そして、インフェルは懐から一冊の本を取り出した。黒絹張りで、厚みのある確りとした造りの古書だった。
銀箔を用い、古代魔術言語でタイトルと円と十字を組み合わせたような幾何学的な紋様が表紙に描かれている。
「──《墓書・喪葬屍儀(エンサイクロペディア・グレイブ)》。さあ、あるべき埋葬を始めよう」
死霊術師が静かに魔書の名を呼ぶ。すると、本はインフェルの手の上でひとりでに開かれ、頁が捲られていった。
《墓書・喪葬屍儀》と呼ばれた本の頁は、はじめ何れも白紙に見えた。
だが、唐突にぴたりと止まれば其処には、墓の形、祭祀の手順、そして何者かの名が浮かび上がっている。
「ヤーコフ・フョードロヴィチ・バクシェエフ。享年48歳。聖氷信仰」
厳かな声でインフェルが呼みあげたのはこの地に眠る死者のひとりの名前だった。
この世ならぬものだけを見る乳白水晶の視線は、幾つも幾つも飛ぶ鬼火のひとつを見つめていた。
ふわりと呼ばわる名に答えて飛んだ鬼火が、無数にある土饅頭のひとつに飛んでいき、そこで留まる。
インフェルは小さく頷くと、片手に開いた魔書の頁を破り、鬼火が留まる墓目掛けて放り投げた。
紙片は凍てつくような光を放ちながら土饅頭の上に落下していき、地面に触れると同時、土饅頭と頁の断片は姿を消し、代わりに氷の如く清冽な白を帯びる墓石が生み出されていた。
「──その魂に、氷雪の加護と祝福を」
死霊術師の左手が切る印と口にした語句は、北方、鋼鉄雪原をはじめとする一部で見られる自然信仰における葬送の礼儀であった。
鬼火はその声に、懐かしい何かを思い出したように震え、やがて薄れていった。
それを見届ける間にも、また墓書はひとりでに捲れていき、別の箇所を示して止まる。
「メリザンド・ブロワ。享年17歳──」
ヤーコフと呼ばれた鬼火が完全に宵闇の中に解け消えていったのを確かめてから、インフェルは別の名前を呼んだ。
やはりその声に答えて、靄のひとつが己の骸が眠る場所を示した。死霊術師はそちらにも先程と同じよう頁を放り、新たな墓を作り出し、追悼と葬送の聖句や祈祷を贈る。
名の検索、然るべき葬送儀礼の執行、墓標の建立。それらはすべて、インフェルが手にしている秘本の魔力に因るものだ。
《墓書・喪葬屍儀》──もともとは死霊術師の中でも葬儀屋を兼ねて存在していた一派が秘宝としていた魔道書だ。
埋葬と葬送に特化した魔書であり、いくつかの能力を持っている。
ひとつは、周囲の死人や霊魂を感知してその情報を読み取り、名や享年、簡単な経歴、信仰、その信仰における葬送儀礼などを白紙の上に浮かび上がらせること。基本的には対象が望まぬ情報は浮き上がらない。死者のプライベートを守るための配慮である。
もうひとつは、死者の情報が浮かんだ頁を媒介に、あらゆる墓標や葬具品を生成すること。例えば希少な素材を必要とするようなものであろうとも、墓標や葬具品というカテゴリに属する限り作り上げることができる。
また、一定以上の品質の魔道書の例に漏れず自己修復機能を備えており、割いた頁は時間を置くことで元に戻る仕様となっていた。
墓書を記した一族は魔女狩りの炎に焼かれて絶え、皮肉にも自分たちはいかな葬儀も受けられず捨て置かれた。
再生する力を持っていた秘本だけが、聖火にくべられてなお残った。魔書は微かな自意識を持ち、主家の埋葬を望んで同業者を呼び続けた。
その声を聞き、応えたのがインフェルだった。本の主であった一族を弔った後、《墓書・喪葬屍儀》は礼として、インフェルの持ち物になった。
以来、こんな風に捨て置かれた死者を祀る際には能力を遺憾なく発揮している。
ひとり、またひとりと死者を改めて埋葬していく。
アルコ・イリスを訪れるもの、住むものは信仰も故郷も様々だ。それゆえ別地方で墓を立てるよりも、どうしたって手間がかかるが、インフェルはひとりも漏らさず、捨て置かれた死者たちの声を拾い上げ、彼らの終の棲家を作り上げていった。
縁るべき神を、信仰を持たぬものにも、せめて真新しい白木や御影石で、名を刻むべき奥津城を形作る。宗教の聖句に変わるのは、素朴に安息を願う言葉だった。
そんな風にして次々と埋葬に勤しむ死霊術師の様子を、赤い死神は暫く黙って眺めていたが──やがて、何かを思い立ったように墓地の入り口の方へと歩いていった。
──そうして。
インフェルが数十人に及ぶ死者を全て弔い直し、墓地の空気が鎮まりゆく頃には、霧も晴れ、白々と空が明けようとしていた。
「終わっ、た……」
ひとまず鬼火の一つ、靄のひとひらも見られなくなり、整然と新しい墓標が立ち並ぶまっとうな霊園に生まれ変わった共同墓地を眺め回し、インフェルは達成感を込めて呟いた。もっとも、その目は光を知らぬから、頁が墓を作
ったときの魔力の残滓で位置を確認し、また霊質を感じる知覚に魂や怨念の存在を感じ取ることがなくなったのを以って完了としているのだが。
「グリム?」
《墓書・喪葬屍儀》を懐に仕舞いなおしつつ、葬儀を始めたときにはこちらを見ていた気がした死神の気配を近くに感じられないことを訝って、インフェルは彼の名前を呼んだ。
すると直ぐに近づいてくる足音があった。名を呼ばれた本人だ。
「ここにいる。タイミングが良いな。此方も丁度終わったぞ」
「ん? グリムも、何かしていたの?」
一仕事終えてきたかのようなグリムの声に、インフェルは首を傾げて尋ねた。
死神はおもしろくもなさそうに小さく鼻を鳴らしつつ、己の来たほうを振り返った。
その気配につられて、インフェルもグリムと同じ方角を見る。あ、と小さく死霊術師は息を呑んだ。
二人が此処に来たときにはなかったもの──ほんのりと魔力を帯びた生垣が見えた。インフェルが死臭隠しに己の身体に纏う香りと同じ花。薔薇の花でできた生垣だった。
「前の墓守は墓荒らしにやられたといっていただろう。墓地を囲むようにぐるっと泥棒避けを作ってやったぞ。先程吸った植物の生命力が余っていたしな。有効活用した」
グリムは軽く胸を張ってみせる。本来、命を刈り取るのが死神の専門だが、この堕ちた死神は、右手で吸い取った命を、左手で他のものに与えることができるのだった。
墓地を守るように新たに出来上がった薔薇の生垣は、グリムの手によるものであるらしい。
「……頼んでも居ないことやってくれるなんて、どういう風の吹き回し?」
「貴様には素直に親切に感謝ができんのか。……貴様だけ超過労働というのは割に合わんと、そう思っただけだ」
感謝より先に疑問符が飛んだことに不満そうにしつつも、手袋に包まれたグリムの手が、インフェルの血色など何処かに置き忘れたような真雪の頬に触れた。ゆる、と、常より更に色が失せて、完全に土気色になってしまってい
るそこを撫でる。労わるような手つきだった。
「ふふ、素直じゃないのはそっちもじゃない。ありがとう、ね。でも、ぼくは平気だよ。聖句のひとつやふたつ唱えたくらいじゃ、」
「それでも数十唱えて積み重ねれば、色々なものが削れるだろうよ。生きた死体の顔色が、ただの死体の顔色になっているぞ」
どうってことないと続けようとした屍術師の声は、途中で死神に遮られた。
半ば生きて半ば死んでいる、魔の力によってルールを侵し存在するインフェルは、聖なるものや法術といった世界の理に置いて正しく、まっとうであるとされるものとは対極に位置する存在である。墓を立てること事態は問題なくできても、葬送の際に行う儀礼の幾つか──例えば神への祈りの言葉や聖印を切る動作など──は、軽い毒や針に等しい。まったくそ知らぬ顔で執り行った埋葬儀であるが、もしも白い眼をした青年にまともな痛覚があるならば、叫んでいてもおかしくないような、そういった損傷を強いる行為なのである。本人にはまるで気にする素振りもなかったが。
「そんなにひどい顔してる? じゃあ、しかたないな。休もうか。もう陽も上ってきたし、肌がぴりぴりする」
雲の隙間から差し込み始めた陽の光には、インフェルは不快そうな顔をする。別段、彼は吸血種ではないので、輝きに焼き尽くされて灰燼と帰すようなことはないのだが、浴びて楽しい気分にもならないらしい。
「とりあえずあのあばら家に行くぞ。ろくろく家の役割を果たしてはくれなさそうだが、日除け位にはなるだろう」
頬に触れていた手を滑らせて、グリムはインフェルの腕を引く。何時ものことなので死霊術師は逆らわない。大股に歩き出した死神に引かれるまま、後を付いて行く。
あたりの墓標が新築同様に変わったために、墓守小屋跡である廃墟はひどく浮いて見えた。
「まったく。貴様は、どうして墓作り以外はしておらんのだ? この場所を家にする、などというから、てっきりこの家の修繕も勘定に入れていると思っておったのに」
ぶつぶつ文句を言いつつも、グリムは羽織っていた緋色の外套を脱ぎ捨て、ささくれだった床に敷いて簡易の寝床を作る。
「……別に、ぼくも、たちは、何処でも……構わないじゃ、ない。……明晩に、でも、なんとか……」
喋りつつも段々とうつらうつらしはじめたインフェルを見かね、死神は死霊術師の肉付きの薄い肩を軽く押してやり、マントの上に座らせた。それから、グリム本人も赤外套の端に腰掛ける。
やろうと思えば食事も睡眠も格別必要としないインフェルだが、身体に悪い聖句を何度もそらんじた後だ。身体が、睡眠による魔力回復を必要としているのだろう。目蓋は重たげで今にも落ちてしまいそうだった。
「もういい。とりあえず寝ろ」
「だけど、グリムに、マッサージする、……やくそく、」
「──起きてからで良い。それまで貸しにしておいてやる」
だから寝ろ、と、グリムは座った己の膝を叩いて見せた。貸しついでに枕も勤めてやるとの意思表示だった。
それに気づいて、インフェルは仄かに口元をゆがめた。笑みというには不器用な、歪な表情を浮かべながら好意に甘える。赤い死神の膝に頭を預けて無防備に横になった。
「おやすみ、グリム」
「おやすみ、インフェル」
挨拶を交わしたのが最後、インフェルはあっさりと睡魔の手に絡め取られた。
目を閉じて眠りに落ちていけば、それこそまるで死体そのもののようになる死霊術師の頭を優しく撫でてやり、グリムは小さく、「ばかものめ」と呟く。
そうして、膝の上のインフェル以上に眠りを必要としない赤い死神は、静か過ぎる相方の、それでもどこかやり遂げて満足そうな寝顔を、陽が落ちる時間まで眺め、守り続けた。
ラソンブラの外れ──打ち捨てられ、誰のものとも知れぬうめき声や叫び声が毎晩のように響き渡ると評判の無縁墓地が、一夜にして真新しく復活を遂げたという奇妙な出来事は、この日からそう間を置かず怪談として人々の口に上ることとなる。
この話が、やがてよからぬ者を引き寄せる結果となるのだが。今は眠る死霊術師とそれを見守る死神には与り知らぬことであった。
最終更新:2011年07月05日 11:50