高潔なる炎の紅(ファイヤー・レッド)。
清廉なる氷の蒼(アイス・ブルー)。
魔なる者の祝福を受けて、世に産み堕とされた双つの種子。
育まれ、芽吹き、艶やかに咲いた双つの華。
魅惑の花弁と、誘惑の芳香と、堕落の毒素を併せ持つ者たち。
人智及ばぬ『魔女の秘蹟』(ウィッチ・クラフト)を操る者たち。
魔女と謳われ、畏れられる闇の申し子たちを葬り去るものが、この天地の狭間に存在するならば。
それは、やはり同じく、魔なる理の元に生じた夜色の怨念。
悪魔の呪詛に他ならなかった。
荒れ狂う、魔力の波濤。
瘴気と硫黄を伴いて、禍々しい叫びを上げる上位魔族(グレーター・デーモン)。
爛々と、赤く、熾火のように揺らめく瞳が、互いに寄り添う様にして抱き合った、双りの魔女の姿を映し出す。
幾重にも連なる魔術象形文字が描き出す、複雑怪奇な儀式魔法陣の、妖しい紫の燐光の中。
互いが、互いの流した血に塗れた双りの魔女は、死に瀕した躰を支え合いながら、不撓不屈の眼差しで持って、上位魔族の撒き散らす瘴気に抗っていた。
絶えず、流れ落ちていく生命の奔流と引き換えに、刻一刻と、冷酷な死神の足音が近付いてくる。
餓えた魔力では、碌な魔術を織る事が敵わない。
受け継ぎ、身に備わった秘蹟を、顕現させる事も敵わない。
今にも受肉と顕界を果たさんとする悪魔を前に、抗う術を持たない魔女たちの生命は、風前の灯火と云えた。
上位魔族が、歓喜の咆哮を上げる。
魔の祝福の元に産まれ、磨き抜かれた双りの魔女の魂は、恐らくはその眼に、垂涎の供物として映っている事だろう。
これより双りに訪れる、逃れえぬ死の運命は、心地よい断末魔の悲哀と絶望によって、珠玉の魂を、更に甘美なる贄へと昇華させる筈だ。
望外の供物。
その味に想いを馳せて、陶然となる。
加えて、どちらの供物も、見目麗しく咲き誇る華。
一息に終わらせず、折れそうな程にたおやかな肢体を、弄ぶも一興だろう。
喰らった者の魂を、生前の姿のままに、永遠の獄中に捕らえる事さえ、魔の業を持ってすれば容易いのだから。
昏い悦びを、醜悪な面に隠そうともせずに貼り付けて、悪魔は嘲笑った。
いまだ、気丈な眼差しで己を睨み付け、憐憫を覚える程にちっぽけな抵抗を試みている、双りの魔女を睥睨する。
幾百年ぶりに、地上へと喚起された躰は、飢えて、渇ききっていた。
地獄の罪人達の味にも、とうに飽きていた処。
丁寧に皿に盛り付けられた馳走を前に、大人しく指を咥えたままでいる理由は無い。
一刻も早く、貪り、喰い散らかし、犯したかった。
悪魔は、原始的な本能のままに、供物たる魔女の総てを欲する。
無粋な肉の枷に囚われた双りの魂を、諸共に掌中に納めるべく、相応しい力を解き放つ。
放たれた力は、破壊を孕ませ、死を堕胎させる黒の波動となって、双りの魔女を呑み込まんと襲い掛かった。
並の魔術師が操る魔導の業を、幾ら束ねた所で、その力の足元にも及ばないだろう。
魔女の生命を奪い、肉体を破壊するに余りある威力。
疲弊し、魔力を枯渇させ、秘蹟の顕現さえままならない双りに、この窮地を乗り越える術は無い。
避ける事も、耐え抜く事も不可能だ。
悪魔は、一瞬の後には、己のものとなる魔女たちの事を思い、亀裂のような笑みを浮かべた。
そして、悪魔は目にする。
紫の、魔法陣の輝きの中。
黒く、禍々しい波動を前に。
血の朱に染まり、寄り添う紅と蒼。
双つの華が、美しく淫らな接吻を交わす様を。
◆
解き放たれる、悪魔の力。
迫る、終焉の刻限。
瞬きの後に、己の生命を奪い去る不可避の破壊を目前に。
魔女と謳われた、紅い華の様な『少年』は、しかし、その脅威すら忘れ去っていた。
“ふわり”と、鼻腔を擽る甘い香り。
軽やかに頬を撫でた、絹糸の様な蒼氷色の髪(アイス・ブルー・ブロンド)。
そして――
「――――ッ――!?」
唇に触れた温もりも、柔らかささえも、蜜の様に濃厚で我を失う。
極北の宵空よりも澄み渡る、蒼夜色の瞳(ミッドナイト・ブルー・アイ)が、紅い魔女の、呆然とした表情を映し出していた。
咄嗟の事態に、強張る躰と、戦慄く唇さえ意に介さず、無遠慮な舌が押し入ってくる。
“ゆるり”と、混じりあう唾液の滑り。
“ぬらり”と、強姦めいて紅い魔女の舌を組み伏せ、絡み合う舌。
熱く、それでいて纏わりつく、粘性の水の中で溺れている。
そんな錯覚に支配された。
一瞬にも満たない接吻である筈なのに、それは永遠のように、紅い魔女の脳から、遠慮呵責なく酸素を奪う。
世界から、音と、色と、確かな容が失われた。
聞こえる音は、交じり合う唾液と、絡み合う舌の淫らな音だけ。
見える色は、唇を介して触れ合った、蒼い華の様な『少年』の姿を飾る色だけ。
理解できる容は、凍てる薔薇を思わせる、美しく蒼い魔女の容だけだ。
生と死の境に於いて、行き成りに紅い魔女の唇を奪った、蒼い魔女は、こんな時でも、平時と変わらぬ表情を浮かべていた。
無様に戸惑っている紅い魔女の姿を、嘲笑っているかの様な、挑発的で、不遜な、冷酷という言葉が似合う笑み。
腹立たしいと云う想いが、一瞬、紅い魔女の脳裏を掠める。
しかし、それさえも、交わす接吻の熱さに、忽ちの内に霧散した。
「んっ……はっ、ぁ……」
昂ぶり、喘ぐ様な吐息を押し殺すことが出来ない。
唾液に混じって、氷の様に静謐な炎の熱さが、流し込まれる様だ。
その熱は、躰の内側から湧き上がり、紅い魔女の心を融かしていく。
母を除いた他人との、初めての接吻。
無理矢理に、犯されているのだと思った。
だと云うのに、拒むことが出来ない。
何が腹立たしいかと言えば、強引な接吻も、身を灼く熱も、どちらも嫌悪を覚える所か、ともすれば、それ以上を求めてしまいそうになる己自身が、一番、腹が立つ。
紅く豪奢なドレスの下でも、もう一人の己が熱を持ち、滾っていくのが判った。
接吻の相手は、同じ魔女の名を冠した『男』であり。
一刻にも満たない前までは、互いに、殺し合っていたと云うのに。
だが、それは相手も同じ事。
蒼い魔女もまた、冷めた表情を見せてはいるが。
蒼氷の眼差しの奥深く、揺らぐ、官能の炎は隠し切れていない。
処女雪の様に白い頬は、うっすらと紅潮している。
「くっ……ぁ、ふぁ……」
心なしか、絡んでくる舌の動きが激しくなった。
紅い魔女は、気付いていない。
蒼い魔女の舌の激しさが、己の舌の動きに応えてのものだと云う事に。
蒼く清楚なドレスの下、蒼い魔女の分身もまた、押さえ切れぬ熱に滾っているに違いなかった。
永遠と思われた、唇と舌と唾液の戒めが、解き放たれた。
“つぅ”と、夢の様な接吻の名残の証と、双りの魔女を、透明な蜜の糸が繋いでいた。
蒼い魔女が、喘ぐように息を吐き出す。
冷たく澄んだ、氷細工の鈴の様な声音に、僅かに名残の熱を滲ませて、紅い魔女の姿を瞳に映し出した。
気高く燃え盛る様な、紅炎色の髪(ファイヤー・レッド・ブロンド)。
夜の終わりを告げる炎の輝きを宿した、紅暁色の瞳(サンライズ・レッド・アイ)。
美しく、紅い魔女へと告げる。
「――契約だ。『俺』の総てを、お前にくれてやる。お前は、俺を、あらゆる敵から護る『楯』となれ」
迫る死に抗う意志を、紅い魔女に託した。
「お前の総てを、俺に寄越せ。俺は、お前の、あらゆる敵を討つ『剣』となる」
本来、それは契約の前に交わされる約定だ。
一方的な取り決めを、承諾する謂われは何処にも無い。
しかし――
「俺と共に在れ。赤の第五位は〝想楯〟の魔女。フランディア・ローズレッド」
目前には、悪魔が手招く死の気配。
蒼い魔女と共に死ぬか。
蒼い魔女と共に生きるかの、二者択一。
接吻の熱が、凍えた躰に、今一度の炎を灯す。
死の冷たさに抗う『魔女の秘蹟』を、再び、顕現させる力が宿るのであれば。
これより先、紅い魔女の運命が、蒼い魔女と共に在る事を誓う契約を、受け入れても良いとさえ想ってしまった。
紅い魔女の、悪意さえ焼き滅ぼす炎が、宙に神秘の紋章を描いていく。
描かれた紋章は、旧き時代に、楯を意味するとして用いられたもの。
炎が描く楯の紋章は、正しく万難を阻む炎の楯を顕現させ、悪魔の波動を防ぎ切る。
「勝手な……勝手な事を!」
紅い魔女が、フランディアが声を上げた。
己の躰さえ支え切れない程に疲弊しがらも、口許には変わらず、冷たい笑みを貼り付けている蒼い魔女に向かって。
これまで数多の生命を奪い去ってきた、血塗られた、それでいて誇り高い暗殺者に向かって。
「『僕』に……僕に、貴方を護れと云うのですか! 殺し屋を!」
「そうだ、護り屋。さもなければ、双りともここで死ぬ。俺も、お前も。共に、まだ終われぬ理由があるだろう」
蒼い魔女の言葉は、真実だ。
接吻と共に委ねられた力で、かろうじて火の〝想楯〟の『魔女の秘蹟』を顕現する事が許されている。
それも、何時まで持つか。
未だ、秘蹟が生み出す炎の楯は不完全なままだ。
上位魔族の力を相手に、拮抗できているのが僥倖と云える。
蒼い魔女との、一方的な接吻によって結ばれた、薄弱な繋がりだけで、この力。
確かに、双りが、正式な契約を結びさえすれば、一先ずは窮地を脱せるだろう。
だが、それで、どうしようと云うのか。
殺し合った者同士が、違う生き方の者同士が共にあって、どうなろうと云うのか。
「俺は、既にお前を選んだぞ、フランディア。そして、お前が俺を選ばなければ。死ぬのは同じだ。さぁ、どうする?」
本当に、勝手な話だ。
不遜で、我侭で、傍若無人と云って良い。
猫を被っていた時の、深層の令嬢もかくやと云う淑やかさは何処に消えたのかと問い詰めたい。
“ぎり”と、奥歯を噛み締めた。
共に死ぬか、共に生きるか。
問われるまでも無く、答えは決まっていた。
共に、終われぬ想いがあるのなら。
共に、戦う意志があるのなら。
その先に、例え、どれほどの苦難が待ち受けているとしても。
双りには、確かに、生き抜く理由があるのだから。
「……フラン」
フランディアが、蒼い魔女へと、答えを返した。
「僕は、フランです。そう呼んでください、蒼の魔女。貴方の総てを、僕が貰う。僕は、貴方を、あらゆる敵から護る『楯』になる。僕の総てを、貴方に委ねる。貴方は、僕の、あらゆる敵を討つ『剣』となる。ここに――双りは、契約を結ぶ」
誓いの言葉は、互いの魂に刻まれ、二度と離れぬ様に結び付ける。
「僕と共に在れ。青の第五位は〝想剣〟の魔女。クローディア・ブルーローズ」
「契約は成立だな。ならば、俺の事もクロウと呼べ」
結ばれた契約。
接吻よりも熱く、燃え上がる力。
猛る炎は、悪魔の瘴気さえ焼き滅ぼす、想いの楯となって双りを護る。
業火を纏い、紅炎の髪を靡かせ、紅い眼差しに悪魔の姿を映し出して、フランは告げた。
迷いの無い、勝利の宣誓を。
「我が勝利――高潔なる炎と共に」
クロウもまた、告げる。
「我が勝利――清廉なる氷と共に」
双りの魔女の言葉が、唱和する。
『我らが勝利――氷炎の誓いと共に』
◆
七虹都市
アルコ・イリス。
その昔、星が堕ちたと伝えられる地に栄える、都市国家だ。
都市の中央には、天に向かい聳え立つ、巨大な塔。
虹の七色をそれぞれに冠した、七つの大通りに添って、都市は整然と広がっている。
都市の地下には、いまだ全容が明らかにされていない、古代の遺跡が存在した。
元は、遺跡に挑むべく集まった冒険者たちと、彼らからの利潤を狙う商人たち。
そして、遺跡から発掘される古代の技術や、魔法に魅せられた魔術師たちの手により興された街だと云われる。
多様な人が集まり、それぞれの技術や知識が遣り取りされた結果、都市は、大陸でも有数の発展を遂げてきた。
来る者は、それが何者であれ拒まず。
去る者は、虹の輝きに魅せられた様に、居なかった。
富める者も、貧しき者も。
老いも、若きも。
人も、人ならざる者も。
総てに等しく門戸を開き、迎え入れる虹の都。
黄金の時代と、暗黒の時代を同時に象徴するかの様な、摩訶不思議な都市こそが、アルコ・イリスなのだった。
虹陰暦999年7月、第1週、赤の曜日。
太陽は、既に中天を過ぎている。
“じりじり”と照り付ける初夏の陽射しは、ついこの間まで梅雨が居座っていた事を忘れさせた。
アルコ・イリスが存在する大陸の気候は、温帯に属している。
四季の巡りが存在していた。
アルコ・イリスは、七つの大通りの一つ。
紫の色を冠した、竜胆(ゲンティアナ)通り。
魔術に関わる者が、多く集まる通りの一角に存在する、洒落たオープン・カフェのテラス。
紅い華を思わせる、見目麗しい少女は、上機嫌に氷菓(シャーベット)を浮かべた果実水(ジュース)に舌鼓を打っていた。
専属の氷術師を雇い入れ、夏場でも氷菓が味わえるとして人気の店だ。
術師の腕も良く、氷菓の生命とも云うべき、舌の上で“さらり”として儚く消える口溶けは、粉雪を思わせる。
甘過ぎず、くど過ぎず、果実水との取り合わせを考えられた味付けも良い。
それでいて値段も比較的、手頃な為、店内には学生の姿も多く見受けられた。
アルコ・イリスの中央塔、『虹星の叡智』(アルマゲスト)の内部に施設を有し、大陸の最高学府の一つとまで謳われる、魔術学院の生徒達だ。
学生達を初め、店内で接客に従事している数人の女給仕(ウェイトレス)。
果ては、強い日差しの下、汗ばみながら道を行く人々が、ふとした拍子に、夏場のカフェに咲いた紅い薔薇の姿に心奪われ、魅入られた様に溜息をついた。
人も、森の民(エルフ)も、鬼(オーガ)も、翼持つ民(フェザーフォルク)も。
のみならず、日陰を歩く猫や、空を舞う鳥と云った獣達さえも。
少女の姿を見止めた瞬間に、同じ病に陥った。
人と、人ならざる者達が、一切の分け隔て無く、人間の、年頃の少女の容をした者の美しさに、揃って頭を垂れたのだ。
天地の狭間に、思想を、種族を、歴史さえも越える永遠普遍の美が存在するならば。
紅に彩られた少女こそが、その持ち主に違いなかった。
赤々と燃え盛る様な、紅炎色の髪。
夜明けの色を宿した、紅暁色の瞳。
紅薔薇色(ローズ・レッド)のドレスを纏う姿は、古の時代に描かれた、愛と炎の女神の宗教画にも似ている。
しかし、少女を女神に喩えるのは間違っているだろう。
少女は、神に非ず、魔なる者の祝福を受けて生まれ堕ちた者。
魔女であり。
そして、如何に美しく女の装いで着飾っていても、れっきとした『男』であるのだから。
「あむ……ん、美味しい」
冷たい銀の匙(スプーン)に載せられた氷菓が、蕾のような唇へと運ばれる。
一連の動作を、遠巻きに、食い入る様に見つめていた女生徒の一人が、“うっとり”とした溜息を最後に気を失った。
隣では、女生徒と交際している男子生徒が、白昼夢を見ている様に、焦点の定まらぬ眼差しを向けている。
其処彼処から投げ掛けられる無遠慮な視線を、何時もの事と、務めて気にしない様にして、紅い魔女、フランディア・ローズレッドは氷菓へと向き直った。
「ねぇ、君。一人? 良ければ、相席をお願いしても構わないかな?」
突然に軽薄な言葉を掛けられ、胸中で溜息を吐きながら、ゆっくりと顔を上げる。
思った通り、軽薄そうな印象の男が、下卑た欲望を瞳の奥にちらつかせて、こちらを見ていた。
“にこり”とした笑顔を作り上げて、花開く様な声で、“ばさり”と切って捨てる。
「『僕』とですか? お断りします。先約がありますので。お食事なら、空いているお席に座って、周りに迷惑をかけない様に、お一人でどうぞ」
少しだけ、言葉に力を乗せた。
加えて、笑顔。
自分が悪意を持って浮かべる笑顔が、他者にどの様な影響を及ぼすか、フランディアは良く承知している。
「……はい」
軽薄そうな男は、忽ちの内に、夢遊病者の様な足取りで、フランディアの言葉に従った。
煩わしいとさえ想う力では在るが、立派な、フランディアの武器の一つだ。
気を取り直して、再び、氷菓を口に運ぶ。
そこに――
「相変わらず罪作りな男じゃのう、フランディア」
時代が掛かった、女の言葉が耳に届く。
聞き覚えのある声であり、待ち合わせていた相手の声でもある。
「しかし、じゃ」
声の主たる女は、周囲の、骨抜きとなっている生徒らを、“ぐるり”と見渡すと、呆れた様に溜息を吐いた。
「わらわは、そなたの力に賞賛を送るべきか。それとも、こうもあっさりと魔女(ウィッチ)に魅了される生徒達を叱るべきか。どちらが良いかのう。全く。大陸の最高学府の誉れが、聞いて呆れるわ。最も、相手が魔女の力を有する男、『男魔女』(ウォーロック)とあっては、いた仕方が無い事かも知れぬがの」
“くつくつ”と、何かを推し量る様な笑い声。
「止めてください。これでも、抑える様に努めているんですよ? それでも、やはり霊覚が鋭い方々を、誤魔化す事は出来ない様です。流石は、魔術学院の学徒ですね。それと、フランディアと呼ばれるのは、余り好きでは無いのですが」
笑い声に応えて、フランディアが視線を上げる。
青白い、蛍火色(ファイアフライ・ホワイト)の髪。
燻んだ冷灰色(フロスティ・グレイ)の眼差し。
色素の薄い白の肌と、古風な黒の学生服の取り合わせ。
しなやかな猫を思わせる『肉の躰』で、しっかりと地を踏み締めて。
魔術学院に席を置く実践派、修学派の生徒を共に総べる、魔女にして、亡霊にして、死神であると謳われる女怪。
〝阿片の美姫〟とも称される、400歳を越えた少女が、不適な笑みを浮かべてフランディアを見つめていた。
「世辞は良い。こうも容易く魅了される様では、修行不足との誹りは免れぬであろう? 事実、学院から離れている『今の』わらわでも、こうして耐えておるのじゃからな。ふむ。そう云えば、そうじゃったの、フラン。久しぶりなので、つい、うっかりとしておった」
「確かに、そうですね。お久しぶりです。紫の第四位は〝求め〟の魔女、アルテミシア・バーニアット、魔術学院生徒会長。それで、僕にご依頼とは何でしょうか?」
「赤の第五位は〝想楯〟の魔女、フランディア・ローズレッドに。護り屋に、頼みたい事など一つしかあるまいよ」
「アルテミシアさんが、こうして直々に出向いて来た所を見ると、何やら一筋縄ではいかない案件の様ですけれど」
「うむ。時にフラン。今朝のアルコ・イリス・クロニクルに目は通したかの?」
アルコ・イリスでは、最も発行部数が多く、街の住人たちに新鮮な情報や話題を提供し続けている新聞だ。
「ええ、読みましたよ。と云う事は、やはり、あの記事が関係あるのですか。アルテミシアさんが、僕を呼んだのは」
フランの脳裏に、今朝、目にしたばかりの新聞の、一面を飾っていた記事の内容が思い起こされる。
アルテミシアは、フランの問いに、肯定だと頷きを返した。
記事の見出しには、こう合る。
『〝斬り裂き魔〟再来!? 魔術学院生徒、襲撃される!!』
「〝斬り裂き魔〟と云えば、確か100年程前に、この街を騒がせた殺人鬼の異名ですよね」
アルコ・イリスには、七つの大通りそれぞれに、一人ずつ顔役が存在している。
当時、その顔役の一人までもが犠牲になったと云う事もあり、街ではちょっとした恐慌が起こり掛けた。
議会から、多額の懸賞金が掛けられるも、それを目当てに集まった多くの賞金稼ぎ達さえ返り討ちにして、殺人鬼は歴史の闇にひっそりと消えた。
「結局、当時の『
泉の守り手』(ラグナ・ガーディアン)も〝斬り裂き魔〟を捕える事はおろか、正体さえ突き止められなかった」
アルコ・イリスの治安維持に関して、多大な権限を有する機関だ。
やはり〝斬り裂き魔〟の事件に関しては、相当数の職員が犠牲になったと云われる。
「七虹都市を、恐怖の坩堝へと叩き込んだ謎の殺人鬼。その正体については様々な憶測と噂が飛び交い、今では最早、一個の伝説とまで云っても良い、血塗られた逸話を作り上げた」
〝斬り裂き魔〟の事件について纏め、正体を考察する書籍も、10冊や20冊では足りない程に発行されている。
「今でも、類似する事件が起こる度に、人々には耳慣れた常套句として用いられるしのう。春先の石榴石(ガーネット)通りで起こった連続婦女殺人事件の時も、新聞には〝斬り裂き魔〟の見出しが躍っておったのを覚えておるわ」
アルテミシアは、夢見心地となっても職務に忠実な女給仕に、薫り高い珈琲(コーヒー)を持ってこさせると、優雅な所作で、それを口にした。
「……うん。ここに来たのは久しぶりじゃが、相変わらず良い豆を使っておる。最も、わらわよりもフランの方が、飲んでいて様にはなると想うのじゃがな」
「乳(ミルク)と砂糖(シュガー)をたっぷりと入れたものならば、好物ですよ」
「珈琲は、漆黒であるからこそ、薫り高く美味であるのに。相変わらず、子供の様な味覚じゃて」
「だって、苦いんですもの」
フランは、氷菓を掬いながら、たおやかな微笑を浮かべた。
「今回の〝斬り裂き魔〟……まだ犯人は捕まっていないそうですね」
「うむ。導師達は、事態の揉み消しに奔走しておるが、やはり人の口に門は造れぬのう。幸い、かろうじて死傷者は出ていないと云うだけの話じゃ。既に、今朝までに4人が襲撃された」
「そうですか……」
フランは、何事かを考え込む様な素振りを見せた。
「それで、僕はどなたを護れば良いのですか? アルテミシアさんの事です。恐らくは犯人の正体か、さもなくば次に襲われる人物かに、目星をつけているのではと推測するのですが」
フランの言葉に、アルテミシアが“くっ”と、笑みを零した。
「まぁ、待つが良い。聡い事は美徳じゃが、物事には、何にでも順序と云うものがあるじゃろう。此度の〝斬り裂き魔〟についても同様にの。とは言っても、何から話すべきか。……そうじゃの。この事件の最初の被害者。ソルティレージュ・アン・アトガルド・エトナシア。あ奴が愚かにも、伊達眼鏡をかける様になった事が、そもそもの発端じゃ。その所為で、血塗られた伝説の殺人鬼が、紛いものでは無い『本物』の〝斬り裂き魔〟が、アルコ・イリスに蘇ってしまった」
「……はぁ。伊達眼鏡、ですか」
「うむ。伊達眼鏡じゃ」
伊達眼鏡と伝説の殺人鬼の間に、果たしてどの様な関連性があるのか、流石に思い至れず、フランが困惑の声を上げる。
〝想楯〟の炎の魔女の元に、〝求め〟の学院の魔女によって持ち込まれた護衛の依頼。
それが後に、自らの運命の邂逅へと繋がっていく事を、この時のフランには知る由も無かった。
世界に産み堕とされ、艶やかに狂い咲いた、紅と蒼の双つの薔薇。
魔女として生を受けた、美しき双りの『少年』達の、耽美な恋愛譚の始まりは、やはり銀月色(ムーンライト・シルバー)の髪と、蝕紫色(イクリプス・ヴァイオレット)の瞳を有する吸血鬼の、エレガントには程遠い伊達眼鏡だったのだ。
最終更新:2011年07月06日 08:54