その一瞬を、言葉にする事は難しい。
波打ち、初夏の光を透かして煌く、紅炎色の髪(ファイヤー・レッド・ブロンド)。
舞台舞踏(バレエ)のロマンティック・チュチュめいて翻る紅薔薇(ローズ・レッド)のドレス。
しなやかに伸びた脚は、雪豹を思わせる。
無骨な男の顎を爪先で捕え、間断なく無慈悲な踵落としを、頭頂へと叩き込んだとは信じられぬ程。
一連の動作は、余りにも人の目を惹き付けて止まず、目にした者の心に、鮮やかな紅い魔女の美貌を刻み付けるに十分だった。
偽りの言葉と動作で、相手を惑乱し、意識の間隙をついた奇襲。
名誉や誇りを掲げる騎士物語でなら、決して描かれぬ様な、卑怯の誹りを免れぬ行いを働き、それでも『少年』は、フランディア・ローズレッドは美しかった。
意地の悪い笑顔さえ、どこか愛敬を持って、見る者に受け入れられる。
「……何と、まぁ」
蝕紫色(イクリプス・ヴァイオレット)の目を丸くして、今見た光景を疑う様に、銀月色(ムーンライト・シルバー)の髪を有する吸血鬼(ヴァンパイア)の少女、ソルティレージュ・アン・アトガルド・エトナシアは呟いていた。
「わーお。えっげつなー。フラっち。あんた、性格悪いって云われない?」
アエマ・ゼットンが、茶化す様に問う。
フランの事を、顔を合わせたばかりどころか、録に自己紹介も終えていないのに、既に勝手な渾名を付けて呼んでいた。
「良く云われますね。事実ですし、仕方ありません。お世辞にも僕は、真っ直ぐな性格をしているとは云えませんから。『我々は、生まれながらにして狼だ。男など、誰も信じてはいけない』」
フランが、苦笑を浮かべて云った。
「『流氷階段』(カスケイド)。エリオット・ベヒシュタインの一節ですわね。あれは良い作品でした」
ソルティレージュが、フランの引用した古典小説の題名を応える。
フランが、嬉しそうに微笑んだ。
「ですが」
前置きをして、双りの少女を振り向き、“ぱちり”とウインクをする。
「成果はあるでしょう? 物語の騎士の様に、正々堂々とは行かぬが世の常です。ならば、卑怯者との誹りを受けて、それで、護れる者が在るかも知れない」
異端の魔女たる身には、掲げるべき誇りは無く、護るべき名誉も無い。
泥に塗れる己の背後に、無垢なる花の清らなるを護れるならば、厭う理由は存在しないと、フランは告げた。
それこそが、自分にとっての名誉であり、誇りであると、騎士の様に微笑む。
「僕は護り屋。護衛者です。誰かの生命を、心を、名誉を護る楯ならばこそ、我が身、我が心、我が名誉が傷付くは厭わない」
そして、と。
一味の仲間を倒され、身構える盗掘団四天王の、残り三名へと向き直る。
「我が〝想楯〟の称号に掛けて。日々の暮らしの、安らかなるを願う誰かの為に。僕は今、虹の都が治安を守護する楯となろう」
紅い魔女の静かな宣誓に、言葉に秘められた力に気圧された様に、男たちが知らず、僅かに背後へと下がる。
痩せ細った、魔術師らしき男が、総身を竦ませる武威(プレッシャー)に抗して、或いは必死で逃れようとするかの様に、声を張り上げた。
「――殺れぇッ!」
声に触発されて、男たちが、弾かれた様に駆け出す。
筋骨隆々とした男、盗掘団随一の豪力の持ち主、カーム・ライノセラス。
鋭い目を持つ男、盗掘団随一の射手、インテンス・パラキート。
痩せ細った魔術師の男は、盗掘団随一の魔術師、ワイズ・リザード。
襲い掛かってくる男達を迎え撃つべく、フラン達もまた身構える。
「来ましたわよ。先刻、フランさんが意識を刈り取った男が、ダーティ・スクーロルと名乗っていた剣士ですわね。残りは、三人」
「自警団の人たちも疲れ切ってるみたいだし。んー、やっぱ装備の差がでかかったかー。これ見よがしに魔法器物(マジック・アイテム)で固めてるもんなぁ。じゃ、私は、あっちの弓兵さんを相手にしましょ」
アエマが、“にひひっ”と、悪戯な笑みを浮かべた。
ソルティレージュも否やはなく、向かってくる男の一人を見据える。
「ならば私は、エレガントに力比べと参りましょうか」
「うん。偶に思うけどさ。ソルっち。エレガントの意味を明後日の方向に履き違えてるよね。ってか、優雅に力比べしようって、すっげぇ字面だと思うんだけどどうよ? あと、相変わらず魔術師の発想じゃねー」
「ふふ。そこは吸血鬼としての発想と云う事で、見逃してくださいませ。それからエレガントは、私の心情の問題ですわ。フランさんは、如何でしょうか?」
「否やは在りませんよ。魔道の業の競い合いならば、僕としても望む処。では」
「ええ、それでは」
奇しくも、フランとソルティレージュの声が唱和する。
「貴女の道に、鴉と黒猫の啼き声が在ります様に」
「貴男の夜に、紅う月の恩寵が在ります様に」
フランが口ずさんだものは、魔女に伝わる厄除けの呪い。
ソルティレージュが口ずさんだものは、夜の国に伝わる厄除けの呪いだった。
“くすり”と、双り、微笑みを交わす。
「かくして、お耽美なお双り様の中に在っては、あちきは、すっげー浮いている存在なのでした。ったく。双りともなってねーぜ。郷に入っては郷に従え。厄除けの詩なら、これ以外にないっしょ。ここは魔女の山でも、夜の国でもなくて、
アルコ・イリスだぜぃ?」
そうしてアエマは、七虹都市に旧くから伝わる、祈願の詩を紡ぎ出す。
曰く――
「貴方の空を、掛かる虹が照らします様に」
紡がれた詩を合図に、魔女たちは、それぞれの敵へと相対した。
◆
「我が得物は貴様か、少女よ! 『隠者の猟虎』四天王筆頭、インテンス・パラキートが、飛鳥さえ射抜き堕とす弓の業を、味わって見るが良い!」
魔法の弦が張られた長弓を誇り、男が告げる。
アエマは、不敵な笑みを絶やさぬままに、応えた。
「やー。そいつは凄いね。けどさ。あんたの弓は、喩えば、暗い、真っ黒な風も射抜けるのかい?」
――“びょう”
不意に、一陣の『影』が、突風の様に吹く。
「むぅっ……!?」
否、それは闇を孕んで吹き荒ぶ、黒く、影に似た風だった。
アエマを中心に渦巻く黒風が、対峙する双りの髪を、服をはためかせる。
魔道の心得がある者が見れば、アエマを取り巻く様にして、正体を無くし躍り狂う、闇と風の精霊の姿を幻視するだろう。
魔の森の民(ダーク・エルフ)が受け継ぐ、黒の魔力を用いて精霊を狂わせ、従える、『精霊魔術』からの派生系統。
『黒霊魔術』が顕現させた神秘だ。
男が、慌てて長弓に番えた矢を放つ。
魔法の弦より放たれた矢は、狙い過たずアエマの急所へと飛んだ。
忽ちの内に、黒い風に巻かれて、力尽きた飛鳥の様に地に落ちる。
「残念でしたー。俺様ちゃんの属性は、見ての通り……なのかなー? ま、とにかく『風』だよ。幾らおっちゃんが、風に乗って、飛ぶ鳥を撃ち堕とせる腕前でもさ。そもそも風を狂わせる私には届かないんだな、これが」
矢除けの黒風を、幾重にも防壁として纏いながら、当然の事の様に、愕然としている男に向かって、アエマは告げた。
男が、幾本もの矢を撃ち放つが、総ては等しく、同じ末路を辿る。
爆塵の鏃も、氷河の鏃も、得物に届かぬ以上、効力を発揮する事は無い。
「こんな……こんな事が……ッ!」
不条理だと、男が叫んだ。
「ならば、これで!」
怒りに染まった顔で、一本の矢を取り出す。
鏃から迸る魔力は、先刻までの魔法矢とは一線を画していた。
矢の正体を悟ったアエマが、表情を変える。
「……げっ。雷華の矢の、それも一級品じゃん。なんで一介の盗掘屋が、そんなもん持ってるのさっ!?」
「これぞ我が切り札よ! 放たれた瞬間、稲妻の閃きと化す鏃を、風で捕えられるか?」
「んなの、無理に決まってんじゃん。風の矢除けで、雷が防げるかっつーの」
「ならば、勝負あったな。この間合いでは、私は狙いを外さぬ。貴様が何か策を講じるより先に、我が雷は、その躰を穿つぞ。貴様は最早、遅きに失したのだ」
勝利を確信して宣言する男を前に、アエマが笑う。
「うん。そーだね。その矢を撃てたら、おっちゃんの勝ちだよ。撃てたら、ね」
「何を――」
「遅きに失したかー。確かにね。あたしを前にした時に、有無を言わさずそれを使ってたら、結果は違ってたのに。やー、さっきはフラっちの事を性格悪いって云ったけどさ。うちの魔術も大概、陰険なんだわ」
「あ……?」
“ぽたり”……“ぽたり”
逆巻く風音の中、滴る水音に、男が足元を見ると、血の雫が落ちていた。
血は、男の鼻腔から流れ出している。
「これは……何故、私が……貴様、何を……!」
男の視界が、唐突に“ぐにゃり”と歪む。
平衡感覚を失い、寒気に襲われ、躰に力が入らない。
指先が振るえ、弓を番える事さえ億劫に感じた。
「あたしが狂わせた風は、黒に染まりて、病を運ぶ」
アエマは、男を“ひた”と見据えながら、静かに呟いた。
「風は幾重にも私を護り、運ばれた病が、触れた者の命を奪う――ま、判りやすく云うとね。あたしは射手(アーチャー)封じの、疫病使い。バッド・ステータス&ペナルティ付与なんだな、これが。いやらしー戦い方っしょ? おっちゃん。もう、そうなったら暫らくは、まともに動けないよ。降参してくれたら、今なら、アエマちゃんの手厚ーい看病がついてくるけど?」
「巫山戯……るな……! この私が……四天王筆頭が、貴様の様な小娘にぃぃぃ……ッ!」
怒りと屈辱を綯い交ぜとして、アエマを睨み付ける男。
アエマは、務めて明るく、何時もの調子で、男へと決別の言葉を告げる。
「あ、そう。じゃー、仕方ないね。目が覚めたら、ベッドの上で反省しなよ。ああ、それと。歳とか見た目で、相手を侮るのは止めときな。世の中、そんなもんで動いちゃいない。歳月も修練も関係なくさ。『才能』って奴は、何もかもを台無しにして、一纏めに持っていくんだから。おっちゃんの『狙い撃つ才能』は、あたしの『病に侵す才能』を上回れなかった。まー、納得出来ないだろうし、無体な話だって思うけど。でも、そう云うもんだよね。世界は、そう云う風に出来ていて。そう云う容なんだから。何をしたって、その通りにしか廻らないんだよ」
「ぐっ……私は、まだ……敗れては……弓の業を、十余年磨き続けて……鳥さえ射抜ける様になった、私が……! 友を……救い出すまでは……!」
朦朧としているのだろう。
支離滅裂な言葉を吐き出す男。
歯を食い縛り、懸命に矢を番えようとする男の前で、アエマは、どこか悲しそうに云った。
胡桃茶色(ウォーナット・ブラウン)の瞳に去来するのは、『才能』を、逃れ得ず、覆せぬ『自分の容』を知る者の悲哀だ。
『誰も彼もが、才能の奴隷に過ぎない。その支配は、如何なる運命よりも苛烈で残酷だ。無慈悲なる神の如くに』
それは高名な劇作家、カルデニオ・シンドベルトが、自らの作品の中で書いた一節。
先刻、フランがアルテミシアとの会話に於いて、引用した台詞でもある。
「うん、やっぱおっちゃんは、私やソルっちと同じ才能を持ってるね。同じ容だよ。もう届いてるかどうかは知らないけれど。その在り様を、言葉にしたらどうなるか教えて上げるよ。おっちゃんの才能はさ、『大切なものを手に入れることが出来ない才能』。本当、報われないよね、お互いに」
自嘲めいて、アエマは云う。
『才能』とは、己の容だ。
それを開花させる事は、必ずしも幸福を約束しない。
無慈悲で、報われない容であるとしても、自らの容が、そうと定められているのならば、向き合うしか無い。
アエマが、『幸せになれない才能』と云う容を、持って産まれた様に。
『辛くても明るく振舞う才能』と云う容の通りにしか、生きていけない様に。
最後の力を振り絞り、矢を番える男の前で、荒れ狂っていた風の唸りが止む。
黒き疫病の風は、アエマの左腕に纏わり付き、圧縮され、その肌の色を、黒ずんだ褐色へと染め上げた。
爪は、妖しい黒瑪瑙の輝きを放っている。
アエマは、黒き病の腕で、男へと触れた。
風が運ぶ病が、男の躰を侵し、今度こそ意識を、一時の奈落へと刈り取る。
「あ、げっ……あ……っ……!」
「『疫風蝕む熱病の腕』――眠りなよ。なぁに。大切なものが手に入らないとしても。それでも、どーにかこーにか、やっていけるのが人生だ。おっちゃんの容は、あたしやソルっちより、大分マシだしにゃー」
“どさり”と、地に倒れ付す男を見下ろし、アエマは、勝利を掲げる言葉を紡ぐ。
「我が勝利――黒き風と共に」
◆
ソルティレージュが対峙するは、筋骨隆々とした男。
男は、向かってくる少女の姿を認めると、露骨に嘲りの笑みを浮かべる。
「ふんはぁー! お前の様な細腕で、この『隠者の猟虎』四天王筆頭、カーム・ライノセラスの豪力に太刀打ち出来るものか!」
「では、試して見ますか? ――破ッ!」
「ぬぅん!」
両者が、同時に拳撃を繰り出す。
巨躯から、愚直に振り下ろす一撃と、打ち上げる様に、直線に放たれる一撃。
重く、鈍い音と共にぶつかり合う。
「くぅッ!?」
「何とッ!?」
驚愕の声を上げたのは、同時だった。
吸血鬼の真祖であるソルティレージュは、人間はおろか、下手な巨人族にも匹敵するだけの膂力を有している。
男は、吸血鬼の一撃を、受け流す事さえせず、真っ向から受け切った。
男にしても、よもや自らの一撃が、少女の細腕と互角とは予想しなかったのだろう。
信じられぬ者を見る様な目で、ソルティレージュを“まざまざ”と見る。
「まさか俺の拳を……そうか。口元に覗く牙。貴様、吸血鬼か!」
「ええ、その通りですわ。私と拮抗する膂力の持ち主が、よもや人の中に居るだなんて。驚嘆に値します」
「ふはは! 鍛え上げた肉体は、肉と骨を成長させる! 俺の拳は、既に剣も矢も越えた。躰は、鋼の鎧よりも強靭に、如何な攻撃をも防ぎきるぞ!」
「無駄に暑苦しい殿方です事。しかし、成る程。『強靭な肉体を鍛え上げる才能』の保有者ですか。努々、侮る事は出来ませんわね。その力、既に鬼族(オーガ)のそれにも匹敵しましょう」
「吸血鬼と力比べをするのは初めてだ。しかし、俺が勝つ! 俺の修練が、吸血鬼を凌駕する事を証明してやろう。ずぇい!」
“ごうっ”と、唸りを上げて繰り出される拳。
暴風めいた連弾を、ソルティレージュは時に受け止め、時に躰を霧へと変える事で避けていく。
「痛ぅ……! これは、なかなか……腕が痺れますわね」
「はーはっはっ! どうした。防戦一方では無いか! その程度か吸血鬼!」
繰り出す拳の向こうに、大口を開けて、笑う男。
愚直な拳は、男がこれまで積み重ね、鍛え上げてきた暴力の容だ。
ソルティレージュは、背後へと飛び下がり、距離を開ける。
痺れた腕を、二度、三度と振って感覚を確かめた。
「全く。何と云う真っ直ぐな暴力でしょう。『修練を積み重ねる才能』の元に、鍛え上げられた力。少し、羨ましくも在りますね。『努力が報われない才能』を有する、私からすれば」
“くすり”と微笑み、ソルティレージュは、男の姿を真っ直ぐに見た。
努力する事と、努力しない事。
努力出来る事と、努力出来ない事。
努力が報われる事と、努力が報われない事。
徒労に終わる事も、無為に終わる事も。
それらも総て、才能と云う、自己の容によって縛られる。
どれだけ羨み、渇望して、苦悩しても、自分の在り様からは逃れられない。
自分の容は、変えられない。
目の前の男が、努力によって、当たり前の様に成し遂げる事。
それを、ソルティレージュは、努力によって、当たり前の様に成し遂げられない。
そう云う容に産まれ付いて、そう云う在り様だと定められて、そう云う風にして、世界は廻っていくのだから。
「言っても、詮無い事では在りますけれどね。私は、私ですし。その通りにしか生きていけないのですから――」
真理であり、摂理であり、条理であると受け止めて、ソルティレージュは、静かに構えた。
才能は、絶対だ。
才能を覆すには、それ以上の才能を持って打倒するしか無い。
つまりは――
「貴方の才能は、あくまでも人間と云う枠組みの中で、肉体を鍛え上げる才能。つまり、その枠組みを超越したものには、貴方は対処できない」
静かに、呼吸を繰り返す。
蝕紫色の瞳が、男の姿を捉えた。
「では、お見せ致しましょう。肉と骨と、関節と血の流れ。心の動き。人体の戒めの全きを超越する、我が血族の権能。自在霧散化特性に立脚した、人外なる鬼の闘技法を。毒蛇の舞踏を」
宣言と同時。
“すっ”と、流れる様な所作で、ソルティレージュが、右脚を踏み出す。
踏み出した脚が、靴底で、前方の地面を踏み締める瞬間。
身に纏う衣装ごと、脚が、霧へと転じて消失する。
肉の躰が、二足歩行で、前方へと歩みを進める為には、畢竟、重心を向かいたい方向へと傾ける必要がある。
その状態で、本来、地を踏み締め、傾く躰を支える筈の脚が消えればどうなるか。
地に惹かれる様に、力尽きた鳥が堕ちる様に、ソルティレージュの躰は流れ、前方へと倒れ込む。
倒れる躰の動きに逆らわず、路面へと接吻をしそうになる寸前。
雲間に閃く稲光の如く、憐れな獲物へと飛び掛る、毒蛇の疾駆が顕現する。
前方へと倒れこむ動き。
万物が、星の中心へと引かれて堕ちる摂理そのままに、発生した力を、一端は霧へと転じた脚が、再び実体化し、水平な地面を斜めにでは無く、『垂直』に、『直角』に蹴り付けると云う、およそ人体には不可能な所業をやってのけた。
その結果が、どうなるか。
本来、肉の脚は歩行の際、発生した前方へと進む為の駆動力を、幾らかは無駄に使っている。
これは、前に進む為には、地面に対して、必ず、脚を斜めにして蹴り付けなければならないと云う、肉体が有する当たり前の制限故に発生するもの。
地面を垂直に蹴りつければ、肉体は垂直方向へと跳躍するが道理だ。
しかし、ソルティレージュの血族が有する権能。
肉体を霧に転じる事が出来る吸血鬼の中にあってさえ、自由に、自身の肉体の霧散化を操作出来ると云う権能は、肉と骨の消失はおろか、肉体の容を残したまま、内部の関節のみを消去させると云う荒業さえ、容易くやってのける。
肉体を有し、その容に縛られる生物の枠組みを、容易く超越する魔物の容。
『前進』する為に、『垂直』、『直角』に『水平』な地面を蹴り付けて、発生した力の一切を無駄に拡散させる事無く、ソルティレージュは走った。
走るのでは無く、奔るのでは無く、正しく疾る。
地を這う毒蛇の様に、銀の髪を尾と引いて、霧を纏う吸血鬼の少女が、駆け抜けて、翔け抜けた。
縮地法。
遥か東方の大陸においては、武道の奥義として知られる歩法の亜種を、ソルティレージュは、自らの肉体特性に拠って強引に成し遂げる。
「な……あっ……ッ!?」
男が、理解を超えた吸血鬼の挙動に、迎撃の拳を慌てて繰り出すも、総ては遅きに失する。
「『地を翔け疾る毒蛇の強襲』――貴方は最早、狩られる獲物。我が毒蛇の顎門を持って、喰らい尽くす」
「くっ……だが、俺の肉体は鋼よりも硬い……ッ!」
男の叫びに、ソルティレージュの口元に刻まれる、笑みの容。
“にぃ”と、亀裂の様な唇から、毒蛇の如き鋭い牙が覗く。
ソルティレージュは、自身の腕を、番えられた矢の様に背後へと引き絞った。
そして、再び、自身の肉体を霧に変える。
見える変化では無く、見えざる変化。
即ち、肉体の外部では無く、肉体の内部。
頭蓋の中、脳の内部に編まれた神経の網目の一部を、自らの意志で消滅させた。
限界を超えた挙動の反動が、自身の肉体を壊さぬ様、無意識が設けている制御機構を、無理矢理に解除する。
生物は本来、その肉体の機能を、三割にも満たぬ状態でしか発揮出来ない。
しかし、自在霧散化特性は、云うなれば、肉体のあらゆる機能や制限を、自らの意志を持って解除できる鍵だ。
無意識を統括する脳内機関を霧へと転じて、その働きを無効化すれば。
畢竟、普段は抑制された肉体機能の総て、封印された、残り七割の力を、掛け値無しの全力を持って操る事が出来る。
人間を遥かに越えた性能を有する、吸血鬼の肉体性能の、完全解放。
それから繰り出される、単純な破壊力は、人間如きの鋼の肉体に、毒蛇の牙を突き立てるに、十分に過ぎる。
ソルティレージュの放つ一撃が、衝撃と共に、男の躰を貫いた。
「ぎっ……あ……が、ぁ……っ!」
「『戒め解かれし暴虐の毒蛇』――これを使うと、とても疲れる上に、私自身への反動も大きいのですけれど。貴男は、相応しい相手でした。道を違えなければ、一角の猛者として、名を馳せていたでしょうに。残念ですわ」
崩れ落ちる男を見下ろし、ソルティレージュは、勝利を掲げる言葉を紡ぐ。
「我が勝利――いと貴き月と共に」
最終更新:2011年07月06日 08:56