盗掘団『隠者の猟虎』の、四天王筆頭を謳っていた四人の男達。
三人は、既に竜胆(ゲンティアナ)通りの只中に倒れ付している。
一人は、フランの奇襲を受けた。
一人は、アエマの操る黒風により、病に侵された。
一人は、ソルティレージュの毒蛇の牙を突き立てられた。
最後の一人。
盗掘団随一の魔術師、ワイズ・リザードの前に立ち塞がる者。
紅い薔薇のドレスと、紅い炎の髪。
紅い暁の眼差しを有する、紅の男魔女(ウォーロック)。
傾国の美貌を持った、少女の装いを纏う少年だった。
フランは、初夏の陽射しの中に、悠然と佇んでいる。
剣戟の音響く戦場さえ、紅い少年の魔力を前にしては、絢爛と咲き誇る真紅の花園と見えた。
「……貴様は、何者だ? 人間か? それとも天使か。或いは、悪魔か。さまなくば、地上に堕とされた美神か」
畏怖を滲ませた男の問いに、フランの口許に失笑が刻まれた。
「どれでも有りませんよ。人間では有りませんし、天使や悪魔の様な、大層な存在でも無い。神を気取る程に傲慢でも無い心算です。僕の正体は、しがない魔物。魔女の一人に過ぎません」
「ヴァルプルギスの夜に堕胎される異端の魔女の、男魔女の噂は、魔道に身を置く者の端くれとして聞いてはいた。聞いてはいた……が。まさか、ここまで超越的な魔性とは思っても見なかった。成る程。男魔女が、その力を、女の装いの中に封じ込めねばならぬ訳だ。お前を巡って、百の国が戦火に叩き込まれたと聞いても、俺は驚かぬ」
「余り嬉しくは在りませんが。賛辞の言葉には、礼を返しましょう。複雑な気持ちですけれどね」
「俺に、そちらの気は無いがな。貴様と一夜を共に出来ると云うなら、俺は悪魔にでも魂を売るだろう」
「ははは。謹まずに遠慮します。絶対に、嫌です」
満面の笑顔で、“きっぱり”“はっきり”と、フランが拒否を示す。
「それは残念だ。では、仕方ない。悪魔に、己の魂を売っても良いとさえ云ったが。喩え神にでも、友を売る訳にはいかん。我等は、常に一つよ。友と同じ獄中に繋がれるも、悪くは無い。ああ、その前に。一介の魔術師として、魔物との逢瀬を愉しむ事にしよう」
「貴方と云い、向こうの方々と云い。友を想う気持ちは、実に立派なのですね。最初の道を、如何しようも無い程に間違えていますね。付け加えるなら、ネーミング・センスも」
「お前、猟虎を見た事は無いのか? 可愛いのだぞ」
「猟虎が、どの様な動物かを知った上で、一味の看板に掲げていたのですか?」
てっきり猟虎の字面だけで、一味の看板にしたのだと想っていた。
「うむ。良い名前だろう? 俺のアイデアだ」
胸を張り、誇らしげに、男が云う。
「同意を求められても、返答に困りますけれど。確実なのは、貴方と僕の命名のセンスは、合致しないと云う事でしょうか。猟虎が可愛いと云う意見には、全面的に賛同しますけれど」
「だろう? あれは、もう二年も前になるのか。初めて海洋都市を訪れた際、本でしか知らなかった猟虎の姿を見た。思わず、土産物屋で、猟虎の縫い包みを衝動買いしてしまったよ。ピンクにデフォルメされた猟虎の――」
「もしかして、ラッティちゃんですか?」
ラッティちゃんとは、海洋都市の、公式マスコット・キャラクターだ。
世にも珍しい、ピンクの毛皮の猟虎妖精と云う設定で、人気を博している。
「ほう、知っていたか」
「ラッティちゃんの縫い包みは、全種網羅しましたよ。何を隠そう、百組限定販売の、ラッティちゃんラッキー☆チャンス抱き枕を保有している、世界で百人の幸運な男の一人が、この僕です」
「何とっ!? くっ、羨ましい。お前、まさか。と云う事は、夜は……」
「無論、ラッティちゃんを抱いて、一緒に寝ているに決まっているでしょう」
職人の、手作業で作られたとの触れ込みの限定抱き枕は、肌触りよく柔らかで、穏やかで快適な眠りを提供してくれる。
「何と云う事だ! 世界の不条理に呪いあれ! いや、しかし。俺がラッティちゃんを抱いて寝ている様は、それはそれは悍ましいものであろう。それに引き換え、何と云う事だ。お前がラッティちゃんを抱いて眠る姿を想像すれば、実に神々しく、愛らしい事よ。俺は今、言葉に出来ぬ新鮮な……神聖で、真性な感動に打ち震えている。お前が、はだけて、肩が覗く寝間着姿で、出来れば薄く肌が透ける生地の奴で、天蓋付きの豪奢なベッドの上で、ラッティちゃんを抱き締めながら寝惚け眼を擦って欠伸をしてくれるなら、俺は……俺は、友を売り払ってしまうかも知れん!」
「やりませんし、見せませんよ。こんな格好でも、僕の心は、れっきとした男ですからね。邪な男の視線に、我が身が曝されるだなんて。考えただけでもぞっとします」
フランは、己の身を抱く様な仕草を見せた。
◆
アエマとソルティレージュは、フランと男の遣り取りを、遠巻きに眺めていた。
双りは、それぞれの戦いを終えて、言葉を交わしている。
「――甘いもん好きで、可愛い縫い包み集めて、可愛らしい枕を抱っこして寝るって。どっちかっつーと、男よりは乙女の行動よな? フラっちは男だし。んー、漢女(おとめ)?」
「その言葉からは、何やら曰く云い難いものしか想像できませんわね。趣味や好みは、人それぞれですし。良いのでは無いですか? 誰に迷惑をかけている訳で無し。それに、フランさんと猟虎の縫い包みの取り合わせは、確かに美しくも、愛らしい景色を産みだすでしょうしね。私も、見てみたい様な気が致しますわ」
「あれよな。むっさい男がやってると犯罪だけど、美人だから全部許されるって奴。これ、見ようによっては、すっげぇ差別じゃね?」
「見ようによらなくても、凄い差別ですわよ。ですが、世の中って、得てしてそう云うものでしょう」
「うーむ。平等が奇麗事の中にしか無い言葉なら、差別や不平等は、当たり前の様に世間に蔓延するか。世知辛いやねー」
「誰しも平等な世界など、居心地悪く、住み辛いだけの地獄でしか在りませんわ。誰かが、美味しいステーキに舌鼓を打ったなら、その裏には、食料として殺された牛がいるのです」
「その牛さんだって、雑穀を食べて大きくなっていく訳だから。食う側と食われる側がある様に、生きてくだけでも不平等よね。……で、だ。魔女のフラっちと、魔術師の蜥蜴のおっちゃんと。食われる側はどっちかにゃー?」
アエマが、ソルティレージュへと問い掛ける。
「さて。古来から、悪が栄えた試し無しとは云いますけれど」
「そりゃそうっしょ。何時の世も、負けた側が悪だってされるんだから。常に勝った側が正義を名のるんだから、そりゃー、正義しか栄えないって話」
「その通りですわね。ですので、やはり今回も、勝つのは正義の側でしょう。他者が掲げる正義を、自らにとっての悪として踏み躙る。強い側が、当然の様に勝つのです。信念も大儀も関係無く。強い力は無慈悲に、弱者を飲み干して、強者の云い分を罷り通らせるのですから」
「だね。さっきのあたしらが、おっちゃん達の、友達を助けたいって想いを踏み躙った様に」
「方々は、それまでの所業がありますので、自業自得の一面も在りますけれどね。理由はどうあれ、友を救いたいと云う気持ちには共感できます。共感はできますが、私達は、それを踏み潰しました。そして、あの方も踏み潰すのでしょう」
ソルティレージュの瞳が、フランの姿を映し出した。
紅い魔女の立ち姿は、力に満ちている。
圧倒的な才能と、在り様を、言外に示す姿。
「んー、おっちゃん達、別に善人ってわけじゃねーけどさ。いまいち、憎めない奴ばっかなんだけどなー。ままならねぇもんだぜ。ま、フラっちなら、殺さずに治めてくれるだろー」
「『他者の生命を不必要に奪わぬ才能』。フランさんは、本人も云っている通り、余り真っ直ぐな性格では無いのでしょうけれど」
「んー、在り様は、あれで結構、真っ直ぐっぽいよねー。ひねくれてる俺とか、ソルっちとは違ってさ」
「そうですわね。眩しい事です」
「おりょ、ソルっち。自分が真っ直ぐじゃないって否定しないんだ?」
「自分の容と在り様は、他ならぬ自分自身が、良く判っております。どう足掻いても、私は、真っ直ぐな在り様とは縁遠いものですわ」
「にひひっ。ソルっちは、性格とか信条は真っ直ぐなのににゃー。難儀な奴。そして、愛い奴め」
アエマは、行き成り、ソルティレージュの肩に手を回すと、頬擦りを始める。
「もう、何ですの一体。暑いのですから、早く離れてくださいませ」
「……うん。やっといて何だけど、わちきも暑いと思った。良し、じゃあ、キスしよっか?」
「何が良しで、何がじゃあ、なのかが不明ですわね。人目も在るのですし、お止めなさい。次は暴力に訴えますわよ?」
「あいさー。……うん、てかさソルっち。最近、どんどん肉体言語派になってきてね? ま、いいか。そろそろフラっちの戦いが始まるし。ソルっちとイチャつくのは、名残惜しいが、これぐらいにしとこう。やー、あたし、実は魔女の戦うとこを見るのは初めてだからさ。以外と楽しみなんだよね」
「私は、以前に何度かありますわね。人間に最も近しい容をした魔物。人に似て、人とは異なる魔術系統を操る者たち。アエマ。良く見ておきなさいませ。魔女にしか見つける事が出来ない、妖華や幻草の数々から産みだされる、魔女術の神秘を」
ソルティレージュは、僅かな畏怖を込めて呟いた。
◆
「では。そろそろ、始めるとしようか。無駄に出来る時間は無い」
男が、静かに、覚悟を決めた様に呟いた。
「無駄話を始めたのは、そちらからだと思いますけれど。乗ったのは僕ですからね。かく云う僕も、人を待たせています。終わらせましょう」
「如何に男魔女が相手とは云え。俺は、これまで
アルコ・イリスの地下遺跡は、未踏破区域を探索し、生き抜いて来た。容易く御せると想うなよ」
「想いませんよ。貴方は先程、いえ、貴方に限らず、四天王を名乗っていた他の方々も。僕は、出来るだけ穏便に済ませようと、普段、自身で抑えている魔性を表に出していたのですが。皆、見事にそれに抗いました。男魔女の魔性に、抗して見せたのです。男魔女の呪いである、『虜と変える美貌の才能』を上回った。生半な相手では、そうは行きませんよ」
「その言葉は、賛辞として受け取って良いのかな」
「ええ。掛け値なしの賞賛です。――良く、吸血鬼(ヴァンパイア)は鏡に映らないと云いますけれど。男魔女も、普通の鏡には映らないのですよ」
「ほう」
「男魔女が纏う、力の所為です。僕自身には、良く判らないのですけれど。……僕達の姿が美し過ぎて、鏡の精が嫉妬を抱く。映す事を拒絶するが故だと、云う方もおられますね。おかげで、身嗜み一つ整えるのにも、苦労させられます」
「誰もが讃える美貌の所為で、誰もが容易くに行える、日常の行為さえ苦労するか。成る程。呪いに違い無いな。超越にせよ、特別にせよ、異常にせよ。他者とは違う事を指して、異端と呼ぶ。まして、掛け離れ過ぎているとあれば。産まれ堕ちる世界を間違えた。いいや。産まれてはならなかったと。そう想うのは、果たして俺の杞憂であるのか」
「否定する言が在りませんね。僕も時折、そう想います」
「『産まれた意味を探す才能』。探すと云う行為は、迷い人の容に他ならない。しかし、云う程、生き方に迷ってはいる風は無いな。そうか。『生きる価値を見出す才能』を、同時に有するが故。始まりには迷いがあるのに、迷わずに真っ直ぐ、道行を進む。面白い容だ」
「その言葉は、賛辞と受け取っても良いのでしょうか?」
「掛け値なしの賞賛だとも」
「有難う御座います」
「礼などいらん。貴様を留め置く罠に過ぎないのだから。そら。悠長に言葉を交わしている間に、俺の術は、お前を捕えたぞ」
男の眼差しが、剣呑な色を帯びた。
男の言葉は、フランの前方と、背後と、側面。
それぞれから、全くの同時に聞こえて来る。
フランは、視線だけを動かして、周囲を探る。
フランを取り囲むようにして、幾重にも人垣が築かれていた。
垣根は、皆一様に、同じ姿をした男によって築かれている。
「幻術ですか。視覚だけで無く、聴覚にまで幻を魅せる……いいや、これは」
気配さえ、魔道の業で再現している。
皮膚感覚も、騙されている様だ。
肌に触れる気流の動きが、僅かにずれている様な錯覚を覚える。
一般的な知覚機能だけでない。
魔術的な知覚機能さえ幻に捕らわれていた。
「〝幻霧〟の称号を授けられた導師程では無いが。これでも相手を騙す業には覚えがあってな。『虚偽に貶める才能』より産まれ出でる、我が幻術。真実無き幻と、戯れているが良い」
男の目的を察する。
男は、幻影を隠れ蓑に、馬車に捕らわれた頭目と、倒れ付した仲間を救い出す心算の様だ。
「この術は、術を掛けたい相手の目の前で、長時間の口頭による詠唱と暗示が必要な為に、使い処が難しいのだがな。今回の襲撃では、制約故に使い処は無いと想っていた。しかし、どうやら天は俺に味方したな。男魔女。図らずも、俺と対峙した貴様の美しさが、この場に居る総ての者の意識を双りに――俺と貴様とに惹き付けていた。だからこそ俺は、脅威となる総ての者を一同に、術に貶める事が出来たぞ。『言葉の裏に真意を隠す才能』。貴様と交わした言葉の裏に秘めた、催眠暗示の圧縮言語には、どうやら気付く者は居なかった様だな」
男は――正確には、男達の中の一群が、ソルティレージュと、アエマの姿を一斉に見た。
双りもまた、幻影に捕らわれ、男の正確な位地を把握出来てはいない。
「如何に大陸の最高学府の精鋭とは云え、所詮は子供。実戦経験が、圧倒的に足らぬな。もっとも、その無能の御蔭で、俺は何とか目的を達成できそうだ」
◆
男の嘲笑と侮蔑に、ソルティレージュが顔を顰(しか)める。
「……云いたい放題、云ってくれます事」
「やー。でも実際その通りだし、仕方無いんでね。んー、しかし、どうすっかな。こんだけの魔術を呪破(ディスペ)るには、装備も時間も、圧倒的に足りないし。あと技量も。このままじゃ、あたいらの最近の汚名返上どころか、汚名挽回になっちまうぜい?」
「決まっていますわ」
アエマの問いに、ソルティレージュの指が、どこか野暮ったく赤いフレームの伊達眼鏡へと伸びる。
「云われたままで大人しく引き下がる道理は在りません。我が手に、現状を打破する業が残されているならば、出し惜しみは無しです」
眼鏡(レンズ)を透かした向こうに輝く、蝕紫色(イクリプス・ヴァイオレット)の輝きを秘めた双眸。
視界内に存在する、あらゆる魔力を、毒蛇の胎へと呑み込み、消滅させる魔王の邪視。
『月蝕の紫眼』。
魔の力を源とする以上、如何な容であれ、『月蝕の紫眼』からは逃れられない。
男の魅せる幻影など、瞬きの内に消滅させる。
ソルティレージュの指が、伊達眼鏡のフレームに掛かろうとした間際。
その行為を、傍目に見ていたアルテミシアが制止する。
「良い。そなたらは何もするな。特にソルティレージュ。自身で制御出来ぬ様な力を、街中で解き放とうとするでない。貴様、この通りに何件、魔法器物を取り扱っている店舗があるか知っておろうな? そなたの眼が、店先に並んでいる品物を僅かにでも写してしまったら、それだけで貴重な器物の数々が、忽ちの内に廃物(ゴミ)の山じゃ。盗掘団にまんまと出し抜かれた程度なら、精々が貴様や学院、自警団の看板に泥が付く程度で済むが。もしもの場合の被害総額や、後処理の面倒臭さを考えただけで頭が痛くなる。鼠一匹の為に泰山を鳴動させて如何とするか」
“ぐっ”と、言葉に詰まるソルティレージュ。
「なら会長、どうすんの? フラっちも、まんまとおっちゃんの幻術に掛かってるし。外に出てる会長には、魔術は使えないっしょ?」
アエマの言葉に、アルテミシアの口許に失笑が浮かぶ。
アルテミシアの冷灰色(フロスティ・グレイ)の瞳が、信頼を宿して、フランの姿を映し出した。
「まぁ、見て居るが良い。あやつが、如何にしてこの状況を打破するかをな」
アルテミシアの呟きに応える様に、フランが魔術を、魔女にのみ許された固有の魔術系統、魔女術を『調合』するべく『素材』の『採取』を始めた。
◆
フランの躰が、“くるり”と回り、流れる。
“ふわり”と、薔薇の花弁を思わせて翻る紅いスカートが、後に続いた。
“たん”と、軽やかに地を蹴る音。
洗練された舞台役者めいて淀み無い一連の流れは、フランの躰を瞬きの裡に、ソルティレージュの元まで運ぶ。
「すいません、ソルティレージュさん」
「何でしょうか?」
「不躾で、申し訳在りませんが。貴女の花園の裡から、一輪だけ、薔薇を摘み取らせて戴いても宜しいですか?」
アエマは、その言葉の意味を正確に察する事は出来なかったが、魔女の操る術に関しての知識を、僅かながらに有しているソルティレージュには、フランの求めているものを理解する事が出来た。
「ええ、それは構いませんけれど。ふふ。そうですか。貴男の目に映る私の花園には、薔薇が咲いているのですね。私の一番好きな花ですので、嬉しく在ります」
「ええ。貴女の髪の様な、美しい銀の薔薇が幾つにも。他にも、クロッカスに雛菊。林檎の花も咲いていますけれど。今は、貴女の薔薇が必要です。では……僅かな間、貴女の髪に触れる事を、お許し戴きます」
フランの、男の者とは思えぬ程に細く、繊細な腕がソルティレージュの髪へと伸びる。
不思議そうに首を傾げているアエマの前で、フランの腕が、銀月色(ムーンライト・シルバー)の髪へと触れた。
「夜の處女(おとめ)が抱く誇り、『小夜月薔薇』」
そして、僅かな間を置いて離れた時、フランの手には、月明かりに濡れた様な、艶やかな小夜曲銀(セレナーデ・シルバー)の薔薇が摘まれていた。
「……わ、綺麗な花。見た事ない品種だね。てか、それって奇術か何かかい?」
アエマが、不思議そうに首を傾げる。
フランの髪がソルティレージュの髪に触れていた時間は僅かであり、その間、アエマは双りから目を離さなかった。
だと云うのに、何時の間にか、無手であった筈のフランの手の裡に、見た事はおろか図鑑にさえ載っていない花が顕れたのだ。
「いいえ。この薔薇は、ソルティレージュさんの心に咲いた誇りの容。僕は、少しだけそれを摘み取らせて戴いたのです」
フランの言葉に、やはり意味が判らないと首を傾げるアエマ。
「アエマ。貴女、魔女術がどのような魔術系統であるかは存じていますか?」
「えーと……」
ソルティレージュの問いに、アエマが、学院の講義で習った知識を思い返す。
「たしか調合済みの魔法薬とか、草花とか、特別なハーブや香水なんかを媒介にして、魔術を発動させる系統っしょ。御伽噺とかでは、良く魔女のおばーさんが、大釜に煮立った妖しい薬を“ぐるぐる”掻き混ぜてたりするじゃん。あのイメージの元になったのが、魔女って種族に固有の魔術系統。つまりは、魔女術だよね?」
「正解です。そして、魔女には自らの魔術を発動させる触媒として必要な、『特別』な花やハーブを採取する力があるのですよ。やはり『特別』な場所からね」
アエマの解答を、フランが補足した。
「特別な場所? んー、その、ソルっちの髪に触ったら出てきた不思議な薔薇が、特別な花とやらかい? でも、まさかソルっちに花が咲いている訳じゃ――」
「いいえ、咲いていますよ。ソルティレージュさんだけでは無い。貴女にも。いいえ。人にも、魔物にも。或いは、遍く自然や、智恵ある者の手による創造物にさえ。それぞれの花が、繚乱と咲き乱れているのです。最も、その花を目にする事も、摘み取る事も、魔女で無くば敵いませんが。……この様に、魔女が摘み取ったものならば、誰の目にも視える様になりますけれどね」
「精霊と語らう力を持つ者が、自然を彼らの営みと認識する様に。名のある彫刻家が、無骨な大理石の塊に、いまだ彫られざる彫像の姿を透かし視る様に。魔女は、世界に宿り満ちる魔の力を、草花として認識する。誇りに咲く薔薇、思い出に芽吹くクローバー、初恋に香るレモングラス。魔女にとっての世界とは、即ち、極彩の庭園に他ならぬ」
アルテミシアが、空になった珈琲のカップを、ソーサーに置いた。
「そして、無数の魔女の花を選りすぐり、調合して、千変万化の魔道の業を産み出す事こそが魔女術の真髄よ。さぁ、フラン。夜の貴族の誇りに咲く銀の薔薇と、何を組み合わせる?」
アルテミシアの問いに、フランは典雅な笑みと共に答えを返す。
「それでは、アエマさん。先程、貴女が使っていた風を、少しだけ呼んで戴けませんか?」
「ん? そりゃ、いいけどさ」
アエマが、病を孕む黒風を、掌中に集める。
「虚構の毒に相克する病、『黒沙百合』」
フランの手が、疫風の中より、繻子黒(サテン・ブラック)に染まる百合を摘み取った。
「はー、魔術そのものからも花が摘めるんだ。それ、つまりは他人の魔力を、自分の魔術の素材として利用出来るって事か。すっげー。てか、何でも有りじゃね、それ?」
呆気に取られた様に、アエマが云う。
「だから、怖いのですわよ。普通の魔法薬と違って、元となる素材が魔女にしか扱えないのですから。通常の知識が、まるで薬に立たないのです。おまけに、どの様な効果の魔術が調合されるか、実際に使われて見るまで、こちらには読めないのですから」
「ま、難易度は恐ろしく高い系統じゃがな。組み合わせを一つ間違えれば、代償は己へと跳ね返る。危険の度合いで云えば、他の魔術系統の比では無い。下位の魔女ならば、戦闘の緊張の中では、繊細な集中が必要となる調合が行えない等は、ざらに聞く話じゃ。また、事前に準備していたものを用いるならともかく、いちいちその場で調合しておっては、実際に術を行使するまでに時間が掛かる。おまけに、産み出される殆どの魔術は、使い捨ての代物じゃ。その意味では、魔女術のイメージは、花火に近いかも知れぬ」
「あー、なんか判り易い、その説明」
得心が云ったと、頷くアエマ。
フランが、銀の薔薇と、黒百合を手に、魔術調合の仕上げへと取り掛かる。
フランは、己の左手を口元にまで持ち上げると、人差し指の先端を“かり”と、歯で破る。
指先に滲む紅い血は、雫なって伝い堕ちた。
フランは、紅く糸を引く血から、最後の素材を摘み取る。
「我が血に集い結実する、『恋獄血華晶』」
紅血色(ブラッド・クリムゾン)の、硬質な輝きの花弁を幾重にも重ねた、結晶の華。
フランが、厳かな声で、己の魔術の完成を宣言する。
「信無き偽りを焼く熱病――『レヴィ・パンドーラの紅砂』」
銀と黒の交じりを、紅が束ね、三つの華はフランの掌中を離れて、忽ちの内に、紅く細かな砂の細粒が満ちる瓶となった。
瓶は、空中で澄んだ音を立てて砕け、封入された細砂を、周囲へと散布する。
紅い砂は、粉雪の様に、幻影に満ちる通りへと降り注いだ。
細粒が、男の産み出した幻に触れると、“ごう”と激しい燃焼を引き起こし、幻影を炎に飲み込みながら、さほどの時間を置かずに消え失せる。
一つ、また一つと、新たに灯る炎は、一切の熱を生じさせずに、男の魔術が魅せる幻だけを焼き尽くしていく。
その後には、幻に隠れて、倒れた一味を救出しようとしていた男の、どこか間の抜けた姿が暴き出された。
男は、驚愕の表情でフランを見つめる。
フランは静かに微笑みながら、男へと告げた。
「貴男の幻は、焼き尽くされました。降参して戴けませんか? 僕としても、ラッティちゃんのファンと、これ以上争いたくは在りません」
最終更新:2011年07月06日 08:57