扉は無造作に開かれた。だが無遠慮と言うわけでもないだろう。確認の声はあったし、何より声の主はこの家の主人なのだから。
部屋に入ってきたのは、薄紅がかりの金糸に蜂蜜の瞳をした瀟洒な身形の青年──ヴェイだ。今日の服装は先日の生きた影を織り上げたような三つ揃えではなく、白いリネンの長袖シャツとベージュの上着、ズボンというラフなもの。その為かヴェイ本人からは以前に感じた寒気と違和感はもう感じられない。代わりに護衛なのだろう、ブルネットの髪をした青年がひとり、影法師のように静かにヴェイに付き従っている。
ヴェイと同い年か少し下──二十を少し超えた程度に見えた。夜の影のような濃紺がかった黒髪に清潔なミルク色の肌。此方にはさして興味のない様子で伏せられた瞳は重めの睫毛に縁取られる紫水硝子。人の顔の美醜はさして気にならない性質の俺の目にも、際立った容貌の持ち主であると感じられた。
つくりものめいた清楚な面立ちと真っ直ぐな姿勢、隙のない身のこなし。衣類は黒羅紗で誂えたシンプルなものだが、端正な器量が相俟って華の代わりに品がある。奔放で軽快な印象のヴェイと並ぶとブルネットの彼の方が貴公子然としても見えたが、一歩分引いた立ち居地と周囲に巡らせる自然な警戒がそれだけで印象を終わらせない。この青年は獣なのだと直感的に思った。外形は大人しげですらあるのに注視すれば威圧感と身震いが付き纏う。おそらくはあの──影の獣。ヴェイが親しげに相棒と呼んだ、リオンという生き物が黒髪の青年の正身だろう。紹介されたわけではないが何となしに肌で感じる。そうではないか、と。
力のある人外がひとのかたちを取るのはさして珍しい事例ではない。服のかたちを取るよりは余程ありふれた話だと思う。
何にしろヴェイと彼に挨拶するのが優先だろうと思考を早々に切り上げ、私はぺこりと会釈して見せた。ヴェイはひらひらと片手を揺らして挨拶代わりとしてくる。青年のほうはヴェイの仕草をちらりと眺め見た後に静かな目礼で返してきた。後は特に何か口を挟むでもなく佇んで、遣り取りを見ている様子であった。それが常態なのか寡黙な護衛の方を見て少し笑った後、ヴェイはすぐに私たちの方に視線を向ける。そして、軽い調子で口を開いた。
「病人の寝てる部屋が随分にぎやかじゃねぇのって思ってたケド。やっぱお前が起きたからだったのな。──おはようさん、フィロ」
「おはよう、ヴェイ。別に邪魔と言うことはないぞ。確かに話しこんではいたが、丁度今貴方の話が出たところだったよ」
「そっか? 若い女の子に熱ーく抱きしめられちゃったりしてるからよう。イイ雰囲気だったんじゃねえの?」
にししと実に楽しそうに笑ってヴェイは軽く肩を竦めて見せる。
冗談混じりに言われて、そういえばミステルに抱きつかれたままだったと思い至った。
イイ雰囲気、などと言われるとは思わなかった。ミステルは俺に取っては妹のようなものなのだが、他から見ると男女の仲のように見えたりするのだろうか?
「いや、それはミステルに失礼ではないだろうか?」
言葉をヴェイに投げつつ、ミステルへと視線を落とすと慌しく離れていく。それからぷうと頬を膨らませてミステルはヴェイを睨み抗議した。
「もう! ヴェイってばからかわないで欲しいのよ。若さまとミステルはそういうんじゃないのよ!」
「わかってるって。ちょこっとひやかしただけだろ。あんまり怒るとかわいい顔が台無しだぜ、レディ?」
「そーいうのが、からかってるって言うのよ!」
猫のような身のこなしでするりと近づいてきたヴェイが、ぽんぽんと子供にするみたいにミステルの頭を軽く撫でて宥める。ミステルは少し顔を赤くしたかと思うと、勢いよくかぶりを振った。
一週間の滞在の間にミステルとヴェイは随分と親密になっているようだ。ミステルの態度のくだけ具合は、地下の仲の良い面々といる時に近い。
とはいえ、そろそろ助け舟を出すべきか。ヴェイは先祖のロゼと少しばかり近いところがあるように見える。仲の良い子、気に入った子は構い倒す、そんな気質の持ち主なら、放っておくともう暫くミステルを弄り回しそうだった。
私は口を開きかけ──たが結局何か言う前に閉じた。私が口出しするより早くにヴェイは再度ミステルに伸ばそうとした手を引っ込めていたからだ。見れば、ヴェイの服の袖を、ブルネットの髪の青年が引き留めている。言葉はなかったが、物言いたげにバイオレットの視線が蜜月の顔役に注がれていた。
「……悪い悪い。そうだな、リオン。部屋に来た本題、忘れちゃいけねえよな?」
ヴェイが振り返って青年を呼ぶのに使った名前は、やはりあの獣のものだった。言葉なしに意思の遣り取りをしているらしい様子も同じ。同一人物で間違いないようだ。
暫くヴェイは彼の方を見て、俺たちには聞き取れない遣り取りをしていたようだが、最後にウインクひとつをしてから、俺たちのほうに向き直った。小さく咳払いをひとつ。また口を開く。
「コホン。脱線しちまいそうになったけど、改めて。目覚めてくれて安心した。いきなりぶっ倒れたからビックリしたぜ。お前んトコの剣たちは地上の医者に見せても無駄だって言うしよう。だからって放置もできねえし。とりあ
えず家に運んで……さあどうするって所でミステルが来てくれたわけよ」
「ふふーん、地上のお医者様じゃ若さまの手当ては難しいのよ。事情がわかってないと駄目だもの。王さまから預かったものでさささーってミステルがお薬作ったのよ。リリアさまに色々習っておいてよかったのよ!」
ミステルが再度胸を張る。薬草や霊材の扱いに長ける魔女らしく、ミステルもまた薬師としての腕前はいっぱしのものだ。リリアローゼを師事していることもあり、本職の医師ほどとはいかねども、医療や看護に関しては素人よりずっと信頼が置ける。ミステルがいなければ俺はもう少し長く此処で眠る破目に陥っていたかもしれない。
「なんというか、俺は重ね重ねミステルには足を向けて寝れんな。ヴェイにもだが」
「俺は別に当然のことしたまでだし、気にしなくて良いけど。ともだちは冗談抜きにしても大事にしてやれよ。……フィロ、お前は自分で思ってるよりずっと回りに大事に思われてる。倒れたとき、駆けつけてくれる誰かがいるって、幸せなことだぜ? ……世の中には、そういう繋がりを得たくたって得られない奴もいるんだからな」
金色の双眸に真面目な光を点してヴェイは言った。一瞬だけ彼は俺の耳元に唇を寄せた。
「お前は十分許されてるよ」──ミステルには聞こえないように囁かれた内容は、Bar"髪長姫(ラプンツェル)"でヴェイと二人で交わした話を踏まえてのものだった。
俺の弱さ。何時だって何処かで抱いている不安。それは易々と消せるものではないけれど──こうして俺を案じてやってきてくれたミステル。心配してくれた父さまの思いを目の当たりにしてなお、ヴェイの言葉に否定を返すことは出来ようはずがなかった。
大事であれぱあるほどに失うことに、離れることに怯える。不安はきっと、消えない。それでも、信じたい──信じたいのだ。本当は。誰よりも何よりも、大切な人たちのことを。
俺はヴェイへと頷いて返す。与えられる幸福を、無碍にしてはならない。感謝したい。心の澱は底にあれども、未だいているこの気持ちは本当だ。
「……俺は果報者だな。ミステルに──みんなに、感謝している」
誠心誠意まごころを込めてそう口にした。言葉だけで全てが伝わるとも片付くとも思わぬけれど。こうして思っていることは言わなければ伝わらない。
「いいのよ、若さま。もういっぱいありがとうって言って貰ったのよ。若さまが元気になって笑ってくれると、ミステル嬉しいのよ。心配してた"黒帳"や"六道薙"もきっとそうなのよ」
ミステルはゆるゆると首を横に振った後、壁際の剣たちを振り返り見て言った。その言葉に同意するように"黒帳"たちが頷く。
《そそ。坊が気にしすぎる方が困るってものでさ。何時も通りにして下せえよ》
《ミステル嬢やヴェイバロート殿への感謝は大事なことですが、我らに限ってはお構いなく。主を案ずるは剣にとって当たり前のことです、我が主》
「全部当然って思ってんのも腹立つけど、殊勝がすぎんのも考え物だぜ。程ほどで良いんだよ。俺の半分くらいにでも気楽にな」
皆の言葉があんまり優しいから困ってしまう。ああ、俺はやはり甘やかされていると、思う。
でもそれにまたありがとうと言ったりしたらきっと限がないから、俺は少しだけ目元を擦った後なんでもないかのよう、話を続けることにした。
「そうする。ええと……色々と見苦しい所を見せてしまった。話を返るが、俺が倒れた事情については……どの辺りまで話を聞いている?」
「詳しいことはお前が目覚めてから聞いてくれって言われてるから全然聞いてねえ。とりあえずヤバイ病気とかじゃあねえんだろ?」
「ああ。見られてしまった以上は素直に白状しておくが、アレは、俺の弱みで……なんというか、一月か二月に一度くらいああなる。父さまの、古竜の眼の副作用とでも言えばいいだろうか。力を使いすぎると、竜の部分が強くなりすぎて蝕まれるのだ。暫く休めば落ち着くし、大体は前兆があるので此処まで酷いことにはならないのだが。少々間が悪かった……申し訳ない」
「俺に言っちまっていいのか? なんて、意地悪言って試すのは止めとく。迷惑かけられたとかは思ってねえし吹聴もしねえよ」
「そう言われると助かる。……いや、そもそもヴェイは言っていいことと悪いことの区別はついていると思っているが」
「信頼して貰えるならありがたいこった。ま、一通り片がついてからの体調不良で良かったわ。もう完全に治ってんのか?」
口角を上げて軽い笑みを刻んだあと、僅かに首を傾げたヴェイの視線は俺の顔の左側に注がれている。
全快とは言えなかったが、それでも身体を動かせる程度に回復しているのは確かであったので、俺は素直に現状を説明して返した。
「ミステルの薬のおかげで、痛みはもう殆ど引いている。本調子とは行かないが、日常生活を送るのに支障はあるまい。長いことすまなかったな。直に出て行く。私だけでなくミステルも魔剣たちもすっかり世話になってしまったそうで……本当に助かった。ありがとう」
ぺこりと頭を下げて後、視線を部屋内に巡らせる。着替えや荷物がどうなっているかは、"黒帳"たちに聞けば把握できるだろう。気懸かりと言えば宿泊予定だった宿の方がどうなっているかという所か。
何も言わずにこちらに来てしまった形だ。と言うことは契約不履行やらで迷惑をかけてはいないだろうか。気になる。
そんなことを考えながら立ち上がろうとしたらヴェイに押し留められた。
「待った。流石に起きたら速攻出てけとか言わねえし。うちに運んだ後に、元々お前がとってた宿の方は解約しちまってるし……もう少しゆっくりしてけよ。元々会談の後は此処に案内するつもりだったんだ。休暇中宿を転々とすんのも落ちつかねえだろ? このまま俺ん家使えば滞在費の節約にもなるんじゃね?」
驚いてぱちりと片目を瞬いた俺に、ヴェイが口にしたのは俺の心配を払拭する情報であり、申し訳なくなるくらいに好都合の提案だった。
「それはありがたい話だが、しかしそう何時までもお世話になるわけには……」
「病み上がりが遠慮するなっての。一週間も一ヶ月もかわらねえよ。部屋は余ってるし。元々この屋敷は先々代からの持ち物でよ。だだっ広いのに使わねえのも勿体無いし荒れるから、親父の代からは信用できる身内向けに宿泊先として開いてんのさ。下宿代わりにしてる奴もいるし、ちょくちょく足を運んでくれる常連さんもいるんだぜ」
確かにこの客室は、下手な宿の部屋より余程綺麗に整えられて寛げそうな場所だが、だからこそこのまま好意に甘えていいのだろうかと悩んでしまう。
言葉を捜して沈黙した俺に、次に声をかけてきたのは"六道薙"とミステルだった。
《坊、お言葉に甘えてもいいんじゃねえですかい? 蜜月の顔役殿のところなら慣れねえ宿暮らしより安心でさあ》
「ミステルもヴェイが良いって言ってるなら、若さまこのままお泊りさせてもらえればいいと思うのよ。ヴェイお料理上手なのよ? お仕事忙しくない時はみんなにご飯作ってくれるのよ」
……ミステルは餌付けされているのだろうか? そこそこ味に五月蝿いミステルが上手だと太鼓判を押すのだ。ヴェイの料理の腕前、少し気になるな。
「援護射撃ありがとよ、お二人さん。もちろん、無理にとは言わねえけど……正直なところ言わせてもらうと、また連中の襲撃があるかもしれねえし、眼の届く所に出来ればいて欲しいわけよ。だから、別に宿取るとしても"蜜月(ハニームーン)通り"内で頼むわ。万一があったら下に顔向けできねえもん」
ふたりの言葉を受けてそちらに軽く片目を瞑って見せた後、ヴェイはまた神妙な顔をした。「襲撃」という単語に自然と身が引き締まる。
思い出されたのは、倒れる前にヴェイを襲った黒衣の襲撃者たちのことだった。
「……やはり、あの黒服たちは件の?」
「ご明察。関係者だった。とはいえ、流石に本体に足がつくような情報は握ってなかったけどな。「沈黙の輪」の信者だってのはガチだ。ひとまず眼ェつけられてんのは俺だけだろうけど、どっからあの場に居合わせたとかそういう話が漏れるかわからない以上、暫くは様子見してぇのよ。……悪いな」
苦笑しながらヴェイが紡ぐ声は僅かに苦いものを含んでいる。私は少し考え最終的には首肯をした。
「……。……そういう事情ならば、暫く厄介になる」
《皇子、僭越ながら言わせて頂ければ、『特区』にお戻りになるという選択肢もあるかと思いますが?》
俺の回答を聞き、沈黙を守っていた"黒帳"が意見を口にした。黒騎士の姿を取る魔剣の言う案も一理ある。だが、俺はそれを却下した。
「襲撃を警戒して早々に引き上げた、となると余計な心配をかけてしまうやもしれぬ。それに、元々「沈黙の輪」絡みの件はヴェイに協力すると約束しているのだ。何かあった時、地上にいる方が即座に動けるだろう?」
《……本当に良いのですか?》
"黒帳"の言わんとしていることは何となくわかる。俺が地上で長期滞在を続ければ不安定になるのではないかと案じてくれているのだ。
危機があるという建前があれば、早々に帰還しても、休暇を作ってくれた父さまたちへの面目が立つ。
だが、それは甘えだ。俺を助ける為に、父さまの願いを聞く為に、地上への恐怖と身の危機を押して市街まで出てきてくれたミステルの勇気。強さ。
それを目の当たりにして、ミステルをただすごいと、羨ましいと済ませてしまうのでは余りにも繊弱に過ぎる。
「良い。気遣いは無用だ、"黒帳"。休暇が明けても、これからはもう少し頻繁に、上と下を行き来するようになりそうだしな」
「沈黙の輪」や「闇色の王」の動きについて知ろうとしたり、気をつけるつもりならば、『特区』に篭りきりとはいかない。
大事な場所を守る為にも、俺はもう少し地上とその情報に明るくなっておく必要がある。
俺だって大切な人たちの為に、もう少し頑張れるはずだ。怖くない。大丈夫。
地上で暫く過ごしても、頻繁に出入りしても。父さまやロゼや『特区』の皆との繋がりが直ぐに断ち切られるわけじゃない。
誰かが何か言っても俺の家は、居場所は『特区』なのだから。──そう、心の中、己に言い聞かせる。
「ありがとさん。うちを拠点にしてくれるのが一番警戒しやすいし、守りやすいし、助かるぜ。……ああ、ついでだ。これからも地上に来る時は言ってくれりゃ俺ん家使ってくれていいからよ」
俺の内心の決意を察したかのように、ヴェイは柔らかい表情になってぽんぽんと頭を撫でて来る。
微笑ましいような安堵したような表情が何時もより狭い視界に入ってきて、気恥ずかしくなりついつい頭を横に振った。
先刻のミステルと似たような反応になってしまって益々恥ずかしい。少し視線が下がる。
「ちゃんと滞在費は払う。父上からそれなりの金銭は預かっているのだ。甘え過ぎる訳にはいかぬ」
「貸しは作らせてもらうに越したことないんだけどな。ま、そのほうが気持ちが楽なら貰っとくけど……相場よりお安くしとくぜ。──で、だ。落ち着いたところで一個質問。今夜は何が食いたいよ?」
立てた指を軽く突きつけてヴェイが尋ねてきた。一転して明るい声音だ。小難しい、面倒くさい話は此処までと区切るように。
それを横で聞いていたミステルが「はいはーい」と挙手して自己主張する。
「ミステルもリクエストしたいのよ。いい?」
「オッケーオッケー。今日の晩御飯はフィロが目覚めた記念だ。豪勢に行くからよ。みんなの意見もらう方がいい。ミステルも好きなもんドウゾ?」
ヴェイが意見を受け入れる様子を見せると、ミステルは嬉しそうに表情をほころばせた。余程ヴェイの料理を気に入っているらしい。
「じゃあミステルは煮込んだハンバーグがいいのよ。目玉焼き載せた奴は若さまもすきなのよ!」
「み、ミステル! ……まあ、否定はしないが」
子供じみた料理の好みを暴露されてしまうと少し頬に朱が上るが、さりとて此処で変に否定しすぎるのも大人気ない。結局肯定する形になる。
「なら目玉焼き載せのハンバーグは決定だな。ほら、フィロも気軽に言っとけって。何が食べたい?」
「…………なら、氷菓が、食べたい。"髪長姫"の、夏蜜柑を使った奴……食べ損ねてしまったから」
重ねて問われれば、意地を張って隠すことでもなかったので──素直に食べたかったものを口にした。
良いだろうかとヴェイを窺い見ると、意外なところが来たと言いたげな楽しそうな蜜色と目が合った。
「さりげに楽しみにしてたのネ。なら、店舗の方から取り寄せるかな。あとは──リオンはシチューが良いだろ? "黒帳"と"六道薙"はなんかあるか?」
相変わらず寡黙に控える黒髪の青年に確認を取った後、ヴェイは魔剣たちにも自然に尋ねている。この分だと一週間の間に、ミステルだけでなく"六道薙"たちも随分とご馳走になったに違いない。
剣たちは別段、普段は何かものを口にする必要はないのだが、精霊体を具現している間は食事を取ることが可能だ。味覚も擬似的に備わるので、美味い不味いを感じられるし、食の好みもある。
"六道薙"は見た目に違わず辛党で、"黒帳"は薄味でさっぱりしたものを好んでいる。食べたものは純粋な力に変換され彼らの糧になるので、全くの娯楽と言う訳でもない。
《某は食後に一杯、きゅーっと果実酒のひとつも相伴に預かれれば満足でさ。あんまり辛いモン頼むと坊や嬢が食べれなくなっちまう》
《我の好みと言うか、皇子は起き抜けゆえ、胃に優しい粥辺りを所望したいのだが……》
「酒は了解。なんかいい奴空ける。腹に優しいモンは昼飯で受け付けるわ。フィロ、そもそも今空腹じゃね? 思いっきり話しこんだけど、ずっと寝っぱなしだったし、なんか腹に入れないとそろそろ辛いだろ?」
話題がこちらに帰ってきて、そういえば腹が空いていると意識する。
今まで状況把握に忙しかったが、一度空腹を自覚してしまうと途端に腹の辺りが疼くのだから人間の身体という奴は本当に単純に出来ている。
「そうだな。申し訳ないが、何か頂けないだろうか……?」
皆のいる前で腹の虫が鳴くという自体は避けたかったから、大人しく空腹を訴えた。
「任せとけって。本番は夕食だけど、昼飯もご馳走しちゃる」
するとヴェイは俺の手を取って、自然に引く。促されて立ち上がり、俺の動きを見てから歩き出したヴェイにそのまま続いた。
影のように寄り添うブルネットの髪の青年──リオンもヴェイに合わせて動く。
「じゃあ、食堂に行こうぜ? リストランテ・ベイル開店な。ミステルたちも昼まだなら来いよ。まとめて作る方が楽だからさ」
冗談めかして笑った後、ヴェイは入り口のところで振り返って一度手招き。
「安心したらおなか空いたのよ。ミステルもごはん!」
《折角だから頂きやすかね。テーブルに着く人数は多いほうが美味いってもんでさ》
《……あまり食い意地を張るものでないぞ、"六道薙"。皇子に恥をかかせぬように》
メヘーと、それまで静かに丸くなっていたドリィも立ち上がってミステルについていく。
なんだかんだで全員一緒に来るらしい。賑やかな昼食になりそうだ。
こんなに大勢で食事をとるのは随分と久しぶりな気がする。楽しみだ。心が躍る。
そうだ。無駄に不安に思うことなんてない。地上だって悪くはない。
此方で暫く過ごすのだときちんと決めた、先ほどの決意を思い返す。
大丈夫だ。此方でも俺はひとりじゃないのだから。
何処にいたって、本当に大事なものは見失わないのだから。
歩くような速さで少しずつ前へと進んでいこう。
どんなに焦っても、羨んでも、一足飛びに遥かな何処かにたどり着くことは出来ない。自分のちからで一歩ずつ目指していくしかないのだ。
こうして、俺の地上滞在は──もう一週間を寝て過ごしてしまったけれど──、幕を開けたのだった。
最終更新:2011年07月06日 23:08