虹の塔の門。名も知れぬ巨大な怪物の一本の骨から削り出したという塔の正門。その門に向い塔の中から出てくる背の高い男。両側を警備担当の赤ローブ達に囲まれて、それでも広い肩をそびやかして大股に歩いて門をくぐる。
胸を張って塔の前に広がる庭園に出た時、男はふと足を止める。赤ローブ達が男を恐れるように数歩の距離を置いて囲むのも見えていないように、男は振り返って塔を見上げた。
「三十年、か」
言いながら目を細める。塔の導師、“親和の導師”
カーロウ・ラザロ。正確にはたった今塔を追放される元導師。
七歳の時から過ごした塔だ。噴水のように虹を吹きあげる磨き上げたような白亜。遠く西方のザインダリアや北方の鋼鉄雪原の部族までも音に聞こえた“虹星の叡智”の威容。美しいと言えばこの上もなく美しいが、もとよりもうとうに意識もしなくなったほどに見慣れた光景。
アルコイリスの中央で差し込む陽光を移し中央で周囲を睥睨している塔。この塔の住人であることは文字通り「街の中枢」にあることを意味する。
追われてみて初めて身にしみる。俺はもう選ばれた一員ではないのだ、と。
「ミスタ・ラザロ。あなたはもう入塔資格“客人”です。委員会は速やかな退去を求めています。導師を務めたあなたのような方に申し上げるのは心苦しいのですが、もし意図的な遅延、不退去があるならば―――」
「黙れ。金属噴流の初歩の初歩もろくに出来なかった劣等(二―チー)が、俺を焼くとでも言うのか」
あくまでも傲慢に、差し出口をきいた赤ローブを見下ろす。
「………規則がそれを求めれば。今のあなたにはその初歩の初歩でさえ防げず骨まで焦がされるでしょう。もちろん、そんなことはしたいとは思いませんが」
あくまでもかしこまった風に、しかし断固として宣告する元教え子の赤ローブ。
「ふん。生意気に衛人じみた口を利く」
しばしの睨み合いの末、先に目をそらしたのはラザロの方だった。屈辱に口の端を震わせながら塔に背を向ける。
昨日までならこんな無礼を許しはしなかった。牛蛙にでも変えてさんざんに己の才の卑小さを覚えさせてやったものを。自分の指の数を忘れても“親和の”カーロウ・ラザロに逆らってはなないことだけは忘れぬように、脳髄に彫り込んでやったものを――
カーロウ・ラザロは傲慢な男だった。不満を黙らせるだけの実力があったので改めようとも思わなかった。
幼い頃に塔の幼年部で生活を始めたいわゆる“生え抜き”の一員で、塔の中でこんな口を聞かれる日が来るとは思ってもいなかった。
「洞察の酒」。導師級の魔術士が追放される時に、その魔力を焼きつくす塔の最高制裁の霊薬。査問委員会が行われたのは昨日のこと。禁呪を犯したとの言いがかりをつけられ、弁明も虚しく死よりもおぞましい無能の毒を飲まされた。
頭蓋骨の裏を蟲が這いまわるような魔力喪失の感覚を思い出し血を流しながらラザロは唇を噛む。おそらく俺は生涯、毎日毎時この感覚を覚えるだろう。全てを捧げてきた、自身そのものだった魔力を失った感覚を。
ラザロは今でも信じられぬ。こじんまりとした塔の庭を見回す。魔力喪失を嘘だと言ってくれる何かを探したが、良く剪定された木々も実は警備兵器の彫像も現実を否定する役には立たなかった。
箒に乗った生徒たちが外壁を掃除している。よたよたと情けない不安定な飛び方を鼻で笑ってから、ラザロはふともう俺はあの程度の初歩の魔術も使えないのだと思いいたる。
俺はもう価値のない人間なのだ。魔法に関しては初等部のガキよりも無能な木偶、塔を追われ身を寄せる一室の部屋とてない。
「ミスタ・ラザロ。そろそろ本当に」
「わかっている。何度も言うな」
昨日まではラザロ師と呼ばれていた。ミスタ・ラザロ、その名から逃げるように三十年前初めてくぐった骨の門をラザロは大股にくぐる。一度だけ門がラザロの顔に影を通過させた。街の大道りのざわめきが嘲笑するようにラザロを包む。
「ミスタ・ラザロ。これまでお勤め御苦労さまでした。あなたのこれからの人生に幸多からんことを」
赤ローブが頭を下げる。そらぞらしい、事務的な口調。元教え子と言ってもラザロにとってはろくに教えた覚えもない。研究の前では凡才どもに教育を施すなど瑣末事と思っていた。名前さえ覚えていない。
ゆっくりと門が閉まり、ラザロが生きていた塔からラザロを締め出す。細くなっていく魔術の世界を未練げに振り向いたラザロに、薄く笑っている赤ローブの口元が見えた。
屈辱。嫌悪。失望。何よりも怒り。大の大人の目に涙さえ浮かぶ。当然だ。全てが向こうにあるのに、今はもう手が届かない。
「…………ファ○ク!!!」
塔を追われた導師が最後に吐き捨てたのは、愚にもつかない卑語だった。
最終更新:2011年07月07日 23:26