魔術師の血とはすなわち魂の記憶。霊体の端。この上ない契約材料だ。
そんなものを得体の知れない紋章に捧げた形になる。しかも何かが封印されてるっぽいことが書かれてあったような……。
自分の不注意を呪わずにいられなかった。しかしいくら悔やんでも紋章の放つ光は消えず、強くなるばかり。
ガゴゴッッ
岩が砕けるような音が響き、ひときわ強くなった光に視界を奪われた。
『なにか』が蓋の砕けた箱から溢れ出る感覚。立ち上り砕けたガラスから外へ逃れるそれを一つ二つ、と唖然として見上げる。
途端、ざんと右腕に走る衝撃。
「……っ!!」
血が滲んだ指の、その二の腕までの感覚がごっそりと『消えた』。
そしてユイの右腕は立ち上る『なにか』の一つに絡め取られ巻き上げられ、そして感覚がなくなった。そう感じた。
七つの『なにか』が棺から溢れて逃げるのを声も出さずに見ていた。
「そん……な……バカな、ことが」
ユイは左手で『右腕』をかきむしった。
ちぎれて虚空へ消えた感覚を最後に右腕を感じることはできないが、物質としての右腕は何も変わらずユイの右肩から繋がっている。
涙の滲む薄氷色の瞳が青い光を帯びた。五段階の検視(サーチ)を施した目で自分の霊体を眺める。
それは右の二の腕で途切れていた。感覚の通りに、あの『なにか』が引きちぎって行ってしまったのだ。
霊体と身体はその両方があって始めて人としての活動が可能になる。
霊体が欠けた状態では、自身の「動かそう」という意思を体に伝えることが出来ない。
動かぬ右手を悲痛な表情で見つめた。ユイにとっての一番の問題は「動かないこと」ではない。それよりも重大な問題は「刻印」だった。
精霊との契約刻印は身体と共に霊体にも刻まれる。行使の時に刻印に霊力を注ぎ入れるのは霊体による干渉だ。
つまり霊体が失われると刻印による詠唱の短縮が出来ないのだ。
契約自体は刻印が失われても解除されることは無いが、刻印を刻んだ苦労を思うと到底諦められるものではなかった。
霊体は普通魂から離れると霧散してしまう。しかしユイの右腕の霊体には多くの契約刻印が刻まれている。契約刻印はユイの魂と精霊とを繋ぐ契約を記したものだ。
ちぎれた霊体は刻まれた刻印によって『ユイの右腕』としての情報を持ち、ユイの魂が精霊との契約を解かぬ限りほどけて消えることはない。
右腕の霊体をもぎ去ったのが何であれ、吸収されたり、破壊されることはないはずだ。あの腕に記された契約精霊の全てを凌ぐ力を持つものでもない限りは。
「探さ……ないと」
ゆらり、と幽鬼のような足取りで立ち上がり、ユイは滲んだ涙を左腕でごしごしと拭った。
まずは右腕の霊体を持ち去ったのが何なのかを知らなければ。ユイは蓋の残骸を避け、『なにか』の飛び出してきた石の棺を覗き込んだ。
そして首をかしげた。
「……?」
箱の中に何があると思っていたわけではなかった。
中にあったらしい『なにか』は勢いよく外へ逃れていったから、『なにか』が残っているとは思わなかったのだ。
精々手がかりになるような残骸でもないかと覗き込んだ。
中にあったのは……真っ黒いなにか。飛んでいった『なにか』は精霊のように実体のない霊体だけの存在に感じられたが、これは違う。
それをそのまま言葉にするならば、ふわふわとした短い毛に包まれた手乗りサイズの小動物だ。
ぴょこりと長い耳が揺れる。つぶらな黒い瞳がユイを見た。
「おいお前」
脳に響く声がした。精霊のもののような、空気を介さず直接意識に響く青年ほどの印象の男声。
ユイはどこから声がしたのか、周りを少し見やった。……この黒い生物の口元がもにもに動いた気がするのを認めたくなかっただけかもしれない。
「探してんじゃねーよ。目の前だ目の前!」
さっきの男の声はやっぱりこのカワイイ生物から聞こえてくる。酷いギャップだ。裏切りだ。ユイはがくりと項垂れた。
真っ黒い子兎はラブリーなお手手をひょこっひょこっとユイに向けて振りかざす。
「……あなたは、何ですか?」
ユイは観念して声をかけた。黒いそれはぎりっと眉根を寄せる―その生物に眉などなかったが、そうとしか表現できない―と、声を荒げた。
「そんなことも分からずに封印解きやがったのか?!どうりで『色』を逃しちまうはずだ……」
ため息混じりにぼやいて肩をすくめる―肩など以下略―子兔。
ユイは何を言われているのかわからなかったが、その言葉の端に聞き逃せぬものを捉える。
「『色』?あの逃げていったあれは何ですか!?私の腕はどこに……!」
「腕ぇ?ああ、お前の右腕の中身が見当たらねーな。掠め取られたのか?ま、自業自得か」
声が笑った。嘲るのではなく、都合が良いと言うように。
「お前が封印を解いたんだろう?『色』を探すのを手伝ってもらうぞ」
途端にユイの背筋が寒くなった。鳥肌が立つ。
怖気が走る程の威圧感に息を呑む。それを発しているのは真っ黒い子兎だ。高位精霊もかくやあらん、という存在感を突然顕わにした子兔が目を細める。
「……っ」
ユイは、
その威圧感と肌にぷつぷつと立った鳥肌を無視した。
ガッと子兎の耳を掴んで棺から持ち上げ、怒気を顔面いっぱいに滲ませて叫んだ。
「だからテメェは何だあれは何だって聞いてんだろうが!こっちが我慢してそのバカみてーなギャップに目ェつむって話しかけてやってるってのにベラベラベラベラ一人でしゃべくりやがってよォ?舐めてんのかぶっこ抜くぞ!」
「いたっいたたっっ!?は、離せ!」
「離せじゃねーよ話せっつってんだろ!?長い耳は節穴か?ならいらねーよなぁ!?」
人―?―のことは言えないような内容の罵りをぶつけながらふわふわしたやわらかな耳を握る左手にぎりぎり力を込めると、子兎はさっきから発していた威圧感をたちまちひっこめる。
「分かった話す!話すから――」
話すから離せ、という声をバサリという翼が風を切る音が遮った。
上空から迫る鋭い何かを、ユイはかろうじて避けた。避けたというより倒れこんだと言ったほうが正しいだろう。
石造りの床に強かに打ち付けた膝を顧みず立ち上がり、さっきまで立っていた場所を見る。
禍々しい紅色をした大きな鳥型の魔物、その鋭い嘴が石の棺に阻まれている。がり、と棺に傷を作り魔物がこちらを向いた。殺意の迸る眼がぎょろりとユイを捉える。
石の棺の上にあった枝や木の葉の山を思い出す。あれが寝床だったのなら、ユイに怒りを向けて当然だった。
警戒魔術のあったここを寝床にしていたとなると、抗魔力は凄まじいものであろうと分かる。魔術師のユイには荷が重すぎる相手だ。
逃げなければ。
じりじりと後ずさり、出口へ近づく。魔鳥は逃さぬとばかりに飛び上がりユイを捉えようと降下した。
「くっ」
避けた、と思った。しかし動かせない右手は身体の勢いのままに浮き上がり、魔鳥の嘴を受けた。赤い血が飛ぶ。
痛みはないが傷を作るのは困る。右腕を左手で抑えようとして、左手に持ったままだったものに気づいた。
ユイは舌打ちして黒兎をぽいっと放り出した。
「おい!」
「今忙しいんです!」
ユイは再び飛び上がった魔鳥を見据えたまま後方へ跳んだ。背を向けて逃げ出すことはできない。背中から襲われたら一巻の終わりだからだ。
隙を窺うように旋回を始める魔鳥にきっかけを与えぬように、ゆっくりと足を動かす。出口まではまだ遠い。ユイは無駄に広い大広間と自身の身体能力の低さを呪う。
「このままだと殺されるぞ」
「分かってます」
「分かってねーな」
逃げの姿勢を責めるような男の声にユイは子兎を睨めつけた。声は嘲笑混じりに続く。
「魔法は効かないと思って諦めてんのか?刻印持ちが、『精霊魔法』の使い手が」
「……っ」
苛立ちが沸き上がる。だが、それに身を任せている余裕はなかった。
ぎりりと唇を噛んで知識を総動員させる。右腕の刻印は使えない。左手の刻印のひとつが白い光を放つ。
両腕の刻印は何か……それこそ先程のような事態になってもある程度対処ができるよう、属性や位階をばらけさせている。
しかし右腕が利き腕ということもあり、普段は無意識に右の刻印ばかり使っていたような気がする。それを失ったことで頭の回転が止まっていたようだ。
相手に魔法が効かないならば、自分に。そんな単純な考えにも至らずむざむざ死ぬところだった。"精霊魔法の俊英(ジーニアス)"が。
魔力を練ってぶつけるだけが『攻撃魔術』ではない。精霊魔法という魔術系統の特色は、使用できる魔術のバリエーション。
長きを生きる精霊の知識・技術をそっくり借り受けられるという強み。ユイはそのへんの魔術師よりも選択できる手段が遙かに多いのだ。
だから。
結果は変わらないかも知れないが、足掻いてみせる。
「虹霞、時の暁、煌く塵は輝く星に」
ユイの脚が白い光を纏った。身体が軽い。いつもの倍以上も速く動ける筈だ。
それでも足りない。あの魔鳥の紅い翼が風を切れば、たやすく追いつかれるだろう。
だが紙一重で避けるくらいしかできなかった先刻よりは選択肢は増える。ユイは床を蹴って駆けた。後ろに、ではない。
回りこむように前方へ。魔鳥との間に石の棺を挟んで自身に嘴が迫る前に詠唱を完遂できる距離を取る。
もう逃げるものか。後悔させてやる―瞳に闘志が燃えていた。
「天の指、縢る世界、凪夜憂く悪夢と踊れ!」
風が集う。ギリギリと細く固められていく。ユイの指から見えない風の糸が奔った。
ガゴンッッ!!
糸が絡め取ったのは石の棺。床に繋がる台座から無理矢理に剥がされた棺はユラユラ空中で漂う。
ユイは糸を手繰った。ホバリングしている魔鳥に勢いをつけた棺を叩きつける。
魔鳥は旋回しそれを容易く避けた。
「来やがれ!」
真っ正面から鋭い嘴が迫っている。
ゾクゾクと震える手足を奮い立たせるように糸を操り叫んだ。
魔鳥の嘴がユイの胸を抉る一瞬前、その紅の身体に四角い影がさす。
ドォン……!!
凄まじい音が響いた。ユイは元の位置と違わず、しかし逆さに落とした棺を、息を呑んで見つめた。
魔鳥は「石の中にいる」状態だ。棺に耳を寄せると中から微かにバサバサ、ガリガリと音がする。
棺は重い。細身の魔鳥に持ち上げることはできないだろう。
あの嘴で脱出できる穴を開けるにはかなりの時間がかかるはずだ。
長い息をつく。足がくずれ、ぺたんと床に座り込んだ。
「やった……」
勝利だ。かろうじてだったが。
一時の興奮が過ぎ去ったあと、残ったのは喪失感。魔鳥を無力化しようとも、右腕の霊体が帰ってくるわけではないのだ。
追わなければ。腕を奪い去った『なにか』を。そうと決まれば手がかりを逃す訳にはいかない―ユイは放り出した黒兎を探そうと顔を上げる。
「ふふん。ダメかと思ったが割とやる」
いた。探すまでもなかった。
ユイの目の前、どうやってよじ登ったのか石の棺の上にふんぞっている。
どこまでも上から目線の偉そうな物言いにユイのこよりなみの強度の堪忍袋の緒が再びぶっちぎれそうになったが、それでは話が進まない。
苦労して感情をコントロールし、とにかく情報を―と口を開きかけたユイに先んじてどこか嬉しそうな男声が響く。
「及第点だ。精々俺のために働け」
「……は?」
「契約だよ、ケ・イ・ヤ・ク!察し悪りぃな。そのつもりで封印解いたんだろ?」
察しが悪いのではない。反射的に理解を拒否したのである。ユイは疑問のみを込めて聞いた。
「なぜ私が変な兎と契約しなきゃならないんです?」
そこに苛立ちはない。いや、苛立ちをかなりの気力で無視している。ひとかけらでも怒気を認めてしまうと話が進まないからだ。
故に『変な兎』というのは嘲りや罵りなど含まぬ素直な感想である。
「ああ、俺は精霊みたいなもんだから問題ない」
「そういう意味じゃありません!」
確かに精霊使いが動物と契約してどうするんだというのももちろんだが(そしてそっちは問題ないらしいが)、そもそも契約というのは基本的に両者の利害が一致する場合に行うものだ。
精霊魔法の使い手と精霊の契約は、精霊に魔術を借りる代わりに様々な対価を支払う。大抵が人間の感情エネルギーや精気、魔法をぶっ放す事そのものが対価の場合もある。
魔術を借用する契約は精霊魔法にほぼ必須のものだが、その他に知識や情報など魔術以外を求める契約も存在する。
そうした利害の一致を契約という形にして持続性を持たせるのである。
そんなものをなぜこの兎とユイがしなければいけないのか?
全く事情が理解出来ないユイは、ぽーんと飛躍した話にこめかみを押さえる。青筋立ってない、立ってない……。
「腕を探すんだろう?『色』を勝手に追われても困るしな」
「そもそも『色』って何ですか。あの逃げていったやつですか?」
「そうだ。俺の分身というか、部品というか……そんなようなもんだ。暴走してるが」
兎発する男の声が忌々しげに吐き捨てる(どうもそのまま「兎の声」とは表現したくない)。
ユイは声を荒げた。
「暴走って……部品なら制御してくださいよ!今すぐ!」
「それができりゃー契約なんて持ち出してねえ!そもそも『色』を抑える結界も張らずに封印解きやがるからこういうことになったんだろうが!」
「事故だったんです!解こうと思った訳じゃ……ちょっと調べようとしただけで」
「…………は?」
ユイはばつが悪そうに目を逸らした。血の滲んだ動かない右の指先を左手できゅ、と握る。
兎はぽかんと口を開けた。響く男の声も間が抜けている。
「……まさかお前、俺が誰だか知らねーってことは」
「さっぱり」
ユイがきっぱり言うと、兎はがくーっと項垂れた。縦線と暗雲を背負っている。
「この……俺を……知らんとか……」
よほどの知名度なんだろうかとユイが不安になりだした頃、兎はむくりと起き上がってじっとりユイを睨んだ。
睨む姿も可愛らしいが、声がこれでは台無しである。
「封じられてまだ800年だぞ?!やっと俺をどうにかしようって魔術師が来たかと思ったら事故とか」
「そもそも封じられてる時点でろくなもんじゃないと思いますけど……とにかく、変な兎に心当たりなんてありません」
その言葉に兎ははっとしてぶんぶん首を振った。
「言っとくがこの姿は封印のせいだぞ!?まだ一個キツイのが掛かっててだな!『色』と分断されて制御が効かねーんだよ!」
「ふーん……」
確かめるために検視(サーチ)をかける。青い光を増した瞳で兎を見るが、ユイに検視(サーチ)できる段階では封印とやらの全貌は見えない。
しかし何かが抑えこまれている気配と、それでもなお溢れ出る魔力に息を飲んだ。
「五段階で見えないようなどぎつい封印でコレですか……」
「ふふん」
確かになにかヤバイものなのかもしれない……。危機感を感じ始めたユイだが、重要なのはそこではない。
逃げ去った『色』というものと、この兎の力は細かな違いはあれどたしかに同質のものだった。
つまりこの兎が言っていることは本当のことだということ。
野放しにしておくのも憚られる以上、契約で縛り付けておくのは確かにこちらにとっても都合がいいかもしれない。だが……
「あなたはどうして契約が必要なんですか」
「俺の力は『ヒト』を通した時が最も強くなる性質だ。相手が『ヒト』なら契約なんていらねーが、俺の『色』だからな……」
そうしないと暴走を収めることができないのだろう。今現在制御ができていないのがその証拠だ。
契約のために手札を見せてくれているのは認めよう。
ただ、その厄介ごとを「ユイが」負う必要はあるのか?師に押し付けたほうがいいんじゃ、と思いかけた時、兎は切り札を見せてきた。
「『色』が派手な活動を始めれば、俺はある程度位置を特定できる。腕を探すんだろ?」
「…… 分かりました」
そう言われては契約するより他ない。ユイはため息をひとつついて、厄介ごとを背負う決意をした。
そもそも自分のミスが発端だ。自分の失態は自分で払拭する。潔くそう決めた。
それを兎は満足気に眺めている。
ユイが立ち上がった。そして契約の第一段階として、名乗った。
「ユーイット・ヴェンツェルヴィ」
「エフィアルティス」
兎が告げたその名を聞いて、ユイの瞳が見開かれた―。
*
イベント盛りだくさんで新キャラ一話目です。
な、長!!なが!!!サークの平均の三倍くらい長いんじゃないか!?
初の分割ですよ!1万文字超えとかよくわからんわ―
ユイちゃんは設定はだいぶ温めてましたが、やっと話として出せて嬉しいです。書き始めて2週間半たったよ!
引越しとかがあったとはいえよく放り投げなかったものだ。まあまだ出てない設定とかあるのでまだ全然これからですけど。
というか兎が何なのか分かんねーよ!以下次号!って感じだよ!!
最終更新:2012年04月01日 14:11