淡い霧を纏う大きな湖の、透き通る翠色の水面にひらりと湖畔の大樹が葉を散らす。
ぼんやり曇る恒陽が真上から降り始める昼下がり、翡翠(ネフライト)通りの奥に在する湖に、ぱしゃん、ぱしゃんと水音を立てて水面を歩く黒い影があった。
影の名は、ユーイットという。この街での成人は14歳だが、ユーイット……ユイは成人を迎えたばかりの少女だ。
羽織る黒いマントの下、胸元に七芒星のエンブレムが覗く。"虹星の叡知(アルマゲスト)"魔術学院の学生である。
ユイが水溜りを踏むように歩く湖は、無論水溜りとは比べ物にならぬ程深い。ここに住む魚が毎日朝市に数多く並ぶのだ。
沈まぬままに歩むユイだが、踏んでいる水面を見れば彼女が木の葉のように軽い訳ではないことが解る。
ユイが足を着けた場所から、小さな水しぶきと共に光の波紋が広がっている。液体への魔術干渉、初歩にあたるものだがそれはれっきとした『魔法』だ。
ユーイット・ヴェンツェルヴィは"虹星の叡知""実践派"、バリバリの魔術師だった。
やがて辿り着いたのは、広い湖に浮かぶ小島。苔生した地面に足を踏み入れ、ユイは靴にかけた水渡りの魔術を解いた。
右手にびっしりと刻まれた契約刻印の中の、ぼんやりと薄青い光を放つ一つを白手袋を着けた左手で労わるように撫ぜると光は消え、刻印は他のものと同じくごく黒に近い赤色の模様に落ち着いた。
制服の胸ポケットから手袋の片方を取り出し素早く身に付ける。
ユイの魔術系統である精霊魔術にもいくつか流派のようなものがあるが、ユイのとる形式では契約刻印をその身に刻むことで詠唱を簡略化させる。故に行使には精霊に刻印を示す必要があった。
いちいち隠していては面倒だが、しかし刻印は精霊によって異なり、つまり刻印を晒すと見るものが見れば手の内が知れてしまうこともある。
今ここに誰がいるでもないが、魔術を使わない時は刻印を隠す事はもうほぼユイの癖となっていた。
小島には湖畔から望めるとおりに、古い城が建っている。古びながらもその造形は美しかった。
白っぽい石造りで、繋がった屋根の形が上下し、小さな城ながらあたかも多数の棟があるように見せている。
ユイはその佇まいに圧倒されていた。年月を経た建造物の異界然とした荘厳な空気に気圧され、吸い込まれるように歩を進める。
だからだろう、門の端に落ちている禁域の吊り札の残骸に気がつかなかったのは。
門を遮るようにぶら下がっていたであろうそれは、引き千切られたように打ち捨てられていた。
開きっ放しで朽ちた門から一歩、敷地内へ踏み入ってまず感じたのは不快感。進めない、進みたくないという感情が先へ進もうとしていたユイの足を留めさせ、引き返そうとその足を引く。
ユイははっとした。気づいたのは精神への干渉。魔術による警戒、人除け。
立入禁止の看板は既に用を為していないが、施されたそれだけは未だ他者の進入を拒み続けている。
魔術系統により未発動ではあるが霊装を常にその身に纏うユイの抗魔力をもってしても影響を受けるレベルの結界だ。
実際は塔指定の立ち入り禁止区域であるのでその魔術が上質なものであるのは当然だが、ユイは知る由も無い。
ユイに解るのは、このレベルの警戒魔術を施すことができる者にとってこの先に他人に見られたくないものがある、触れられたくないものがあるということ。
それはひどく好奇心を沸き立たせる。ユーイット・ヴェンツェルヴィは魔術師で、その基本的な性質に漏れず知識欲は旺盛だ。
高度な不可侵の警戒魔術によって守られた城。それこそ魔術師でなくてもそそられるものがある。
「ここに目を付けたのは正解でしたね」
魔術の警戒域の境界であろう門から一歩分だけ外側の位置で、こうでなければ甲斐がない、とユイは満足気に笑った。
薄氷色の瞳が攻撃的な色を湛えて細められ、口角がにったりと歪んだかたちに釣り上がる。
整った容姿を自ら崩してみせる、人前では浮かべることのない凶暴な笑みだった。
ここへやってきた目的から言えば何者かが立ち入りを拒んでいる場所などには用はないのだが、もはや目的などどうでもよくなっていた。
この城へやってきた目的とは何か、それは今日の朝に遡る。
ユイが師匠にあたる導師の研究室に顔を出すなり、部屋の主が告げた。
「課外講義に使えそうな霊地を探してきてほしーんだ」
「……は?」
「そろそろ課外講義をやらなきゃいけないんだけど、ぼくはなんせほら、忙しーから」
青灰色のローブを着た子供ほどの背丈の中年男性……ハーフリングの導師、"妖精遣い"ノルド・ネーベルは、ほらほら!と導師の襟飾りを引っ張って主張した。
「主にレポートの採点とか、訓練の監督とか、自分の研究とか、妖精くんたちとのお茶会とかで課外講義の場所が探せないのでー」
「私が先生の代わりに探すんですか?」
「そー!さすがユイくん、わかってるー」
ネーベルは精霊魔法の権威であり、ユイの師匠にあたる。
精霊魔法とはその名の通り精霊と密接に関わり、多くは契約をもってその後の魔術に協力を願う。
精霊魔法の使い手は、基本的には様々な種類の精霊と契約したほうが良い、とされている。契約精霊の種類がそのまま使用できる魔術に結びつくから当然といえばそうだ。
精霊はどこにでも存在するが、存在する精霊の種類は場所によって異なるため、精霊魔法の講義ではしばし課外授業に出かける。その必要がある。学院には存在しない精霊と関わるためだ。
そういう時は、精霊の多く住む(霊的な力に満ちた)、広い(生徒がぞろぞろ行ってもかまわないような)場所へ赴く。
しかし最近は、課外講義に使う霊地に困っていた。講義に使うと霊地の管理者から苦情が来るためだ。
そりゃあ一クラス分の生徒が野良の精霊と契約しようとドタバタやればそうなるに決まっている。故に課外講義に使用する霊地は万年未固定であった。
「じゃー今から行ってきてっ」
無邪気に笑うネーベル。しかし背丈がどれほど小さくとも顔は情けない雰囲気の中年男性である。
その残念な感じの生物をどうしてくれようか、ユイは迷った。もちろん、顔を殴るか腹を蹴るかでだ。
普段は穏やかな印象のユイだが、その沸点はなんというかかなり低い。
「ざけんなチビオヤジ」
結局顔に決定し拳を繰り出すが、大袈裟な動きで避けられる。類まれなる機敏さはハーフリングの種族的特徴だ。
「うわーっ!なにするんだい?!」
「」
「チッとかいう擬音では表せないような本気な舌打ちはやめて?!」
ユイは「なんでテメーのお茶会のために働かなきゃなんねーわけよ?お?」という態度を全身で示すというか攻撃しているが、ネーベルはめげない。
膝を曲げたままに踏み下ろすような所謂ケンカキックを危うくかわし、叫ぶように言った。
「ちゃんと公休にしておくからー!引き受けたら皆より先に霊地に行けるんだよ?」
裏街のごろつきよりも柄の悪い罵声を垂れ流していたユイがぴたりと口を噤む。
精霊魔法の課外講義では、主に霊地の精霊との契約が行われる。
霊地と呼ばれるくらいなのでそこにはそれこそたくさんの精霊が存在するが、契約に足るのは魔術を一定以上のレベルで行使可能な精霊のみ。もちろんそんな精霊は限られており、多くの魔術師がいっぺんに契約できるわけもなく。
つまるところ契約の順番待ちが存在するのだ。契約の内容によっては、交渉の順番が講義の時間内に回ってこないなんてザラにある。
講義以外では基本的に学生が霊地に立ち入ることはできず、そんな時は涙をのむしかないのが精霊魔法を系統とする学院生の常だ。
導師の憎たらしさにばかり意識がいっていたが、よくよく考えてみると一人で霊地を探して回るのはかなりの役得だ。霊地が見つからないかもしれぬ恐れはあれど、見つけた時は契約し放題。時間を気にする必要もない。
「喜んで行かせていただきます」
ユイはころりと導師のめんどくさがりに対する感情を殺意から感謝に切り換えて嬉しそうに微笑む。
怒りの沸点が尋常でなく低いユイだが、その分落ち着きも早い。もはや別の人格なのではと疑われるが、それは別人格はもちろん猫被りですらなく本心のままのユイだった。
「ぼくの親切心が伝わったんだねー」
ネーベルは慣れているのだろう、やれやれと胸を撫で下ろす。
ユイのこんな態度というか性質がまかり通るのは"精霊魔法の俊英(ジーニアス)"と名高いその才覚ゆえか、導師の気にしない気質ゆえか……おそらく後者だろう。
それからある程度変なところでも歩ける導師の許可状を貰い、意気揚々と塔を出たのだった。
ユイは迷わず翡翠(ネフライト)通りに足を向けた。
新しい霊地を探すとなると、地下か翡翠か、となる。この街において手っ取り早く未発見の霊地を見つけるにはおそらくそこしかないだろう。
地下に一人で行っても潜れる階層は知れているし、
境界警備隊にいらぬ心配をかけるのもよろしくない。ネーベルも講義を地下でやる気はないだろう(昔やって色々懲りているはずだ)。
そういう訳で、通りの入り口から連なる花屋や薬草屋の前を通りながら思考を巡らせる。
翡翠(ネフライト)通りには山やら森やら、おまけに湖まである。さてどこを探したものか。
山。ううん、今から登るには物理的な備えが足りない。制服と革靴で登れる山などあればそれは山でなく丘だ。
森。ユイ一人が入るのは許可状で問題ないだろうが、講義にぞろぞろと生徒が大勢踏み込むなど森の住人であるエルフたちが許すまい。彼らは静寂をよしとする。まあ、仕事が終わったら入り込んで精霊を探そう。
考えながら緑の敷石や砂利に芝生と、ころころ色の変わる道を宛なく歩いていると、翠の水を湛える湖のほとりに着いた。
中の小島にはぼんやり建物の影が見える。人が住んでいるのだろうか?
ユイのいる場所の近くには、湖の魚をとる時に使う小舟のための桟橋があるが、小島には船着場のようなものはない。船が連絡しているなら桟橋のあるこちら側に船着場があるはずだ。
つまりあの小島に定期的に渡るような者はおらず、よって建物は廃墟なのだろう。
人のいなくなった建造物を好んで住処にする精霊は多い。見てみる価値はありそうだ。
そして冒頭へ、という訳である。
誰かが侵入を拒む魔術を施している場所で課外講義など出来る筈が無いのではっきり言えば無駄足だったのだが、ユイにはもうそんな事どうでもいい。
今のユイの目的は講義の場所を探すことではなく、この城に何があるのかを確かめることにすりかわっていた。
ユイはさっき着けたばかりの右手の手袋を再び外す。丁寧に畳んで胸ポケットにしまい込み、さらに右袖を少し捲り上げた。
覗いたのは色の白い華奢な手首。しかし指先から、まくり上げた袖に隠れる肘、二の腕までも赤黒い大量の刻印が刻まれている。
ひとつひとつは性質により赤みを帯びる技巧の尽くされた美しいトライバル。しかしその数たるや「腕の飾り」ではなくもはや「腕の模様」の域だ。
擬音をつけるならば「ぞろり」というところか。普通の神経をしている者には不気味と称されるに違いない。
その中にもある種の美しさはある。というか、そう思わないとやってられないというのがユイの本音だ。
魔術師であることはユイの誇りだ。自分という存在を肯定し得るだけの才覚。自身には紛れも無くそれが存在するという事実がユイの柱だ。
自身の肌にその証を刻むことがその才覚を実力となす手段なら、何を迷うことがあろう。
たとえそれがちょっとヤバイ見た目になろうとも。魔術師っぽくてカッコイイじゃん!カッコイイんですってば!
あーカッコイイ、すっごいカッコイイですー。本当は見せびらかしたいくらいですけど、一流の精霊魔法の使い手としては隠すべきなんて残念ですー。ああ、ほんとうに残念だなあ。うん、残念残念。
ちょっと遠くを見る目になったユイだが、気をとりなおして城を睨んだ。そして短く息を吐き、深く吸う。
三段階程の検視(サーチ)の結果、この魔術が独立形式であると分かる。魔術師の神経にそのまま繋がってはいないようだ。
警戒魔術を破った途端相手の魔術師に悟られる、という確率がやや下がった。
流石に依り代ぐらい手元にあるだろうからそれを確認されればバレてしまうがまあ致し方ない。
浸透侵入のための魔術解析なんてしている時間はないのだし。日が暮れる前には帰りたい。
潔くブチ破るとしよう。そう決定し、ユイは呪文を紡ぎ始める。
「昼の月、歪む羽揺れ、寄る辺無き嵐ひととき綴じよ」
右手の手首のあたりに刻まれた刻印の一つが若草色の光を帯びた。
途端に強い風がユイの少し手前の空間を中心に吹き荒ぶ。金茶色の柔らかな長い髪が巻き上げられる。
ユイの目の前に形作られていくのは、見えざる嵐の劔。とんでもない密度に凝縮された風が、その一振りに込められていく。
風が止んだ。なお光を放つ右手の刻印。
「目標制限、警戒術式」
制限を織り込んだ。おそらく縛りを加えぬまま振るえば城は無事ではすまない。
ユイは右手で手刀をつくり、斬り払う様に左から右へ降ると同時に叫んだ。
「閃!!」
ざん、と荒れ狂う風が城全体を斬り裂く。
警戒魔術はバチンと音を立てて弾け飛んだ。霊的質量を持つ嵐の到来で負荷がかかりすぎて形を保てなくなったのだった。
ユイが右手首の刻印を撫でると光は消え、目に見えぬ嵐の劔もほどけて消えた。
癖で取り出そうとした手袋をポケットに戻し、代わりに左手の手袋も外して仕舞う。
ここからは侵入者として領域を暴くのだ。何が起こるか分からない場所でいちいち手袋の着脱に時間をかけてはいられない。
刻印を晒せば手の内を知られる恐れがあるとは言え詠唱にもたついては命取りだし、刻印を刻んだ意味が無くなる。
精霊魔法の使い手は詠唱が長い。基本、精霊に魔術の代理行使を求める際は契約を示す音節を詠唱に挟まなければならず、独力で魔術を扱う魔術師に比べ詠唱はかなり長いものになる。
その点刻印を用いる形式では、晒した刻印へ魔力を注ぐ事で契約の提示ができるため、他の魔術師と変わらぬ長さの詠唱ですむのである。
警戒魔術のさっぱり消え失せた門の内側へ進んだ。風が湖を撫でる音だけが響く城はやはり廃墟で、手入れされた様子も無い。
正面の扉は無論閉まっている。とりあえず両開きのそれを開けようとしてみたが、ユイの力では押しても引いてもガチャンガチャンと重い音がして施錠されているらしきことが分かるだけだった。
「ですよねー」
さして動揺もない声で一人呟く。流石にこのくらいで開くとは思っていない。
「誓い、咆哮、焔に焦がれ鎚に打たれる」
手をかざした蝶番が融解する。おおきな音を立てて扉が閉じたまま外れ、手前に倒れた。
ユイは遠慮なくその扉を踏みつけて城の中へ。
見た目は城だが、中はおかしな造りになっていた。玄関ホールから扉一枚で吹き抜けの大広間に出る。
居住のための空間はなさそうで、大広間以外の空間は控えの間や作業に使う為の小さい部屋らしい。例えるなら神殿、もっと言えばイベントホールの様だ。
ユイは大広間へ入り込んだ。だだっ広いそこは、上の方の窓が割れて外気が入り込み荒れている。
広間にはほとんど何もなかった。ただ一つ、中心に大きな石造りの箱が「この城のキモは私です!」と言わんばかりに存在感を放っている。
上に小枝やら何やらがアートの様にこんもり積もったその宝箱の様な棺の様な箱に歩み寄ると、箱に何かが刻まれているのが分かった。
流麗な紋様が連なるそれに、ユイは覚えがあった。"妖精の足跡(フェアリーマーク)"と呼ばれる古代語。主に精霊魔法の儀式などに用いるものだ。思わぬところで専門分野に出くわした。
「えっと、眠りを誘うもの眠る、目覚めは……ええい、邪魔」
上に重なる小枝や木の葉の山をザッザッと払い、箱に書かれた古代語を訳していく。
「目覚めは風に、祈りは鉄に、霊を捧げ、虹を手繰り、夢と現を幻で繋ぐ……なに?この紋章……痛っ!!」
さきほど払い落とした小枝が尖っていたのだろう、ユイの右手から血がぽたりと落ちた。
その赤は石の棺に刻み込まれた紋章の上に広がり……消えた。吸収されるようにユイの血が消え失せ、紋章が強い光を放つ。
「や、やばい……?!」
*
【後編】へつづく
最終更新:2012年04月01日 14:12