鍛冶職人が鎚を振るう音で妖精の一日は始まる。
靴職人見習いの少女が用意してくれた寝床からもぞもぞと顔を出すのは、まだ年若い妖精。屋根裏の窓縁に置かれた揺り籠は小さな妖精にはじゅうぶん心地良くて、目覚めはご機嫌。
差し込む朝日に照らされた妖精はきらきらと虹色に輝く粉を散らしながら、寝床を抜け出し伸びをする。
つるりとした白磁のような肌、簡単にへし折れそうな手足。虫に似た透明な羽が二枚、ぱたぱたと羽ばたく度に光の粉が舞う。この街の名と同じ虹色の髪をゆうらりふわりと揺らす、彼女の名は
アルゥ。七虹都市
アルコ・イリスに住まう街妖精である。
街妖精とは、朝露の煌めきや月光の一滴から生まれる自然の妖精とは異なり、人間の息吹から生まれた都市型妖精だ。よって、静かな森や湖畔ではなく、騒がしい街並みこそがアルゥのすみか。小窓を開けたままにしておいてくれる家の屋根裏や物置で寝泊まりし、太陽が出ている間は街中を飛び回る彼女はアルコ・イリスのひそやかな名物でもある。
身体に緩く巻き付いているリボンを小さな手で整えてから、アルゥはふわりと窓から飛び立った。
朝日照らすアルコ・イリス、七色の街。色とりどりの瓦を見下ろしながら飛ぶアルゥが向かうのは、空色の色彩が集う通り。この街に七本ある大通りのひとつ、「天空(スカイブルー)通り」。この街で最も人の出入りが激しい場所だ。
空色の通りを行き交うのは、大剣を背負ったいかめしい戦士に、身軽な獣人、長い杖を持った魔術師などなど……まるで統一感が無い。それもその筈この通りの別名は「旅人通り」。外からの来訪者や、冒険者向けの店が集う場所なのだ。
地下に遺跡を有し、リベラルな気風と厄介事の多様性などから冒険者が飯の種に困らない街とされるアルコ・イリス。自然と冒険者たちは緩やかな相互扶助の関係を築き、特に同じ旅籠を塒にする冒険者はひとつの家族のような関係になる事が多い。無論、その旅籠の主義や雰囲気にもよるが。
天空通りにある冒険者向けの旅籠のひとつ、「竜の足跡」亭は中でも老舗の宿だ。いつも冒険者がわいわいと騒いでいる活気ある宿で、料理が旨いので普通の旅人もよく訪れる。
その窓辺にふわりと着地したアルゥは、小さな身体で窓を押し開けると宿の中へ滑り込んだ。直ぐに冒険者たちがアルゥの姿に気付いて声をかけてくる。
「おはよう、アルゥ!」
「今日は荷物袋に隠れて仕事についてきたりするなよー」
「お、ちょうどよかった、卵焼き食うか?」
口々にかけられる言葉は親しげなものばかり。アルゥはにこにこと皆に挨拶しながら机と机を飛び回り、それから卵焼きを一切れ抱えてカウンターのお気に入りの酒瓶の隣に腰掛けた。
アルゥは、冒険者が好きだった。それは、アルゥが妖精として生まれたばかりで右往左往していた時に助けてくれたのが冒険者だったからでもあるし、冒険者の話す物語が刺激的で面白いからでもある。
――野菜のたっぷり入ったふわふわの卵焼きを頬張っていたアルゥは、見慣れない顔がどこか緊張した面持ちで朝食を食べているのに気がついた。
年の頃は十代中頃か、まだ幼さの抜けきっていない顔立ちの少年は真新しいショートソードを傍らに置き、もそもそとパンケーキを食べている。アルゥは卵焼きを食べ終えると、ふわりとその少年のテーブルへと近付いた。
「おはようございます」
「お、おはよう」
鈴を転がすような声に顔を上げた少年は、妖精の姿に驚いたように瞬きをして、返す挨拶の言葉も尻すぼみ。それから、何かに思い至ったような顔をする。
「あ、もしかして君がアルコ・イリスの街妖精?」
「はい、アルゥといいます。あなたのおなまえは?」
少年は照れたように笑い、アルゥはテーブルの端に腰掛けた。フォークでパンケーキをつつきながらぽつぽつと話す少年に、アルゥはにこにこと相槌を打っては知ってか知らずか少年の本音を引き出してゆく。
「昔、僕の村に冒険者が来たことがあってね。その時聞かせてもらった冒険譚が忘れられなくて、村を飛び出してきたんだ」
「アルコ・イリスは英雄が生まれる街、なんて意気込んではみたけど……一週間経つのに初仕事もまだでさ」
「宿代もそろそろ払えなくなるし……村に帰った方がいいのかなあ」
――少年は、憂鬱そうに溜め息を吐いた。
冒険者になろうとこの街を訪れる人間と同じくらい、夢破れてこの街を去る人間も多い。アルゥも何人もの冒険者を見送ってきた。
けれど、だからこそ、アルゥは冒険者になりかけているこの少年を応援したいと思った。アルゥが冒険者を愛するのは冒険者が冒険者だからではなく、彼らが未知へ挑む姿だとか、向こう見ずで危なっかしい様だとか、その瞳が遠い夢を見ているのを愛しいと思うから。つまるところ、アルゥは人間が好きなのだ。……だから、沈んでいる少年の周囲の空気を払うように笑ってみせる。
「じゃあ、わたしがおまじないをしてあげます」
「え?」
ぱたぱたと羽をはばたかせて少年の顔に近付いたアルゥは、そっとその頬にキスをした。かすかな感触に目を白黒させる少年へ、またにっこりと笑いかける。
「わたしはこの街のこころ。なないろの虹蛇さまがひとをあいするように、わたしはあなたを祝福します。あなたに虹の加護がありますように」
「あ、ありがとう……」
その時、カランコロン、とドアベルの音が響く。宿の入り口からカウンターへ真っ直ぐ向かって主人と話し込むのは、この宿の馴染み。と言っても冒険者ではなく、仕事を頼む側の人間だ。
なんとなく二人が話し込むのを眺めていた少年は、ふと顔を上げた主人と目が合ってしまいどきりとする。慌ててアルゥへと視線を向けるが、アルゥはアルゥで黙って微笑んでいる。
その微笑みの意味がわかるのはこの後。
「ニック! この仕事やってみるか?」
「え?!」
少年はどぎまぎと周囲を見回してから、生唾を飲み込んだ。待ち望んでいた初仕事。それなのに、返事は乾いた喉に張り付いて出てこない。
テーブルの上で握り締めていた拳にそっと触れられて、少年は視線を落とした。笑っている、妖精。
「だいじょうぶ。わたしのおまじないは、よくきくんですよ」
少年は少しだけ間を置いた後、立ち上がった。
「……はい! 詳しい話を聞かせて下さい!」
少年の返事に主人は満足げに尻尾を振って、それから立派な巻き角を片手で撫でた。……そっとアルゥに目配せをする。アルゥは小さく頷いてから、宿を後にした。
――きっとあの少年は大丈夫。竜の足跡亭の主人は、冒険者の力量に見合わない仕事を紹介したりはしない。顔馴染みの依頼人は街の薬師で、恐らくいつもの薬草摘みの依頼だろう。
はじめての依頼さえ済ませれば、あとはおっかなびっくり足を踏み出すだけ、力量など後からついてくるのが冒険者の世界。アルゥは空高く飛び上がりながら、ひそやかに微笑んだ。
新たな冒険者の誕生に祝福を!
《幕》
最終更新:2011年06月11日 00:53