風が一陣過ぎる。
全てを撫でて通り抜ける。
後には何もない。
吹き抜けたその余韻だけが残る。
風が一陣、過ぎていく。
夜明け方。紫のにじむ天空高く、小さな飛行影が巡っている。
真下に広がる、朝靄に包まれた深緑の森と、大河から分かれ浅く穏やかに水音を湛える川と、空そのものと。
そこにある全ての息遣いを眼下に見張るように、大きな円を描いて、流れる彩雲よりも高く飛んでいる。
その足元の森で、別の影が身じろいだ。
ゴブリンや小鬼(コボルト)の類かと見紛いそうな場所から、しかし樹々の合間に隠れるよう張った天幕から這い出てきたのは―――よくも収まっていたと思える体躯を、のそりと持ち上げる長身の男だ。
下草の露を踏んで濡れた革長靴の底で、川べりのくすぶる焚き火の跡を崩し、火種を確認するとあくびを一つ。頭を掻いて、そのまま水流の淵へと入ってゆく。清水は夜露を集めてきたように冷たく、手にした布を浸して絞りもそこそこに顔をぬぐうと、鞘を外した剃刀を顎にあてがい洗う。
一通り身奇麗になった心地良さに、大きく伸びをしたその緩慢な動きで、額に落ちる長さのある黒髪。それを後ろに流して、白み始めの空を見上げ、自然と出る溜息と共に眼を細めた。
遠く十字点のようなシルエットを睨んで笑う。
「もう、飛んでいたか。」
呟き、薄ら照らされた表情は精悍で穏やかだ。
青年と呼ぶにはやや過ぎた逞しさのある顔つきに、残る若さを湛えた瞳が、背後の深緑に似た優しい色で静かに瞬いている。その間近で、左の耳に留められた銀環が鈍い光で閃いた。
そうして朝の空気の中、雲の向こうで影が大きく頭上を一周するのを眺めて一時。
ふいに指笛を形作ると、口元へと運んで大きく息を吸った。
キ ィ ――――― …
吹き出された音は、無骨な手指に反して、細く、細く。鳥の声よりも高く小さい。
何処にも届かぬまま、森や水に吸い込まれ消えてしまうのではないかと思えるほどか細い金属音にも似たその「呼び声」に、遥か向こうで応えるよう影が翻った。
“風”が一筋、地上に吹く。
そして緩やかに。音もなく。しかし大気を切るような速さで。
昇り始めた朝日を背負って、それは降りてくる。
鳥ではない。
陽光を反射して、翠(みどり)と真鍮の鈍金に煌く、全身の鱗。
宙で広げた体長の倍はある翼膜は、蒼い血管が見えるほど薄く磨硝子のように透けていながら、そこにある空気を全て受け止めるように力強く重厚な身を減速させる。
そのまま滑るように川下から川上へ、水流を一閃して削りながら着水する、両脚の白く鋭い爪。
水飛沫が、中空に届くほど、真っ直ぐ、長く尾を引いて。
朝の光に飛散して輝いた。
舞い降りたのは一匹の、竜。
ただしそう呼べるのか定かでない程に小柄だ。
馬と同程度の体躯をしている。
身を震わせ、長い首を上げると角の生えた細面の頭をすぐさま水に落として、足元を突付いているその生き物に男が歩み寄っていく。
「あまり大きく飛びすぎるなよ。ペルシェ。
いくら街から離れていても、見つかれば近場で蜥蜴(とかげ)の魔獣が出たと騒ぎになるぞ。」
彼がからかうように[木漏れ日(ペルシェ)]と呼んだその「蜥蜴」は、捕らえたばかりの川魚をくわえたまま、瞳孔の細い眼を見開いてきょとりと振り返った。
そして爪よりも更に鋭い牙に、びちびちと跳ねる白腹を引っ掛けて丸呑みすると一声。
『 ケェッ ! 』
馬鹿にするな、とでも答えたような。あるいは男の方を馬鹿にしたのか。
そんな響きの返事を受けて、しかし彼はからからと笑った。
「さぁ、魔物と間違われる前にさっさと鞍を着けよう。今日は久々にお前も連れて行くぞ。
手綱さえ掛けていれば、獅子でも闊歩できるのがあの街だ。」
言うが早いか、天幕から乗用具一式を担ぎ出す。銀の留め金のついた鞍を載せ、銜(はみ)を牙の奥まで銜えさせ肩首に結べば、立派な乗用竜の様相になった。
引き手当人はというと、寝床を整え畳めば荷を全て竜に担がせ、後は髪だけ紐で纏めると着たままの簡素な街着に手ぶらの軽装で、手綱を掴んで歩き始める。
再度、頭上を振り仰いだ。
行き先の空は、消え行く明けの彩雲よりも鮮やかな虹色を浮かべている。
迷う余地のない目標を確認して、一人と一匹は街を目指した。
――――
そも日没の間中ずっと、七色の“虹蛇の導き(ユルング・ライン)”に照らされているこの街が、眠りというものを知っているかすら怪しいという点はさて置いて。
どんな不夜の城にも朝は訪れ、煌々とした街の灯はさんざめく日の光に取って代わられる。
そして朝一番を告げる鐘は、どこの街でも鶏の声より高らかに鳴り響くのだ。
特にここ、柘榴石(ガーネット)通りの下町に長らくそびえる、“時謳う教会”にある赤銅鐘(あかがね)の塔は別格である。
食事もそぞろにせわしく働く職人達、家族のため掃除洗濯に駆けずり回る主婦、時間厳守の宿の下働き。日常を全力で生きるそんな人々を愛した神の宿は、彼らに休まず時の移り変わりを伝えるべく、日が昇ってから沈むまで半時に一度、実に一日二十四回もけたたましく巨大な鐘を鳴らす。半時間と一時間とを告げる音にはそれぞれ緩急と規則があり、市場も問屋も音に合わせて店が開かれるため、この通りの毎日の生活を測るには欠かせないものだ。
ただし前日に酔い潰れた二日酔いの日雇い人や、朝寝坊がしたい夜働きの女などには大不評らしいが、それも神の御心の範疇らしいので問題無いのだという。
見目にも白い素朴な漆喰肌に、通りのシンボルである赤煉瓦を階段状に飾ったその塔は、街の中央塔"虹星の叡知"(アルマゲスト)と比べてしまえば工場の煙突のようなものだ。
しかし通りの人々からは文字通り、虹の女神の“赤子”だとまるで親子のように扱われ親しまれている。
そんな塔の鐘が今日もまた、青く抜ける空に朝を謳う頃。
響く鐘の低音に震える老朽化した塔の壁面で、縄一本で宙ぶらりんに下がった、幾人かの男達の姿が見える。
「―――悪ぃなぁウィド。お前さんはもうこの仕事にゃ携わる義理もねーのによぉ。」
渋い顔で肩を怒らせる壮年の職人に、ウィドと呼ばれて笑い返すのは、黒髪を無造作に結んだあの男だ。
「義理ならありすぎる位だよ。親父さんには随分と世話になった、臨時雇いでも何でも、声をかけて貰えるなら何時でもすっ飛んで来るさ。」
出立時と変わらぬ軽装も、逞しい体躯も、さばけた職人達に混じってしまえば何の違和感もない。あるとすれば左耳のカフスの銀だけが、飾り気のないその空気の中でやや浮いていた。
会話を交える男達の手には、まだ柔らかい漆喰を載せた板と、塗りナイフが握られている。壁の煤けた灰白を、目新しい貝白に塗り替えながら、親父と呼ばれた男の愚痴は続いた。
「左官の職人に、手が足りない訳じゃ無ぇんだぜ…若ぇのがどいつもこいつも、此処だけはビビッちまって誰も手がつけらんねぇのさ。不甲斐ないねぇ全く…」
舌打ちと共に見下ろした、その目線の先では「不甲斐ない若手」とやらが別働で働いているらしいが。この高さから見た地上の人々はまるでケシ粒で、誰が誰だか判別できているとは断言し難かった。
工場の煙突のようなもの、とは言われようが曲がりなりにも鐘突き塔である。
周囲の家々の二~三倍は余裕で超える背の高さ、振り返れば赤煉瓦の町並みはミニチュアのように広がっている。遮るもののない風が吹き抜け、白い鳩の群れが羽ばたく。
その景色は色んな意味で実に壮観である。
男達を支えているのは命綱一本。
否。それすらも飾り煉瓦に鍵爪で引っ掛けているだけの、保障もへったくれもない代物だ。
「俺らの頃は、この街の職人はまず年に一度、赤銅の鐘突き塔を世話できて一人前だ!なんつったのによ。時代かねぇ…いっそ中央塔みたく箒のガキどもを手伝いに寄越せと、どっかのお上に言ってみるべきか?」
この道の玄人は愚痴の合間に、突風に煽られながら器用にナイフを動かして、壁面に薄く白を伸ばしていく。
「魔術の学徒に学び舎は磨けても、職人の真似事までは出来んでしょう。むしろ親父さんなら、自分が中央塔の壁面をまっさらに塗り替えてみたいんじゃないか?」
「かっか、とんでもねぇな!我らが偉大な“虹星の叡知”様を塗り替えるなんざ、それこそ雨風どころか槍が飛んできてもおかしくねぇわ!しがない下町の左官職人に手なんて出せるもんかよ、おーっかねぇ!」
けたけたと笑う親父につられて談笑しながら、やがて手の届く範囲を綺麗に塗り終えた男達は、紐でまとめた漆喰道具を腰に下げ命綱を付け替え、横に移動していく。使える五体は全て使わなければ、一瞬の気の緩みイコール真っ逆さまなのがこの仕事であり、こんな一時だけは皆の口数も減る。間近で鐘が鳴り響いて、その音量の凄まじさに塔ごと震える瞬間など尚更だ。
そんな中でも一際軽々と、ウィドは他の職人の分まで器用に鍵爪の位置を入れ替えて、大きな猿のように身体をスライドさせて動く。綱を離した瞬間はいわゆる宙吊り懸垂の状態だ、腕にも足腰にもよほど自信がなければ本来そう易々とは動けない。
作業は手際よく進み、昼前には眩いほどの白でほぼ塗り替えられた塔が、十一回目の時を高らかに謳った。
「頼りになるねぇ。力仕事も度胸も元から申し分無い、塗りの腕前だけどうしても、短期間じゃあ真似事までしかお前さんに教え込めなかった。それが惜しいんだよ、俺ぁ。」
「はは、褒めるフリで皮肉ですか?不甲斐ない事に真似事までしか出来ないモンで、得意でカバーさせて貰えるなら御の字だ。何度も言うが俺は高いのに慣れてるだけで…腕前なら若い奴らの方がよっぽど上だろう?」
「へっぴり腰とプラマイゼロすりゃあいい勝負だぜ。お前さんさえその気なら、いつでも本職になれるだけ鍛えてやるのによ。大体この高さに慣れてるってのも不思議なモンだぁ…お前さんこそ実は、中央塔の壁磨きでもやった事があるんじゃないのか?」
「冗談を、俺に魔術の心得なんて、――― …! 」
苦笑いでからかいを一蹴しようとした、その表情が一転。
険しい形相で、眼下の街並みを振り返った。
まるで何かを聞きとがめたように耳元の銀に触れながら辺りを見回すが、当然ながら周囲に男達の声と風の嘶き以外はない。黙り込んで眉根を潜めるウィドの様子に、親父が首を傾げて声をかける。
「どうしたぁ?ぁー、そろそろ終わりだぜ、上がる準備しな。」
「…悪い親父さん、急用ができた。」
言うが早いか、男は頭上の煉瓦を掴むと命綱をあっさりと外し、腕だけで塔をさっさと登りつめた。鐘突き場の柵を跨ぎながら、首だけ振り返って叫ぶ。
「先に上がらせて貰います、後始末の分は給金から引いといてくれ!」
「お、おぉ?ちょっと待てよ、一体何だってぇ…」
尋ねるより先にその姿は視界から消えて、後には青空と赤銅鐘だけが残る。
「…相変わらず鐘よりも忙しない奴だな、あのお人好しは。」
呆れた職人の呟きに、盛大な正午の鐘だけが答えるよう謳って響いた。
最終更新:2011年06月13日 17:28