紫を冠する“竜胆(ゲンティアナ)通り”にある大商店、そこに初老の男が訪ねてきた。
チェリウス商会は魔法関連のアイテムを取り扱う商会の中でも屈指の品揃えを誇る有名店である。そこを訪ねてきた男はシルクハットにタキシードに片眼鏡(モノクル)といった衣装を纏い、襟元にはバッヂが光っていた。
「やぁ、おはよう!コロナ会長はいるかな?おや、君は初めてだったな、ああ、そうかルビーちゃんは……いや、失礼。まぁ、とにかくアロンソ・パストールが来たと伝えてくれれば良いから。」
「かしこまりました。少々、お待ちください」
と、訝しげな視線を送りながらも受付嬢は取り次ぐための手続きをした。
大商店の奥には会長や役員のオフィスがあり、応接室もあったがアロンソと名乗った男は直接に会長室に向かった。
コンコンッ!―――と、ドアをノックし、室内からの声に促されるままにドアを開けた。
20歳そこそこの歳若い長身の男がソファに腰をかけながら紅茶を飲んでいた。
「お、これは失礼。お寛ぎのところ邪魔をしてしまったようだ。」
「いえ、先生が訪ねてくださるなんて大歓迎ですよ。
アルコ・イリス産の最高級紅茶は如何ですか?」
「では、頂こうかな。」
と、ソファに腰をかけて、一口だけ紅茶を啜った。
「で、先生。どういったご用件で?何か問題でも起きましたか?」
「いやぁ、友人に会いに来た……と言いたい所だが、例のルビーちゃんの事件のことで警備隊が嗅ぎまわっているようだ。私も気にはしていたんだが、ルビーちゃんは良い娘だったし。顧問弁護士として、この商会の現状や知っていることを把握しておかなければいけない、何ともいえない不安な気持ちになったんでね。」
「なるほど、先生がこの商会のことを実に考えて下さっているのを再確認できました……が、彼女の事件と商会は何の関わりもないですよ。彼女はチェリウス商会で一、二を争う美女で、聡明で優しい、僕も密かに彼女の魅力に惹かれている一人だった。」
「確かに彼女は美人でしたな、私も10歳若ければ声を掛けたいほどでしたよ……もったいない。この事件が発端で様々な憶測が飛び交う可能性もありますが、気にすることもないのでしょうか……いや、私も歳を取りすぎましたかな。」
「いえ、ご心配されるのも無理はない。亡くなった父親の跡を継いだ僕は先生の息子のようなもの、僕も先生を親だと思っています。そうですね、親がこうやって訪ねてきてくれて、心配かけてしまうのも悪い息子だ。少し、相談に乗ってもらえますか?」
と、若き会長は真剣な眼差しと何処か怯えた眼で話を続けた。
「先生は“沈黙の輪”という集団のことを知っていますか?」
といういきなりの問いにアロンソ、いや
ティムは内心では心臓が飛び出るほどビックリした。まさか、この会長の口から聞ける単語であるとは想像していなかった。
「“沈黙の輪”?」
「そう、その名の通り、秘密を共有し、沈黙を守ることで恩恵が受けられるといった新興宗教です。先月、僕のところに幹部勧誘がきました……が、僕は断りました。何故なら、他人の秘密も知ることで自分の秘密も増えることになるでしょう…そんな重圧に耐え切れそうにない。でも、僕の頭を悩ませたのはここからでした…誰かが、僕の秘密を暴こうとしているのに気づいたのです。」
「先生には話しておきたい、次に会えるのがいつかは分かりませんから……僕は新しい商売として秘密裏に冒険者くずれを雇って“特区”に仕入れに行くように依頼した。それは、まんまと失敗して僕の中では“特区”に立ち入った犯罪者という汚名だけが残った。先日、その冒険者くずれが“蜜月(ハニームーン)通り”で惨殺された。その惨殺死体は首から上を刎ねていた―――それは“沈黙”を意味する―――。僕は、“沈黙の輪”が関わっているような気がしてならないのです。」
「なるほど、よく告白してくれた。恐ろしい奴らに目を付けられてしまったようだ。幹部になれば秘密を共有することになるが、秘密は守られる。もし、断ったり、暴露しようとすると破滅に向かうように仕組むわけか……実体が分からないことには“沈黙の輪”を引きずり出すのも難しいだろうな。」
「ええ、こんな事なら断らずに受け入れたほうが良かった。」
「何を言っているのだ。受け入れれば同じ苦しみが負の連鎖になっていた。こうして、私に話すこともできなかった。」
「そうですね、少しは楽になりましたが、“沈黙の輪”に関しての情報はほとんどないのです。裏稼業というか、怪しげな集団であることは確かですが、表向きは宗教法人。そのまま、訴えても宗教の性質上、聞き入れられることはないでしょうね。」
「弁護士として、何かできることはないか……“特区”に無断で入るということは罪である。しかし、この現状を考えるに出頭するしかあるまい。そこで、司法取引に持ち込み、“沈黙の輪”に捜査の手を向けるのが唯一の手段。このまま黙っていれば、捜査が入り、殺人犯として逮捕され、そこで事情を話したところで罪を逃れるための言い訳にしか聞こえない。先手を打つのが得策だと進言しよう。」
「……先生、その間のチェリウス商会を頼みます。」
黙って肯いた初老の男と深くお辞儀をした若く長身の男は最後に握手を交わした。
チェリウス商会からの帰り道、“竜胆(ゲンティアナ)通り”。
ティムが変身を解き、衣装を入れたトランクを抱え、いつも通りのティムとして路地裏から大通りを目指して歩きだそうとした。
―――その瞬間、ティムの影が縫われた。
路地裏にある怪しげな妖術品店の軒先からローブに身を包んだ小柄な――ハーフリングか、そういう種族なのだろう。――男が声を掛けてきた。
「新聞記者のティム君。いや、チェンジリングのティム君。」
「!!何ですか?貴方は…これは明らかな敵対行動と捉えても良いですね?」
と、比較的、冷静を装っていても動揺していた。ティムがチェンジリングだと知っている者は稀であり、片手で数えられる信用のおける者ばかりのはず。
少なくとも、自分が把握する者で、このような怪しい奴に話した覚えなど微塵もない。
「そう驚くな。闇色の王が君の力を必要としている…同じ世界の影に生き、闇に潜む眷族として、チェンジリングの貴方の力が。しかも、あの力を…“完全変身(トランスフォルマシオン・コンプレタ)”を受け継いでいるらしいではないか。」
―――風が一陣吹いた。
「“完全変身(トランスフォルマシオン・コンプレタ)”?全く知らないですね。」
「偽るでない。」
「知っていたとしても教えると思うのですか?」
「ふん、“完全変身(トランスフォルマシオン・コンプレタ)”は血を媒体として取り込み、その血の持ち主の記憶と能力を持ったまま変身できる。その力を我が主の役に立ててもらおうと、こうして出迎えに来たのではないか。」
「……お前の名は?」
「イサークという。」
「イサーク」
と呟くと、影を縛られていたはずのティムは掻き消え、イサークの後に立っていた。
その間に、腕を捲くり、手首に刻まれた剣の刺青を撫でると、次の瞬間に片手には剣が握られていた。
―――ザッ!!
咄嗟にイサークは距離を取ろうとするが、避け切れなかったのか顔を歪めた。
「くっ、変成術“武器収納(アブソーブ・ウェポン)”か。不意をつかれてしまったわ。」
と言うと、チラリと影を縫ったはずの場所を見たイサークは驚いた。
そこには衣装ケースが転がっていた。
「まさか、最初から幻術をも使っていただと…詠唱もなしでか。」
「ふん、即行術式(スウィフト)くらい使えないとね、それに欺きの呪文は得意とするところ。」
と、ティムは軽く微笑んだが、目はいつもの柔和な笑顔ではなかった。
イサークは不意に斬られた腕から血を滲ませて、
「思ったより、やるではないか。まぁ、せいぜい足掻くが良い。闇は闇の中でしか生きられないことを思い知るだろう。」
イサークは闇に溶け込むように消えていった。
イサークがいたところには血溜まりができていた。
「そうか、忌まわしき種の力を狙ってのことか……。」
と、呟くとまるで今まで時間が止まっていたかのように、大通りの喧騒が聞こえてきた。
最終更新:2011年06月23日 09:57