アルコ・イリス クロニクル『師匠からの手紙』

“蜜月(ハニームーン)通り“に黄色の“虹蛇の導き(ユルング・ライン)”が差込み始めた頃、社交場は活気付く。
大通りの踊り子劇場(キャバレー)『月夜の夢(ムーンナイト・ドリーム)』の半地下に続く階段を下りる男の姿があった。

「あーらー、ティムちゃん、マックスってば長いこと見ないわね。隣に住んでるんだから劇場に観にくるように言っておいてよ。」
「あぁ、アンナさん。ええ、ちょっと旅に出てるみたいで、でも元気みたいですよ。」
と、アンナと呼ばれた年齢不詳の踊り子にペコリとお辞儀をした。
「そうなんだぁ、もちろんティムちゃんも観に来てね。ドリンクくらいならサービスするわぁ。」
「ええ、仕事が落ち着いたら……。」
「んふふ、新聞記者さんだもんね、忙しいはずよねぇ。いい男が台無しになりそうね。」
と言いながら馴染みの踊り子は男の髪の毛を撫で回した。
「そういえばムルスカもティムちゃんのこと心配してたわよ。“細い身体でちゃんとした飯を食べてるのか”ってね。」
この『月夜の夢(ムーンナイト・ドリーム)』は数ある踊り子劇場の中でも料理自慢で、その腕を揮っているのがムルスカという大柄で筋肉質な料理人。
その評判の料理の中でも“揚げ芋の虹色ソースディップ”と“大アサリのバターソテー”は絶品で踊り子劇場には珍しく女性客も多いくらいだった。
この家にいると揚げ芋の香ばしい匂いやバターの芳醇な香りが空腹を刺激することも多く、少年時代のティムは劇場の厨房に顔を出し、気風の良いムルスカに強請ることもあった。そんな時にはムルスカは「また、腹をすかせやがったのか、これは“出世払い”だからな。働いて倍にして返してくれよ。」と冗談っぽく笑って料理を振舞ってくれた。

「ムルスカさんにも近いうちに“出世払い”を清算しに行くって伝えてください。」
「ふふ、わかったわ。それにしても元気そうにしていて良かった…マックスが連れてきた頃のティムちゃんったら、何かあればすぐ泣き出しそうな顔をしていたものね。
そんなティムちゃんが立派な新聞記者になっているんだもの、私も年を取るはずねぇ。」
アンナが溜息をつく。
ほぼ同時に劇場の方からひときわ大きな歓声が沸いて音楽が鳴り始めた。

「あ、もう出番がきちゃうから、行くわね。」
と、ヒラヒラと手を振り、濃い白粉と香水の匂いを残しながら小走りで劇場の方に去っていった踊り子の後姿に苦笑いをする。


鍵を取り出し、扉を開けると、ベッドとキッチンと簡易な机と棚があるだけの殺風景な部屋で、元々は踊り子が仮眠や休憩をするために作られた部屋であるところを幻術師が10年以上、借りていた。

しかし、ここに住んでいるはずの幻術師は行方知れずになって数年、稀に手紙が送られてくるため、生きていることは確かだった。生きていること以外、どこにいるのか等の重要なことはほとんど書かれていないのが常で、「誰かに金を借りていたから返しておけ」とか「“虹星の叡知(アルマゲスト)”からの使いが来るから対応しとけ」とかばかり。
それでも愛想を尽かすことをしないのは師匠であり、生きる術を教えてくれた命の恩人であるからに違いなかった。

ボロボロになってかろうじて形と用途を保っているポストの中を覗くと一通の手紙…その手紙の宛名は、マクシミリアン=ベッテンドルフとだけ書かれていて、蝋が押されていた。その宛名の字はティムにとっては馴染み深い師匠その人の筆跡に間違いはなかったため、躊躇いなく封を切り、内容を確かめた。


『ティム、元気か。俺は元気だ。いつも迷惑をかけてすまないと思っているが、もう暫くアルコ・イリスには帰れそうにない。お前を巻き込みたくなかったが、お前にしかできないことを頼みたい。時間がない、詳しい事情はガドフリーは知っているから聞いてくれ。
明日か明後日くらいに毎年恒例の“虹星の叡知(アルマゲスト)”からの使いが来る。その内容はお前も知っての通り、客員教授への復帰要請だ。いつもなら断るところだが、今年は断らずにお前が俺になって引き受けて欲しい。つまり、お前が俺だってことを周囲にばれないように振舞うことになるだろうが、幻術だけであれば“幻霧の”マックスとも引けを取らないと俺は思っているし、講義も幻術について月に数回だけ教壇に立つだけだ。また、手紙を出す。』


ティムはこのような手紙を貰ってじっとしているわけにはいかなかった。
部屋を飛び出し、“蜜月(ハニームーン)通り”の賑わいを掻き分けながら空に延びた赤い光を目指し、息を切らせて駆けこんだのは“アルコ・イリス クロニクル”。
まだ、新聞社に残っていたガドフリーに掴みかかるようにして、手にもっていたクシャクシャの手紙をデスクに投げ捨てるように置いた。

「ううむ、事態は深刻になってきているようだな……ティム、よく聞けよ。」
と、ガドフリーはティムを真剣な眼差しで見つめ、ボサボサで少し薄くなった頭髪を整え、呼吸を落ち着かせた。

「マックスがいなくなった理由から説明しようか……数年前、マックスは何者かに徐々に記憶を失っていくように呪いをかけられた。もちろん、誰が呪いなんてものをかけたかも調べたが、何も掴めないうちにマックスの症状は表面化してきたんだ。そこで、マックスはティムを俺に預けて、呪いを解く方法を見つけるために各地を巡ることにした。まずはマックスは呪術都市(シャーマン・シティ)とも呼ばれる“ノーレック”に向かった。俺はその間に取材と情報収集を地道に繰り返し、実は時折、お前にも手伝ってもらっていたんだが、全てを話すことができなかった。」

「ティムに“虹星の叡知”に行ってもらう理由は幾つかある、マックスが社会的に復帰して健在であるとアピールすることで敵の尻尾を掴むチャンスを作ることと、“虹星の叡知”に赴いて彼の記憶を集めてくることだといえる。長い間、マックスは教授として“虹星の叡知”にいたから其処には何か手がかりがあるはずだ。アルコ・イリスクロニクルとして情報を集め、“虹星の叡知”で知識を高め、目に見えぬ何者かの陰謀を打ち砕かないといけない。」

話を聞いたティムは大きくゴクリと唾を呑みこみ、何も知らずに過ごした数年間の無力さと、これから起きるであろう事の重大さに押しつぶされそうになっていた。

「おい、ティム!大丈夫か?これはお前にしかできないんだ…マックスはお前を一人の男として頼りにしている。俺もお前を見込んで色んな仕事を頼んできた、それを全て期待以上の結果を残して応えてきたお前ならできるさ。ただ、気をつけろよ、マックスになるということは敵も多く、呪いをかけた連中が狙っているかもしれないからな。」

ティムはそれに覚悟を決めたように肯いたが底知れない不安は拭いきれず、手紙が書かれている間は未だ記憶が完全に失われていないということ、それが残された猶予を示していた。

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最終更新:2011年06月23日 09:59
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