03-酒を飲み語る天使(前編)

「なーんか納得できねえよな」
 先ほどまでのボロボロの衣服は脱ぎ、ゆったりとした民服姿のミヒャエルは言った。
 体も洗ったおかげですっかり身奇麗になっているが、表情は浮かない。
「全くだ」
 マッシグも微妙な面持ちで頷いた。
 彼らは今イットーが泊まっている部屋の階下にある酒場に来ていた。
 勿論これには理由がある。
 ミヒャエルとしても捕まった以上、さっさと仕事を終わらせて逃げたかった。
 それで、今度の縁結びをどうするか打ち合わせをしようとしたのだが。
 その前にイットーが顔をしかめるといきなりミヒャエルに言い出した。
「臭い」
「は?」
「キミ匂いが凄いよ。何て言うか生ゴミみたい。ちょっと耐えられないなぁ。悪いけど体洗って服を着替えてくれないかしら?」
 そりゃぁ、まぁ逃亡生活をずっと続けていたのだから風呂はおろか体を洗う機会なんぞなかった。
 体臭も服に染み付いた匂いもさぞかし凄まじかろう。
 さっぱりできるならば願ったり叶ったりである。
 あらかじめ用意してあったのかサイズがジャストフィットな新品の衣服を差し出され、続いて入浴代を渡されたミヒャエルは宿の近くにある狭く汚くボロい共同浴場に体を洗いに行った。
 そして、数十分。
 ミヒャエルはすっかり身奇麗になり、帰ってきた。
 だが、戻ったミヒャエルを待ち受けていたのは、すっかり部屋で爆睡中のイットーであった。
「ちょっと疲れたから寝るね。もう詳しいことは明日で良いでしょ?ボク眠いんだもの」
 ミヒャエルが体を洗いに行ってすぐ、彼はそう言い残しまどろみの世界に入ってしまったらしい。
 疲れたから速攻寝るって子供か!
 そうは思ったが、今更何を言ったところでどうしようもできない。
 むしろ無理に起こして臍でも曲げられたほうがうざい気がした。
 昔から言うではないか寝る子は起こすな。
 故にミヒャエルはそのイットーの眠る前に残した言葉に従うことにした。
 とは言え、ミヒャエルは結果として手持ち無沙汰となってしまった。
 そこでイットーの側で途方にくれているマッシグを誘い、飲みにでも行くかという流れになった次第である。
 場所はイットーの護衛もあるので階下の酒場になった。
「しかしまー、アンタよくあんなのと四六時中いて我慢できるよな。感心する」
 チビチビとコップに入った酒を舐めるように飲みながらミヒャエルは言った。
 マッシグもまた酒に口をつけ答える。
「仕事だからな」
「あ、割り切ってんだ?」
「そうでなければやっておれん」
 からかうようなミヒャエルの言葉にマッシグは眉間の皺を一層深くした。
 さらにグラスに口をつけ、ため息を一つ。
「無論、今でも一神官としてイットー様を尊敬はしている。だが、あのお方は倫理感を含め色んなものに対しての世間とのズレが大きすぎる。正直理解が出来ん」
「人間としては全然ダメだかんなー。そもそも、常識てのが理解できないだろうし」
「どういう意味だ?」
「見た目は萎びたオッサンだけど、アイツは頭も心もガキつーか、赤ん坊みてーに真っ白なままなんだよ。常識とか世間のルールなんてものは存在して無い。存在してないものは理解できないだろ?」
「馬鹿な!」
「だからこそ、聖人なんじゃないのかね。その代わりといっちゃなんだが、悪意、欲望、打算なんてものももってない。あるのは善意だけってね。いかにも聖人っぽいじゃん」
「しかし、お前だってイットー様の男女遍歴は知っているだろう。肉欲は経典にも記されている戒めの一つだ」
「女とヤったから、肉欲?」
「うむ」
 重々しく頷くマッシグ。
 それをミヒャエルは鼻で笑い飛ばした。
「アホくさ、肉欲? 肉欲ね! ハッ、イットーにそんなものねぇよ」
「嘘を言うな!」
「ま、信じられねーのも無理はないがな。でも、事実だぜ。お前が今言ったんじゃねーか。肉欲は戒めの一つだって。戒律を日常的に破る男が神の寵愛を受け続けられると思うか?」
「しかし、実際にこの目で見ているのだ。お前だって見たではないか」
「ああ、さっきも景気よくヤってらっしゃったな。だが、それはたいして重要なことじゃねぇ」
「何だと?」
「問題は行為の是非じゃねぇ。目的がどこにあるかだ」
「どこにって…」
 ミヒャエルの言っていることが理解できず、眉をひそめるマッシグ。
 そんな彼に天使は酒を飲み飲み説明する。
「肉欲を戒める理由は己が欲望に身を任せ快楽に溺れる罪だからだ。つまり目的が快楽なら当然アウトだわな。でも、そこに一切欲が絡んでないとしたら?」
「そんなことはありえん」
 ミヒャエルの言葉を一瞬で否定するマッシグ。
 それを聞いて彼はため息をつく。
「大人の視点だな。しかたないか、常識ある大人だモンな」
「何が言いたい」
「お前がさっき自分で言ってた通りだよ。お前はあいつを理解できて無いってこと」
 その言葉にさっとマッシグの顔色が変わった。
「ならばお前はどうなんだ?」
 天使を睨みつけ、底冷えのする声で問う。
 何故これほどまでに怒りを覚えているのか。
 それは彼自身にも説明できなかった。
 イットーと言う人間が理解できない。
 そんなことは彼が一番分かっている。
 目の前で酒をかっ食らっている天使の言葉通り、自分でさっき口にしたことだ。
 では、何故、コイツの言葉に心をかき乱される?
 何故。
 マッシグは苛立ちを隠そうともせずにさらに問うた。
「お前は理解しているというのか、ミヒャエル・アラッティモ!」
「大声出すなよ。他の客に迷惑だろ」
「はぐらかすな!」
「別にはぐらかしちゃいねぇよ」
 飄々と肉を美味そうに目を細めて食べながら、天使。
 彼は口に含んでいた肉をゴクリと飲み込むと横目でマッシグを見据えた。
「お前、聖人ってどんな人間だと思う?」
 突然投げかけられた予想だにしない質問に彼の思考が一瞬停止した。
 意図が理解できない。
 この話の流れの中でどうして聖人について問われるのか。
 しかも、訊ねてきたのは天使。
 答えを求められているのは司祭である。
 何ともシュールな光景ではないか。
 いや、そんなことはどうでもいい。
 問題は意図だ。
 ミヒャエルは自分にイットーのことを理解していないと言った。
 そのうえでこの質問をしてきている。
 ならば、この問は自分が欲している解答に結びついているに他ならない。
 マッシグは混乱する頭で考えた。
 そして、彼は答えた。
 実に言いにくそうに。自信なさげに。
「か、限りなく神に近い…存在?」
「何で疑問系なんだよ。司祭なんだろ!」
「いや、あまりに深い質問なので、つい」
「全然深くねぇって!」
「本当か?」
「ここで嘘ついても意味無いじゃん。つか、何でお前がそんなに不安そうなのかが分からん。おまけに答え自体、超中途半端だし」
「こ、これでも精一杯考えたのだぞ!」
 訴えかけるようなマッシグの抗議にミヒャエルは小さく息をついた。
 そして、グイと酒を一口飲むと言った。
「聖人の前提はまず神に愛されていること。コレは分かるよな?」
「うむ。聖人とは神の寵愛を受け様々な奇跡を起こす。古来より記されてきた聖典にもそうある」
「そして、俗世のしがらみには縛られない。欲とか憎しみとか妬みとかそういったものからはかけ離れた清らかで純真な存在である。これもOKか?」
「聖人とは悟りを開き神の様に清らかなる魂を持ちし存在。無論、異論は無い。しかし、それは皆神殿で教えられたことではないか。神学を学んだものからすれば初歩の初歩だぞ」
 ミヒャエルの説明に怪訝そうにするマッシグ。
 彼の顔には『ここまでもったいぶった前振りしておいてそんなことかい』と不満が出ている。
 ミヒャエルはそんな彼を見ると指を一つ立て、言葉を続けた。
「仰るとおりだ。今俺が言ったことはアンタたちなら知ってて当然の常識的なことにすぎない。じゃあここで一つ質問をしよう。アンタたちが言う聖人とは誰が作る?」
 彼の質問にマッシグはバカにしたように鼻を鳴らした。
「そんなもの、神に決まっている」
 そして、それを聞いたミヒャエルも同じように鼻を鳴らす。
「見事なまでに教科書通りの答えだな。だが、それは正解じゃないな」
「何故だ? 神以外に誰が聖人を作る!」
 ミヒャエルは酒を舐めるように一口含み、コクリと喉を潤した。
 そして、彼の質問に簡潔に答えた。
「お前たちだ」
「は?」
 唐突過ぎる言葉にマッシグが戸惑いを顔に浮かべる。
 ミヒャエルはめんどくさそうに説明を補足した。
「だーからー、人だよ。聖人を聖人とたらしめるのは人だっての。聖人ってのは生まれながらにして聖人じゃないってのは、アンタたちが読んでる聖典とか言う奴を見れば一目瞭然だろ? その本に名前のあるどの人物も最初はただの人じゃんか。勿論神に愛され、恩恵は受けてるけどさ。でも、そういった奴らが聖人と呼ばれるまでには過程があるよな。物語と言うか、平たく言うとそいつらが行った善行を目の当たりにした者達がそれを『奇跡』とか言っちゃって讃える。別に打算なんて無く良かれと思って行う行為を褒める。そして、その行為を幾度と無くする内に噂は噂を呼び、その者は本人が望む望まないに関わらずいつしか聖人と呼ばれるようになる」
 耳に飛び込んでくるミヒャエルの言葉。
 それを聞くうちにマッシグの顔は強張っていった。
「さて。そこで最初の話に戻るわけだ。イットーはな、欲得で動く人間じゃない」
 マッシグを真っ直ぐに見つめ、ミヒャエルは言った。
「それはお前だって多少は感じてるだろ?」
 彼の言葉にマッシグは黙り込んでしまった。
 信じがたい物言い。
 突飛な行動。
 しかし、それをした彼の目はいつも澄み切り、そこに悪意のようなものは感じられなかった。
 まるで予想外のことをしでかして親を振り回す無垢な赤ん坊のように。
 では彼を突き動かしているものはなんなのだ?
 神に対する信仰心か?
 眉間に深い皺を刻み苦悩の表情を浮かべるマッシグ。
 そんな彼の心を読んだかのようにミヒャエルは続けてとんでもない爆弾をぶつけた。
「ちなみにアイツ、うっかり法王とかまでいっちゃったけど、多分信仰心無いから」
「え…?」
「いや、だから、あいつの功徳してる理由って、別に神の教え守ってとか、司祭だからとか、そんなんじゃないから」
「ええええええええええええ!?」
 何を言い出すんだ、コイツは!
天使のとんでも発言にマッシグは目を丸くし、柄にも無い妙な大声を上げてしまった。
「しかし、お前、あの方は神に愛されてると言ったではないか」
「言ったよ。確かにイットーは神に愛されてる。つか、気に入られてる。でも、それとこれとは別問題だよな。それとも、神に愛されてる奴は皆、お前らの思い描いてる聖人的な行動ってのをしなくちゃならないって法律でもあるわけ?」
 そんなものはない。
 だが、そんなものだとずっと思っていた。
 聖人とは神に選ばれたもの。
 ならば、そうあるであるべき人物がそうなっているものだと。
 そう思っていた。
 しかし、言われてみれば確かにイットーは法王に見えない。
 おまけに目の前のコイツだってとても天使には見えない。
 そう考えてみれば彼の言葉には妙な説得力があるような気がする。
 それでも、マッシグは目の前の天使に反論した。
「だが、あの方は仮にも先の法王様だ!」
「そうだよ、アイツはついこの前まで法王だったよ。それがどうした?」
「それがどうしたって…」
 彼にしてみれば説得力ある抗弁のつもりだった。
 資格なくば地位は得れない。
 だが、天使はそれを一瞬で一笑に付した。
「肩書きだけで判断すんなっての。これってお前らが普段言ってることだろ?」
 神の前では誰もが皆平等である。
聖典の教えを引用しながら皮肉たっぷりに彼はこう言った。
「いいか? だから、お前は大人目線だって言うんだよ。アイツは人から評価して欲しいとか地位があるからとか教えがどうだからとか一切思ってない。アイツの頭にあるのは一つだけだ」
「何なのだそれは?」
「『困っている人がいたら、力になってあげたい』だ」
 天使の言葉に司祭は黙りこくってしまった。
 返す言葉が出なかったのである。
 そんな彼を見て天使は言葉を続けた。
「どうだ、単純だろ?」

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最終更新:2011年06月23日 10:54
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