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源 融
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asaahingaeaw
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陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし 我ならなくに
人物像
| 実父 | 嵯峨天皇 |
| 実母 | 大原 全子 |
| 兄弟姉妹 | 仁明天皇、有智子内親王、源 信、源 安、源 鎮、源 勤、源 潔姫 |
| 配偶者 | 藤原 総継の娘 |
| 子女 | 湛、泊、昇、望、副 |
| 生年 | 弘仁13年(822年) |
| 没年 | 寛平7年(895年) |
| 官位・役職 | 侍従→右近衛中将→公卿→右衛門督→参議→中納言→陸奥出羽按察使→大納言→東宮傅→左大臣 |
経歴
仁明天皇朝の承和5年(838年)元服して正四位下に直叙され、承和6年(839年)に源 融として臣籍降下し侍従に任ぜられる。仁明天皇朝末の承和15年(848年)右近衛中将に任ぜられると、嘉祥3年(850年)正月に従三位に叙せられ、29歳で公卿に列す。文徳天皇の即位後の同年5月に右衛門督に任ぜられて引き続き武官を務め、斉衡3年(856年)参議に昇った。
清和天皇朝に入っても、天安4年(859年)正三位、貞観6年(864年)中納言と順調に昇進する。同年3月から貞観11年(869年)1月までは陸奥出羽按察使も兼任した。この頃、異母兄の左大臣・源信と大納言・伴善男が不和の状況にあったが、同年冬には源信が融・勤兄弟と反逆を謀っているとの投げ文があり、騒ぎになったという。その後、貞観8年(866年)応天門の変が発生して、伴善男は失脚、源信は籠居して出仕を取り止めてしまい、結局貞観10年(868年)に源信も事故死してしまった。加えて、この間の貞観9年(867年)には右大臣・藤原良相や大納言・平高棟といった大官が相次いで没したこともあって融は急速に昇進する。貞観12年(870年)大納言に昇ると、貞観14年(872年)には太政大臣・藤原良房の薨去に伴い、融は左大臣に任ぜられて太政官の首班に立った。良房によって融は太政官の筆頭に祭り上げられ、その遺命により東宮傅を兼ねたが、実際の政治は右大臣・藤原基経が執った。
このような傀儡の立場を憂い政治への情熱が失せてしまったらしく、貞観18年(876年)自ら東宮傅として仕えた貞明親王(陽成天皇)が即位し、藤原基経が天皇の外戚として摂政に任じられたことをきっかけに、融は自宅に引籠もった。
元慶8年(884年)陽成天皇の譲位によって皇嗣を巡る論争が起きた際に「いかがは。近き皇胤をたづねば、融らもはべるは」(自分も皇胤の一人なのだから、候補に入る)と主張したが、源氏に下った後に即位した例はないとして、基経に退けられたという逸話がある(『大鏡』)。しかし当時、融は私籠中であり、史実であるかどうかは不明である。なお、光孝天皇が即位すると融は政務に復帰した。その後、光孝天皇が崩御すると、天皇の子は全て臣籍に降下して源氏となっていたが、基経は源氏に下っていた源定省を皇籍に復帰させて即位させている(宇多天皇)。なお、『大鏡』の逸話は宇多天皇即位時の逸話を後に摂関家発展のきっかけとなる光孝天皇即位時の逸話に付け替えたのではないかとする考えもある(安田政彦)。
仁和3年(887年)宇多天皇の践祚に伴って阿衡事件が発生し、藤原基経が政務をボイコットしてしまうと、融は天皇の命令を受けて基経の説得に当たるが、奏功しなかった。翌仁和4年(888年)基経の政務放棄を憂慮した融は、明経博士・善淵愛成ら学者たちに対して「阿衡」の職掌の有無を諮問したが、典職(定まった職掌)なし、との解釈となった。その後も基経は阿衡の問題が解決しなければ政務に復帰できないと回答があったため、やむなく融は勅を改めるべきと天皇に進言し、勅が取り消された。この間の仁和3年(887年)11月に融は従一位に叙されている。寛平3年(891年)関白太政大臣・藤原基経が没し、融は再び太政官の首班に立った。
寛平7年(895年)8月25日薨去。享年74。最終官位は左大臣従一位。没後正一位の贈位を受けた。