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福知山線脱線事故
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asaahingaeaw
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福知山線脱線事故は日本最大級の鉄道の事故の事である。2005年(平成17年)4月25日に西日本旅客鉄道(JR西日本)の福知山線(JR宝塚線)塚口駅-尼崎駅間で発生した列車脱線事故である。乗客と運転士合わせて107名が死亡、562名が負傷した。2005年(平成17年)4月25日(月)午前9時18分ごろ、兵庫県尼崎市久々知にある福知山線塚口駅-尼崎駅間の制限速度70 km/hの右カーブ区間(曲率半径304 m。塚口駅の南約1 km、尼崎駅の手前約1.4 km地点、尼崎駅起点上り約1.805 km地点)を宝塚発JR東西線・片町線(学研都市線)経由同志社前行き上り快速(列車番号5418M、7両編成が116 km/hで進入し、その列車の前5両が脱線した。脱線したうち前4両は、線路から完全に逸脱。先頭の2両は線路脇の分譲マンション「エフュージョン尼崎」(2002年竣工)に激突。先頭車は1階ピロティ部の駐車場へ突入し、2両目はマンション外壁へ横から激突しさらに脱線逸脱してきた3 - 4両目と挟まれて圧壊。外壁にへばりつくような状態で、1 - 2両目は原形をとどめないほどに大破した。また、3 - 4両目は反対側の下り線路を支障していた。

オーバーランの隠蔽
事故列車は、直前の停車駅である伊丹駅で所定の停車位置を超過(オーバーラン)していた。これについて、事故が起きる前に運転士が車掌に対して「まけてくれへんか」とオーバーランの距離を短く申告するように打診し、
車掌が新大阪総合指令所(現・大阪総合指令所)に対して72 mのオーバーランを8 mと報告し、JR西日本も当初車掌の証言通り8 mのオーバーランと発表していた。また、塚口駅通過時に、約1分遅れと伊丹駅発車後に比べて遅れを約30秒回復しているとの証言がある。このことから、事故後にほかの路線や鉄道会社において発生した列車のオーバーランについても大きくクローズアップされた。

事故後
さらに、JR西日本が事故当日に行った発表の中で、線路上への置石による脱線の可能性を示唆したことから、愉快犯による線路上への置石や自転車などの障害物を置くといった犯罪も相次いだ。事故後、現場の曲率半径304 mの曲線区間は制限速度70 km/hから60 km/hに、手前の直線区間は120 km/hから95 km/hへとそれぞれ変更された。事故発生と同時刻には、並行する下り線に新大阪発城崎温泉行きの特急「北近畿3号」が接近中であった。事故車両4両目が下り線を短絡したことにより、事故現場付近の下り第一閉塞信号が停止現示、手前の下り第二閉塞信号が注意現示となったため、これを受けて北近畿3号運転士は列車を減速・停止させようとしていた[10]。さらに、事故を目撃した近隣住民が近くの踏切支障報知装置(踏切非常ボタン)を押したため、特殊信号発光機が停止信号を現示。運転士はこれを察知し、同特殊信号発光機のおよそ40m手前に停止させたことで二重事故は回避された。なお、運転士は停車後、防護無線を発報している。
犠牲者
近隣住民および下り列車に対しての二次的被害は免れたものの、直接的な事故の犠牲者は死者107名(当該列車の運転士含む)、負傷者562名を出す、交通機関の事故としては歴史に残る大惨事になった。犠牲者の多くは1両目か2両目の乗客で、受傷理由として脱線衝突の衝撃で車体が圧壊し内装部材や車体に押し潰されたことによる損傷などを負ったとするものもあるが、最も多かった死因は、車内で飛ばされるなどして打撲受傷した、頭蓋底骨折、陥没骨折などによる脳挫傷、急性硬膜外血腫、硬膜下血腫などの脳と頭部の損傷であり、死者のうち42名、全体の40%を占めていた。そのほかに胸腹腔内損傷、胸腹部圧迫による窒息死(圧死)、頚椎損傷、骨盤骨折による失血死やクラッシュ症候群(クラッシュシンドローム)などであった。同じ車両から救出された生存者であってもクラッシュ症候群により手足切断など後遺障害を伴う重傷者が複数人確認されている。
事故原因
兵庫県警察および航空・鉄道事故調査委員会による事故原因の解明が進められ、2007年(平成19年)6月28日に最終報告書が発表された。航空・鉄道事故調査委員会の認定した脱線の原因については「脱線した列車がブレーキをかける操作の遅れにより、半径304 mの右カーブに時速約116 kmで進入し、1両目が外へ転倒するように脱線し、続いて後続車両も脱線した」という典型的な単純転覆脱線と結論づけた。現在では現場のATSには速度照査機能が追加されたが、2005年(平成17年)6月 - 2010年(平成22年)10月までに速度超過で列車が緊急停止する事態が11件も起こっており、速度が出やすい「魔のカーブ」とされている。なお、この脱線事故の原因の究明および以後の事故防止のために航空・鉄道事故調査委員会が調査を行った。同委員会は2008年(平成20年)10月1日に運輸安全委員会へ改組されているが、本項では組織名を航空・鉄道事故調査委員会のまま記述する。
事故原因(三行)
- パワハラにより、運転手の精神が崩壊。注意がそれた。
- 回復運転をしようと思ったらスピードを出して駅も通過。マンションへ突入。
- 線路から電車が脱線した。
JR西日本の経営姿勢が抱える問題
国鉄時代から並行する阪急電鉄などの関西私鉄各社との激しい競争にさらされており、その影響からか、民営化後のJR西日本にも競合する私鉄各社への対抗意識が強かったとされる。私鉄各社との競争に打ち勝つことを意識するあまり、スピードアップや停止時間の短縮による所要時間短縮や運転本数増加など、目前のサービスや利益を優先し、安全対策を疎かにしていたと考えられる。また同社においては、先述の競争の激しさや長大路線を抱えている点から、従業員がダイヤの乱れた時における乗客からの苦情の殺到を過度に恐れていたとの指摘もある。同社の安全設備投資に対する動きが鈍かった背景には、先述の私鉄各社との競争環境に加え、民営化後多数の赤字路線を抱えていること、阪神・淡路大震災で一部の施設が全壊および半壊するなどの被害を受けたことや、山陽新幹線のコンクリート崩落問題で多額の支出を強いられたことなどが挙げられる。これらの要因から運行にかかわる人員は大きなストレスにさらされていた。さらに運行にかかわるトラブルに対して運転士や車掌に日勤教育をはじめとした厳しい指導や処分がくだされていたことも、ストレスを増加させ事故の遠因となったと指摘されている。
日勤教育の問題
目標が守られない場合に、乗務員に対する処分として再教育などの実務に関連したものではなく、日勤教育という懲罰的なものを科していた。具体的には、乗務員休憩室や詰所、点呼場所から丸見えの当直室の真ん中に座らせ、事象と関係ない就業規則や経営理念の書き写しや作文・レポートの作成を一日中させた。トイレに行くのも管理者の許可が必要で、プラットホームの先端に立たせて発着する乗務員に「おつかれさまです。気をつけてください」などの声掛けを一日中させたり、敷地内の草むしりやトイレ清掃などを命じるなど、いわゆる「見せしめ」「さらし者」にする事例もあれば、個室に軟禁状態にして管理者が集団で毎日のように恫喝(どうかつ)や罵声を浴びせ続けて自殺や鬱に追い込んだ事例もある。それが充分な再発防止の教育としての効果につながらず、かえって乗務員の精神的プレッシャーを増大させていた温床との指摘も受けている。事故の当該運転士も、過去に運転ミスや苦情などで3回の日勤教育を受け、知人や友人に「日勤教育は厳しい研修だ」「一日中文章を書いていなければならず、トイレに行くにも上の人に断らなければならないので嫌だ」「日勤教育は社訓みたいなものを丸写しするだけで、こういう事をする意味が分からない」「給料がカットされ、本当に嫌だ」「降ろされたらどうしよう」と話していた。さらに、事故直前の伊丹駅での72 mのオーバーランの後、走行中に車掌へオーバーランの距離を少なく報告するように車内電話で要請したことも明らかになっている。日勤教育については事故が起こる半年前に、国会において国会議員より「重大事故を起こしかねない」として追及されている。また、日勤教育は「事故の大きな原因の一つである」と、多くのメディアで取り上げられることになった。国土交通省の事故調査報告書は、日勤教育について「ほとんど精神論」と断じ、事故原因として「日勤教育等のJR西日本の管理方法が関与したと考えられる」と報告している。
ダイヤ面での問題
事故発生路線である福知山線は、阪急電鉄の宝塚線・神戸線・伊丹線と競合しており、他の競合する路線への対抗策と同様、秒単位での列車の定時運行を目標に掲げていたとされている。特に尼崎駅においては各線と乗り継ぎできるダイヤを組んでいたため、列車の定時到着は乗客へのサービス上、ほぼ絶対の要件であった。停車駅を次々と追加したにもかかわらず、所要時間は2003年(平成15年)12月に快速が中山寺駅に停車するダイヤ設定前と同じであったため、余裕時分を削って以前と変わりない所要時間で走らせ、慢性的な遅延が出ていることは問題視されていた。特に当該列車においては基準運転時分通りの最速列車で、事故発生区間である塚口駅 -尼崎駅間では2004年(平成16年)10月のダイヤ改正によりさらに短縮されていた。当時のJR西日本は施策で「余裕時分全廃」を掲げていた。
信用を全て失ったJR西日本
JR西日本のイメージが日勤教育及び恫喝というイメージが強くなり、年々、バスと飛行機の搭乗の方が増していると考えられている。