[[元ネタ語録]] > 知られざる歴史 創価学会 ---- (テロップ:この作品はアメリカのテレビ番組用に制作されたものです。) 今日もまたサラリーマンが職場へ急ぐ経済大国日本。 日本人は世界に類を見ない勤勉さでこの繁栄を作り上げた。 家庭生活よりも仕事を優先する精神は会社への忠誠心の現れとして評価されてきた。 その精神が国家に統括された時代があった。 国のために死ぬことを厭わない忠誠心が無謀な戦争を支える最大の力となった。 軍「バンザーイ!!バンザーイ!!」 「日本は神の国である。」「戦死した兵士は神である。」戦争を美化する価値観が軍部政府、そして財閥によって功名に作り上げられ、若者たちはその命を戦場に散らせていった。 戦争を神聖化する思想を支えたのは国家神道であった。 しかし戦況を巻き返す神風はついに吹くことがなかった。 終戦と同時にアメリカが日本に持ち込んだ思想は人々の価値観を根底から覆すものだった。 それが民主主義である。 民主主義とは人民が主権を持ち、人民の意思を元にして政治を行う体制のことである。 その思想は1人1人の意見を尊重し、自由で平等な社会を作ろうとする意思にある。 歴史上日本では、民衆に力を与える運動は国家の秩序を乱すものとして厳しい抑圧を受けてきた。民衆の幸福の追求を訴えた創価学会の運動もまた常に弾圧されてきたのである。 13世紀の仏法僧日蓮。その教えを唯一絶対のものとする創価学会は弾圧をも受けながらも脅威的な発展を遂げてきた。創立以来70年、この1つの民衆運動は代々カリスマ的リーダーによって導かれてきた。 1000万人もの会員を擁し、なおも発展し続ける創価学会とはいかなる団体なのだろうか。 (タイトル:Embattled Buddhists Under The Rising Sun) (タイトル:知られざる歴史 創価学会) インタビュアー「創価学会についてどういうイメージをお持ちですか?」 インタビュイー1「&bold(){私は嫌いですから・・・}」 インタビュイー2「&bold(){なくなった方がいいと思ってます。}」 インタビュイー3「&bold(){創価学会!?創価学会なんかダメに決まってるやん!}」 創価学会に拒否反応を示す人は少なくない。その原因はどこにあるのだろうか。 学会員「南無妙南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経・・・」 13世紀の伝統仏教を信仰しながら、創価学会は極めて現代的な形で社会に存在している。 学会の会員たちは山奥にこもって瞑想しているわけではない。 社会の一員としてそれぞれの仕事に励みしっかりと生活している。 政治運動にも積極的に参加する。日本人は意見を曖昧にして摩擦を避ける傾向にあるが、学会への評価だけは真っ二つに分かれ、批判者は言う、「創価学会は自分たちの価値観に日本を同化させようと目論むカルトである」、一方学会員たちは、「庶民に力を与えるための民衆運動だと主張する。」 創価学会は、なぜ攻撃され続けるのか。それは学会の源である日蓮仏法に関係するのだろうか。その答えを13世紀の仏法僧、日蓮の生涯に探ってみよう。 (テロップ:鎌倉) 日蓮は鎌倉時代の僧侶である。 鎌倉は13世紀に幕府が置かれ武家政治の始まりとなった地である。 観光客で賑わう鎌倉の海岸。この地を訪れた若き日の日蓮が、この海岸に見たのは、浜辺を埋め民衆の死体だったという。 (テロップ:東北大学助教授 佐藤弘夫) 東北大学で宗教学を教える佐藤弘夫教授は、鎌倉仏教研究の権威である。 佐藤弘夫「今あの、この鎌倉のその海岸は、そのサーファーたちににぎわってますけれども、あの海岸がたくさんのその死体でその埋まるようなそういうな状態がその続いた。」 13世紀の鎌倉には天変地異が続いた、地震・洪水・干ばつ・飢饉・疫病。 民衆はその全てのしわ寄せを受け、想像を絶する犠牲を強いられた。 (テロップ:荘園) 当時農民は、荘園と呼ばれる寺や神社が所有する土地に住みその農地を耕して年貢を収めた。しかし寺・神社は権力者が立てたものである。 災害による飢饉が発生しても納める年貢が減るわけではない。 民衆は飢えて倒れ、夥しい屍が通りを埋めつくした。 仏や神の土地にすまわしてもらって年貢を納めないことは神仏への大罪であり反逆である。 「死んだ後に地獄へ落ちる。」僧侶は民衆にそう教えていた。 当時の仏教の使命は権力者を守ることであった。 佐藤弘夫「災害・(不明)とかですね、地震とかなんかがあると、あの作物がほとんど取れないような、その状態になってくる。そういう時に全てのしわ寄せはその民衆に来るという風なそういうなその時代だったんですね」 鎌倉の僧侶たちは、苦悩する民衆にこう教えた。 死んだら必ず極楽浄土へ行ける。何も心配することはない。 死後の救済を解く仏教に、日蓮は真向から異議を唱えた。 (テロップ:日蓮) 目の前で飢えていく人にそれが何の慰めになろう。そんな浄土は幻想にすぎない。 日蓮は1222年、貧しい漁師の家に生まれた。 12歳で天台宗の寺に入山。以来、各地のあらゆる宗教を訪ね歩き、むさぼるようにブッダの教典を学んでいった。 どこへ行っても、宗教は退廃していた。 苦しむ民をよそに、宗教は権力者に取り入ることだけにあけくれていたのである。 (テロップ:護国仏教) 佐藤弘夫「日蓮以前のその護国仏教や、権力者のその考えるその国を守るという風な概念っていうのは、その国をその支配してるその権力者をいかにしてその安泰にならs、しめるかという風なことが第一のその目的だったわけですけれども、日蓮の場合にはその権力というのはその1番守るべき目的ではなくて、最もその仏教を守るべきものはその民衆なんだ。」 民衆救済への道を日蓮は法華経に見出した。 (テロップ:法華経) 法華経は、死後の極楽浄土よりも、現実を幸福な世界に変革することを解く仏典である。 (テロップ:立正安国論) 日連は法華経のみが民衆を救い、悪性をただすと確信し、一貫の仏教書、「立正安国論」を記した。 (テロップ:北条時頼) 鎌倉幕府五代執権北条時頼。日蓮は悪性を諫める立証暗黒論を時頼に献じた。 民あっての国である。民を幸福に導かぬ権力者は必ず失脚する。国家の安泰を図るには法華経による他なし。日蓮の考えは、武士たちに受け入れられるものではなかった。そればかりか民衆を惑わす罪人とされ、伊豆に流されたのである。 佐藤弘夫「日蓮、というのは、あのおそらくその日本の仏教史の中で、最もその波乱万丈のその人生を送った、あの、人という風にあの、言うことがその、できると思います。で、あの1番最初はあの、(不明)が焼き打ちにあっていますし、その後鎌倉幕府からその伊豆にその流されて、それからその後、あの故郷の安房国にその帰った時に、あのそこでまたあの付け狙われて、攻撃をその受けるという小松原の(不明)というのがありますね。でその後今度はあの再び鎌倉幕府によって、その佐渡の国にその流されて、そしてその前にあの首を切られそうになる。」 日蓮による再三の諫言は、ついに理解されることはなかった。 幕府はやはり己れの牽制を守るのみ。生なき民衆に法華経を広げ、民衆の力によって世を変えることこそが大事だったのだ。 身延山に入った日連は弟子の育成に全力を注ぎ、教えを書き残し続けた。 61歳で没するまで権力に屈することはなかった。この教えが700年後再び権力と対峙することとなる。 太平洋戦争前、欧米の植民地支配からアジアを解放するというスローガンを掲げ日本はアジア各地へ侵攻した。 侵攻の目的は大東亜共栄圏の樹立であった。 (テロップ:大東亜共栄圏) 欧米の支配を退け、アジアの諸民族が共に栄えるための新しい秩序を気づくというものである。 しかしその実態は欧米に変わって日本がアジアを支配しようとする構想であった。 権力者たちは戦争の大義名分をざして全民衆をその戦力としたのである。聖戦の名のもとに人々の精神は統一された。 (テロップ:聖戦) その命を捨てて見知らぬ戦場に赴く若者を親たちは歓呼の声で見送った。 戦争を神聖化する精神の支柱が天皇を神とした国家神道であった イリノイ大学教授 井上京子「国家神道は、国家崇拝を行う国家主義の宗教です。日本の政治的指導者たちは、政府の侵略行為への国民の支持を得るために、国家神道を利用しました。重要なことは国家神道の中心に天皇の役割があったことです。(英語)」 日本良い国清い国。世界に1つの神の国。国家神道の天皇を神とする教育が徹底的に行われた。 (テロップ:少國民) 子供たちは小國民と呼ばれた。小國民とは国民に準ずるもの。つまり天皇に命を捧げる国民の予備軍という意味である。 この教育体制に異議を唱えた教師がいた。牧口常三郎。創価学会の前身となる創価教育学会を設立した人物である。 (テロップ:軍事教練) 「国家神道は間違っておる。なぜ子供たちに大量殺戮の方法を教えねばならんのか。国家の目的を優先させる教育は、国を滅ぼす。」 牧口は、早くから教育改革を主張し、日本の国粋主義を批判していた。 富国強兵政策の影で民衆の暮らしは貧しかった。 (テロップ:柏原ヤス) 柏原さんは当時小学校の教員であった。 柏原ヤス「あの頃は軍国主義だからね。兵隊を作る、教育ですよ。(不明)先生は、人生の目的は幸福だと。」 戦時下において、人間の幸せを解く牧口の教えは衝撃だったと柏原さんは 言う。牧口が教職についたのは明治26年。教育勅語が発せられて、3年後のことであった。 牧口は教育が統制されることに反発し、教育現場における国家の監視を廃止せよと訴えた。 その大胆な発言は、牧口を学校から学校へと追いやることになる。教育は政府の厳しい統制のもとに置かれていたのである。 一體國民教育の 目的如何 七面倒なる解釈を 為さんよりは 汝の膝下に預かる その可憐の児童を 如何にすれば 将来 最も幸福なる生涯を 送らせることが 出来るか という問題から 這入っていく方が 時に取って 適切なることと 感ずるものである (テロップ:藁科 友彌) 藁科さんは小学校1年から6年間に渡り、牧口のもとで学んだ。 藁科友彌「小学校5年生の時です、5年生の年の時にね、4つの組の230人を1つ の講堂へ集めましてね、牧口先生が、その230人を対象に平和のねえ、講義をやったんです。」 (テロップ:教育勅語) 子供たちは国民は天皇の家来だと教える教育勅語を徹底的に暗唱させられていた。 藁科「一旦緩急あれば義勇公に奉しという、そういう一説の言葉があった、戦争になったらば、ともかく何のかんの言っても、もうそれはもう全て捨てて、ともかく自分のことは考えないで全て国のために尽しなさい、命をかけてね、国の為に尽くしなさいということなんです。それはね、牧口先生の指導とはもう全然、もう百八十度違うわけです。牧口先生が言われてるのは、もし戦争が起きたらこうだよっていうんじゃなくて、戦争が起きないようにするのが主目的なんだから、そういう風にしていこうじゃないかというご主導でしたね。みんなでもって平和で尽くそうと、そういう気持ちに燃えましたね。本当に。」 (テロップ:1928年 昭和3年) 中国への侵略が進む中、国内では特別高等警察家が設置され、暗黒の時代へと突き進んでいた。行く末を憂い、社会の変革を模索していた牧口は、日蓮仏法にそれを見出した。 大正大学教授 田丸徳善「日蓮ってのはそもそも非常にある意味では、その当時の政府に対して非常にこう、なんていうか、勇敢にね挑戦した人ですから、日蓮のモデルにならって、えー国家の言う通りにならなかった。」 (テロップ:1930年 創価教育学会設立) 牧口は日蓮仏法による教育変革を目指し、1930年、創価教育学会を設立した。 国家を大善に 導かなければならない 余は公益を善というと 定義するものである (テロップ:戸田 城聖) 戸田城聖が、牧口を支えた。戸田は、牧口が校長を務める小学校の教員で、牧口の愛弟子であった。教育が、人間と社会の変革をなしうると考えた牧口は、教育改革運動を開始した。 1941年真珠湾攻撃によって、日本は太平洋戦争へと突入した。 政治も経済も国民も宗教もその全てを結集した全面戦争であった。 牧口は、義憤に燃えた。 実証の伴わざる関連論に従って、貴重なる国民全体の生活を犠牲にすることは、絶対に戒められなければならん。 これについてはまず1番に、神社問題が再検討されなければならない。 国家による宗教統制が加速する中、それは危険な言動であった。 田丸徳善「国家の目的に、今その、沿わないっていうか、反対すると判断されたものは、その不敬罪、治安維持法によって、後になればなるほど厳しく抑えられた。」 牧口はあえてこの危険を犯すことを選択した。 緊迫した状況をも顧みず、全国各地を回り何百もの座談会に出席した。 「この戦争は国難である」 牧口は集会で進行中の戦争をそう批判した。 集会に参加した柏原さんは牧口の言葉を覚えている。 柏原ヤス「とんでもないことだ!って。ねぇ、日本の国のs、うーん、戦争がアメリカのね、あの力に勝てるわけないもん。」 (テロップ:特高警察) 創価教育学会の集会には、監視の目が張り付いていた。 神社参拝拒否を指導する牧口は特攻警察の監視下に置かれていた。 柏原ヤス「特高のメンバーなんかも来てたわよ。それで神様の話とか、神札の話になるとさ、あの、「やめえ!」って言ってさ、その特高がさ、そんなこと言う資格ないじゃない。その座談会自由にやってる座談会なの。「やめ!」ってやめさせるだけじゃなくて、解散させたりなんかしたのよ。」 田丸徳善「国家のそういう意向に反すると判断されたものは、弾圧の対象になったんですね。反国家的ということであの投獄されることがよく起こります。1943年昭和18年、会長牧口・理事長戸田を初めとする、本部関係者11名逮捕。罪状は神宮の尊厳を冒涜したことによる治安維持法違反並びに不敬罪であった。翌年連合国による大空襲が始まり日本の敗戦は決定的なものとなっ た。苛烈な取り調べの中、11月牧口常三郎獄死。 (テロップ:牧口常三郎 獄死) (不明)。翌年7月、戸田は出獄した。 戦争は終わった。日本は有史以来初めて他国の占領下に入った。焼野原に立った戸田は、そこに戦争というものの正体を見た。戸田は極度の栄養失調に侵されていた。 歩行も困難な足を引きずり、焼け跡を彷徨った。狂気の代償はあまりに大きかった。 恩師牧口はすでになく、創価教育学会も崩壊していた。焦燥と絶望、そして上が焼跡を空虚に覆っていた。 戸田は、御書の1節にすがった。 大悪起これば 大善来る 獄中で、牧口の死を知らされた戸田は、悲しみの底に突き落とされた。 その苦悩と絶望の中で戸田は誓った。氏の意思を継ぎ、民衆が国家の犠牲にならない社会・戦争や抑圧のない社会の建設を目指そう。牧口先生の死を決して無駄にはしない。 9月2日。アメリカ軍ミズーリ号の艦上において、降伏文書の調印が行われた。 (テロップ:1945年9月2日 降伏文書調印) (英語の為不明) 日本は一体どうなってしまうのか。人々は不安と恐怖のうちに進駐軍を迎えた。 しかし、連合国総司令官ダグラス・マッカーサーの最大の任務は、日本を民主化することにあった。 平和を高々に歌った日本国憲法が制定され、言論の自由・出版の自由そして信教の自由が法によって確立された。 価値観がひっくり返った中、突然与えられた民主主義は日本人にとって馴染みのないものであった。 それはちょうど進駐軍のアメリカ人にとって、仏教が珍しいものであったことに似ていた。 しかし戸田は自由がもたらす新しい可能性を見抜いていた。 まさしく時は到来した。 戸田は創価教育学会の再建に立ち上がり、日蓮仏法の哲学について講義を開始した。会場に集まった人々はひどく貧しく、皆飢えていた。 柏原ヤス「全てがなくなっちゃったわけでしょ。初めて一体自分たちはどう生きていけばいいか考えたわけじゃないの。だから戸田先生は生命論です。」 戸田の話は、聞く人々に生きる希望と活力を与えた。 苦難を 自分の宿命として 諦めるのではなく 自分の人生は 自分で 切り開くのである 人間味溢れるユーモアを交えながら、戸田は人々に現実から逃げずそこにしっかり根を張って生きるのだと解いた。その力強い講義は、どんな悲惨な状況をも変えていく力が1人1人に備わっているのだと人々を確信させた。 (テロップ:創価学会) 創価教育学会は創価学会と改名され、急速に拡大した。 会員数はまだに5000所帯を超えた。 しかし戸田は、日本の政治状況をなおも憂慮していた。民主主義という看板の裏には、未だ変わらぬ権力構造が厳然と存在していたのである。 文芸評論家 岡庭昇「戦後の、え、あーえー、ご存知かどうか知りませんが、えー55年体制というのがあります。えー社会党・共産党というえ反対勢力もあったけども、一方に、えー自民党一党独裁体制があった。」 資本主義対社会主義・共産主義という政治体制の中で、当時庶民の声を便するような政党は生まれていなかった。 戸田は既成政党のイデオロギーにとらわれない、民衆の率直な声を何らかの形で国の政策に反映させることが重要であると考えた。 (テロップ:1955年 創価学会政界進出) 1955年創価学会は日本の政治体質の変革を掲げ、政界に進出した。 その動きへの反発が、権力側からはもちろん労働界からも巻き起こった。 (テロップ:1957年 夕張) 1957年、労働組合との最初の衝突が炭鉱の町 夕張で起きた。 当時炭鉱労働組合、いわゆる炭労は全盛期にあり、政党と結びついた巨大勢力であった。炭鉱で働くには、炭労の組合員になる他なく、しかも地元では唯一の勤め先であって、夕張で炭労に睨まれることは生活が脅かされることを意味していた。 炭労との衝突は前年に行われた参議院選挙に端を発する。 創価学会の推薦した全国候補の得票数が、炭労推薦の候補者を上回ってしまったのだ。炭労は、自分たちの候補者を応援しなかった学会員を、組合統制を満たすものとして批判した。創価学会弾圧3ヶ月計画が発表され、学会排斥運動が開始された。 中傷ビラが町中に貼られ、新聞面には創価学会をあからさまに誹謗する記事が踊った。 組合側の攻撃は学員たちの信仰そのものに向けられていた。 それは信教の自由に対する明らかな侵害であった。 事件の報告を受けた戸田は、1人の青年を夕張へ派遣した。 池田大作。時に29歳。 学会活動に身を通じて10年が経っていた。 (テロップ:池田大作) 敗戦の混迷の中で、19歳の池田は戸田と出会った。 池田大作「・・・した人は、&bold(){戦争反対して、牢獄から出た人は、こう牢獄から出た人は、私は信頼できると。}それで話も非常に普遍性である。(不明)じゃない。これは何聞いても私の心を満たしてくれる知識を与えてくれる。そういう人だな。ここに私は納得したんです。自分で。この人について色々と教えを受けようか。こう決めました。」 池田は戸田の右腕となった。学会再建に奔走する戸田のそばを、池田は片時も離れることはなかったという。後に戸田は、創価学会の未来の全てをこの青年に託すことになる。 炭鉱の町は揺れていた。夕張に到着した池田は、すぐに会合を開き抗議集会の準備にあたった。 池田の指導のも学会員である炭鉱労働者とその家族はついに立ち上がった。それは、自分たちの信仰と生活の全てをかけた戦いであった。 (テロップ:学会部隊 夕張大会) 一歩も退かぬ庶民集団を前に、組み合い側は引き下がる他なかった。池田はここに、民衆運動の勝利を宣言したのである。 しかしこの事件は後に続く権力の闘争の始まりに過ぎなかった。 夕張事件直後、池田は大阪府に出頭を求められた。 公職選挙法違反の容疑である。 池田は身覚えのない罪で逮捕された。取調べは連日深夜にまで及んだ。身の潔白を主張する池田に警察はこう言った。容疑を認めなければ学会本部を捜索し、戸田会長を逮捕する。戸田の健康状態は急速に悪化していた。投獄は命に関わる。容疑を認めるしかないか・・・。不当逮捕の抗議集会には2万人もの人々が集まった。2週間後池田は釈放されたが、無実が証明されるには、それから5年を用したのである。 (テロップ:1958年 戸田 城聖 逝去) 1958年4月、戸田城聖逝去。83万所帯に及ぶ人々に幸福への道を解いた人であった戸田の語る日蓮仏法は、まさしく今を生きる生命力に満ち溢れていた。 出獄から13年叫び続け、戦い続けた人生であった。 戸田の死によって、創価学会は空中分解するだろうとマスコミはこぞってかき立てた。一刻も早く空白を埋めるため学会幹部たちは池田に会長就任を要請し た。 戸田のもとで共に戦ってきた池田は、会長の責務が、どれほど困難で重圧であるかを熟知していた。 その時の逡巡を、池田は日記にこう綴っている。 「胸奥に嵐のごとく宿命が吹き、自分が退任を果たす運命となるか。幾度か 断れど、いかにしてもやむを得ず、決意せざるを得ぬか。」 (テロップ:会長就任式) 1960年5月、池田大作創価学会第3代会長就任。 池田大作「若輩ではございますが、本日より戸田門下生を代表して、日々の広宣流布を目指し、一歩前進への指揮をとらさせていただきます。」 会長に就任した池田は、全国を休むことなく駆け回った。創価学会の組織を維持し、さらに前進させようと懸命であった。 組織の空中分解が囁かれる中、創価学会は池田を先頭に新たな発展の時を迎えた。わずか数年の後、会員は300万を超えた。創価学会は一大民衆勢力へと拡大したのである。 池田大作「仏法は人間主義。人間から出発して人間に戻る。時代は民主主義であるならば、全民衆が主人公であって、皇帝であって。権力者やまたはその、為政者等々指導階層は、そのためへの家来だよと。これぐらい極端にしていかなければ人類の将来の自装的な幸福・平和・自由というものは勝ち取っていけ ない。」 小さな勉強会で始まった創価学会が、1000万人を超える教団となった。 その理由は、組織の民主的体質にあると岡庭さんは言う。 岡庭昇「あの全然民主主義じゃない、日本で、えーおやぶに、親分というか、そのボス仕合に、小さくなってる民衆が、創価学会に入ると胸張っていうように、生きるようになると。そういう風に、胸はっていうようになれば、その中の付き合いも民主的ですよね、全て民主的だ。そういうことがあのまず基本 的に、魅力だったと思います。」 (テロップ:埼玉県 行田市) 創価学会は社会のあらゆる階層の人々を引きつけた。 (テロップ:小林修) 小林さんは埼玉県餃子市で農業を営んでいる。 比較的都心に近い地では野菜などを中心にした近郊農業が盛んだ。小林さんは創価学会が私に新しい人生を与えてくれたという。 小林修「行き詰まりのない人生なんかじゃないんだよ。それを乗り越えてくのが人生だなっていうでいつも感じてんです。」 小林さん夫婦は、学会員となって40年になる。入会当初は、創価学会への偏見から地域で孤立してしまった。その誤解を解くのが大変だったという。 小林修「友達がいっぱいいましたけども、信仰した途端に全部、別れて、で今になってね、やりぬいたってすごいことだということになりましたけども。」 現在小林さんは地域のリーダーとして活躍している。小林さんの提案した直売所は高齢化する農家の人々と地元住民の交流の場となっている。 小林修「第1回の農村部大会あった時ですね、あの参加いたしまして、先生が言われたことは、「ち、地域の灯台であれ。」そのことがですねえ、1番印象に、残りましてね。根本的な指針になってまいりました。」 東京上野にあるアメ横商店街。安売りの掛け声が飛びかうこの商店街も、長引く不況の煽りを受けている。店じまいに追い込まれた店も少なくない。行政のしわ寄せが庶民に来ることに昔も今も変わりはない。 (テロップ:志村 勝久) 志村さんのチョコレートの叩き売りはアメ横名物の1つ。 志村勝久「お客さんがですね、買った時にね、「ああ嬉しい。どうもありがとう!」と、お客さんがね、逆にお礼を言ってくれると、そういう時が一番嬉しいですね。スーパーマーケット見たでしょ、その対面販売なくなってきたわけです。だんだんね。あえてアメ横にさせる魅力を作らなきゃいけないということで、まず自分がですね、まずはそのそう魅力的なね店を作んなきゃいけない。」 志村さんのたたき売りは、テレビで何度も取り上げられた。迷惑な取材も少なくないが、それがアメ横の宣伝になるのならと志村さんは心よく引き受けている。 志村勝久「信仰してなければね、自分だけでね、儲かればいいんだと思うかもしれないけども、仏教の教えつうのはその人の足元を照らしてね、前に住むことはすなわち自分も安全なんだと。」 志村勝久「ほらほらお兄さんら、ね?」 (テロップ:東京 新宿) 踊っている人たち「Foooooooooooooooo」 近藤さんは新宿でゲイバーを経営している。学会に入ったきっかけは、自分の人間としての誇りを仏法によって再発見したからだという。 (テロップ:近藤民雄) 近藤民男「日本はまだまだ、あの一般社会じゃ厳しい部分があるかもわかんないですよ。本当に悩んでる人はいっぱいいます。何人も。うん。あのもー、自殺しようかなと思った人もやっぱり何人か、何人かいましたけど、でももう、私なんかとこう付き合った場合に、もうそういうこと考えちゃだめよ!自分らしく生きなきゃつまんないよって本当自分らしく生きていかなきゃ、自分の人生だし、人がどうのこうのじゃないよって言った。」 近藤民男「&bold(){信心してなければあ~}、自分自身がもうすごくもう逃げてたと思うんですよ。&bold(){嫌なことから本当逃げてね。}もう、ちょっと嫌なことがあると脇道脇道それてたからね。うん~、すごくね。今はハッピーですよ。」 日本では女性もまた、昔から抑圧されてきた。戦前は選挙権も与えられず、男に従属する存在とされていた。 大矢つる子「でも、あのさぁ、あの雨ででたとき」 客「あぁ本当だ!半端ねぇ世の中だ」 客「あのよぉ、」 大矢さんは、東京の下町で、もつ煮込み屋を営んでいる。 大矢さんの店は、近所の人たちが集まる憩いの場となっている。 (テロップ:大矢つる子) 大矢つる子「もしやって、入ってなかったら、まぁ政治のせの字も知らないんじゃない?で、何党、やっていいかもわからないし、学会に入ってるから、その何?あの政治の道もこう少しは明るく、勉強できる?」 創価学会の女性会員たちは、極めて活発に政治に関わることで知られている。選挙運動で爆発する、彼女たちのパワーは時には脅威と移る場合もある。 岡庭昇「創価学会がもろに、直接の声を出したわけです。で、そこは権力の目はそりゃ怖いです。寄ってたかってそれ必死になって潰そうしてますよ。何十年にわたって。戦後、あのー体制メディアというものも徹底的に悪口を行ってきた。それはもう呆れるぐらい量だけ凄まじい。内容は何にもない。中髄ってのは本部の人でしょ>本文ではクエスチョンマークをつけたり、逃げを打ってんのに、中髄候補ってのは事実だとバっと書いてある。最初から読まないで、あまた悪く言わられてら。というのはだんだんだんだんなんとなく怪しいんだなという風になってくわけです。」 偏見と中傷を受けながらも、創価学会は発展し続けている。 叩かれるたびに深く広く、その根を民衆の大地に張り巡らせていった。 宗教という枠を遥かに超え、その活動は教育・平和・文化へと及んでいる。牧口と戸田が掲げた善人教育。その理想の実現のために、創価大学を初めとする数多くの機関を池田は設立した。 (テロップ:民主音楽協会) 文化を推進する民主音楽協会。エリートが独占していた文化や芸術を民衆が気軽に楽しめるように池田が設立した機関である。 民衆は覚醒しなければならない。 日蓮に源を発する幸福の理想への追求は牧口から戸田へ、そして池田へと受け継がれ、凄惨な時代を敢然と貫いてきた。 池田大作「20世紀は戦争の世紀。人間、この人間というものにもう1回全人類が、逆光を光らせ、そしてまた、えー視点を、(不明)をさせながら、考えていかればならない、時代に入った。この探求なくしては、同じ不幸を繰り返した。これが21世紀の重大な課題。人間復建。人間の権利を幸福に結びつける。万人が等しく、平和で、幸福で、満足できる。そういう時代を作る。ここに私は人間の根本主義、人間に帰る、人間の復権を考える。こう申し上げたいんです。」 (スタッフロールが流れる)