「もうフィーアったら、あんなに大きな声を出すんだもの、耳がきんきんするわ。お茶が飲みたいなら、素直にそう言えばいいのに。
そういえばフィーアは、よくコーヒーを飲みたがるんだけど、あんな苦いだけの泥水のどこがいいのかしら。
きっと背伸びしたい年頃なのね。まあ、そういうところが可愛いんだけど」
そういえばフィーアは、よくコーヒーを飲みたがるんだけど、あんな苦いだけの泥水のどこがいいのかしら。
きっと背伸びしたい年頃なのね。まあ、そういうところが可愛いんだけど」
通話を切ったフュンフは、まずそう切り出した。
彼女の目の前には、豪華なティーセットが並んでいる。茶葉のバリエーションに隙はなく、あらゆるオーダーに対応できる品揃えだ。
専門店でもこうはいくまい。これらはすべて、フュンフの影から取り出されている。
彼女の目の前には、豪華なティーセットが並んでいる。茶葉のバリエーションに隙はなく、あらゆるオーダーに対応できる品揃えだ。
専門店でもこうはいくまい。これらはすべて、フュンフの影から取り出されている。
フュンフの影――それは現実と異界とを繋ぐ門だ。迷い子アリスが通り抜けた、不思議の国へと通じる井戸によく似ている。
しかし両者の相違点は、それを潜り抜けた先には、気が狂いかねないほどの恐怖と悪夢が待ち構えている、ということだ。
しかし両者の相違点は、それを潜り抜けた先には、気が狂いかねないほどの恐怖と悪夢が待ち構えている、ということだ。
その異界の門からは、過度に滑稽さや残虐さを強調された、見るものに恐怖を喚起せずにはいられない童話の住人達が這い出てくる。
彼らは悪夢の尖兵として、主であるフュンフの障害を蹴散らす。
先程も憲兵隊を相手に戦闘を行っていて、人間達を蹂躙をしていたが、お茶会が開かれ役目を終えたいまは、フュンフの中に還り、
影も形もない。
そう、お茶会――
彼らは悪夢の尖兵として、主であるフュンフの障害を蹴散らす。
先程も憲兵隊を相手に戦闘を行っていて、人間達を蹂躙をしていたが、お茶会が開かれ役目を終えたいまは、フュンフの中に還り、
影も形もない。
そう、お茶会――
「ねえ、あなたはどう? コーヒーか紅茶、わたしは断然後者なんだけど、どっちが好みなの? ――魔女さんは」
フュンフの視線の先には――ティア・フラットが椅子に腰掛け、カップを口に運んでいた。
「うーん、いまなら、紅茶の方に軍配が上がるわね。あなたの淹れた紅茶、とっても美味しいんだもの。でも、コーヒーもそう捨てたもの
じゃないわ」
「ええー、だってコーヒーって真っ黒で、なんだか華がないのよね」
「でもあなたがさっき話してた子――フィーアちゃんだったかしら?――のことが好きなら、コーヒーの上手な淹れ方も学んだほうが
いいんじゃない?」
「べ、べつに好きじゃないわ」
「そう? さっき電話してた時のあなた、とっても楽しそうに見えたけど」
「そんなことないもん」
「意地を張ると疲れるわよ。年長者の言うことは聞いたほうがいいわ」
「そういうありがたいお言葉に耳を貸すだけの分別があったなら、アリスは井戸の底に落っこちなかったわ。
アリスは愚かだからアリスなのよ」
と、ティアとフュンフは言葉をかわす。
嬉々として語らう二人の様子には、親愛の情すら感じ取れる。
だが、彼女らの関係は、長年の友人であるとか、永遠の絆で結ばれた二人であるとか、そういったものでは断じてない。
スプリガンと御伽噺部隊――出会ったその瞬間から戦闘が始まってもおかしくはない、仇敵同士だ。
そんな彼女らが、和やかに会話に花を咲かせている。まさにマッド・ティー・パーティにふさわしい、奇妙な会話、奇妙なお茶会だった。
フュンフの視線の先には――ティア・フラットが椅子に腰掛け、カップを口に運んでいた。
「うーん、いまなら、紅茶の方に軍配が上がるわね。あなたの淹れた紅茶、とっても美味しいんだもの。でも、コーヒーもそう捨てたもの
じゃないわ」
「ええー、だってコーヒーって真っ黒で、なんだか華がないのよね」
「でもあなたがさっき話してた子――フィーアちゃんだったかしら?――のことが好きなら、コーヒーの上手な淹れ方も学んだほうが
いいんじゃない?」
「べ、べつに好きじゃないわ」
「そう? さっき電話してた時のあなた、とっても楽しそうに見えたけど」
「そんなことないもん」
「意地を張ると疲れるわよ。年長者の言うことは聞いたほうがいいわ」
「そういうありがたいお言葉に耳を貸すだけの分別があったなら、アリスは井戸の底に落っこちなかったわ。
アリスは愚かだからアリスなのよ」
と、ティアとフュンフは言葉をかわす。
嬉々として語らう二人の様子には、親愛の情すら感じ取れる。
だが、彼女らの関係は、長年の友人であるとか、永遠の絆で結ばれた二人であるとか、そういったものでは断じてない。
スプリガンと御伽噺部隊――出会ったその瞬間から戦闘が始まってもおかしくはない、仇敵同士だ。
そんな彼女らが、和やかに会話に花を咲かせている。まさにマッド・ティー・パーティにふさわしい、奇妙な会話、奇妙なお茶会だった。
それで割を食っているのはゼクスだ。
……どうにも居心地が悪い。彼女は、会話に参加するのでもなく、それに異議を唱えるのでもなく、無言で紅茶を飲んでいた。
……どうにも居心地が悪い。彼女は、会話に参加するのでもなく、それに異議を唱えるのでもなく、無言で紅茶を飲んでいた。
ゼクスとフュンフは、あらかじめ決められた作戦に従い、憲兵隊施設を攻撃していた。その途中で――まだ掃討が完了していないにも
関わらず――フュンフがお茶会を開くことを提案してきたことまでは、よかった。敵陣の只中にあっても、彼女は自分を見失わない。
ゼクスはそんな彼女の一面が羨ましく、憧れてもいた。
関わらず――フュンフがお茶会を開くことを提案してきたことまでは、よかった。敵陣の只中にあっても、彼女は自分を見失わない。
ゼクスはそんな彼女の一面が羨ましく、憧れてもいた。
……しかし、そのお茶会が開始されて早々、まさか目標であるスプリガンが同席を申し込んできたこと、それにフュンフが快く応じた
ことには、さすがに動揺を隠せなかった。
ことには、さすがに動揺を隠せなかった。
魔女ティアの仲間である憲兵隊も、同様に驚愕したことだろう。
救援にきたスプリガンが、まさか敵と親しげにお茶を飲むことになるとは。
きっとティアとフュンフを除く誰もが、いまのこの状況に、致命的な間違いがあると思っているに違いない。
誰だってそう思う。私だってそう思うわ――とゼクスは密かに嘆息した。
救援にきたスプリガンが、まさか敵と親しげにお茶を飲むことになるとは。
きっとティアとフュンフを除く誰もが、いまのこの状況に、致命的な間違いがあると思っているに違いない。
誰だってそう思う。私だってそう思うわ――とゼクスは密かに嘆息した。
と同時に、ゼクスはこんなことを思った。
このことがフィーアに知れたら、きっと怒り心頭でフュンフに詰め寄るに違いない。
どうしてそんなに考えなしなんだとか、危ないだろうとか、そういう叱責を浴びせながら。
……心の底からフュンフを心配しているからこそ、フィーアはそういった厳しい態度をとることをゼクスは知っていたが、
親しい人同士の口争いを見るのは、気が引ける。
この奇妙なお茶会のことは私だけの秘密にして、黙っておこう――そうゼクスは思い、カップに手を伸ばした。
「ねえゼクス」
その手が、ぴたりと止まる。穏やかな微笑をたたえながら、フュンフが話しかけてきた。
「紅茶、コーヒー、ゼクスはどっちが好き?」
いまはそんなこと言っている場合じゃないでしょう――とゼクスは思わず頭を抱えたくなったが、そんなことはおくびも出さず、
少し考える仕草をして、曖昧な笑みを浮かべながら、手話で『どっちも好きよ。選べないわ』という意思表示をした。
このことがフィーアに知れたら、きっと怒り心頭でフュンフに詰め寄るに違いない。
どうしてそんなに考えなしなんだとか、危ないだろうとか、そういう叱責を浴びせながら。
……心の底からフュンフを心配しているからこそ、フィーアはそういった厳しい態度をとることをゼクスは知っていたが、
親しい人同士の口争いを見るのは、気が引ける。
この奇妙なお茶会のことは私だけの秘密にして、黙っておこう――そうゼクスは思い、カップに手を伸ばした。
「ねえゼクス」
その手が、ぴたりと止まる。穏やかな微笑をたたえながら、フュンフが話しかけてきた。
「紅茶、コーヒー、ゼクスはどっちが好き?」
いまはそんなこと言っている場合じゃないでしょう――とゼクスは思わず頭を抱えたくなったが、そんなことはおくびも出さず、
少し考える仕草をして、曖昧な笑みを浮かべながら、手話で『どっちも好きよ。選べないわ』という意思表示をした。
「もう、ゼクスは優柔不断なんだから。まあ、コーヒーの淹れ方を勉強してみるのもいいかもね」
そんな二人の様子を見つめながら、ティアは穏やかな微笑を浮かべていた。しかしその瞳には、氷のような冷たさが宿っていた。
叡智を秘めた魔女の瞳は、事物のあるがままを見通す。どんな隠蔽も、彼女には効果はない。
叡智を秘めた魔女の瞳は、事物のあるがままを見通す。どんな隠蔽も、彼女には効果はない。
ティアは、お茶会が始まってからずっと、フュンフをゼクスを観察していた。
そして、こう結論づけた。彼女らとは話し合いの余地があるのではないか、と。
そして、こう結論づけた。彼女らとは話し合いの余地があるのではないか、と。
ティアは、グルマルキンの部下のことを――恨みと憎しみで思考が硬化した手合いであると推測していた。
すでに第二次世界大戦が終結を迎えてから、もうかれこれ五十年近い歳月が流れた。だが、鉤十字の亡霊達の中では、戦争はまだ
続いている。祖国を蹂躙され、守るべき人たちを守れなかった彼らの無念の程は、筆舌に尽くしがたい。
もしティアの前に現れたのが、戦中からの親衛隊出身者ならば、会話すらできなかったに違いない。彼らは、第三帝国の復活という
もはや届かぬ夢を追い求める、狂った、そして哀れな敗残兵達だった。
すでに第二次世界大戦が終結を迎えてから、もうかれこれ五十年近い歳月が流れた。だが、鉤十字の亡霊達の中では、戦争はまだ
続いている。祖国を蹂躙され、守るべき人たちを守れなかった彼らの無念の程は、筆舌に尽くしがたい。
もしティアの前に現れたのが、戦中からの親衛隊出身者ならば、会話すらできなかったに違いない。彼らは、第三帝国の復活という
もはや届かぬ夢を追い求める、狂った、そして哀れな敗残兵達だった。
だが、彼女らは違った。言葉を交わせるだけの理性があった。
ティアは思う――彼女らはグルマルキンに騙されて、戦いに身を投じている可能性が高い、と。
何とかその指向性を変えて、正の方向に持ち直せば、この戦いを食い止め、彼女らに別な人生を歩ませることもできるかもしれない。
ティアは思う――彼女らはグルマルキンに騙されて、戦いに身を投じている可能性が高い、と。
何とかその指向性を変えて、正の方向に持ち直せば、この戦いを食い止め、彼女らに別な人生を歩ませることもできるかもしれない。
たしかに彼女らは、大勢の人を殺している。
だが、それを言うなら自分らも同じだ。
"遺産"の悪用を防ぐという大儀の下に行動しているとはいえ、それがエゴに過ぎないことは、ティアは承知している。自分が我を通す
以上、敵味方問わず血が流され、命が失われるのは、避けられない。
御神苗優も殺人機械として育てられ、短い期間であるが、無辜の人間の命を奪っていたという過去を持っている。
結局は、同じなのだ。彼女らと自分達は。ただ、寄りべとした国家や主義が違っただけで。
だからこのお茶会に参加し、彼女らの話を聞こうと思ったのだ。
もっとも、彼女らにも、自分達と同じように絶対に譲れないものがあるのだとしたら、話は別だが。
だが、それを言うなら自分らも同じだ。
"遺産"の悪用を防ぐという大儀の下に行動しているとはいえ、それがエゴに過ぎないことは、ティアは承知している。自分が我を通す
以上、敵味方問わず血が流され、命が失われるのは、避けられない。
御神苗優も殺人機械として育てられ、短い期間であるが、無辜の人間の命を奪っていたという過去を持っている。
結局は、同じなのだ。彼女らと自分達は。ただ、寄りべとした国家や主義が違っただけで。
だからこのお茶会に参加し、彼女らの話を聞こうと思ったのだ。
もっとも、彼女らにも、自分達と同じように絶対に譲れないものがあるのだとしたら、話は別だが。
「ねえ、フュンフちゃん」
「なに?」
「もう止めてくれないかしら。ウィーンでの破壊活動は」
その言葉を受けて、フュンフは動きを止めた。
そして何も言わず、カップを口に運んだ。
会話が途切れ、しばらく無音のときが流れる。そして彼女は、
「残念ね、魔女さん。それはできないわ」
ただ一言、切って捨てた。
「なに?」
「もう止めてくれないかしら。ウィーンでの破壊活動は」
その言葉を受けて、フュンフは動きを止めた。
そして何も言わず、カップを口に運んだ。
会話が途切れ、しばらく無音のときが流れる。そして彼女は、
「残念ね、魔女さん。それはできないわ」
ただ一言、切って捨てた。
「大佐の命令には逆らえないの。たとえ無慈悲なものであっても、罪のない人間に涙を流させるものであっても。
――それに従うしかないのよ」
――それに従うしかないのよ」
「あいつは、自分以外、誰も信用してないわ。仲間だなんていってるらしいけど、他人なんて道具としか見ていない。
いつか、捨てられるわよ」
いつか、捨てられるわよ」
「そんなことはわかってるわ。でもね、わたしには、絶対に叶えたい望みがある。……そのためなら、なんでもするわ」
問い掛けと昔話をしましょう――とフュンフは言った。
「魔女なんだから、知ってるわよね。すべての事象――人間の人生すらも――を定めている、絶対運命の存在を」
「アカシャ年代記ね」
「そう。その年代記には、ありとあらゆる運命が記されている。あなたはその運命によって、自分の一生の筋書きが始めから
決まっていて、それに従うしかないとしたら――どうするの?」
「……そうね。ある破滅の運命に囚われた人がいるとして、苦難の末、その運命から逃れる道を見つける。
でもその運命から逃れることは、別の運命によって定められていた。その枠をいくら広げても、いずれ簡単にからめとられてしまう。
――でも、その運命に屈しない、決して諦めない意志こそが、いつかその絶対運命を破る力になりうる。
……そう私は信じているわ。それに、運命はそこまで万能じゃないのよ」
「……なるほどね。魔女のあなたが言うんだから、少しは希望が持てそうね。でも、わたしの場合は別みたい。
わたしの物語の筋書きはもう決まっていて、それに抗うことはできないの。わたしが御伽噺部隊のフュンフ=<アリス>である限り、
悪夢を統べる支配者である限り、わたしは冷酷な殺人機械であり続けるしかないの」
「アカシャ年代記ね」
「そう。その年代記には、ありとあらゆる運命が記されている。あなたはその運命によって、自分の一生の筋書きが始めから
決まっていて、それに従うしかないとしたら――どうするの?」
「……そうね。ある破滅の運命に囚われた人がいるとして、苦難の末、その運命から逃れる道を見つける。
でもその運命から逃れることは、別の運命によって定められていた。その枠をいくら広げても、いずれ簡単にからめとられてしまう。
――でも、その運命に屈しない、決して諦めない意志こそが、いつかその絶対運命を破る力になりうる。
……そう私は信じているわ。それに、運命はそこまで万能じゃないのよ」
「……なるほどね。魔女のあなたが言うんだから、少しは希望が持てそうね。でも、わたしの場合は別みたい。
わたしの物語の筋書きはもう決まっていて、それに抗うことはできないの。わたしが御伽噺部隊のフュンフ=<アリス>である限り、
悪夢を統べる支配者である限り、わたしは冷酷な殺人機械であり続けるしかないの」
これの所為でね――とフュンフは、テーブルの上に一冊の古書を置いた。
「グリモワール・オブ・アリス――わたしの原典。わたしは、この本から生まれた……人間ですらない、紛い物なの」
次は昔話よ、あまり話したくないことだけど――かつて、チャールズ・ラトウィッジ・ドジスンっていう色狂いの数学者がいたわ。
「この本はね、あのくそったれの幼児愛好者が書いた――いいえ、途中で書くのやめた原稿なの。無駄に残酷で、話の展開はお粗末で、
所々書かれていない部分すらある。わたしの使役する悪夢達は、この本に登場するキャラクター達なの。
はっきり言って、これは駄作よ。でも、どんな駄作であっても、わたしはこの本から生まれたから、その筋書きに従わなくちゃいけない。
……殺せ殺せって、囁き声がするの。
残酷な物語の筋書き通りに、為すべきことを為せって。
わたしはその声を拒絶できない。わたしの存在の根幹をなすものだから。
意味のない殺戮の繰り返しで、他人の命を奪う最低な展開だとしても、それ沿うしかない――物語の登場人物が、始めから終わりまで、
その人生のすべてを定められているように、ね」
「……」
所々書かれていない部分すらある。わたしの使役する悪夢達は、この本に登場するキャラクター達なの。
はっきり言って、これは駄作よ。でも、どんな駄作であっても、わたしはこの本から生まれたから、その筋書きに従わなくちゃいけない。
……殺せ殺せって、囁き声がするの。
残酷な物語の筋書き通りに、為すべきことを為せって。
わたしはその声を拒絶できない。わたしの存在の根幹をなすものだから。
意味のない殺戮の繰り返しで、他人の命を奪う最低な展開だとしても、それ沿うしかない――物語の登場人物が、始めから終わりまで、
その人生のすべてを定められているように、ね」
「……」
ティアは無言でフュンフの語りに耳を傾けていた。
力ある書物に意思が宿る――これはさほど珍しい現象ではない。
西洋の著名な魔導書の中には、肉の身体を得て自由に動き回るものがあったし、遥か遠くの東方にも、長い年月を経た器物がひとりでに
動き出すツクモガミという伝承が残っている。しかしそんな現象達も、ある一定のルールに縛られる。世界に在り続けるために。
フュンフの言葉――グリモワール・オブ・アリスの記述に従い、殺戮を為すということは、彼女が"形"を維持するための条件なのだろう。
力ある書物に意思が宿る――これはさほど珍しい現象ではない。
西洋の著名な魔導書の中には、肉の身体を得て自由に動き回るものがあったし、遥か遠くの東方にも、長い年月を経た器物がひとりでに
動き出すツクモガミという伝承が残っている。しかしそんな現象達も、ある一定のルールに縛られる。世界に在り続けるために。
フュンフの言葉――グリモワール・オブ・アリスの記述に従い、殺戮を為すということは、彼女が"形"を維持するための条件なのだろう。
「でも、悲しむことなんてないわ。生まれる前から、その運命は定められていたんだもの。
……でもね、この本には、結末がないのよ。未完成のまま、グリモワール・オブ・アリスは――わたしは、捨てられたのよ」
……でもね、この本には、結末がないのよ。未完成のまま、グリモワール・オブ・アリスは――わたしは、捨てられたのよ」
フュンフの顔が、憎悪で歪む。彼女の中で燃えさかる業火が、顕現する。
「こんなことって、許されるの? あまりに身勝手だわ。
筆をとったのなら、最後まで書ききりなさい。登場人物に命を吹き込んだ責任を取りなさい。
完成しなかった物語は、生まれてくる前に死んでいく子らに等しいのよ。
そんな子らの嘆きの声は――形を得ることができなかった言葉の断片は――いつまでも消えることなく、暗がりの底に溜まり続けて。
やがて、その嘆きと怨みの澱みの中から、ある意思が生まれて、形を得たの。
それがわたし。悪夢の国のアリス。
そしてアリスは、求めるの。完成した物語を。
……わたしは、わたしだけの物語がほしい。誰かが書いた、虫食いだらけの、未完成のままの物語なんていらない。
他の誰でもない、わたしが紡いでいく物語がほしい。それが悲劇でも喜劇でも構わない。結末が、ハッピーエンドでなくてもいいの。
大佐は言ったわ。契約をかわし、服従を誓うのなら、わたしだけの物語をくれるって。
そのために、わたしは戦う。いつか報いを受けることになるのだとしても。
――だから残念だけど、魔女さん。あなたのお願いはきけないわ」
「……そう」
「こんなことって、許されるの? あまりに身勝手だわ。
筆をとったのなら、最後まで書ききりなさい。登場人物に命を吹き込んだ責任を取りなさい。
完成しなかった物語は、生まれてくる前に死んでいく子らに等しいのよ。
そんな子らの嘆きの声は――形を得ることができなかった言葉の断片は――いつまでも消えることなく、暗がりの底に溜まり続けて。
やがて、その嘆きと怨みの澱みの中から、ある意思が生まれて、形を得たの。
それがわたし。悪夢の国のアリス。
そしてアリスは、求めるの。完成した物語を。
……わたしは、わたしだけの物語がほしい。誰かが書いた、虫食いだらけの、未完成のままの物語なんていらない。
他の誰でもない、わたしが紡いでいく物語がほしい。それが悲劇でも喜劇でも構わない。結末が、ハッピーエンドでなくてもいいの。
大佐は言ったわ。契約をかわし、服従を誓うのなら、わたしだけの物語をくれるって。
そのために、わたしは戦う。いつか報いを受けることになるのだとしても。
――だから残念だけど、魔女さん。あなたのお願いはきけないわ」
「……そう」
残念だ――とティアは思った。
生誕の祝福を受けることができた物語は、幸福だ。
たくさんの子ども達に読まれて、愛されて。
たとえ子どもが大人になって、そのときの記憶が色あせて、いつか夢中で読んだことさえ忘れてしまうのだとしても、
――その物語を愛した事実だけは、時を越えて永遠に輝き続けるだろう。
だが、完成しなかった物語には、その機会すら与えられない。
世界中の女の子にいまも愛される、あのアリスの物語のような幸福は、ない。
なら、せめて。
自分だけの物語を完成させたい――そう語るフュンフの瞳には、力強い意志が存在していた。
しかしティアは、その願いを叶えるために流される血を、失われる命を、決して許容できなかった。
たくさんの子ども達に読まれて、愛されて。
たとえ子どもが大人になって、そのときの記憶が色あせて、いつか夢中で読んだことさえ忘れてしまうのだとしても、
――その物語を愛した事実だけは、時を越えて永遠に輝き続けるだろう。
だが、完成しなかった物語には、その機会すら与えられない。
世界中の女の子にいまも愛される、あのアリスの物語のような幸福は、ない。
なら、せめて。
自分だけの物語を完成させたい――そう語るフュンフの瞳には、力強い意志が存在していた。
しかしティアは、その願いを叶えるために流される血を、失われる命を、決して許容できなかった。
「……紅茶、すっかり冷えちゃったわね。じゃあ、そろそろ始めましょうか」
「そうね」
「そうね」
そう言って、ティアとフュンフは立ち上がった。
二人の間に、先程までの親愛さはない。
本来の関係――敵対する者同士の冷たい空気が、そして闘争の空気が流れていた。
そんなフュンフを、ゼクスは不安げに見上げる。
二人の間に、先程までの親愛さはない。
本来の関係――敵対する者同士の冷たい空気が、そして闘争の空気が流れていた。
そんなフュンフを、ゼクスは不安げに見上げる。
「心配しないで、ゼクス。"お薬"はたくさん飲んできたから、"発作"は起きないわ」
だから、わたしに任せて――と、席を立とうとするゼクスを押し留めた。
そしてティアを見据える。
そしてティアを見据える。
「魔女さん、あなたには手加減なんかできないから、最初から全力でいくわね」
その言葉とともに――
フュンフの背から伸びる影が、まるで命を持っているかのように身悶え、ざわついた。
そのわずかなゆらぎは徐々に大きくなり、世界を侵食していく。
そして、フュンフは唱えた――悪夢を召喚するための、いと強き言霊を。
フュンフの背から伸びる影が、まるで命を持っているかのように身悶え、ざわついた。
そのわずかなゆらぎは徐々に大きくなり、世界を侵食していく。
そして、フュンフは唱えた――悪夢を召喚するための、いと強き言霊を。
「ポケットを叩けば兵隊さんが一人♪」
……なんとも緊張感に欠けた言葉だったが、恐るべき変化は、すぐに現れた。
――底なし沼を思わせるフュンフの影から、黒い甲冑が這い出してきた。
夜の闇に浸したような黒色の鎧。巨大な槍を携え、無言のまま、主の傍で命令を待つ。
――底なし沼を思わせるフュンフの影から、黒い甲冑が這い出してきた。
夜の闇に浸したような黒色の鎧。巨大な槍を携え、無言のまま、主の傍で命令を待つ。
「ポケットを叩けば兵隊さんが十人♪」
そしてまた、フュンフの歌の内容の通りに、十の黒の甲冑がひたひたと闇の雫を垂らしながら、彼女の影から這い出る。
「ポケットを叩けば兵隊さんが百人♪」
黒の甲冑達は際限なく、まるで"悪夢"のように、フュンフの影から現れ続ける。
すでにその数は、ティアの視界を埋め尽くすほど膨れ上がっていて――
すでにその数は、ティアの視界を埋め尽くすほど膨れ上がっていて――
「ポケットを叩けば兵隊さんが――千人!」
フュンフの歌が終わるのと同時に、悪夢召喚の儀式もまた終わりを告げた。
ティアの眼前には……一千人のトランプ兵の大軍団が出現していた。
ずらりと並んだ盾は堅牢な城壁を思わせ、まったく隙がなく構築された密集隊形からは、何百本もの槍が空に向かい屹立している。
ティアの眼前には……一千人のトランプ兵の大軍団が出現していた。
ずらりと並んだ盾は堅牢な城壁を思わせ、まったく隙がなく構築された密集隊形からは、何百本もの槍が空に向かい屹立している。
フュンフは、陣地の中心にある、戦場の景色すべてを見渡せるほど高く建造された、急ごしらえの玉座に腰掛けていた。
その傍に控えるトランプ兵の千人長が、うやうやしく、主に金無垢の王冠をささげる。
戴冠の儀式――かくしてすべての悪夢を統べる権能が、いまフュンフ=<アリス>に譲渡された。
さらに、フュンフのキャストが変更される。
御伽噺部隊の<アリス>から、悪夢の国の支配者(アリス)へと――
その傍に控えるトランプ兵の千人長が、うやうやしく、主に金無垢の王冠をささげる。
戴冠の儀式――かくしてすべての悪夢を統べる権能が、いまフュンフ=<アリス>に譲渡された。
さらに、フュンフのキャストが変更される。
御伽噺部隊の<アリス>から、悪夢の国の支配者(アリス)へと――
「さあ、黒の軍勢よ。黒の女王アリスが命じる」
そして、まるで無慈悲な断頭台を思わせる仕草で、手を振り下げて。
「首を刎ねてしまいなさい!」
鬨の声が沸き起こる。地の底から響いてくるような、暗く、冷たい声。
そして、地平線の彼方まで埋め尽くすほどのトランプ兵の大軍団(レギオン)が――ティア目掛けて襲い掛かった。
そして、地平線の彼方まで埋め尽くすほどのトランプ兵の大軍団(レギオン)が――ティア目掛けて襲い掛かった。