目と肩にじんわりと滲む疲労に耐えながら、蛭は自室のソファに身を預けていた。
通信機の類は渡されていない。全てを終えて戻ってくるまで、黙って自分の任務にいそしむよう
厳命されている。つまり今の蛭には、主人であるサイの仕事の首尾を確かめるすべがなかった。
それでもいい、と蛭は思う。
彼は主人の成功を確信していた。
あの人なら必ずや計画通り、標的を仕留めてこのアジトに戻ってくる。解体し、観察し、自分の
正体を知るための礎にする。今回のターゲットは少々変り種、いつもの獲物ほど簡単にはいかない
かもしれないが、常に進化を続けるあの人にとってはそれも飛び越せるハードルの一つでしかない。
助走を長くとり、充分に反動をつけ、力一杯地を踏み切れば難なく越えられるはずのものだ。
しいて不安要素を挙げるとするなら葛西と――
そこまで考えて蛭は首を横に振った。
やめよう。今はあの人の勝利と帰還だけを信じていよう。
自分が仕えるべき主人に選んだあの人の。
「テレビでも観るかな……」
仮眠をとろうと部屋に戻ってきたはいいが、クリーンベンチのブルーのライトがまぶたの裏に
ちらついて眠るに眠れなかった。心地よい睡魔が迎えにやってくるまで、適当にニュースでも観ながら
体を休めるのもいいかもしれない。
どのチャンネルでも構うまい。今の時間なら恐らくは、どの局でも朝のニュース番組をやっている。
リモコンを手に取りスイッチを入れた。
灯かりのついていない部屋に、数秒の間をおき映し出される映像。
アナウンサーの無機質な語りが、スピーカーから溢れ出す。
通信機の類は渡されていない。全てを終えて戻ってくるまで、黙って自分の任務にいそしむよう
厳命されている。つまり今の蛭には、主人であるサイの仕事の首尾を確かめるすべがなかった。
それでもいい、と蛭は思う。
彼は主人の成功を確信していた。
あの人なら必ずや計画通り、標的を仕留めてこのアジトに戻ってくる。解体し、観察し、自分の
正体を知るための礎にする。今回のターゲットは少々変り種、いつもの獲物ほど簡単にはいかない
かもしれないが、常に進化を続けるあの人にとってはそれも飛び越せるハードルの一つでしかない。
助走を長くとり、充分に反動をつけ、力一杯地を踏み切れば難なく越えられるはずのものだ。
しいて不安要素を挙げるとするなら葛西と――
そこまで考えて蛭は首を横に振った。
やめよう。今はあの人の勝利と帰還だけを信じていよう。
自分が仕えるべき主人に選んだあの人の。
「テレビでも観るかな……」
仮眠をとろうと部屋に戻ってきたはいいが、クリーンベンチのブルーのライトがまぶたの裏に
ちらついて眠るに眠れなかった。心地よい睡魔が迎えにやってくるまで、適当にニュースでも観ながら
体を休めるのもいいかもしれない。
どのチャンネルでも構うまい。今の時間なら恐らくは、どの局でも朝のニュース番組をやっている。
リモコンを手に取りスイッチを入れた。
灯かりのついていない部屋に、数秒の間をおき映し出される映像。
アナウンサーの無機質な語りが、スピーカーから溢れ出す。
『――混迷の続く連続大量虐殺事件の捜査について、現在警視庁で記者会見が開かれ……』
蛭の表情が凍った。
テレビ画面の青白い光に、黒瞳が吸い寄せられて固定された。
テレビ画面の青白い光に、黒瞳が吸い寄せられて固定された。
自分の体に何が起こったのか、≪我鬼≫は理解するすべを持たなかった。
プールの温度や流水が電気で制御されることなど知る由もなかったし、ましてやシステム・ルームに
細工した上で電力供給を復活させ、高圧電流のトラップとするなど、想像どころか世界観の埒外だった。
そこかしこが爆ぜ、爛れ、焼け焦げ、言うことを聞かなくなった体だけが、今の≪我鬼≫に唯一
認識可能な現実だった。
「近代文明さまさま……ってとこだよね」
≪奴≫の声が響いた。
首を動かせば振り返れる位置だが、今の≪我鬼≫にはそれすらままならない。自分がなぎ倒してきた
瓦礫と、破壊された天井から覗く暗い空が見えるだけだ。
「あんたが暮らしてた密林にはなかっただろ、こういうの。……ああ雷があるか。でもそう滅多に
落ちてくるもんじゃないしね」
≪奴≫の口から紡がれる言葉も、≪我鬼≫にとっては意味をなさない音の羅列。
首を掴まれる。力ずくで捻られ≪奴≫の方を向かされる。
直面させられた顔は元通り、≪二本足≫としてのそれに戻っていた。
構成部品は異なれど、丸い顔と大きな両目は、全ての哺乳類の仔に共通の特徴だ。
「そもそもが……無理な、話だったんだよ。ちょっと獰猛なだけの猫が人間に……たてつくなんて、さ。
……ッく、は……やば、内臓きっつい」
口から血を溢れさせ、≪奴≫は顔をしかめる。
体液の混ざった臭い血反吐が、とぽとぽと肉が剥き出しの≪我鬼≫の体に零れた。もちろん、衛生
観念など持たぬ≪我鬼≫には何の意味もないし、熟れた果実のように爆ぜた肉はとうに感覚そのものを
失っている。
「俺には火加減に注意しろって仰ったわりに、随分とまあ黒焦げじゃないですか」
「一応まだ……ケフッ、生きてるし、コゲコゲの炭にまでは、コフ……なってないから……ガフッ、
合格点ってとこじゃない?」
割り込んだもう一匹の声に、血の混じった咳をしながら≪奴≫が答える。
「平気なんですか元に戻って。いい加減お体が限界みたいですが?」
「あのゴツゴツの前脚で解体なんかできるわけないじゃん」
「そりゃ、ごもっともで」
首が更に捻られる。ゴキンという生々しい音が、鼓膜ではなく骨を通して響く。
時に咳き込み血反吐を撒き散らしながら、≪奴≫は彼の体を磨り潰しはじめた。
まずは骨を砕いて処理しやすくし、続いて筋肉、内臓と解体を進めていく。あらかじめ決まっている
らしいその手順は、獲物を捕らえたときの食事の作法に少し似ている。
生きたまま≪我鬼≫はミンチ肉に近づいていく。
と、ふいに≪奴≫の前脚の動きが止まった。
上空に視線が動く。
「アイ? ……うん、済んだよ。そう……うん、降りてきて。カフッ……それと応急処置お願い」
間は本当にごく一瞬。すぐに再び作業が始まる。
裂かれた腹に前脚が突っ込まれ、ぬるぬるとぬめる腸を引き裂く。胃は潰され、肝臓はペースト状に
され、≪我鬼≫の命の灯火は確実に消滅に向かって弱まり続ける。
グル、と≪我鬼≫は弱く唸った。
プールの温度や流水が電気で制御されることなど知る由もなかったし、ましてやシステム・ルームに
細工した上で電力供給を復活させ、高圧電流のトラップとするなど、想像どころか世界観の埒外だった。
そこかしこが爆ぜ、爛れ、焼け焦げ、言うことを聞かなくなった体だけが、今の≪我鬼≫に唯一
認識可能な現実だった。
「近代文明さまさま……ってとこだよね」
≪奴≫の声が響いた。
首を動かせば振り返れる位置だが、今の≪我鬼≫にはそれすらままならない。自分がなぎ倒してきた
瓦礫と、破壊された天井から覗く暗い空が見えるだけだ。
「あんたが暮らしてた密林にはなかっただろ、こういうの。……ああ雷があるか。でもそう滅多に
落ちてくるもんじゃないしね」
≪奴≫の口から紡がれる言葉も、≪我鬼≫にとっては意味をなさない音の羅列。
首を掴まれる。力ずくで捻られ≪奴≫の方を向かされる。
直面させられた顔は元通り、≪二本足≫としてのそれに戻っていた。
構成部品は異なれど、丸い顔と大きな両目は、全ての哺乳類の仔に共通の特徴だ。
「そもそもが……無理な、話だったんだよ。ちょっと獰猛なだけの猫が人間に……たてつくなんて、さ。
……ッく、は……やば、内臓きっつい」
口から血を溢れさせ、≪奴≫は顔をしかめる。
体液の混ざった臭い血反吐が、とぽとぽと肉が剥き出しの≪我鬼≫の体に零れた。もちろん、衛生
観念など持たぬ≪我鬼≫には何の意味もないし、熟れた果実のように爆ぜた肉はとうに感覚そのものを
失っている。
「俺には火加減に注意しろって仰ったわりに、随分とまあ黒焦げじゃないですか」
「一応まだ……ケフッ、生きてるし、コゲコゲの炭にまでは、コフ……なってないから……ガフッ、
合格点ってとこじゃない?」
割り込んだもう一匹の声に、血の混じった咳をしながら≪奴≫が答える。
「平気なんですか元に戻って。いい加減お体が限界みたいですが?」
「あのゴツゴツの前脚で解体なんかできるわけないじゃん」
「そりゃ、ごもっともで」
首が更に捻られる。ゴキンという生々しい音が、鼓膜ではなく骨を通して響く。
時に咳き込み血反吐を撒き散らしながら、≪奴≫は彼の体を磨り潰しはじめた。
まずは骨を砕いて処理しやすくし、続いて筋肉、内臓と解体を進めていく。あらかじめ決まっている
らしいその手順は、獲物を捕らえたときの食事の作法に少し似ている。
生きたまま≪我鬼≫はミンチ肉に近づいていく。
と、ふいに≪奴≫の前脚の動きが止まった。
上空に視線が動く。
「アイ? ……うん、済んだよ。そう……うん、降りてきて。カフッ……それと応急処置お願い」
間は本当にごく一瞬。すぐに再び作業が始まる。
裂かれた腹に前脚が突っ込まれ、ぬるぬるとぬめる腸を引き裂く。胃は潰され、肝臓はペースト状に
され、≪我鬼≫の命の灯火は確実に消滅に向かって弱まり続ける。
グル、と≪我鬼≫は弱く唸った。
死が目の前にある。
密林の王者であった彼が他の生き物に与え続けてきたものが、今すぐそこまで迫っている。
体が言うことをきかなかった。ズタズタに破壊された体細胞が、知能ではなく本能で認識できた。
何としても回復しなければ。
エネルギーを取り込まければ――
密林の王者であった彼が他の生き物に与え続けてきたものが、今すぐそこまで迫っている。
体が言うことをきかなかった。ズタズタに破壊された体細胞が、知能ではなく本能で認識できた。
何としても回復しなければ。
エネルギーを取り込まければ――
唸る彼の声に混じった怨嗟の響きに、≪奴≫は気づかなかった。
肋骨をへし折り、胸郭の奥に守られた心臓へと手を伸ばす。十メートルの巨体を支えていたポンプを
鷲掴み、腐った果実のように握り潰そうとする。
ボコリ、と音が響いたのはそのときだった。
回復に伴う軋みとは異なる音に、≪奴≫の細胞が警戒にわななく。
以前一度、解体途中まで追い込んで再生され逆転されている。これ自体は無理もない反応だ。
だが違う。
これは再生ではない。
肋骨をへし折り、胸郭の奥に守られた心臓へと手を伸ばす。十メートルの巨体を支えていたポンプを
鷲掴み、腐った果実のように握り潰そうとする。
ボコリ、と音が響いたのはそのときだった。
回復に伴う軋みとは異なる音に、≪奴≫の細胞が警戒にわななく。
以前一度、解体途中まで追い込んで再生され逆転されている。これ自体は無理もない反応だ。
だが違う。
これは再生ではない。
鷲掴みにされた心臓がドクンと鳴った。
ピンク色の肉塊に所狭しと這った血管が、うねり、波打ち、蠢きながら激しく脈を打った。
「な……」
≪奴≫は更に前脚の先に力を込める。理解不能な現象を肉片にすることで断とうとする。
端的にいうなら、≪奴≫は間違っていた。
完全な勝利を望むならここで心臓から前脚を放し、≪我鬼≫の体から距離をとるべきだったのだ。
かつての失敗が≪奴≫に選択肢を誤らせた。
ピンク色の肉塊に所狭しと這った血管が、うねり、波打ち、蠢きながら激しく脈を打った。
「な……」
≪奴≫は更に前脚の先に力を込める。理解不能な現象を肉片にすることで断とうとする。
端的にいうなら、≪奴≫は間違っていた。
完全な勝利を望むならここで心臓から前脚を放し、≪我鬼≫の体から距離をとるべきだったのだ。
かつての失敗が≪奴≫に選択肢を誤らせた。
そしてその誤りこそが、≪我鬼≫にとっては勝機となる。
握り潰される寸前、心臓の血管が蠢いた。
自らを握り締める小さな前脚に、蔦のごとく伸びて絡みついた。
「っ! 何……これっ」
慌てて引き剥がそうとする≪奴≫。
しかし血管は組織の深部まで食い込み、ちょっとやそっとでは剥がれてくれない。
「やだっ……葛西これ焼いて! 焼き捨てて!」
「や、焼くっつったってこんな深くちゃ……」
絡みつくのは前脚に留まらない。肉に埋め込まれるように食らいついた血管は、ボコボコと音を
立てて這い上がっていく。
≪奴≫は前脚を引きむしった。明らかにパニック状態に陥っていた。派手に裂けた組織から血が
溢れ、一部引きちぎられた血管が床に落ちるが、その程度ではもはやどうにもならない。
荒地で育っていく大樹の根のように、幾度も枝分かれをくりかえしながら奥へ奥へ先へ先へと。
血管はついに肩に達した。それでも進行は止まらなかった。
首。胸。
そして――顔。
「何だよ……なんだよ、なんだよっ、これ!?」
頬から額へ、血管は更に這い上がっていく。
悲鳴が上がった。ほとんど絶叫といってよかった。
自らを握り締める小さな前脚に、蔦のごとく伸びて絡みついた。
「っ! 何……これっ」
慌てて引き剥がそうとする≪奴≫。
しかし血管は組織の深部まで食い込み、ちょっとやそっとでは剥がれてくれない。
「やだっ……葛西これ焼いて! 焼き捨てて!」
「や、焼くっつったってこんな深くちゃ……」
絡みつくのは前脚に留まらない。肉に埋め込まれるように食らいついた血管は、ボコボコと音を
立てて這い上がっていく。
≪奴≫は前脚を引きむしった。明らかにパニック状態に陥っていた。派手に裂けた組織から血が
溢れ、一部引きちぎられた血管が床に落ちるが、その程度ではもはやどうにもならない。
荒地で育っていく大樹の根のように、幾度も枝分かれをくりかえしながら奥へ奥へ先へ先へと。
血管はついに肩に達した。それでも進行は止まらなかった。
首。胸。
そして――顔。
「何だよ……なんだよ、なんだよっ、これ!?」
頬から額へ、血管は更に這い上がっていく。
悲鳴が上がった。ほとんど絶叫といってよかった。
ゴウン、と≪我鬼≫の体が唸った。
≪奴≫は気づかない。前脚から顔にかけて這い回る醜悪な血管に意識を奪われている。
そう。それでいい。
≪奴≫は気づかない。前脚から顔にかけて這い回る醜悪な血管に意識を奪われている。
そう。それでいい。
食い込んだ血管から、≪我鬼≫は一気に養分を吸い上げた。
寄生植物に似た芸当。相手の組織に自分の組織を食い込ませ、再生に必要なエネルギーを奪う。
寄生植物に似た芸当。相手の組織に自分の組織を食い込ませ、再生に必要なエネルギーを奪う。
「あ、……っ」
≪奴≫の体が傾いだ。
床に前脚をつく。
生白くとも張りのあった表皮が急速に干からびていく。
数十年も一気に老けたように。
≪奴≫の体が傾いだ。
床に前脚をつく。
生白くとも張りのあった表皮が急速に干からびていく。
数十年も一気に老けたように。
流れ込んできたエネルギーを、≪我鬼≫は歓喜とともに受けた。
まず回復するのは破壊された内臓。続いて骨格。そして筋肉。
全身の再生が加速していく。
まず回復するのは破壊された内臓。続いて骨格。そして筋肉。
全身の再生が加速していく。
「こ、のっ!」
≪奴≫が歯を食いしばった。
養分を吸い上げる血管の群れを、前脚ごと引きちぎろうと力を込める――
が。
「……え?」
ふいに、≪奴≫の表情が凍った。
「……この細胞……まさか……そんなのって」
≪我鬼≫の反撃はそれだけでは終わらなかった。
再生しかけた傷口の肉が隆起し、くずおれた≪奴≫の両前脚に絡みつく。
赤頭巾の狼のように裂けた腹に、凄まじい力で引きずり込むつもりだった。
抵抗はない。
床に前脚をつきへたり込んだまま、ただなすがままになっているだけだ。
「何やってんですサイ!」
しかしその瞬間炎が疾った。
大柄な二本足が放った火が、≪奴≫の前脚を焼き尽くした。消し炭になった両前脚の先と引き換えに、
≪奴≫の体はようやく完全に解放された。
≪奴≫が歯を食いしばった。
養分を吸い上げる血管の群れを、前脚ごと引きちぎろうと力を込める――
が。
「……え?」
ふいに、≪奴≫の表情が凍った。
「……この細胞……まさか……そんなのって」
≪我鬼≫の反撃はそれだけでは終わらなかった。
再生しかけた傷口の肉が隆起し、くずおれた≪奴≫の両前脚に絡みつく。
赤頭巾の狼のように裂けた腹に、凄まじい力で引きずり込むつもりだった。
抵抗はない。
床に前脚をつきへたり込んだまま、ただなすがままになっているだけだ。
「何やってんですサイ!」
しかしその瞬間炎が疾った。
大柄な二本足が放った火が、≪奴≫の前脚を焼き尽くした。消し炭になった両前脚の先と引き換えに、
≪奴≫の体はようやく完全に解放された。
そうそう思い通りにはいかないらしい。
まあいい。あの状況を打破できただけでもひとまず良しとしよう。
まあいい。あの状況を打破できただけでもひとまず良しとしよう。
≪我鬼≫は立ち上がった。
≪奴≫ともう一匹をその場に残し、四本の脚で力強く跳躍した。
≪奴≫ともう一匹をその場に残し、四本の脚で力強く跳躍した。
炭化したサイの両肘から先がボロリとあっけなく崩れた。
かつて確かに血と肉と骨だったそれは、炎が作る熱風に巻かれ、黒い炭素の粉末となって視界の
外へと散っていく。
血管の浮いた顔の表面は、≪我鬼≫との繋がりが断たれてからもなおボコボコと蠢いていた。
サイの体内に取り残され、行き場を失った細胞が暴れているのだ。
「すんません。とっさにあれ以上手加減しようがなかったんで。大丈夫ですか?」
サイは答えない。
両目は大きく見開かれ、蒼白だった顔がますます無機的な色へと近づいている。
それがさっきの血管のせいばかりではないことを、葛西は敏感に感じ取った。
「サイ、どうしました」
反応を見せず、協力者の顔すら見ることなく、ただその場に力なく座り込むばかり。
「嘘だ」
老人の顔で吐き出されたにも関わらず、続く言葉は迷子の幼児の寄る辺なさを帯びていた。
「嘘だ、こんなの……こんなの嘘だ……!」
かつて確かに血と肉と骨だったそれは、炎が作る熱風に巻かれ、黒い炭素の粉末となって視界の
外へと散っていく。
血管の浮いた顔の表面は、≪我鬼≫との繋がりが断たれてからもなおボコボコと蠢いていた。
サイの体内に取り残され、行き場を失った細胞が暴れているのだ。
「すんません。とっさにあれ以上手加減しようがなかったんで。大丈夫ですか?」
サイは答えない。
両目は大きく見開かれ、蒼白だった顔がますます無機的な色へと近づいている。
それがさっきの血管のせいばかりではないことを、葛西は敏感に感じ取った。
「サイ、どうしました」
反応を見せず、協力者の顔すら見ることなく、ただその場に力なく座り込むばかり。
「嘘だ」
老人の顔で吐き出されたにも関わらず、続く言葉は迷子の幼児の寄る辺なさを帯びていた。
「嘘だ、こんなの……こんなの嘘だ……!」
追って来るかと思いきや、≪奴≫はそのまま動くそぶりを見せない。
再生したばかりの舌で、≪我鬼≫は口の周りを舐めずった。
好都合だ。この間に一度退却し、何か食ってエネルギーを補給しよう。吸収による補給はあくまで
一時しのぎに過ぎない。
食わなければ。
瑞々しい活力に満ち、弾力に富んだ若い雌の肉を。
そう思って空を見上げたとき、宙に浮かぶ奇妙なシルエットに気づいた。
明らかに鳥とは異なるその影は、≪我鬼≫の知識にも記憶にも存在しないものだった。
再生したばかりの舌で、≪我鬼≫は口の周りを舐めずった。
好都合だ。この間に一度退却し、何か食ってエネルギーを補給しよう。吸収による補給はあくまで
一時しのぎに過ぎない。
食わなければ。
瑞々しい活力に満ち、弾力に富んだ若い雌の肉を。
そう思って空を見上げたとき、宙に浮かぶ奇妙なシルエットに気づいた。
明らかに鳥とは異なるその影は、≪我鬼≫の知識にも記憶にも存在しないものだった。
『……アイ』
「はい、サイ」
高度を落としていくヘリの上でアイは、通信機を介して一部始終を聞いていた。
そして悟っていた。
彼女の主人が全てを知るに至ったことを。
『あんた、知ってたね? ――このこと』
「はい」
『知ってて、言わなかったね?』
「はい」
細胞解析を担当していた蛭の報告と相談を受け、サイにはしばらくこれを伏せておくべきと判断した。
幸い、同様の解析結果に辿り着いている警察も、しばらくその事実を発表する気はないようだった。
アイとしてはサイに何も伝えず、ただ口をつぐんでいるだけでよかったのだ。
『……なんで?』
「その方が、今回の仕事の成功率が上がると判断したからです」
進化しつづける常識を超えた力と、飽くことなき向上の姿勢を兼ね備えたサイ。
もし彼に弱点があるとすれば、それは物理的なものではない。
不安定な心。アイデンティティの欠如に悶え揺れ動く精神。場合によっては更なる飛躍の糸口と
なりえる一方、仕事の完璧な遂行においてはしばしば障害となるもの。
もしこの事実がサイの耳に入れば、確実に彼は激しく揺さぶられる。今通信機を通じて伝わる
サイの声が、明らかに疲労や負傷以外の何かによって震え、かすれているように。
ただでさえ危険度の高い今回の仕事において、それは大きな不安要素になり得た。
『あいつは、≪我鬼≫は』
耳に届く声がひときわ大きく震えた。
「はい、サイ」
高度を落としていくヘリの上でアイは、通信機を介して一部始終を聞いていた。
そして悟っていた。
彼女の主人が全てを知るに至ったことを。
『あんた、知ってたね? ――このこと』
「はい」
『知ってて、言わなかったね?』
「はい」
細胞解析を担当していた蛭の報告と相談を受け、サイにはしばらくこれを伏せておくべきと判断した。
幸い、同様の解析結果に辿り着いている警察も、しばらくその事実を発表する気はないようだった。
アイとしてはサイに何も伝えず、ただ口をつぐんでいるだけでよかったのだ。
『……なんで?』
「その方が、今回の仕事の成功率が上がると判断したからです」
進化しつづける常識を超えた力と、飽くことなき向上の姿勢を兼ね備えたサイ。
もし彼に弱点があるとすれば、それは物理的なものではない。
不安定な心。アイデンティティの欠如に悶え揺れ動く精神。場合によっては更なる飛躍の糸口と
なりえる一方、仕事の完璧な遂行においてはしばしば障害となるもの。
もしこの事実がサイの耳に入れば、確実に彼は激しく揺さぶられる。今通信機を通じて伝わる
サイの声が、明らかに疲労や負傷以外の何かによって震え、かすれているように。
ただでさえ危険度の高い今回の仕事において、それは大きな不安要素になり得た。
『あいつは、≪我鬼≫は』
耳に届く声がひときわ大きく震えた。
『人間じゃないか』
アイはわずかに目を伏せた。
首は振らず、口から紡ぐ声だけで肯定した。
「その通りです」
首は振らず、口から紡ぐ声だけで肯定した。
「その通りです」