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学校から帰ったらカレーの匂い、けれどハンバーグが食べたいって言ったら躊躇なく
出来たばかりのカレーを捨てて作り直す母親、とかな。
イヨにとってこの上なく幸福で都合のいい世界、完璧で完全で完結した世界。
そこに突如として現れた見知らぬ女。完璧で完全で完結した世界に現れた女。
女は言う。「この世界はゆがんでいる」
女はイヨの目の前で両親をその手に持った巨大な斧で両断する。
しかし

両親は胴を断たれたまま穏やかな笑み(●●●●●●●●●●●●●●●●●)をイヨに向ける


血は一滴も流れない、それどころか、断面はなにも映らない。
あるはずのものがそこにはない。

イヨだけのイヨによるイヨのための世界は、ヒミコの存在を認識せず、両親はその女を見ない。
その女を感知できるのはイヨだけ。

生物の死を知らないため、物質が破壊されることを知らないため。
胴を断たれたら死ぬ、頭を潰されたら死ぬ、そんな基本的なルールすらも知らない。
そんなルールすら存在しない。

女は近づき、イヨの頬を引っぱたく。イヨにとっての初めての痛み。
女は言う「わかるか、これが痛みだ」

その時初めてイヨは拒絶の言葉を発する。「でてって」
途端、女の身体が紙風船の如くふっとび、たまたま開いたドアから外へとほうり投げ出される。



ふっとばされながら空中で体勢を建て直し、着地。
そして再度イヨのところへ向かう。
かたくなに閉じられた玄関のドアを難なくぶちこわして侵入。
「いや……イヤ……来ないでっ」
恐怖に幼い表情を歪めるイヨ。
拒絶の言葉を受けながら今度はシニカルに笑みを浮かべながら真正面から受け流す女。

「痛みも恐怖も知らぬまま己の閉じた幸福な世界で過ごしてた幼子よ、哀れなことだ」
ゆったりとした動作で近づき、イヨへと手を伸ばす女。
「お主は本当の世界を知るべきだ」
伸ばした右手がイヨへと触れようとしたその時。イヨの姉が女へと突撃した。
「む」
と女は姉に視線を見やる。どっしりと地に根を生やしたかのような女の両足はその程度の激突では揺らぎもしなかったが。
それでも、姉が巻き付いたことで身動きを疎外された。
「逃げて、イヨ」
と、姉が叫ぶ。
その顔の笑みを変えないまま(●●●●●●●●●●●●●)
いとおしい妹を見るような暖かな笑み(●●●●●●●●●●●●●●●●●)
弾かれるようにイヨが身体を起こし。女の横をすり抜けて玄関へ。そのまま外へと飛び出した。
すでに日は沈み夜のとばりに包まれた世界へ。
「……これが異形と呼ばずなんという」
女は己の腰に抱きつく姉のその髪を鷲掴みにし、そのまま床へとたたきつける。
うぐぅ、と幽かに声が漏れた、しかしそれは。
肺の中の空気が漏れた音(●●●●●●●●●●●)であって。
決して苦痛であったが故の苦悶の声(●●●●●●●●●●●●●●●●)ではないのだ。
姉は相変わらず微笑みを絶やさず。
女はその姉の身体を壁へと叩きつけ。何処からか出現させた円錐状の物体でその
胸を貫いた。
ぞぶり、と人の肉体を貫く柔らかい感触、骨を削るごりごりとした感触。
それでも姉は笑みを絶やさない。

「……骨が折れそうじゃな」

床に転がるイヨの両親を、またいで女は玄関へ向かう。
イヨはどこへ逃げたのか、幼女の体力ではそれほど遠くへと行けまいと考えながら。





「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁっ」
小さな身体を一生懸命に震わせ、イヨは逃げる。
お母さん、お父さんはどうなったんだろうか、
上と下の二つに分かれたけどあのあとはどうなるんだろうか(●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●)
おねえちゃんは大丈夫だろうか、なんでこんな事になったんだろうか。
ずっと幸せだったのに(●●●●●●●●●●)
綺麗なお母さん(●●●●●●●)と、
優しいお父さんと(●●●●●●●●)
大好きなお姉ちゃん(●●●●●●●●●)と。
ずっと幸せに暮らしていたのに(●●●●●●●●●●●●●)

走りつかれてへたり込んでいると、近所のおばさんがやってきて、イヨに声を掛けた。
「あらあらイヨちゃん。どうしたの?」
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
息を切らせてしゃべることが出来ないイヨに、おばさんは買い物袋の中からジュースを取りだしてイヨに渡した。
それはイヨが大好きなジュース、甘くておいしいオレンジジュース(●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●)
「ほらこれを呑んで落ち着いて」
手渡されたそのジュース、缶ではなくビンに入ったそのジュース。
とてもよく冷えていて、いつでも飲めるように王冠は既に無い(●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●)
それに口をつけて、イヨは一気にそのジュースをからにした。
「あらあら良い飲みっぷりね、どう?もう一つ」
そして取り出されたビンのジュース、イヨは二本目も飲み干した。
三本目は取り出そうとはしなかった。
イヨは二本で一杯だったから(●●●●●●●●●●●●●)
「……はぁ……おばさんありがと……。あのねお家に変な女の人が来て、お父さんと
お母さんを真っ二つにしちゃって……」
「あらまぁそうなの」
「それでおねえちゃんがその人に捕まって、逃げてっていって、それで……」
「あらまぁそうなの」
「ねぇおばさん、イヨどうしたらいいの?」
「そうねぇ。それならおばさんといっしょに」

どしゃっ、と着地音。そして

交番へ行きましょうか。お巡りさんに助けてもらいましょう(●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●)
頭のてっぺんから股間まで、竹を割ったかのように一刀両断されたおばさんが、娘を
見るかのような暖かな笑みをその表情に湛えたまま。
左右に倒れながら、両方から同時に声が聞こえた。
そして倒れたおばさんの向こうにいるのは(●●●●●●●●●●●●●●●●●●●)
「ひ……ひっ……いやあああああっ」
倒れたおばさんに目もくれず、イヨはソレに背を向けて一目散に逃げ出した。
しかし、ソレはイヨを追いかけようともせず、地面に転がるビンを拾った。
そしてきょろきょろと周りを見渡す。転がっているのは真っ二つになったおばさんだけ。
それ以外は、
ゴミ一つ落ちていない(●●●●●●●●●●)
次いで、おばさんが持っていた買い物袋の中を漁る。
出てきたのはビン入りのジュースだけ。
だけ(●●)
王冠はついたまま(●●●●●●●●)
「………未だ……気付かぬか……」
困ったように表情を作り女はイヨが逃げた方へと歩き出す。
『あの子をどうするというの』
「解放する」
ステレオで問われたその問いに、女は振り返らずにそう答えた。





走る、走る、走る、走る。
その瞳の涙を、その表情に恐怖を貼り付けて。
しかしわからない、幼子はわからない。
その瞳から溢れるモノが何なのか、その心に宿る感情がなんなのか。
完璧で完全で完結した世界で幸福に暮らしていた幼子は。
ただ一心不乱に逃げる。
その逃走を妨げるモノは一つだけ。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ」
心臓がバクバクと張り裂けそうで、目の前が真っ暗なのは夜だけが理由ではない。
なぜなら走る道には等間隔で街灯が煌々と照らしているからだ。
「は……ぐっ」
呼吸が乱れたその一瞬、必死で動かしていた両足が一瞬言うことを聞かなくなった。
結果足を縺れさせ、イヨはその場に倒れ込んだ。
運良く地面の裂け目で草が生い茂る柔らかい地面(●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●)によって、足をすりむくことはなかった。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ」
全身は汗でびっしょり、この小さな体の何処にこれほどの水が秘められていたのかと思うほど。
「おとうさん……おかあさん……おねえちゃん……おばさん……う……ぐすっ」
なんで自分がこんな目に遭うんだろう、なんであの女の人は自分を襲うんだろう。
そんなことばかり考える。
自分はなにもしていないのに。
みんな自分に優しくしてくれるのに、可愛いっていってくれるのに(●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●)
「……いかなきゃ……はーっ、はーっ」
よろよろと起きあがってイヨは街へと向かう。
交番。お巡りさんなら何とかしてくれるはずだ。

コツン。コツン。コツン。

びくっ、と身を竦ませたイヨがおそるおそる背後を振り向くと。
「逃げるのはもう終わりかや?」
シニカルな笑みで、ゆったりとした動作で女が近づいてくる。
もう、叫ぶ元気すらなく。
イヨは街の明かりの方へ持てる力の全てを賭けて走った。
走ったつもりだった。
「は……あ……れ……あし……うごかな……は……」
「その小さな体躯でよくぞこれまで走れたと言うべきかのう」
草の上で転がりながら、イヨは必死に立ち上がろうとする。しかしどうにも身体が動かない。

「もう気がすんだか? 己の世界に閉じこもってるからバテるんじゃ。お主は外の世界を知らねばならぬ」

そう言いながら女はイヨへと腕を伸ばし、その腕を掴もうとしたところで。
「やだ……しらないもん……イヨしらない。みんなイヨのこと好きっていうのに、
みんな優しいのに。きらい、きらい、優しくないのきらい、やだ、やだ、やだっ。
こないで!!」
全身の力を振り絞ってイヨは叫ぶ。その瞬間、女の表情が驚愕に見開かれ、その姿がかき消えた。
「……?」
突然消えた女の姿に、イヨはゆっくりと身体を起こし、きょろきょろと周囲を見渡す。
しばらくそうしていたが、来る様子がないことにほっと一息をついて立ち上がる。
そしてふらふらと妖しい足取りで家へと向かった。
途中隣のお兄さんの車が通りかかり、乗せてもらった。
そして、また大好きなオレンジジュースを飲んだ(●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●)


「ただいま」
「おかえりなさい。イヨ、今日はあなたの好きなハンバーグを作ったのよ」
家に帰ったイヨを出迎えたのは、何事もなかったかのように料理をする母とその手伝いをする姉。
そしてプロ野球をあぐらをかいて見てる父の姿。
「ご飯とお風呂どっちを先にする?」
「……おふろ」
母のその言葉にそう答え、イヨはつかれた口調で風呂場へ向かう。
脱衣所には既に着替えが置かれてあった(●●●●●●●●●●●●●●●●●●)
汗を吸って重くなった服を脱いで洗濯機に放り込み、イヨは浴室へと入る。
コックをひねると気持ちのいい温度のお湯がシャワーから注ぎ、不快だった汗を洗い流す。
シャワーをあびながら、イヨはさっき起こった事を考える。
アレはいったい何だったのだろうか。お父さんもお母さんもおねえちゃんもいつも通り。
自分が大好きなハンバーグを作って待っててくれた(●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●)
アレは夢?幻?けれど追いかけられ、逃げたのは紛れもない事実。
本当になんだったんだろうか。
シャンプーでわしゃわしゃと頭を洗っていると、ガタンガタンと浴室の外で物音がした。
「?」
なんの音だろう、いつもおねえちゃんが来て背中ごしごしとしてくれるからそうだと
おもうんだけれど、と。
シャンプーをしてると泡が目にはいるから開けられない。
「おねえちゃん?」
「なーに?」
やっぱりおねえちゃんだ、返事が来た。
「背中あらってあげるわね」
「うんっ」
いつものやり取りの後、ガラリと扉の開く音。近づいてくる気配。
頭を掻いていた手をイヨは下ろす。いつもこの後はおねえちゃんにやってもらっ
ていたからだ。
けれど、いつまで待ってもおねえちゃんはイヨの頭をごしごししてこなかった。
「?」
不思議に思い目を開けようとしたら、シャンプーの泡が目に入りそうになって、
慌ててシャワーを出して洗い流す。
そこへ、
「不思議には思わなかったのか」

あの女の、声だった。





背後から投げかけられた声、それはあの女の声。
「!!!!?」
まったく予想だにしていなかったその声に、イヨは文字通り跳び上がるほど驚いた。
振り返ると、あぁ、そこにはあの女が。
目の錯覚だと思いたかった。
こんなところにあの女など居ないと思いたかった。

けれどイヨがそう思ったとしても、目の前にあるそれが真実。
そして狭い浴室にもかかわらず、イヨはその女から逃げようと距離を取る。
けれど、泡と水で濡れた浴室のタイルは、とてもよくすべった。
「きゃ……」
「おっと。このようなところではしゃぐものではないぞ」
バランスを崩し倒れかけたイヨの手を、女の手がしょうことなしの如く掴んだ。
転倒を免れたイヨだったが、崩れたバランスはなおもそのまま。
掴まれたその手を視点に、イヨの身体は女の方へと吸い込まれるように引き寄せられる。

「っ!はなして!」
「っ!」
とっさのイヨの拒む言葉。その言葉に女は驚愕の表情と共にその手を放した。
すると必然的に支えを失ったイヨの身体はバランスを崩したまま。
お湯の貼られていた浴槽へと飛び込んだ。

「はぅっ かはっ!?」
一瞬なにが起こったのかわからずパニクるイヨ、それを困ったように見つめる女。
もがいていたのはほんの数秒、浴槽の縁に指を伸ばし顔を上げようとした。
が、その時だった。

ちゃぷん、と小さな音がしたかと思うと、イヨの両足がぐるんと持ち上げられたのだ。
「!!!!!!!!!!!???????????」
今度こそ本当の不可解だった。訳がわからない、いったい何がどうなって両足が
勝手に持ち上がるというのか。
イヤ、それよりも問題は、両足が持ち上げられたことで、必然的に頭が下がると言うことだ。
そして頭の下にあったのはいったい何か。
「がっ、がばっあぶっぶぁっあぶっぁつあばぶうあがあぶあべあべっ!!!!!」
顔に水が、いや水に顔が沈む、顔を上げないと水の味がおいしくない苦しい。
息が息が息が息が息が息が息が息が息が息が息が息が息が息が息が息が息が息が
息が
息が。
水が消えた(●●●●●)

「はっ……がはっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ………?」

女が近づいてさかさまになったイヨの身体に手を伸ばしひっくり返し、浴槽の中
に下ろす。
「お主に、質問をしよう」
空っぽになった浴槽にへたり込むイヨに向けて、女ははにこりと笑みを浮かべながら問う。
「今、なにが起こったのか、率直に答えてみよ」
イヨは女の瞳をじっと見つめ返しながら、ポツリと。
「水が……消えた……なんで……?」
初めて、気付いた。


イヨが眼を覚ますと、外は既に朝の様子を示していた。
とてもいい天気。だけど日差しは強くなく暑くもなく寒くもない、とても過ごしやすい気温(●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●)
「……ん」
身を起こしてベッドから降りて、裸足のまま廊下へと出た。
とてもいい匂いが台所から漂ってくる。
イヨの大好きなママレードジャムの香りだ、いつもそのジャムを塗ってパンを食べている。
それ以外の朝ご飯は、食べたことがない。
普段通りの朝、いつも通りの目覚め。
それを
「おはよう。イヨ」
「……………」
扉の外でイヨを待っていたのはあの女だった。
黄金色の長い髪をフワリと揺らし、イヨに言葉を投げかける。
「とてもよく眠れたようで何より」
「……ふんっ」
あからさまに不機嫌そうにそっぽを向いたイヨに、女は少し驚いた様子でイヨに
詰め寄った。
「なんじゃ、せっかくの朝だというのに。そのような不機嫌な顔をしていては可愛い顔が台無し(●●●●●●●●)じゃぞ?」
「っ!?」
女から発せられた言葉にイヨはばっと振り返りその顔を凝視する、しかしそのイヨの視線を
今度は女は不思議そうに見つめ返すだけ。
「ほれ、つったってては食事にありつけぬ。お主の母の食事を戴こうではないか」
「うっさいっ、イヨのご飯なのっ、余分なんてないもん!」
イヨはそう吐き捨てて女に背を向けパタパタと駆け足で階段を下りる。
その後ろ姿を見つめながら女は反面ゆったりとした動作で追いかける。
「やれやれ、それが当たり前でそれ以外を知らぬ者(●●●●●●●●●●●●●●●●●)
それが異常でそれ以外があることを教えるの(●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●)がこれほど大変だとは」
もっとも。
「わらわ以外には出来ぬ事じゃろうけどな」
トン、と一階に着いた。





おはようイヨ。自分で起きれたのね、いつもえらいわ(●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●)
台所に立っていたイヨの母は普段と変わらぬ笑みをイヨに向け、
冷蔵庫からオレンジジュースを取りだして、グラスに注いだ。
イヨの後ろにいる女の姿などまるで存在しないかのような振る舞いで。
イヨはいつものようにテーブルに座り、そのオレンジジュースを取る。
寸前で、グラスは宙に浮いた、取ったのは他でもない、彼女だ。
「……………」
抗議の瞳をじと目で向けるイヨだったが、女はそんなことなどどこ吹く風でぐいっと一気に飲み干した。
「お主こんなものが好きなのか?ほかに飲み物はないのか?」
グラスをイヨの前に戻すと、母は何事もなかったかのようにおかわりを注ぐ。
注ぎ終わるのを待って、女は冷蔵庫を開ける。
「どけ」
その際、冷蔵庫の前に立っていて邪魔になっていた母をぞんざいに突き飛ばしながら。
「なにすんの!」
あまりにも理不尽、あまりにも不愉快な女の行動にイヨは抗議の声を上げる。
しかし、突き飛ばされた母は何事もなかったかのように起きあがり、言った。
「イヨちゃん。飲まないの? イヨちゃんこれきらい?」
にこやかな笑みで、穏やかな微笑みでイヨを見る母の表情。
イヨは思わずその母の表情と、女の後頭部を交互に見やった。
普段と変わらぬ母の表情、なんで母はあんな事をされたのになにも言わないんだろう、と。

「ふむ……ホントになにもないのう……ゼリーにチョコレート、子供の食べ物じゃなぁ……」
そう言いながら女は冷蔵庫からプリンを取りだしてペリペリと開けた。
「あぁっ!それイヨの!」
「さてココで質問だ!」
ビシッ、と突き付けられた指にイヨは思わず身をすくめた。
「な、なに……?」
「このプリンには本来あるべきモノがない、それはなんだと思う?」
突然投げかけられた問いに起こるのも忘れて考えてみた。
あるべきモノ、それはなんだろう。ないモノ。それはなんだろう。
本気で悩むイヨの目の前に、女は小皿を置いて、それにカップをひっくり返す。
「プリンは本来カップに入っておるが、そのまま食べることもあるが皿などに
ひっくり返して食べることも出来るよう。落としやすくカップの底に爪が付いてるのじゃよ」

そう、カップの底に爪(●●●●●●●)がない。
トントントン、と叩いてプリンを皿に落とす。
「ほれ、喰え」
「………いいの?」
女の行動が心底理解できない。この人はいったい何がしたいんだろう。
「元々はお前のモノなんだろう?まぁもっとも。
このプリンがいつどこで誰が買ったのか判ったモノではないがな(●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●)
「また変なことを。買い物は母がするに決まっている。と言いたそうな顔をしているな」
心の中で思ったことをずばり当てられて思わずイヨはブンブンと首を振った。
「ならば聞くが。お主は母が買い物をしているのを(●●●●●●●●●●●●)見たことがあるか?
母の買い物に付き合ったこと(●●●●●●●●●●●●●)があるのか?
好きな物を買って欲しい(●●●●●●●●●●●)とねだったことはあるか。欲しい物を買ってもらえず(●●●●●●●●●●●●)に拗ねたことはあるか。
母が家事をしているの(●●●●●●●●●●)を見たことがあるか。母の家事を手伝ったこと(●●●●●●●●●●●)があるか。
父が仕事に行くのを見送った(●●●●●●●●●●●●●)があるか。父の仕事がなんであるか(●●●●●●●●●●●)を知っているか。
姉が学校へ行くの(●●●●●●●●)を見たことがあるか。姉が友達と歩くところ(●●●●●●●●●●)を見たことがあるか。
そもそもお主に友達はおるのか(●●●●●●●)友達といっしょに遊んだこと(●●●●●●●●●●●●●)があるのか。
動物が街に一匹もいない(●●●●●●●●●●●)のに気付いているか。
鳥の囀りすら聞こえない(●●●●●●●●●●●)のに気付いているか。雲がない(●●●●)のに気付いているか。太陽がない(●●●●●)のに気付いているか。
ゴミの一片も街にない(●●●●●●●●●●)のは何故だ。

さて、答えてみよ」

「それは……」
「異形だ、異常なまでの異形。そしてそれに気付いてない今の状態はなおさら整合性が
とれておらぬ。何故動物がいない、何故両親がいる、何故姉がいる。なぜビンの王冠が空いていた。
なぜ彼女はお主にジュースを渡す。都合がよすぎる、お前にとって、お前自身にとって、この世界は」
「わかん……ないよ……」
「はい、あーん」
プリンを食べようとしないイヨにかわって、母が小さな子供にするようにプリンを削ってイヨに差し出した。
「わかんないよ! しらない!」
母から差し出されたその手を乱暴に振り払うと、スプーンが女へと飛んだ。
女は避けず。服に付いたプリンのカラメルを指ですくってぺろりと舐めた。
「しらない!なんなの!わけわかんないっ……ぅ……っ、いた……い……」
「考えようとしなかっただけだ。いや、考えないようにさせられていたと言うべきか」
女は捲し立てる。

「望むモノを世界に閉じこめて、自らの都合のいいように世界を造り出す。それがお主の持つ能力。
それだけならば特に問題はなかった。
だがそれに宿ったモノがいた。
そしてそいつはお主の力を利用した。世界と一体化し。我々の世界を侵略している。今、この時も!」

「キイイイイイイイイイイイイイイイイイエエエエエエエ!!!!」

突如奇声を上げて母が女へと飛びかかった、しかし女は身じろぎ一つせず、右腕を軽く
振るっただけで母のその躰が頭上へと叩きつけられた。
蛍光灯が砕け。破片がテーブルへと降り注ぐ。
プリンは既に食べられるモノではない。
「お主は望むモノを望むまま(●●●●●●●●●)に手に入れられる。そやつはそれを利用した。お主自身
に幸福な人形を与えてお主自身の行動を封じた。何故、なに、どうして、そう言う思考する隙を封じた、
仕方あるまい、お主はその外見通りの幼い子供だったのだから!」
「グオオオオオオオオオッ」
突然周りの壁が赤黒くグロテスクなモノへと変化。そう、まるで何かの生き物の内臓のように。
「そやつにとって必要だったのはお主だけ。それ以外は奴にとって食事でしかない。
こっそり世界を繋ぎ、迷い込んできた生き物を喰らった。やがて世界そのものを喰らうつもりだったのだろう、が、そうは行くか」
「うるさい!消えろ!」

ふっ、と、周囲一帯が消えた。

その場に残ったのは、イヨと、女だけ。
イヨの目が驚愕に、有り得ない物を見るような目つきで女を見る。
「馬鹿な……何故消えない……如何なるモノであろうとこの世界においてこの小
娘の意思で消滅を免れる者はおらぬはず」
「見くびるでないわ小童めが。貴様このわらわを誰と心得る。黄昏を背に名を馳
せた、金毛白面九尾の狐。借り物の力でいい気になってる小悪党とは器が違うわ」

そして女はゆっくりとイヨに近づくと。
「貴様……この小娘を傷つけるのか。このいたいけな娘に手をあげるなどぶぁっ」

さっきまでイヨだったモノの腹を、女は躊躇無く(●●●●●●●●●●●●●●●●●)蹴り飛ばした。
「重々承知。死なぬ程度に加減はするに決まっておろう?」
飛んでいったイヨの身体を追いかけて女は飛翔する。

「卵の殻を破らねば、雛鳥は生まれずに死んでいく。
イヨが雛で、卵は世界だ。
世界の殻を破らねば、イヨは生まれずに死んでいく。
世界の殻を破壊せよ。
そして新たな命の誕生と喜びを!」

ばんっ、と女の背中に広がる九つの光の帯。
神々しきその光と共に、女は世界を破壊する。




腹をぶち抜かれるかとも思った一撃に、意識がふっとび、それが戻ったときそいつは宙を飛んでいた。
「くっ……」
己の現状を確かめるとそいつは空中でくるんと体勢を立て直し、そのまま着地。
そして蹴られた腹部に手を当てて苦悶の表情を浮かべる。
「バケモノめ……」
この身体はイヨの身体、そうわかっておきながら躊躇無く全力で腹で蹴り上げた。
いまさら考えてみれば、女は昨日の時点で両親を両断していたのだ、イヨだからと
言って手加減すると考える言の方がおかしい。

「見通しが甘かったか……、潮時か。小娘の能力は惜しいが、そうも言ってられないな……」
うずくまるそいつの周りに、人々がどこからか集まってきた。
「数で行けば時間稼ぎにはなるだろう。いけ」
そう命じると人々は一言もしゃべらずイヨの家の方向へと向かった。
周囲になにもなくなった空白地帯、女は今もそこにいる、空に飛んだまま動こうとしない。
「見失ったのか、いやそもそも追いかけようともしてこない……」
その時だった。女の手元に光が灯ったかと思うと。女はその光を
ぴゅっ、と天に向かって投げた(●●●●●●●●●●●●●●)
「いったい……」
なにを、と思ったわずか十数秒の後。
声が聞こえた。
「戦いを楽しもうとは思わぬ。お主にこれ以上この世界とイヨを犯されるのも
辛抱ならぬ。ならばせめて、わらわの手で滅びるがよい」

光の槍が、天から降り注ぎ、街を、人を、世界を破壊する。

「ぐううううっ!!!」
空からの光に一瞬気を取られ、そいつはイヨの腕と脚を光によって貫かれた。
とっさに近所の家の軒下に潜り込んだ、幸運なことに光の槍は屋根を貫通するほ
どの威力はないようだった。
けれどまるで雨が降るかの如くの勢いでガツンガツンと屋根に注ぎこむコンクリ
ートと金属のぶつかり合う音はとてつもない恐怖だった。
室内ならば平気、だが逆を言えば室外にいれば避けようもない。
あれ程いた人々もおそらく全滅、時間稼ぎにすらならなかった。

「なんて……なんて奴だ。くそっ、逃げないと、マジで殺される……」
そう言ったその途端。そいつの潜り込んだ家の屋根が巨大な光の柱と共に消滅した。
パラパラと破片のみが落ちてくる。
そして、どしゃっ、と女が目の前に着地、畳の上に土足で。
「辞世の句は詠み終えたか」
「ひ、ひ、ひいいいいいいいいいっ!?」
イヨの顔、愛らしかったその表情が恐怖と絶望と、その身体に宿った何者かの意思によって忌々しく型作られる。
「ま、まてよ。あんたホントにこの娘を殺す気か?こいつはまだ五歳なんだぜ?」
「その五歳の女の子に乗っ取り操っていた貴様がそれを言うか」
女が一歩近づくと、そいつは無様に後ずさり、中庭にお尻から落ちた。
「それに、作り物とはいえ両親も、街の人々も躊躇無く破壊したわらわがいまさらその程度のことで揺れるとも?」

いまだ、と思った。そいつはあっさりとイヨの身体を放棄した。
そして代わりに目指すは目の前の女。こいつの力を手に入れたらちまちまとこんな世界で引きこもっていることなど無い。
あちらの世界で思う存分喰らいまくってやる、と。
天に向かって投げた光は女は手にしていなかった、家を吹き飛ばした光の柱も、
どうやったかまでは見ていないが持っている様子はない。
今しかなかった、最大のチャンスで隙だらけだった。
そいつの支配を逃れたイヨが土の上にころんと転がり、代わりに女が膝を付いた。
そして
「ふふふ……ふふふふふふふああああああああははははははははああああああああああああ!」
女に取り付いたそいつが喜びの声を上げた。
「愚か者めが、例えどれ程の力を持っていようと宿ってしまえばこっちのモノ。
余裕こいて調子に乗って結果油断して乗っ取られちまったんじゃーお笑いだぜぎゃあああああああああああははははは」
そいつは下品な笑い声を口から垂れ流しながら、女の身体を操った。
イヨの子供の身体と違って重さを感じる、けれど全身の力強さは比べるべくもない。
そして右手に感じる特殊な重さも。
「へっ?」
そしてそいつは初めてそれに気付いた様子で、それを見た。
それは変な形をした物体。一見でなんであるか説明することさえ困難な物体。
「な、なんだこれは。なんだッてんだ?こんなモノどこにあった?どっから出した
?って言うかし、しらねぇぞ、なんだこれっ!?はなれねぇ、なんだ、なんだなんだなんだ!?」

(さて、一つ勘違いをしていたようだがココで正してやろう。)

頭の中に声が浮かぶ。
「ぎぃっ………て、てめぇ……」
(わらわがイヨを殺すなどあるはずが無かろう、これだから三下は困るというモノじゃ。
まぁよい、最後にわらわの身体を少なからず動かせただけ幸福としてとらえるがよい。滅多にない名誉じゃぞ)
身体が動かない、さっきまで動かせていた全身が鉛の海に沈められたかのように動きを封じられてる。
動くのは右手に持った変な形の物体だけ。そしてその先端が女の身体へと向けられた。
「ま、まてよ、てめぇ、小娘の命を助けるってタメだけに自分を犠牲にするってのか? よ、よせ、やめ……」
(もうよい黙れ。もはや貴様の交わす言葉はない。それにわらわはわらわ自身を犠牲にするつもりもない)

そして、女はそれを己の胸に突き刺し。
(ぎいいいいいいいいいいいいやあああああああああああああああ………………)
そいつの断末魔が女の頭の中にのみ響いた。




そして、ゆっくりと意識が眠りの海から浮き上がる。
閉じたまぶたを、カーテンを通った柔らかな日差しが目覚めを刺激する。
自身を包む温もりと、かすかに漂う知らない匂い、けれどその香りがなんだか心に暖かい。
奥深く沈んでいた意識は、水中を漂う泡のようにゆらゆらと水面へと向かっていった。
そして水面に姿を現した水泡が、パチンと弾けるのと同時に、イヨはゆっくりと瞳を閉じた。
目に映ったのはおぼろげな白さ、もぞりと身体を動かすと、それがシーツで在ることに気付いた。
白いシーツ、それが動いたとき、ふんわりと鼻腔を刺激した良い香りに思わずイヨはとろんと瞳を閉じた。
「遅い目覚めじゃな、よく眠れたかの?」
「?」
投げかけられた言葉に、眠りに落ちかけた意識は再度浮上した。
イヨはシーツをむぎゅっと抱きしめたままその身を起こす。
ごしごしとまぶたをこすって、しぱしぱと瞳を瞬かせる。
くりっとした緑色のまぶたが、ベッドの縁に座っている女の姿をとらえた。
「……ひ……」
「おっと、叫ぶのはやめてほしいのう。皆事情は知ってるとは言え好奇心旺盛な者達じゃ、刺激されてはこまる」
出かかった悲鳴を女が先んじる形で征した。そしてイヨはかろうじてそれを抑える。
大体女はイヨに背中を向けたままである。なにやらショリショリと音がするが、イヨにはなんの音かわからなかった。
「ここは……?」
「わらわの自室じゃ、諸事情でお主をあそこから連れ出した。どこまで覚えておる?」
女の言葉にイヨは口を噤んだ。実は全部覚えている。
自身の中に何かが潜んでいたことも、それを目の前の女が退治したことも。
そして、自分がいた世界がどれほどおかしかったのか。
潜んでいたなにかによって考えることが出来なかったことが、認識できるように
なったためかろうじて、ではあるが。

「ほれ」
女はイヨに背を向けたまま肩越しになにかを放る。
「わっ、っとと」
イヨはシーツの中から手を出して両手でしっかりとキャッチ。
しかし、手はぺちゃっと濡れた。
「ひゃっ」
キャッチしたその表面の水気にびっくりして放りなげると、シーツの上に転がった。
それは見た目には真っ白な球体だった。
「これ、食い物を粗末にしてはいかんではないか」
女が背を向けたままそう言うと、その物体がフワリと浮かび上がってイヨの目の前に。
「両手を出せ」
「これ、なに?」
イヨが問うと、女は呆れた口調で答える。
「なんじゃお主、リンゴも知らぬのか?」
女がそう言うと、その物体はフワリと動いてイヨの鼻っ面へと移動。
「病人怪我人の見舞いはリンゴと相場が決まっておる、つべこべ言わずに喰うがよい」
見たこともきいたこともないモノだった、白くて丸いなんだか水っぽいモノ、食べられるのだろうか。
くん、くん。甘い香り……おそるおそる下を伸ばし、ぺろり。
口の中で唾液と混ぜて味を……味を……味を……確認。
「!?」
味を確認した途端、イヨはソレにはぐっとかじりついた。
シャリ、と言う歯ごたえと、果汁がぷしっと口の中に広がった。
なにこれ、なにこれ、なにこれなにこれなにこれなにこれ!!!!!!
しゃりっ、しゃりっ、しゃりっ、しゃりっ、しゃりっ、しゃり。
はぐっ、はぐっ、はぐっ、はぐっ、はぐっ、はぐっ。
ごっくん。
「ふはっ、なにこれっ、おいしいっ、ねぇっ、これっ、これっ、これっ!!!!」
「だからリンゴじゃ」
「もっとっ!」
「ほれ」
女はイヨになおも背を向けたままぴょいっと放り投げる、今度はイヨはリンゴを落とすことなくナイスキャッチ。
両手でしっかりと持ったまま、かじりつく。
「ふむ、気に入ったようで何よりじゃ」
「うんっ、おいしいっ、これ好きっ」
ほっぺたと両手とシーツとを垂れた果汁でベトベトにしながらうれしそうにイヨは微笑む。
「あの世界にはない味じゃったか?」
「あっ………」
女が言ったあの世界、にイヨは思い出す。
自身がいたあの世界、完全で完璧で完結した世界(●●●●●●●●●●●●)のことを。
「………おかあさんたちは……?」
「残念ながら偽物じゃな。経緯までは詳しく知らぬし調べようも……いや、一応あるがあんまり意味はないかのう……」
女の答えにイヨはしょんぼりと悲しげに顔を伏せる。
そんなイヨに、女は初めて体の向きを変え、向かい合って、問う。
「なぁ、お主よ。あの世界は幸せであったか?」


「幸せ……」
「うむ。いざお主をあの世界から連れ出したモノの、実際のところお主の意思は
聞いておらんかったしな。そもそもは取り付いておったあやつが原因で、あやつを討ち取った以上
お主に害はないし。お主自身があの世界で幸せならばそれでもよいと思っておる」
じい、と見つめてくる緋色の瞳に、イヨは視線をそらし芯だけになったリンゴを見た。
確かにあの世界は幸せだった、自分にとって、自分だけの、自分による、自分自身の世界。

「なんで……イヨを助けてくれたの?」
「助けた? あぁ……まぁいろいろひどいこともしたが。許してくれるのであれば全ての悩みは霧消したと言ってもよいの(●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●)

助けた、と言うイヨの言葉に自分がしたいろいろひどいことをイヨが気にしてないことに
女は胸をなで下ろしたようだった。

「元々は神隠し、つまりこちらの世界の人間がちょくちょくいなくなること。その調査だったのじゃ。
調べた結果、別の世界、つまりお主の世界に迷い込んで喰われていることがわかった。
お主は知らんだろうからあやつの仕業じゃろうな。悪いのはあやつじゃ、お主ではない」
それに、と女は続ける。
「お主を救えるのはわらわだけだっただろうしな、出来ることならばしたまでのこと、それだけのことじゃよ」
そう言いながら女の手はリンゴの皮むきを止めない。見事に最初から最後まで皮が繋がっている。
むきたてほやほやをイヨに手渡し。
「まぁ……理由は特にはない。別にお主ごと滅ぼしてもよかったが……その方が良かったか?」
何事もないように問うてくる女の怖い一言にイヨは力一杯否定した。
「そうか、まぁ今のところ言うべきところはこの程度かの。
手足の傷も治っておるし(●●●●●●●●●●●)
お主がわらわを許してくれるのなら全ては解決(●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●)じゃな」
そういえば、光の槍に貫けられた手と足が既に治っている。あともなにもない、
綺麗な小さな手。汁に濡れた幼い手の平だ。
「あとはお主の好きにするがよい」
そう言って女は立ち上がりイヨに背を向けた。
「あ……」
思わずイヨは声を上げた。女が腰を上げた瞬間、その髪の毛から漂った微かな香り。

これだ(●●●)

「だめ……」
思わず、口から言葉が出た。
「ん?どうした?」
言ってしまって、どうしよう、なんでもないと言おうか、と思ったが。ココで言わないとダメだ、そう確信した。
「ゆるさない」
イヨのその言葉に女はあからさまに困ったような顔をした。
「ふむぅ……まぁそうじゃなぁ、あれ程のことをしたし、お主が怒るのは当然じゃと思うが……ならわらわはお主にどんな償いをすればよい」

ぐっ、とイヨは女の顔を見上げ、言った。
「おかあさんとか、おねえちゃんとか……は、いい。がまんする……から……この世界のこと、教えて欲しい。
もっとたくさんのおいしいもの、楽しいこと、一杯、一杯教えて欲しい。イヨに教えてほしいの。お願い」

「ふむぅ………と、すると………お主の師匠になれ、と言うことか?」
「し……しょー?」
「ふむ、まぁそれでお主がわらわを許してくれるというのならば是非もない。
しかしわらわのおいしいもの探しは並大抵のモノではないぞ?」
女の言葉にイヨはゆっくりと時間を掛けて、そして確かな意思を込めてこくりと頷いた。

「うむ。ならばわらわの元で少しずつ学び、成長するがよい。
人生のとろけるような甘さを。挫けることの苦さを。
恋の酸味を、生きることの充足感を!
いつかわらわから卒業するその日まで、存分に味わい噛み締めるのじゃ。
この世界は広いぞ。お主がいままでいた世界など、その林檎サイズに感じられるほどにのう」

かかか、と笑う女の姿をじっと見つめて、それから手の中の林檎を見て――

イヨは小さな世界を一口かじった。

それは爽やかに甘く、微かに苦く、そしてとってもとっても、美味しかったという。


<了>

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最終更新:2016年08月31日 14:08