管理者メモ:視点や感性の多様性と事実・事象(1)

一つの物事に対する事実は一つしか無い

一つの物事や事象、事件と言ったことに対する「意見」というのは複数あり得る。
だが、同様のものに対して「事実」は一つしか無い。

視点の違いによる切り口はあるかもしれない。しかし、見ている物は一つでしか無い。

その熟したりんご実の色は「赤」と定義されている以上、赤である。

※下記、色覚多様性による見え方の差異や多少の色の表現の差異(赤に対して、紅、深紅などと言った) については除外して考える。単純にそう定義された色が、そこにあるという考え方で話を進めていきたい。

赤い林檎があったとする。
1人は横から見て、赤いと答える。
或いは1人は下の部分を見て緑と答え、1人は芯を見て茶色と答えるかも知れない。
全部一つの事実である。

しかし、その熟れた林檎の赤い部分を指差し、ではこの色は何色と定義されているものか、と問われ、それでも緑や茶色であるというのは、意見の相違という事で問題無いのだろうか。

見えているのは確かに、我々の中で定義されている「赤」そのもののはずである。その事実を表現する為に「赤」という言葉が存在するのであって、(錯視はないものと仮定して) 視界に入っている色が「赤」である以上、それは「赤」であるという認識は観察者の中に確かにあるはずなのだ。
そこで観察者が意図して別の定義を持ち出したり、その事実を受け入れられない、或いは意思を持って否定したい等と考えない限りは「赤」であるという答えが返ってくるはずである。

事実が伝わらない、見えないと言うこととは

この場合の定義とは、本来物事を伝えることを円滑にする為に存在するはずであり、その定義に沿って会話が進められないと言語を使った物事のやり取りは不可能、でなくとも極めて困難になってしまう。
この場合、定義の否定であれ、事実の否定であれ、表面に出てくる言葉は同じであり、その場に出てくる問題も同じものであるので、同じものとして取り扱うことが出来る。

いずれにせよ、このような事が日常的に繰り返されてしまうのであれば、話している事柄の前提条件である「事実」が受け入れられていない状況がそこに常に存在してしまう。

このような事態が無視できない頻度で存在している為、物事の本筋が伝わらなかったり、その先の話が出来なくなってしまうことがあると感じることが希にある。
例えば、令和2年3月7日(執筆日)において、もう既に令和2年も2ヶ月が経過したのかと感慨深く話していたら、「あれ?まだ2月だよ」とこともなげに答えられると、次に続く言葉が繋ぎにくくなるようなものである。

この例はあくまでも問題を簡単にする為にあえてこのような誰でも間違いと分かるような話を持ってきたのではあるが、ここ数日私がネット上で見てきた「間違った知識」や「間違った情報」の中に多々、こういった物が紛れている場合も散見される。
中学生程度の化学であったり、簡単な四則演算、場合によってはほんの少しの注意力で解決する問題も多々あったように思える。

複数の問題が混ざり合って複雑化されていたり、冷静になりきれていないから見えていないだけで。

事実や現実は土台

意見や感じ方、考え方の多様性はあってしかるべきだし、それに対する感度は常に上げていきたい。

しかし、今私たちがこうして一人の人間として立っている根源である、今ここにある現実、事実の類まで否定されてくると、その上に立っている物が一つずつ壊れていってしまう。
0から1は産まれない。同様に、事実やそれを定義する言葉、表現、そういったもの無くしては我々はその上に何も積み重ねることは出来ないのである。

今、ある意味そういった岐路に我々は立たされているのでは無いか。
色々な情報を集め、発信していきながらも、事実という足場だけは取り外さないよう、注意したいところである。

事実という足場を踏み外した上に積み上げたものは形を成さないのだから。
最終更新:2020年03月07日 18:47