羽音が聞こえる。
 ぶぶ、ぶぶぶぶ。
 耳障りな、薄羽の擦れ合う音。
 きちきちと、何かの軋むような音もする。
 何か大きな虫が草木の葉を食んで、噛みちぎる音。
 一匹一匹なら小さな、それこそ少しでも離れてしまえば聞こえなくなるような音響も。
 されどそれが、地平線の彼方まで覆い隠すような無量の軍勢となれば話は違う。

 さながらそれは、押しては引いていく潮騒のようだった。
 目障りなすべて、世界のすべてを呑み込んで喰らい尽くすもの。
 始まりは遥か神代から、そして終わりは未だ訪れぬまま。
 あらゆる歴史の生き証人を語るように、蠢いては殖えていく命の波浪。

 昆虫恐怖症の人間が見たなら発狂するようなおぞましい光景を、しかし白黒の少女は微動だにせず見つめていた。
 もはやこの悪夢も見慣れたものだ。
 契約のパスを通じて流れ込む、彼の、〈彼ら〉の記憶。
 変化も変遷もありはしない、ただ喰らうばかりのアーカイブ。
 故に慣れてしまえば、どうということもない現象に成り果てる。
 代わり映えも芸もない、いつも世界のどこかで繰り広げられているありふれた景色。
 ため息交じりに踵を返して、背を向ける。
 そこで、初めて少女は目を瞠る。

『イリス』

 名前を呼ぶ、影がある。
 見渡す限り、虫と彼らの糞ばかりしか存在しない孤独の砂漠の、その中で。
 黒天の中に神々しく輝く一番星のように、あの頃の思い出そのままに、〈彼女〉は立っていた。

 色褪せることを知らない微笑み。
 風にそよぐ、銀雪の鬣。
 差し伸べる手は、初めて出会ったときとまったく同じ。

『いこう、イリス』
「……どこに」
『どこへでも。あなたと行けるところまで』
「ふざけんな」

 幻像そのものの面影に、感情のまま平手を振るう。
 ふざけるな。どの口でそれを言うんだ、おまえは。
 おまえなんて。ただの人でなしだ。
 おまえみたいな人間は他にひとりだって知らない。
 幻の中でさえ、おまえは私にそうやって微笑むのか。

 他人の区別もつかないおまえが。
 いいや、区別をつけないおまえが。
 どんな人間にだって同じ尺度を当て嵌めて、同じ認識で話してしまえるおまえが。

「嫌い。おまえなんて、だいきらいだ」

 ああ、これは夢だから。
 所詮、蝗害の砂漠の中でしかないから。
 通じるはずもない平手に打たれたあいつの影が、飛蝗の群れに変わって消えていく。
 そしたら後にはもう、何もない。
 今度こそ本当に、一面の砂漠が広がっているだけ。

「おまえなんかと、出会わなきゃよかった」

 イリスは唇を噛み締める。
 夢なのをいいことに、血が出るほど。
 白い歯が唇を破り、肉に食い込むほど強く。
 噛み締めて、これが〈狂気〉であることを認識する。
 この想いが、奴にかけられた呪いであることを直視する。

「……死んじゃえばいいのに、クソ女」

 最後に捨ててしまえるのなら、最初から手なんて差し伸べるな。
 クソみたいな世界に、それ以外の色があるなんて教えるな。
 拾った子猫をさんざん愛して、飼えなくなったから夜の公園に放り出す。
 あいつはそういう人間だ。あいつのやったのは、そういうことだ。

 だから、イリスは神寂祓葉を許さない。
 嫌い。大嫌い。会いたくもない。
 どこか知らないところで、惨めにのたれ死ねばいい。

 今まで見てきた中で一番醜悪な人間。
 屑なんて言葉じゃ表現しきれない、最悪の大嘘つき。
 "誰もがみんな生きている"なんて当たり前のことにさえ気付けない、幼稚な子ども。
 イリスはそれを知っている。だから中指を立てて、心から彗星の尾を呪うのだ。

 ――おまえなんて、大嫌いだ。

 もう一度繰り返して、蝗害の夢から朝へと還る。
 虚構の世界、仮想の都市。
 針音だけが支配する、エーテルの砂漠へと。
 イリスは、〈はじまりの六人〉がひとりは。
 光に灼かれた哀れな白黒は、今日も今日とて最悪の気分で目覚めを迎えた。



◇◇



 物心がついた時から、イリスにとって世界とは監獄だった。
 外に出られなかったわけじゃない。
 人と関われなかったわけじゃない。
 村の中であればどこにでも行けたし、誰とでも話すことができた。
 その関係は決して、対等ではなかったけれど。

 イリスが生を受けたのは、九州奥地のある閉鎖的な村落である。
 女尊男卑、事実上の身分制度、前時代的な因習に他者への迫害。
 どこに出しても恥ずかしい、辺境という意味でなくクソの付く田舎。
 されど、女として生まれた少女がその性別を理由に不利益を被ることはなかった。

 彼女の生まれた家は〈特別〉で。
 彼女の持った体質もまた然りだったからだ。

 村の実権をほぼ一手に握る名家。
 村の中で、楪の家を軽んじられる人間は存在しない。
 楪家。神憑りの家。
 はるか昔から村を統べ、時に摩訶不思議な力で難事凶事を解決してきた少女の家はもはやひとつの信仰対象だった。
 誰もが楪の家を崇め。そして、畏れていた。
 楪に弓を引けば祟りがある。
 あの家は神に守られている。
 村の守り神たる色彩の神。
 白と黒の二色からなる、崇める者には恩寵を、仇なす者には神罰を下す神格。
 故に誰もが楪を想う。楪を中心に、村は回る。そのみすぼらしい真実など、何ひとつとして知らないままに。

 別に、なんということはない。
 楪の家は遠い昔、異国から伝来した魔術の知見を学び取って村に流れ着いただけのよそ者だった。
 色間魔術。世界を白と黒の二色で定義し、それに別々の意味を与える魔術の使い手。その家系。
 村へ流れてきた当初の目的は、もしかすると未開の地で神を気取りたかったというだけなのかもしれない。
 たかが"齧った"程度の術師でも、周りが無知な蒙昧だらけなら伴天連の秘術を気取れるから。
 それが驕りと身の丈に合わない自負に変わらなければ、ひょっとするともう少し少女の世界は幸福だったのだろうか。


『神秘が途絶えている』
『何故到れない。何故この白黒は、理を飛び越えることがないのだ』
『巫山戯るな。断じて認めぬ。楪は選ばれし家。選ばれし血筋なれば』
『西洋の貴族主義なぞに遅れを取るわけにはいかぬ。何としても次、次の世代で色彩の果てに至らねば』
『根源』
『根源を。色彩の果てに佇む無形の混沌を』
『今こそ掴まねばならぬ。次こそ掴まねばならぬ』
『孫が生まれた』
『跡取りだ。優秀な魔術回路を有している』
『なんと素晴らしき才。なんと素晴らしき色彩。楪の希望よ、新星よ』
『ああ、依里朱。何故おまえは女なのだ』
『乳などぶら下げて生まれなければ、おまえは完璧な存在だったのに』


 楪の魔術師は確かに優秀ではあっただろう。
 だが、根源を目指すに足る逸材では決してなかった。
 未開の村で猿山の頂点に座り、今でも王を気取っているような家だ。
 そんな家が、独学で魔術師の悲願を成し得るなど妄想も甚だしい。

 それでも、彼らは確かに本気だった。
 自分を超人と勘違いした凡人達の歩みは惨めな狂気だ。
 無駄な努力を積み重ねて。
 見当違いの研鑽は、癌の治療に枇杷の葉を用いるが如し。
 長い長い迷走の末、老境に入った魔術師達が未来を託したのは――


 たまたま、それなりの才能を持って生まれた幼い娘。依里朱と名付けられた少女であった。



◇◇



 都会はなんて住みづらいんだろう、としばしば思う。
 何しろどこに行っても人間がいる。
 ひとりになれる場所というのが、事実上自分の部屋の中しかない。
 あと物価も信じられないほど高い。村にはコンビニなんて小洒落たものはなかったが、二度目ともなると田舎者でも異常さに気付いてくる。
 せめて舞台が東京じゃなく、ああせめて函館とかそのへんの地方都市だったなら、もうちょっと戦争のことだけ考えていられたのではないか。
 どれだけ言っても尽きない文句は、口にしたところできっと意味がない。
 だから心の中だけに留めて、今日もまたため息をつく。
 耳を叩く騒音は部屋の中から響いている。近隣から苦情が来るとか、言って聞いてくれる相手ではない。
 眉間にありったけの皺を寄せて、イリスは〈彼〉のことを見た。

「 ♪ ハッピーで埋め尽くして レスト・イン・ピースまで行こうぜ―― 」

 白と黒、その二色だけで統一された部屋。
 それはある種の病的さを感じさせる偏執の角砂糖。
 だからこそ、そんな空間の中でその男の存在はひときわ際立った存在感を放っていた。

 フードの付いた、グレーのつなぎを纏った青年だった。
 前髪で眼は隠れているが、それが不思議と陰気さを感じさせない。
 180センチを優に超える大柄な体格もそうだが、何よりその手に握られているギターの存在が大きいだろう。
 誰が信じるだろうか。これが人理の影法師たる、英霊の座から招かれたサーヴァントであるなどと。
 イリスが一番、信じたくないと思っていた。自分は一体、どこまでハズレくじを引けばいいのかと。
 苛立ちまじりに、上機嫌そうな演奏に対してケチを付ける。
 テーブルの上にあったコーヒー牛乳の空きパックを投げつけながら、イリスは言った。

「うるさいんだけど」
「 ♪ いつか見た地獄も―― …… って、あーッ! 何すんだよ、今演奏の途中だろうが!!」
「だからそれがうるさいって言ってんの」
「か~~っ、分からんかねこの粒立ったメロディが………後ギター蹴んなよ。楽器警察にブチ殺されんぞお前」
「常識人みたいな顔すんな、虫けら」

 頭を狙って投げつけた牛乳パック。
 それが、当たり前みたいにすり抜ける。
 いや、正確にはその部分だけが崩れて、パックをすり抜けさせた。
 身体の崩れた部分から、ぶわりと粉のように蟲が飛んで。
 一秒と待たずにまた集まって、元通りの身体を形成する。
 今となってはもう見慣れた光景だが、最初は生理的嫌悪感にずいぶん鳥肌を立てたものだった。

「ただでさえこの見た目で悪目立ちしてるんだから、これ以上目立つことしないで。次は令呪使うからね、容赦なく」
「なにイライラしてんだよぅ。――あ、生理? 重い日か? だったら悪かった。生姜湯淹れてやるからほら、なるべく穏便に」
「死ね」

 今度はカップを投げつけたイリス。
 その外見もまた、白黒二色で統一されていた。
 白い肌。ブロックノイズを思わす模様が白黒均等に配分された髪の毛。
 服すらもが白と黒、強迫観念的なツートンカラーから成り立っている。

 楪家の魔術は〈色間魔術〉。
 白と黒の二色、その対称性に神秘を見出した長い歴史のある術法。
 仔細は省くが、それを振るうには常日頃から白黒の色彩に親しんでおくことが肝要とされていた。
 だからこそイリスは奇異の目線も気にせずこうしている。
 この世はすべて、白か黒か。それが、楪の家に生まれた者の宿命。

「やれやれ。少しは感謝して欲しいんだがね、言っとくが俺は相当な当たりくじだぜ?」

 楪家の長老達はきっと、さぞや栄華に溢れた英霊を呼び出してほしかったのだろうと思う。
 例えばそう、誉れも高きアーサー王だとか。剣豪無双の二天一流だとか。古代ウルクの英雄王だとか。
 奴らは基本、いい歳をして夢見がちだから。けれど残念ながら、イリスはその期待には今回も応えられなかった。
 いや、むしろ――悪化していると言っていい。此度、この〈第二次聖杯戦争〉で楪依里朱が呼び出した存在は、まともとはかけ離れた英霊だ。

「それに、お前には俺みたいな人外のカスの方がきっと合ってる。
 お前が真っ当な英雄とやらを喚んでたとして、奴らはお前のヒスに耐え切れねえよ」
「なに。私がメンヘラだって言いたいわけ」
「それ以外の何なんだよ」

 また、物理的接触のあった箇所が無数の蟲に変わって飛び散る。
 そしてまた、蟲達に覆われる形で元へと戻る。
 その蟲はすべて、一匹の例外もなくずんぐりとした体躯を持つ飛蝗(バッタ)だった。
 飛蝗が飛び立ち、元鞘に戻る。それはつまり、このサーヴァントのヒトらしい外見はすべて無数無尽蔵の飛蝗で構成されているということで。
 世界でいちばん有名な直翅目、飛蝗類の昆虫と言えば……きっとそこに例外は存在し得ない。

「いつまでもウジウジしてんなよ、イリス。
 オレを喚んでおいてそんな辛気臭え顔されると沽券に関わる。
 大船に乗ってんだからよ、もうちっと景気のいい顔しとけや」
「泥舟の間違いでしょ。私としたら幽霊船に乗せられて、急にルルイエに辿り着いた気分なんだけど」

 嵐(ワイルドハント)。
 地震。
 噴火。
 隕石。
 氷河期。
 地球は常に災害に囲まれている。
 有史以来、この惑星の誕生以来常につきまとい続けてきた厄災。
 先に挙げた色とりどりの〈破滅〉の中に、必ずや数えられるだろう二文字がある。
 群れをなして襲う無限の羽々。
 ただ滅びゆく地平の軍勢。

「――〈Schistocerca gregaria〉。
 サバクトビバッタ。虫螻の王さま」

 シストセルカ・グレガリア
 和名、サバクトビバッタ。
 蝗害。曰く、虫螻の王。

 楪依里朱が呼び出したのは、ひとえにそういうモノだった。
 真っ当な聖杯戦争なら出てくる筈もない、反英霊の中の反英霊。
 神話の時代から現代までを生き延びる、厄災である。

「あんたって結局何なの。まだ黙示録の黒騎士が出てくる方が現実味があるんだけど」

 イリスも聖杯戦争に参戦するに当たり、あらゆる文献資料に目を通して臨んでいる。
 その上で言うが、蝗害の元凶という最大級のネームバリューを踏まえても、たかだか虫螻が英霊として出張ってくるなんて事態は異常すぎる。
 今となってはあの〈第一次聖杯戦争〉の記憶はひどく曖昧だが、それでもここまで無法がまかり通る戦いではなかったはずだ。

「俺の口からこういうことを言うのは、意味深な発言の多い影のあるイケメン設定が崩れるからあんまりしたくないんだが……」
「大丈夫。あんたにそんな印象抱いたこととか一回もないから」
「それに関しては俺も、皆目分からん。ていうか普通あり得ねえよ、よりによって俺なんぞにお呼びがかかるなんて」

 肩を竦めてひらひらと手を振るシストセルカの様子は相変わらずムカつくおどけぶりだが、しかし嘘を言っている風には見えない。
 そも、この男は基本的にこういう、自分の地を晒すような物言いは好まないのだ。
 虫螻のくせに格好つけることに余念のない、人付き合いにおいても驚きの貪欲ぶりを見せつけるこの男が、事もあろうに無知を認めるなど。
 嫌気の差した顔をするイリスに、シストセルカはケラケラと笑って言った。

「よっぽどの異常者だぜ、今回の聖杯戦争を仕組んだ野郎は。
 カムサビフツハ、だったか? 一度ツラを拝んでみてえもんだ。
 心臓に毛でも生え散らかしてんじゃねえの? そうでもなきゃこうはならねえし、思いついてもやんねえだろ」

 ――世界の理までもが、祓葉に侵されている。
 イリスはそれを悟り、忌々しげに歯噛みした。

 またあいつだ。いつもあいつだ。
 あいつはいつも、我が者顔で世界を変えてしまう。
 あのムカつくくらい屈託のない笑顔で、あいつは不可能を可能にしてしまう。
 現実とフィクションの境界を、息するみたいにぶち壊していく。
 そんな奴が聖杯を手に入れ、世界を創り、神さまになってしまった。
 ならばその世界が、正常であるわけがない。
 馬鹿の作った、馬鹿みたいな世界。
 そこでもう一度あの戦争のやり直しをさせられる――最悪の煮こごりだ。

「まあ、可怪しさが分かったならお前もさっさと腹括るこった」

 ぎゅいーん、とギターを掻き鳴らして。
 シストセルカ・グレガリアは笑う。
 羽音のように耳障りな、鼓膜に貼り付くような笑い声。
 蝿声(さばえ)。そんな言葉が、イリスの脳裏に浮かぶが。

「過去の女なんて忘れちまえよ。失恋なんざでいちいちくよくよしてないで、いっそ俺にでも乗り換え――」
「ライダー」

 演奏を始めてシストセルカの軽口が冴え渡り。
 狙い澄まして彼女の地雷を踏んづけたその瞬間。
 イリスの口から出る声の温度が、一気に氷点下にまで低下した。
 先刻まで、まさに少女の癇癪じみた不機嫌を表明していた人物の声とは思えない。
 本気の殺意が横溢した、狂気の如き感情を窺い知るに足る声音だった。

「次はない」
「……、おーこわ。人間のメスはケンケンしてて嫌だねぇ。俺はやっぱりそうだなぁ、腹のデカくて羽の綺麗なメスでいいわ」

 どうやらこの先は冗談では済まない。
 そう分かったから、シストセルカは矛を収めたのだろう。
 彼は享楽と強欲の化身であり、人間の言葉なんて聞き入れないが。
 とはいえ現代にかぶれにかぶれ、溢れるサブカルチャーや虫の身では味わえなかったこの世の春を味わいに味わっている彼にしてみればこの現世をこんな序盤で追い出されるのは御免だった。
 だから暴食の飛蝗らしくもなく、捨て台詞を残して演奏に戻る。

 ――これ以上言えば、この楪依里朱という女は本気で自分を殺す。そう分かったからである。
 だが。

「あー。でもよ、一個だけ聞かせてくんねえか」
「……、……」
「フツハってのは、どんな奴だったんだい」

 今度は嘲笑でも揶揄でもなく、本当に純粋な興味本位での質問だった。
 そう、シストセルカは暴食の昆虫。ヒトまがいの肉体を得た今、それは知的好奇心に対しても適用される。

 シストセルカ・グレガリアは、自身のマスターのことを"面倒臭い女(メス)"だと思っている。
 何しろやさぐれているのを隠そうともしていない。
 機嫌が悪いアピールを常にし続けているようなものだ。はっきり言って、だいぶ面倒臭い。
 せっかくツラがいいのだし、あわよくばキャッキャウフフと酒池肉林と洒落込んで……とプランニングしていたシストセルカにしてみれば、出鼻を初っ端から挫かれた気分だった。
 だがその"やさぐれ"は、常にある種の自暴自棄――世界と、自分自身への諦観に裏打ちされたものだとシストセルカは思っていた。
 ただ、そんな死に体のような女が、"彼女"に関しては不用意に触れられただけでこのように激昂する。
 声を荒げて怒るでも、行動で不服を表明するでもなく、伊達でも酔狂でもない本気の殺意で冷たく睨め付けてくるのだ。

 こうなるとひとつ、疑問が生じてくる。
 そして暴食の彼は、それを解明せずにはいられない。

 ――すべてのはじまりにして、世界の創造主たる女。
 〈神寂祓葉〉とは、何者なるや?


「………………、………………世界で一番、クソみたいな女」


 その問いに、イリスは長い間を空けてそう答えた。
 回答を口にした彼女の顔は、まるで苦虫でも噛み潰したように忌々しげで。
 そして同時に――遠い昔になくしてしまった宝物を想うように、名残惜しげでもあるのだった。



◇◇



 ずっと、死にたかった。
 〈楪〉の依里朱ではなくなりたかった。

 誰ひとり対等ではない鳥籠の村。
 老人たちの都合だけに支配された人生。
 失敗という結果の見えた夢に邁進させられるばかりの十数年。
 それは、少女を鬱屈と失望の中に置くには充分すぎるものであった。

 だから聖杯戦争など、本当はどうでもよかったのだ。
 勝って王冠を手にしたところで、結局何がどうなるでもない。
 自分の世界は、何も変わらない。
 〈楪〉の幸福はその先にあっても、〈依里朱〉の幸福は決してないと分かっていたから。
 故に。今となっては顔も思い出せない誰かとの決戦で追い詰められ、膝を突いて死を悟ったその時も。
 不思議と脳裏にあるのは絶望ではなく――ああ、やっと終わるのか、という解放感だった。

 あそこで終わっていればよかった。
 今なら強く、つよくそう思える。

 死を待つばかりの自分の前に。
 輝かしく立つ、少女がいた。

 名前は知っていた。
 マスターだということも知っていた。
 なけなしの魔術回路しかないのに、ひょんなことから聖杯戦争に巻き込まれてしまった哀れな一般人。
 立場も勝率も天と地ほど違うのに、子犬みたいにぴょこぴょこと自分にくっついて回っていた少女。
 ――神寂祓葉。光の剣を握って立つその背中が、初めて〈未知〉を見せてくれた。


 ――いこう、イリス!
 ――どこに。
 ――どこへでも。あなたと行けるところまで!


 この手を握る祓葉の手は、世界のどこにでも届くと信じてた。
 ならあの子と手を繋いでる私の足も、どこにでも行けるのだとそう信じた。
 〈熾天の冠〉なんてどうでもよくて。
 聖杯戦争がどう終わっても、その先もずっと自分は歩いていけるのだと。
 ふたりで、行けるところまで。
 祓葉となら、行けないところなんてない。
 叶えられない夢なんてないと。
 そう思って、ともに戦って。そして――


『――ごめんね。大好きだったよ、イリス』


 最後の日。
 最後の夜。
 炎に包まれた東京で。
 あいつは、私の胸を貫きながらそう言った。
 最初から、最後まで。なにひとつ変わることのない、おんなじ笑顔で。

 祓葉は、救世主だ。
 あれはきっと、誰の心でも救える。
 そう、誰でも。
 どんな奴にだって、あいつが向ける表情(かお)は変わらない。
 差し伸べる手に、かける言葉に、宿る意味の重さは変わらない。
 そんなこと、もっと早く気付ければよかったのに。
 楪依里朱は結局最後の最後まで、それに気付けなかった。

 嫌い。
 大嫌い。 
 死ね。
 死んでしまえ。

 あんな奴、人間じゃない。
 ヒトに似てるだけのバケモノだ。
 私だけがそれを知ってる。
 だから私は、あいつが嫌いだ。あいつを、絶対に許さない。
 いつだってにへにへ笑ってばっかりで。
 明るさだけが取り柄みたいな人間のくせに、人を振り回すことだけは一丁前で。


 ――今まで見てきた中で一番醜悪な人間。
 ――屑なんて言葉じゃ表現しきれない、最悪の大嘘つき。
 ――"誰もがみんな生きている"なんて当たり前のことにさえ気付けない、幼稚な子ども。




 ――――――――世界でいちばん、誰よりきれいなお星さま。




 楪依里朱は呪われている。
 その眼はもう、元の世界を映さない。
 太陽を見つめすぎると、失明してしまうから。
 彼女は、太陽を知っている。
 太陽に魅入られ、そして捨てられた過去の戦影。

 ――今は。
 ――蝗害の魔女。



◇◇



 あり得ぬ。あり得ぬ。
 魔術師は、駆けていた。
 万全の備えを期していた筈だった。
 人類史にその名を刻んだ神話の大魔術師。
 その魔術の才を遺憾なく発揮し、築かせた〈神殿〉。
 それがいつの間にか、一切の用をなさなくなっていた。

 始まりは、一匹の飛蝗だった。
 おかしい、と思った。
 ネズミの一匹も通さないはずの神殿に、なぜこんなものがいる?
 第一これは、日本に生息している種類ではない。
 これは、そう。故郷で幾度となく見かけた、忌まわしく、そして恐ろしい、あの……


 そこまで認識したときには。
 もう、すべてが手遅れだった。


「Hello,World!」


 金属バット、いや。
 それらしい"何か"を振り翳した化け物が、神殿の壁を蹴破って現れる。
 同時に溢れ出し、空間を満たす蝗の群れ。
 羽音、羽音、羽音、羽音――咀嚼音。
 潮騒のような、寄せては返す波のような、そんな音とともに溢れかえっていく飛蝗。飛蝗。飛蝗。
 〈Schistocerca gregaria〉。サバクトビバッタ。虫螻の王。

 神代から現代に至るまで、その名を轟かす。
 無限、無尽、無量の厄災。

「全部食べていいよ、ライダー」
「当然。言われるまでもねえや、懐かしい時代の魔力だ――つーワケで総取り。悪く思うなよ」

 この聖杯戦争は病んでいる。
 もう、すべてが手遅れだった。
 それを魔術師が悟る頃には、彼の、そしてその身命を賭した相棒のすべてが。
 無限の軍勢たる、飛蝗の群れに集られ、齧られ、食い散らかされて。
 そうしてすべてが、枯れ草になる。
 〈彼ら〉の過ぎ去った後らしく、朽ち果てていく。枯れ果てていく。

 蝗害の王。
 統べるは、魔女。
 〈はじまりの六人〉。
 抱く狂気は〈未練〉。


 楪依里朱。統べるサーヴァントは、虫螻の王。


 羽音はやまない。
 ぶぶぶぶ、ぶぶぶぶ。
 響き続けている。



【クラス】
 ライダー

【真名】
 シストセルカ・グレガリア

【属性】
 混沌・悪

【ステータス】
 筋力E~A 耐久EX 敏捷C+ 魔力B 幸運A 宝具EX

【クラススキル】
騎乗:EX
 『シストセルカ・グレガリア』という群体そのもの。
 群れを構成する一体一体が彼ないし彼女の騎乗物であり、その権利は決して侵害されない。

【保有スキル】
蝗害:A
 飛蝗の群体及びそれを構成する一匹一匹を介して、己の領域を広げるスキル。
 陣地の概念に対してきわめて有効。一匹でもライダーの侵入を許せばその陣地は彼らに侵される。
 土地・陣地・結界を構成する魔力の中で有益なものだけを選んで食い潰すため、活動に必要な魔力は自動的に供給される。

神代渡り:A
 神代から現代まで存在し続けている厄災の虫、という性質が反映されたスキル。
 攻撃を行う際に神秘・耐久値の有無や高低を互いに参照せず、あらゆる存在に対して平等のダメージ判定を行う。
 一体の神と一枚の葉を同じ要領(ルール)で食い尽くす。飛蝗の捕食を免れるには、対粛清防御クラスの備えが必要になる。

黒い群生相:EX
 狂化スキルに類似する。基本的に話が通じず、人間の倫理観を理解しない。
 『はじまりの六人』であるイリスは世界の理から放逐された存在であるため、たまたま話が通じているだけに過ぎない。
 通常のマスターがライダーを召喚した場合、大概は対話もままならずに食い尽くされる羽目になる。
 精神干渉の一律無効。

【宝具】
『ただ滅び逝く地平の暴風(Schistocerca gregaria)』
ランク:EX 種別:対文明宝具 レンジ:1~3000 最大捕捉:1~∞
 黙示録の黒騎士の触腕、神代から現代までを漂う災害、天地神明の暴食者。
 人類を滅ぼす第三の災い、"飢饉"の権能に類する昆虫。それがライダーの正体である。
 そしてこの宝具はライダーという存在そのもの。彼ら、彼女ら、無量大数に匹敵する飛蝗の軍勢すべてを指す。
 世界に召喚された瞬間から領土の拡大を開始し、最終的には舞台となる世界・土地のすべてを蝗害で支配する。
 そうなってしまえばもはや根絶は困難。無限に押し寄せる飛蝗の軍勢がすべての命を喰らい尽くすのを待つより他にない。

『剣、飢饉、死、獣(KICK BACK)』
ランク:A 種別:対軍宝具 レンジ:99 最大捕捉:999
 宝具の読み方は流行りの曲を聴き漁ったライダーが勝手に決めたらしい。
 己の侵食領域内において他者に"飢饉"を与える数多の現象を具現化させ、その力を行使する。
 環境が完全に整えば、神話における"終末"を魔力が許す範囲でのみ再現することも可能。
 プリテンダーとして黙示録の黒騎士・ブラックライダー/もしくは奈落・アバドンを詐称し召喚された場合は、この宝具を限定的な範囲で解放出来る。
 ただし今回は詐称者としてではなく、『シストセルカ・グレガリア』という種を名指しで召喚しているため使えない。
 仮にイリスが彼をその形で召喚できていたなら、東京都は本戦の開始を待つことなく数日と保たない内に飢餓地獄に変貌していた。

【weapon】
 変幻自在。単純な構造の武器ならば大体なんでも個体数に物を言わせて作れる。
 今のお気に入りは金属バットや鉄パイプなどのヤンキースタイルらしい。
 そういうのがカッコいいと思ってるみたい。

【人物背景】
 地平線のすべてを喰らい尽くす飛蝗の軍勢で全身を構成した異形の英霊。
 物理的手段では滅ぼせず、魔術的手段でも根絶は困難な暴食の軍勢。

 真名をシストセルカ・グレガリア。和名で言うところのサバクトビバッタ。
 神話の時代から現代までを生き延びる、厄災である。
 プリテンダーとして『ブラックライダー』『アバドン』の真名を詐称することもある。
 だが彼を詐称者として召喚した場合、大原則として意思の疎通が完全に取れず、また曲がりなりに人間と関わろうとすることもしない。
 それ以前に、普通の聖杯戦争ではまず出てこないし呼ぶこともできないたぐいのモノ。
 彼が出張ってきたことがまず、この聖杯戦争の異常性を物語っている。

 食事大好き。現代のサブカルも大好き。人間って得だな~と思ってる。
 死ぬほどミーハーなのでSNSもいっぱいやってる。

【外見・性格】
 フード付きのつなぎを着用した黒髪の男性、という形を好んで取る。流行りの俳優か何かを元にキャラメイクしたらしい。
 前髪で基本的に目が隠れており、その下の眼光は暴食者らしく爛々と輝く。

【身長・体重】
 基本の姿では178cm/65kg。
 可変。

【聖杯への願い】
 存在しない。だって今も生きてるし。
 強いて言うなら美味いものをしこたま食べたい。

【マスターへの態度】
 面白いヤツ。なので当面は付き合ってやる予定でいる。
 現代をもう少し満喫したいのでそういう意味でもサーヴァントの責務は果たす。
 ただ飽きたら普通に食べてねぐらに帰るかもしれない。


【名前】楪依里朱/Yuzuriha Iris
【性別】女性
【年齢】17
【属性】中立・中庸
【外見・性格】
 白黒のブロックノイズのような模様が広がったツートンカラーの短髪。
 黒のシャツの上から白黒市松模様のオーバーサイズシャツを羽織り、下は白のスキニーパンツ。スレンダー体型。
 魔術師の冷酷さと少女期の不安定さを併せ持った人物。今回は〈二回目〉であることも手伝って、結構やさぐれている。
【身長・体重】
 155cm/49kg
【魔術回路・特性】
 質:B 量:C
 特性:『色彩定義による世界性の分割』
【魔術・異能】
 ◇色間魔術
 空間に存在する生命体・物質を『白』と『黒』の二色どちらかに定義する。
 その上で強化と弱化、治癒と疲弊、はたまた位置の交換などまで可能とする。
 サーヴァントにはよほど対魔力性質が低くでもない限り基本的に通用しない。
 人間相手でも加護の大小に効き目が左右される他、ちょっとした実力差で一杯食わされかねないなど性能はピーキー。
 本人曰く「使い勝手も見栄えも、まったくクソみたいな魔術」。

 ◇黒白の魔女
 ビーステッド・ツートン。
 色間魔術の秘奥。
 〈色彩〉を解放し、自分自身の肉体に任意で白と黒を割り振ることで一時的に超常の存在と化す。
 自分の肉体であれば一切の抵抗が生じないため、他者及び物質に対し行使するのとは桁違いの自由度を実現できる。
 ただし常日頃から自分の肉体と〈色彩〉を密接にしておく必要があり、イリスが髪色から服装まで白黒を徹底しているのはこのため。

【備考・設定】
 九州奥地にて連綿と神秘を紡ぎ、『色』を起点として根源への到達を探究する楪の家に生まれた跡取り。
 楪家の探究は既に行き詰まりを迎えており、老人達は生涯を通じ追い求めてきた〈色彩〉が根源を目指すにはあまりにか細い葦の船だということを信じられずに迷走を繰り返している。
 その後始末を、一族の悲願を叶えるという名目ですべて押し付けられたのがイリスである。
 幸いにしてイリスは〈第一次聖杯戦争〉に列席する権利を得、衰退しゆく一族の希望として送り出されたが、もしも仕損じることがあればどんな結末が待っているのかも、そしてこの小難しいだけの魔術で勝ち取れる勝利も無いと知っていた。
 だからこそ精神を擦り減らしながら死物狂いで戦い――その中で、イリスは"それ"と出会った。

 転校先の高校で出会った、底抜けに明るいひとりの少女。
 それはイリスにとって敵であり、人生で初めて得たしがらみのない友達でもあった。
 彼女たちは時に協力し、時に対立しながら、遂に終局の日を迎え。

 結末は順当に、主役の勝利で終わる。
 今際の際、イリスが思ったのは。
 自分は決して、彼女にとって特別な誰かではなかったということ。
 遊び相手のひとりでしかなく、それ以上でも以下でもなかったこと。
 だって、そう。そうでもなければ。
 その手で殺した相手を、遊びの続きのためにもう一度蘇らせるなんて出来やしないのだから。

 〈はじまりの六人〉、そのひとり。
 抱く狂気は〈未練〉。
 楪依里朱。サーヴァントは、虫螻の王。

【聖杯への願い】
 死んだまま終わりたくもないので優勝は狙う。
 ただし、自分が叶える願いは――。

【サーヴァントへの態度】
 頭が痛いし胃も痛い。何だって数ある英霊の中から引くのがこれなのか分からない……と、基本的に印象は悪い。
 というかこれ、放っておいたらじきに自分は色んなヤツから目を付けられて討伐対象にされるのでは? と眉間に皺が寄り続けている。

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最終更新:2024年06月02日 22:21