テノリライオン
The Way Home 第20話 汚染
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匿名ユーザー
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「あなたは、赤魔道士でいらっしゃいますね」
数日前、夕闇迫る星の大樹。
水の区の宿屋で遅れて来たルードを迎え、彼と入れ替わりで単身挨拶に上がったヴォルフに、星の神子はそう声をかけた。
「・・・はい、左様ですが」
訝る心中を面に出す事無く、彼女の前に膝を折るヴォルフは答える。
彼が赤魔道士を生業とすることなど、その真紅の装束を見れば一目瞭然であるのに。
それを改めて確かめるのは何故か。
「・・・先程まで、ルードさんがこちらにいらっしゃいました」
「存じております。 早々に挨拶に伺いましたようで」
「いいえ、そうではないのです」
思いがけない神子の否定の言葉に、ヴォルフは僅かに眉を上げる。
「・・・と、仰いますと」
「ルードさんは、デルクフの地下より持ち帰った妖魔の鎌を、ここまで運んで来て下さったのです」
「鎌、を・・・?」
少なからず驚いて、冷静な彼の表情がやや曇る。 鎌。 ルードとイーゴリが切断した、あの敵の腕のことか―――
彼の思考を察したように、神子が頷く。
「何しろ素性の知れない敵のものです。 不測の事態に皆さんを巻き込むのを恐れての事でしょう、持ち帰った事も一人で運んできた事も内密にしてきたと仰っていました。 更にここまでも、出来るだけ一般人に近づけないよう、街や交通機関を経由せずに、お一人の力で運んでこられました」
それで、合流するまでに妙に時間がかかっていたのか。
やや不自然だった空白の時間の理由を知ったヴォルフに、神子が続ける。
「私の所に来られた時、ルードさんはずいぶんと憔悴されていました。 ご本人は単なる旅疲れだと気丈に振舞っておられましたが・・・」
神子の表情が不安に翳る。
「勿論、彼から何か不穏な気配を感じたという訳ではありません。 が、あの鎌は闇の力が凝固したような存在です。 そして、ルードさんは暗黒騎士・・・未知の闇と長時間接触した事が、何か良からぬ影響を及ぼした可能性がありはしないかと―――勿論、私の取り越し苦労であればよいのですが」
じっと、宿屋でのルードの様子を記憶から掘り起こしているヴォルフに、神子は改めて視線を向けた。
「彼の様子を、よく見ておいてあげて頂けませんか。 体調を崩したり―――様子が、おかしいようなら、彼の助けになってあげて下さい。 呪文で、あるいは・・・力で」
成程。 そういうことならば、心に留めておかねばなるまい。 そう思いながら、ヴォルフは礼を述べて立ち上がった。
「承知致しました。 お心遣い、痛み入ります」
彼の背後に控えていた神官が音もなく動き、扉を開く。 謁見の時間は過ぎていた。
「それでは、これにて失礼致したいと存じます。 バルトルディとアルカンジェロを、よろしくお願い申し上げます」
そう言うと優雅に一礼し、すっと神子に背を向けた。
「バルトルディさんを―――」
開かれた扉の向こうに去りかけるヴォルフの背に、神子のか細い呟きが届いた。
その声に立ち止まり、赤魔道士はゆっくりと半身で振り返る。
「バルトルディさんを、私は戦場に送り出します。 声を、言葉を、取り戻して差し上げることも叶わないくせに・・・戦力になるという理由で、ただ戦う力だけを与えて、送り出します―――」
ほとんど独白とも取れる、小さな苦い声。 玉座で俯く神子の表情は、背の高い彼からは伺うことができなかった。
「あれは、我々に必要な男です。 一人地上に残されて、安穏とできるような奴でもありません」
真っ直ぐな視線を神子に向け、彼女に揃えるかのように低く、しかしはっきりと言葉を返す赤魔道士。
「―――どうか」
小さな体を絞るような、神子の声。
「どうか、ご無事でお帰り下さい。 皆さん、どうか―――」
もはや、それしか残されていないが故に。 身を切るような、焼けつくような、祈りの声―――
「必ずや」
一言、答えるヴォルフ。 一つ目礼すると身を翻す。
腰に帯びた細身の剣先の金具が鋭く光の弧を描くと、主と共に扉の向こうに消えた。
* * *
「ルード!!」
激しく燃える剣を左手に下げたまま、ヴォルフは動かぬ暗黒騎士へと駆け寄った。
そしてその腕をがっと掴むと、大きな鎌を振り回し暴れる妖魔とドリー、そしてイーゴリが激しく切り結ぶ戦線から彼を引き戻す。
引かれるままに、おぼつかない足取りで後退したルード。 その足が止まって初めてそれに気付いたかのように、そのまま彼の傍らに片膝をつき身を屈めるヴォルフへと、紙のような顔を向けた。
判り易い剥き出しの敵意や威嚇とは異なる慣れない悪寒に、一瞬怯むヴォルフ。
すると、その一瞬の隙をついて、黒い鎌を持った右手がぐんと後ろにしなった。
「!!」
咄嗟にヴォルフはその切っ先を下ろしていた剣を素早く地に突き立てると、逆手に持ち替えて渾身の力を込めた。
ギィン!! という鋭い音と共に、炎を纏う剣に漆黒の鎌が撃ち込まれる。
(ぐっ!!)
ヴォルフは思わず歯を食い縛る。 かろうじて受け止めはしたが、凄まじく重い衝撃が彼の腕から肩を貫き、びりびりと強烈な痺れが駆け抜ける。
その痛みに耐えながら、彼は開いた右手をばしりと暗黒騎士の顔に貼り付かせた。 そして素早く呪文を唱える。
「大地に群成す地虫に命ず、この者の力を地に還せ」
ディスペル。 一拍の間の後、ぎりぎりと音を立てていたルードの鎌から急速に力が抜けていく。
(効いた!)
しかし、小さな暗黒騎士の目に色は戻らない。 その体が意思を持つ気配もない。
駄目押しとばかりに、ヴォルフは立て続けにカーズナ、イレース、ウィルナを彼に叩き込む。
その癒しに伴いルードの右手がだらりと落ち、鎌の刀身がゆっくりと地に横たわった。
妖魔の悪しき鎌から感染し、ひっそりと彼の芯を蝕んでいた虚無。 再度の妖魔との接触により姿を現し彼を空っぽにしたその違和感は、どうにか完全に払われていた。
が、それに代わり戻るべき多くのものが、戻らない。
追い払われた虚無がそれらを引き剥がして行ってしまったのだろうか。 今やヴォルフの前にいるのは、ただ抜け殻のように佇む黒い塊だ。
(―――これ以上、どうすれば・・・!)
ルードの顔からその手を引き、無防備に開いているだけの彼の目を睨んで奥歯を噛み締める。
絶え間無い剣戟の中で乱れ始めるドリーとイーゴリの呼吸音、そしてルカがつたなく唱え続ける呪文に急き立てられるように、ヴォルフは必死で考えを巡らせ始めた。
と、その時。
「フォ・・・!!」
不意に背後からルカの高い声が聞こえたかと思うと、ヴォルフとルードの間に突如として白い影が踊り込んできた。
そして。
「何やってんの!!」
悲鳴に近い声と共に、ばちーーん!! という音が響く。
ルードの胸ぐらを掴んだフォーレが、思い切り彼に平手打ちをくらわせた音だった。
「何考えてるのよ!! ヴォルフさんに手を上げるなんて、一体どういうつもり!! 謝りなさい!!」
普段の彼女からは想像もつかない怒りの形相で彼に食らいつくと、金切り声で叫ぶと言うよりはほとんど喚き散らす。
ルードがその動きを止めた時のように、いや恐らくそれ以上に驚いて、ヴォルフの思考がぱたりと停止した。
そんな背後のヴォルフには目もくれず、更に言葉を叩き付けるべくフォーレは再度大きく息を吸う。
が、その頂点で、彼女の瞳から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ始めた。
「・・・言ったでしょ、終わったら連れてってくれるって言ったでしょ!! しっかりしてよ!! どうしちゃったの、しっかりしてぇ・・・!!」
みるみる涙にかすむフォーレの声。 抜けてしまった彼の魂の行方に怯えるように、彼女の体が小さく震え始めると、頼りなく揺すっていた彼の胸ぐらを掴んだままぺたりと座り込んだ。
度重なる異常事態に、声も無いヴォルフ。
その目の前で、茶色いポニーテールがすとんと低くなる。
すると、再度ヴォルフの視界に姿を現すのは、その向こうに隠れていたルードの顔。
彼は、それを見た。
表情は、変わらない。
変化しているのはその瞳。
目の前が真の闇に閉ざされてでもいるかの如く、真っ黒に真っ平らに開ききっていた瞳孔。
それが、きゅぅぅ・・・とレンズが絞られるように焦点を引き寄せていくのが、ヴォルフの目にはっきりと映った。
「っ!!」
フォーレの髪と涙が突然の風圧にぶわっと煽られ、彼女はびくりと身をすくめる。
弾かれるように身をひねり彼女に背を向けたルードが、その鎌を振りかざし敵めがけ大きく跳んでいた。
鎌を握り直す一瞬前、彼の手がフォーレの肩をぽんと叩いたのを見る事が出来たのは、素早く彼女を抱え上げバルト達の所まで駆け戻ったヴォルフだけだった。
「ギャァ!!」
敵の背を取るイーゴリの頭上を軽々と越え、凄まじい勢いで跳んできた暗黒騎士が浴びせた渾身の一撃が、その妖魔の致命傷となる。
肩口から胸まで深く食い込む鎌になおも体重をかけ、前のめりに倒れる妖魔の背に黒い影が降り立つ。
「誰がてめーごときのお仲間になるか、勘違いしてんじゃねぇよ」
ゆっくりと地に伏していく妖魔の上で、漆黒のタルタルは憎々しげに吐き捨てた。
「ちょっと・・・おいしい所、持って行きすぎなんじゃないの」
雨のように降り注ぐ回復魔法を受けながら、ぜぇぜぇと荒い息の下でドリーがぼやく。
「へっ、すいませんでした」
いつものように不敵に笑うと、ルードはまとめて謝ってみせた。
* * *
バルトの呪文の波が途切れて解放されたルカが、周囲を警戒しつつ視線だけで素早く戦場を見渡す。
戦局と呼べるものが、果たしてここにあるなら。 それは、かろうじて拮抗しているように見えた。
妖魔の数は確実に減っている。 が、閉ざされた空間を乱れ飛ぶ敵に休みない戦いを強いられる冒険者達を覆うのは、明らかに濃い消耗の色。
絶え間なく響く怒号、剣戟、詠唱、そしてその足元を埋め尽くすのは既にそのほとんどが白い布屑、あるいは黒い燃え滓と化した大量の繭の残骸と―――力尽きた者たちの体。
その光景に、ルカはぎゅっと唇を噛む。
彼らが放置されたままなのは、蘇生を控えているのか、その余裕すらないのか、または―――効かないのか。
確かめて回る暇など無い。 これ以上の犠牲を抑える為にも、一刻も早く、一匹でも多くの敵を倒さなければ。
息を止め、下腹に力を入れて気力を奮い起こす。 小さく低く、ぐぅっ、という唸りが漏れる。
そうして一歩を踏み出し次なる標的を探す彼女の目に、それは飛び込んできた。
繭の小山だろうか。 遥か遠くにいびつな白い塊が見えていた。
それが、ゆっくりと地滑りを起こすように左右に崩れていく。
ルカは一人、呆然と息を呑んだ。
「―――大きい!!」
どこかで冒険者の一人が叫ぶ。
それは、繭の集合体ではなかった。
不自然に歪んだ、他のそれよりも遥かに大きな、たった一つの繭・・・
―――思い上がるな―――
深い深い地底空間を抜け、デルクフの塔を貫き、流星を運んだ空を渡り。
7人の脳に、まるで闇色のインクで乱暴に印字するかのようにねじり込まれる「意志」があった。
―――貴様等の如く卑しき 脆く不完全な存在が 楽園などと―――
大きな繭がぺしゃりと崩れる。 その中心からのそりと立ち上がる、中身。
閉ざされた空間を暴れ回る妖魔達よりも数段大きな体を持つそれは、周囲で怯む幾多の冒険者達を完全に黙殺し、最も妖魔に『愛される』7人の冒険者を、ひたっと見据えていた。
周囲に残っていた小さな繭が数個、その存在に触発されるかのように立て続けに開いていく。
―――報いを、受けるがいい―――
射るような敵意に縛られ立ち尽くす彼らの脳を、圧倒的な威圧感と残響を伴う荒々しい「意志」が打ち鳴らし、声すら届かないほどの距離を越えた対峙が二者の時間を凍らせる。
そんな中。 共通する点などどこにもないのに、バルトは鮮烈に思い出し、重ねていた。
病院のベッドで夢に見た、あの安らかな庭園を。
たった一人いた、少年を―――
to be continued
数日前、夕闇迫る星の大樹。
水の区の宿屋で遅れて来たルードを迎え、彼と入れ替わりで単身挨拶に上がったヴォルフに、星の神子はそう声をかけた。
「・・・はい、左様ですが」
訝る心中を面に出す事無く、彼女の前に膝を折るヴォルフは答える。
彼が赤魔道士を生業とすることなど、その真紅の装束を見れば一目瞭然であるのに。
それを改めて確かめるのは何故か。
「・・・先程まで、ルードさんがこちらにいらっしゃいました」
「存じております。 早々に挨拶に伺いましたようで」
「いいえ、そうではないのです」
思いがけない神子の否定の言葉に、ヴォルフは僅かに眉を上げる。
「・・・と、仰いますと」
「ルードさんは、デルクフの地下より持ち帰った妖魔の鎌を、ここまで運んで来て下さったのです」
「鎌、を・・・?」
少なからず驚いて、冷静な彼の表情がやや曇る。 鎌。 ルードとイーゴリが切断した、あの敵の腕のことか―――
彼の思考を察したように、神子が頷く。
「何しろ素性の知れない敵のものです。 不測の事態に皆さんを巻き込むのを恐れての事でしょう、持ち帰った事も一人で運んできた事も内密にしてきたと仰っていました。 更にここまでも、出来るだけ一般人に近づけないよう、街や交通機関を経由せずに、お一人の力で運んでこられました」
それで、合流するまでに妙に時間がかかっていたのか。
やや不自然だった空白の時間の理由を知ったヴォルフに、神子が続ける。
「私の所に来られた時、ルードさんはずいぶんと憔悴されていました。 ご本人は単なる旅疲れだと気丈に振舞っておられましたが・・・」
神子の表情が不安に翳る。
「勿論、彼から何か不穏な気配を感じたという訳ではありません。 が、あの鎌は闇の力が凝固したような存在です。 そして、ルードさんは暗黒騎士・・・未知の闇と長時間接触した事が、何か良からぬ影響を及ぼした可能性がありはしないかと―――勿論、私の取り越し苦労であればよいのですが」
じっと、宿屋でのルードの様子を記憶から掘り起こしているヴォルフに、神子は改めて視線を向けた。
「彼の様子を、よく見ておいてあげて頂けませんか。 体調を崩したり―――様子が、おかしいようなら、彼の助けになってあげて下さい。 呪文で、あるいは・・・力で」
成程。 そういうことならば、心に留めておかねばなるまい。 そう思いながら、ヴォルフは礼を述べて立ち上がった。
「承知致しました。 お心遣い、痛み入ります」
彼の背後に控えていた神官が音もなく動き、扉を開く。 謁見の時間は過ぎていた。
「それでは、これにて失礼致したいと存じます。 バルトルディとアルカンジェロを、よろしくお願い申し上げます」
そう言うと優雅に一礼し、すっと神子に背を向けた。
「バルトルディさんを―――」
開かれた扉の向こうに去りかけるヴォルフの背に、神子のか細い呟きが届いた。
その声に立ち止まり、赤魔道士はゆっくりと半身で振り返る。
「バルトルディさんを、私は戦場に送り出します。 声を、言葉を、取り戻して差し上げることも叶わないくせに・・・戦力になるという理由で、ただ戦う力だけを与えて、送り出します―――」
ほとんど独白とも取れる、小さな苦い声。 玉座で俯く神子の表情は、背の高い彼からは伺うことができなかった。
「あれは、我々に必要な男です。 一人地上に残されて、安穏とできるような奴でもありません」
真っ直ぐな視線を神子に向け、彼女に揃えるかのように低く、しかしはっきりと言葉を返す赤魔道士。
「―――どうか」
小さな体を絞るような、神子の声。
「どうか、ご無事でお帰り下さい。 皆さん、どうか―――」
もはや、それしか残されていないが故に。 身を切るような、焼けつくような、祈りの声―――
「必ずや」
一言、答えるヴォルフ。 一つ目礼すると身を翻す。
腰に帯びた細身の剣先の金具が鋭く光の弧を描くと、主と共に扉の向こうに消えた。
* * *
「ルード!!」
激しく燃える剣を左手に下げたまま、ヴォルフは動かぬ暗黒騎士へと駆け寄った。
そしてその腕をがっと掴むと、大きな鎌を振り回し暴れる妖魔とドリー、そしてイーゴリが激しく切り結ぶ戦線から彼を引き戻す。
引かれるままに、おぼつかない足取りで後退したルード。 その足が止まって初めてそれに気付いたかのように、そのまま彼の傍らに片膝をつき身を屈めるヴォルフへと、紙のような顔を向けた。
判り易い剥き出しの敵意や威嚇とは異なる慣れない悪寒に、一瞬怯むヴォルフ。
すると、その一瞬の隙をついて、黒い鎌を持った右手がぐんと後ろにしなった。
「!!」
咄嗟にヴォルフはその切っ先を下ろしていた剣を素早く地に突き立てると、逆手に持ち替えて渾身の力を込めた。
ギィン!! という鋭い音と共に、炎を纏う剣に漆黒の鎌が撃ち込まれる。
(ぐっ!!)
ヴォルフは思わず歯を食い縛る。 かろうじて受け止めはしたが、凄まじく重い衝撃が彼の腕から肩を貫き、びりびりと強烈な痺れが駆け抜ける。
その痛みに耐えながら、彼は開いた右手をばしりと暗黒騎士の顔に貼り付かせた。 そして素早く呪文を唱える。
「大地に群成す地虫に命ず、この者の力を地に還せ」
ディスペル。 一拍の間の後、ぎりぎりと音を立てていたルードの鎌から急速に力が抜けていく。
(効いた!)
しかし、小さな暗黒騎士の目に色は戻らない。 その体が意思を持つ気配もない。
駄目押しとばかりに、ヴォルフは立て続けにカーズナ、イレース、ウィルナを彼に叩き込む。
その癒しに伴いルードの右手がだらりと落ち、鎌の刀身がゆっくりと地に横たわった。
妖魔の悪しき鎌から感染し、ひっそりと彼の芯を蝕んでいた虚無。 再度の妖魔との接触により姿を現し彼を空っぽにしたその違和感は、どうにか完全に払われていた。
が、それに代わり戻るべき多くのものが、戻らない。
追い払われた虚無がそれらを引き剥がして行ってしまったのだろうか。 今やヴォルフの前にいるのは、ただ抜け殻のように佇む黒い塊だ。
(―――これ以上、どうすれば・・・!)
ルードの顔からその手を引き、無防備に開いているだけの彼の目を睨んで奥歯を噛み締める。
絶え間無い剣戟の中で乱れ始めるドリーとイーゴリの呼吸音、そしてルカがつたなく唱え続ける呪文に急き立てられるように、ヴォルフは必死で考えを巡らせ始めた。
と、その時。
「フォ・・・!!」
不意に背後からルカの高い声が聞こえたかと思うと、ヴォルフとルードの間に突如として白い影が踊り込んできた。
そして。
「何やってんの!!」
悲鳴に近い声と共に、ばちーーん!! という音が響く。
ルードの胸ぐらを掴んだフォーレが、思い切り彼に平手打ちをくらわせた音だった。
「何考えてるのよ!! ヴォルフさんに手を上げるなんて、一体どういうつもり!! 謝りなさい!!」
普段の彼女からは想像もつかない怒りの形相で彼に食らいつくと、金切り声で叫ぶと言うよりはほとんど喚き散らす。
ルードがその動きを止めた時のように、いや恐らくそれ以上に驚いて、ヴォルフの思考がぱたりと停止した。
そんな背後のヴォルフには目もくれず、更に言葉を叩き付けるべくフォーレは再度大きく息を吸う。
が、その頂点で、彼女の瞳から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ始めた。
「・・・言ったでしょ、終わったら連れてってくれるって言ったでしょ!! しっかりしてよ!! どうしちゃったの、しっかりしてぇ・・・!!」
みるみる涙にかすむフォーレの声。 抜けてしまった彼の魂の行方に怯えるように、彼女の体が小さく震え始めると、頼りなく揺すっていた彼の胸ぐらを掴んだままぺたりと座り込んだ。
度重なる異常事態に、声も無いヴォルフ。
その目の前で、茶色いポニーテールがすとんと低くなる。
すると、再度ヴォルフの視界に姿を現すのは、その向こうに隠れていたルードの顔。
彼は、それを見た。
表情は、変わらない。
変化しているのはその瞳。
目の前が真の闇に閉ざされてでもいるかの如く、真っ黒に真っ平らに開ききっていた瞳孔。
それが、きゅぅぅ・・・とレンズが絞られるように焦点を引き寄せていくのが、ヴォルフの目にはっきりと映った。
「っ!!」
フォーレの髪と涙が突然の風圧にぶわっと煽られ、彼女はびくりと身をすくめる。
弾かれるように身をひねり彼女に背を向けたルードが、その鎌を振りかざし敵めがけ大きく跳んでいた。
鎌を握り直す一瞬前、彼の手がフォーレの肩をぽんと叩いたのを見る事が出来たのは、素早く彼女を抱え上げバルト達の所まで駆け戻ったヴォルフだけだった。
「ギャァ!!」
敵の背を取るイーゴリの頭上を軽々と越え、凄まじい勢いで跳んできた暗黒騎士が浴びせた渾身の一撃が、その妖魔の致命傷となる。
肩口から胸まで深く食い込む鎌になおも体重をかけ、前のめりに倒れる妖魔の背に黒い影が降り立つ。
「誰がてめーごときのお仲間になるか、勘違いしてんじゃねぇよ」
ゆっくりと地に伏していく妖魔の上で、漆黒のタルタルは憎々しげに吐き捨てた。
「ちょっと・・・おいしい所、持って行きすぎなんじゃないの」
雨のように降り注ぐ回復魔法を受けながら、ぜぇぜぇと荒い息の下でドリーがぼやく。
「へっ、すいませんでした」
いつものように不敵に笑うと、ルードはまとめて謝ってみせた。
* * *
バルトの呪文の波が途切れて解放されたルカが、周囲を警戒しつつ視線だけで素早く戦場を見渡す。
戦局と呼べるものが、果たしてここにあるなら。 それは、かろうじて拮抗しているように見えた。
妖魔の数は確実に減っている。 が、閉ざされた空間を乱れ飛ぶ敵に休みない戦いを強いられる冒険者達を覆うのは、明らかに濃い消耗の色。
絶え間なく響く怒号、剣戟、詠唱、そしてその足元を埋め尽くすのは既にそのほとんどが白い布屑、あるいは黒い燃え滓と化した大量の繭の残骸と―――力尽きた者たちの体。
その光景に、ルカはぎゅっと唇を噛む。
彼らが放置されたままなのは、蘇生を控えているのか、その余裕すらないのか、または―――効かないのか。
確かめて回る暇など無い。 これ以上の犠牲を抑える為にも、一刻も早く、一匹でも多くの敵を倒さなければ。
息を止め、下腹に力を入れて気力を奮い起こす。 小さく低く、ぐぅっ、という唸りが漏れる。
そうして一歩を踏み出し次なる標的を探す彼女の目に、それは飛び込んできた。
繭の小山だろうか。 遥か遠くにいびつな白い塊が見えていた。
それが、ゆっくりと地滑りを起こすように左右に崩れていく。
ルカは一人、呆然と息を呑んだ。
「―――大きい!!」
どこかで冒険者の一人が叫ぶ。
それは、繭の集合体ではなかった。
不自然に歪んだ、他のそれよりも遥かに大きな、たった一つの繭・・・
―――思い上がるな―――
深い深い地底空間を抜け、デルクフの塔を貫き、流星を運んだ空を渡り。
7人の脳に、まるで闇色のインクで乱暴に印字するかのようにねじり込まれる「意志」があった。
―――貴様等の如く卑しき 脆く不完全な存在が 楽園などと―――
大きな繭がぺしゃりと崩れる。 その中心からのそりと立ち上がる、中身。
閉ざされた空間を暴れ回る妖魔達よりも数段大きな体を持つそれは、周囲で怯む幾多の冒険者達を完全に黙殺し、最も妖魔に『愛される』7人の冒険者を、ひたっと見据えていた。
周囲に残っていた小さな繭が数個、その存在に触発されるかのように立て続けに開いていく。
―――報いを、受けるがいい―――
射るような敵意に縛られ立ち尽くす彼らの脳を、圧倒的な威圧感と残響を伴う荒々しい「意志」が打ち鳴らし、声すら届かないほどの距離を越えた対峙が二者の時間を凍らせる。
そんな中。 共通する点などどこにもないのに、バルトは鮮烈に思い出し、重ねていた。
病院のベッドで夢に見た、あの安らかな庭園を。
たった一人いた、少年を―――
to be continued