テノリライオン

BlueEyes RedSoul 4

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匿名ユーザー

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 ――行って、しまった。

 優しい黄金色の木漏れ日が、雑木林の中で淡い直線を描いている。
 その向こうに消えていった彼の背中。 戸口に立つデルフィーナは、その赤い色が見えなくなってからも、長いことそれを見送っていた。

 まるで、目を離したが最後、それが全て幻に変わってしまうかのように。

 ゆっくりと家の中に戻った彼女は、後ろ手で扉を閉める。 ぱたん、という小さな音が、その後に続く静けさを際立たせた。

 泳がせる深い青の瞳に、テーブルの上に残った皿と、空になった二人分のティーカップが映る。
 のろのろとそれに歩み寄り、後片付けをしようと伸ばした細い手が、ふと止まった。
 食器へと屈めていた身をすっと引くと、テーブルの上のその光景をまるで絵画でも鑑賞するかのように眺めるデルフィーナ。 嬉しそうな、寂しそうな小さな笑みがふっとその口元に浮かぶ。

 ――カップが、二つ。 とても素敵な風景だわ。 簡単なのに、一人ではどうやっても作れない景色。
 道具があれば、写真に撮ってしまいたい。 ううん、いっそこのまま残しておきたいくらい……

「……そういう訳にも、行きません」
 くすりと一人呟いてデルフィーナはテーブルを離れ、トレイを取りに流しへと歩く。
 ずっと置いておいたら黴が生えてしまう。 なら洗って、もう一度同じように置けばいいかと言えばそういうものでもない。 いずれにしろ、時が経ちすぎれば侘びしさに変わってしまう――そう自分に言い聞かせて、彼女は布巾とトレイを手に取った。
 窓から射し込む陽の光に、オレンジ色の波長が混ざり始めている。

 ―― 一人暮らしの家に、ずいぶんと引き留めてしまった。 はしたない女だと思われなかっただろうか。
 これからあの人はどうするのだろう。 どこからともなくこの海岸に漂着して、そして元居た所に帰る気もなさそうだった。 このままもし、あの町で生活を始めたら……一人森に暮らす女の噂を、耳にしてしまうかもしれない。 それは――辛い。
 どうか、どうか何も聞かないまま、通り過ぎてほしい――

「……あら――?」
 そんなとりとめのない物思いに囚われながら再度テーブルに歩み寄ったデルフィーナは、ふと小さな声を上げた。 テーブルの向こう側に、何か長いものが立てかけられているのに気が付いたのだ。 トレイを置いてテーブルを回り込む。
「これ――剣」
 そこには、綺麗な鞘に収まった細身の剣がぽつんと残されていた。 彼が忘れて行ったのだろう。 軽く反った鍔の飾りが、鈍く光を反射している。
「まあ……どうしましょう」
 玄関の扉と剣を交互に見やりながら、デルフィーナは困ったように呟いた。

 ――追いかけて、お返しするべきかしら。 それとも取りに戻られるのを待った方が――万一行き違ってしまったら厄介だし……そもそも、勝手に触っていいものなのかしら。 剣なんて、きっと大事なものに違いないし――

 この平穏な家の中にあっては、幾多の戦いを潜り抜けてきた業物もまるで単なる調度品のような素振りを見せる。 素知らぬ風情で輝くヒューイの剣の傍らに立って、彼女はあれこれと考えを巡らせる。
 するとその時、ノックの音が部屋に響いた。
「あ――」
 デルフィーナはほっと顔をほころばせる。 やっぱり取りに戻って来られたんだわ。 彼女は足早に玄関へと走った。
 がちゃ、と木の扉を開け――

「どうもどうも、今日は」
「――え」
 笑顔が凍る。
 ノックの主、扉の向こうに立っていたのは、見知らぬ二人の男性だった。

「あ……あの」
「いや、突然お邪魔してすみません。 デルフィーナさん、でいらっしゃいますね?」
 緊張に身を固くする彼女に向けて、男性の一人が不自然なまでの笑みをその顔に貼り付けて言った。 はきはきと愛想良く、それはいかにもデコラティブに作られた営業用の笑顔だ。
 訳も判らぬまま、男の勢いに押されてデルフィーナは小さく頷いてしまう。 男は笑みをますます派手にして言った。
「これはこれはどうも初めまして、お忙しい所失礼いたします。 わたくしこの界隈で薬物商を始めさせて頂こうと参りました、コーネルと申す者でございます。 どうぞよろしく……さて、本日こちらにお伺いしましたのはですね、実はわたくしどもからデルフィーナさんに少々お願い事がございまして……ええ、何分突然の事で誠に恐縮なのですが、少しばかりお話をさせて頂いてもよろしいでしょうか? いえいえそうお時間は取らせませんから」

 息つく暇もない早口でまくしたてる、コーネルと名乗ったその男のつま先が、開いた扉の端にいつのまにか滑り込んで固定していた。
 もう一人の男は対照的に何も言わない。 二人とも似たような行商人の風体をしていたが、コーネルの後ろに控えている男の方は彼よりも明らかにがっしりとした体つきをしている。 そして観察するような、それでいて関心のなさそうな、妙に冷たい視線で仲間の肩越しに彼女をじっとりと見ていた。

「あの、何の……」
 二人の男の奇妙な温度差に、とてつもなく嫌な予感を覚えるデルフィーナ。 軽はずみに扉を開けてしまった事を後悔しても後の祭りだ。 おどおどと小声で訊く彼女に、コーネルは畳みかけるように続けた。
「はい、先程も申しましたが、わたくし薬品や薬草の類の取引をこの辺りで営みたいと参った者でして。 ああ、押し売りなどではございませんからご安心を、まだ実際の商いを始めてはおりませんのです」
「お薬屋さん……でしたら、確か町にも――」
 おどおどと言うデルフィーナに、男は左様、と大きく頷いてみせる。
 そして自分たちの商売が、その町の薬屋から難癖をつけられてしまった事、更にそれに対して後日話し合いの場を設けたのだという趣旨の事を、よく動く口でとうとうと説明し始めた。
 しかしその内容が、一向に彼女に結びつかない。
 不安と苛立ちにデルフィーナがかすかに眉を寄せると、コーネルは貼り付けたままの笑顔で大仰に言った。

「ああ、どうかご気分を害されないで下さい、すぐに本題に参りますので……つまり、我々も商売でございますから。 ここは一つどうにか折り合いをつけましてですね、穏便にこちらの商売を展開する運びとしたい。 しかしその店主様もなかなかに頑固――いえ、昔気質な方でいらっしゃいましたが、どうにか再度お会い頂ける約束を取り付けまして」

 更に感じる違和感。
 あの町の薬屋に、彼女も何度か足を運んだ事があった。 確かとても穏和で人のいい、欲のなさそうなおじいさんが店主だったはず――と彼女は記憶している。 この商人の話のイメージと、到底結びつかない。
 コーネルはいつの間にか、その肩口で扉を押さえていた。 彼は続ける。

「しかしながらですね、何分この閉鎖的な――失礼、非常にのどかで地方色豊かな町での話です。 万一先方に何か……例えば我々の知り得ないような、口にされない懸念事項があったとしたらどうでしょう。 例えば近隣商店との商売の兼ね合い、例えばお得意様の持つ特殊事情。 そういったものが、両者の障壁となっていたら。 我々の望む交渉はスムーズには進みますまい――さて。 そこでデルフィーナさん、あなたです」

 演劇でも囓っていたのだろうか。 さりげない身振り手振りを交え、最後にまるで効果を狙うようにコーネルは彼女の名を呼んだ。 デルフィーナはびくりと肩を震わせる。

「あなたを見込んで、お願いがございます。 勿論タダとは申しません、十分なお礼をお支払い致しましょう。 なになに、決して難しい事ではございません、あなたなら。 そう、ほんの少しだけ――」

 コーネルは実に優しげな目つきになる。 猫撫で声の唇が動いた。

「その方の思考をね、読んで頂きたいんですよ」


  *  *  *


「い――」

 男の言葉に、恐慌にも近い感情がデルフィーナを呑み込んだ。 白い顔を引きつらせて彼女は叫ぶ。
「嫌です!! そんな――できません! そんなこと!」
「ああ、どうぞそんなに興奮なさらないで下さい。 何を今更、驚かれる程の事ではございませんでしょう?」

 コーネルはその笑顔を微塵も崩すことなく、ずい、と一歩家に上がり込んで来た。
 彼女の完全な拒絶の声に、やり方を「少し」変えたものらしい。 背後の男もそれに続く。 侵入者を通した木の扉が閉まりかける。
「何と――仰っても、協力は致しかねます! 私は――」
 威圧的な二人の姿に押し返されるようにして、デルフィーナは部屋の中へと後退する。 腰がテーブルに当たり、白いカップがかちゃんと音を立てた。 男は笑顔のままで言う。

「そんなつれない事を仰らずとも、報酬はお出しすると申しているのですから。 あなただって、こんな所で一人生活するばかりでなく、たまには人のお役に立ってみてもいいんじゃないですかねえ――」
「……っ、無理、です! お――お引き取り下さい!」
 表情を歪め、絞り出すようにデルフィーナは叫ぶ。

 場の情勢を表すように微妙に変わったコーネルの口調が恐ろしかった。 更にその背後で威圧感を放ち始めた男の視線が、冷たい針のようにデルフィーナを射すくめる。
 追い詰められた鼠の目で必死に彼らと対峙するデルフィーナを、形だけは労るように見やりながらコーネルは続ける。 しかしその目の色は、すでに商売人のそれではなかった。

「無理という事はないでしょう。 失礼ながら、そちらの事もそれなりに調べさせては頂いたんですよ? ええ、大変に興味深い。 驚いたことにあなたは、他人の心の内を読むことができるんだそうで。 平常では読もうと思わなければ読まずにいられるが、相手が強く何かを思うとそれを受信してしまう、と」
「――――」
 やめてくれ、という言葉が喉に詰まって出て来ない。 手がじんじんと痺れる。 その痺れに震える手を押さえるように、テーブルの端をぎゅっと握った。 コーネルは続ける。
「いやはや珍しい能力ですが、しかしあなたの近くに生活する方にとってはなかなかにこう、落ち着かないものがあるのでしょうなあ。 何しろ、自分の頭の中があなたに筒抜けているかもしれないのですから。 おいそれと考え事もできはしない」
 心底感心したようにそんな事を言う男にすさまじい嫌悪感を覚えつつ、デルフィーナは蚊の鳴くような声で反駁する。
「わ――私、は――」
「いいえいえ、勿論あなたがそんな無節操な方などでない事は重々承知していますよ。 それどころか、何やらそのお力で町を救った事があるそうで。 しかし皮肉なものですな、それによってその能力が露見するや、こうして町の外の雑木林に一人引き篭もる羽目になってしまったとは」

 塞がらない傷口を火箸でえぐられているようだ。 軽々と綴られる男の言葉の一つ一つが、彼女の胸に、記憶に、砕け散ったガラスの破片のように突き刺さる。 デルフィーナはその痛みに耐えるように俯いて顔を歪め、小さく懇願した。
「ですから――ですからどうか、そっとしておいてもらえませんか。 私はもう――」
「冷たいじゃぁありませんか」

 コーネルは大きな声で彼女の言葉を遮った。 まるで木が風化するように、その声からどんどんと何かが剥がれ落ちていく。
「自分の町は救えても、よそ者の私にほんの少しばかり協力するのはお嫌だと仰るなど。 この世に生を享けた者としてですね、どんな人間でも機には某かのお役に立つべきだと、私はこう思うのですよ。 ましてやそれが、人にはない力であれば尚更でしょう、違いますか? つまりあなたには我々の申し出を受ける権利が――いや、義務がある、そうではありませんかねえ?」
 その言葉と共に、彼の後ろに控えていた男が大儀そうに一歩を踏み出した。 ぞ、とデルフィーナの全身に鳥肌が立つ。

 そして、彼女は聞いた。
 彼女にしか聞けないものを、聞いた。 聞かされてしまった。

 コーネルの背後に黙って控えていた男が、彼女をこの家から連れ去ろうとしている。
 このまま言う事を聞かないようなら、猿ぐつわの一つもかませて
 引っ張り出してやればいい、最初からそういう手筈だ
 全くうだうだとまだるっこしい、とっとと済ませてしまえば
 どうせ恐喝に使うものを、綺麗事なんぞ並べるだけ手間というものだ
 そう思っている彼の苛立つ心が、そうしようとしている彼の暴力的な意思が
 デルフィーナの頭の中へと、まるで冷たい隙間風が吹き込むように――

「――大体、私達が考えていることも、もうとっくにお見通しなんじゃあないですか?」
 隙間風と同じ温度の笑みを含んだ、コーネルの声が響いた。
 ――見通したくて見通しているんじゃない。 こんなもの見たくもない。 あなたたちの来訪と同様、私の望んでいる事じゃない……
 怯えて小さく首を横に振るデルフィーナ。 彼女の蒼い瞳を見下ろすコーネルの眼差しはとても冷ややかなくせに、同時に怯え、かつ責めて、更に媚びまで売っていた。 器用な目で彼は言う。
「いえいえ結構ですよ、結構ですとも。 それならそれで話が早いと言うものです。 ただそうまでされたとなればですねぇ、これはもうどうあってもご協力頂くしかないでしょうなぁ――」
「な――」
 どこまでも身勝手な一本道のシナリオを進めるコーネルが、そう言って背後の男をちらりと振り返る。 そしてくいと顎を――

 コンコン。

「――!?」
 再度、唐突なノックの音が響く。
 三者がそれぞれ驚きに身を固くする中、叩かれた木の扉がきいと音を立てて開いた。
 男二人が背後を振り返り、デルフィーナは目を見開く。
 彼らの視線を集め、暮れ始める雑木林をバックに立っていたのは――炎のように赤い服。 秋の稲穂のように光を抱く、金色の髪だった。

「あ――――」

 瞬間、安堵と歓喜が彼女を包んだ。
 しかし現れた彼の、そのぎゅっと引き締まった厳しい表情に、デルフィーナは先程までの恐怖の上を行く絶望の淵へと追いやられる。
 ――聞かれた。

「……何ですか、あなた? ちょっと今取り込み中なんですがねぇ」
 始めに声を発したのはコーネルだった。 いかにも迷惑そうにゆっくりと向き直ると、ヒューイの全身を上から下へとねめつける。
 ――その人は関係ありません――咄嗟にデルフィーナは叫ぼうとする。 が、その唇は、低く響いた言葉にぴたりと止まった。

「その女性(ひと)の知り合いだ」
 赤い衣装の男はそう言った。
 そう言って扉を大きく開け放ち、商人を名乗る男二人に退場を促した。
「彼女はあなた達には協力しないそうだ。 そう聞いたはず。 お引き取り願おう」
「――ほう?」
 コーネルはひょいと片眉を上げた。 そしてつい先程まで使用していた笑みを再度その顔に貼り付けると、一時的に標的をヒューイへと定めて言う。
「いやいや、こちらとしてはまだ、ご本人から具体的にお返事を頂いたつもりはないのですがねぇ。 それに何やら、勘違いをなさっておられる。 わたくしどもは言わば、彼女に仕事の依頼をしに来たのですよ」
 喋りながら男は、戸口に立つヒューイへと歩み寄る。 実に友好的に。
「お知り合いと仰るならあなたもご存じなのでしょう、この方の特技を。 読心術なんてものではない、直接に相手の思考が読めるというこの技を、人の為に活かせる場を提供しようと申し上げているのです。 むしろ、これは彼女にとって好機と言えるのではありませんか? 社会の流れに参加することで、ひいてはその構成員としての自信に繋がる事でしょう。 そう、ここは一つデルフィーナさんの為にですね、是非あなたからも――」
「その社会が、彼女を弾き出したのだろう」

 怒っている。
 下草を分けて進む大蛇を思わせる、重い声。 その表情は穏やかと言えたが、有無を言わせぬ怒気が言葉の水底にちらちらと見え隠れする。 よく鳴く蛙は鼻白み、黙った。 半眼に開いた目で相手を見据え、ヒューイは静かに言う。
「ならば彼女がそれに貢献する責務はない。 理論は破綻した、お引き取り願う」
「そ……うは、参りませ――」

 蛙が言い終わらないうちに撃鉄が落ちる。 ヒューイは動いた。
 す、と一歩進み出て、コーネルの胸ぐらをぐいと掴む。 そしてそのまま、あたかもゴミの袋でも運ぶように家の外までその体を引きずると、軽々と放り出したのだ。 どすんと転がる男の体が落ち葉を散らす。
「……っ、この――!」
 尻餅をついた姿勢のままのコーネルが、枯れ葉を掻いて一転噛みつくような罵声を吐く。 それにヒューイはついと手を上げ、何やら一言二言言い返した――ように、デルフィーナには聞こえた。
 その言葉を聞いたコーネルの、まるで糸が切れたようにかくんと寝入る様が、彼女の位置からは見えなかったからだ。
 それは異様に短い呪文、異様に少ない動作。 しかしそれもまた、魔術を嗜まない彼女には判らない。

「――――」
 デルフィーナではなくヒューイを標的と定めた事が、もう一人の男の決定的な失敗であった。
 するりと室内に戻った赤魔導士に向け、大柄な男は無言でその殺気を足音に込める。 格闘技を得意とするのだろうか、徒手空拳のまま男はヒューイに突進した。
 対するヒューイは――迎え撃たない。
 何を思ったかどんな構えも取らず、相手とほぼ同じ速度ですたすたと、しかし滑るように男へと肉薄するヒューイ。 その足運びはまるでありもしない絨毯をいたわるような、柔らかく流れる猫足だ。
 そこに襲い来る、頸部あるいは頭部を狙う太い腕を彼は潜る。 腰がふっと落ち、右足がぐいと体を前に押し出す。 その先で左足が相手の体の向こう側まで大きくスライドする。 それがすぐさま軸足にシフトし、低く屈む本体を一瞬で引き寄せた。 まるで煙のように自分の脇をすり抜ける金色の髪に、男の腕は見事に空振りする。
 両者が背中合わせでいたのはほんの一秒に満たない時間だった。 男は歯を剥き、思いきり体を捻って振り向いた――瞬間。
「……ぐ」
 男の目立つ喉仏を、鞘から僅か数センチだけ顔を覗かせる細い刀身が冷やしていた。

 コーネルを眠りに落とし、家の中に踏み込んだと同時に、ヒューイは大柄な敵の向こうに自分の剣がある事を確認していた。
 柄飾りが輝いて彼を呼ぶ。 襲い来る相手の直線的な動きに払うべき注意は少なかった。 自信を持ってまっすぐ進み、まっすぐにそれを避ける。
 細身の剣が彼を迎えた。
 ぱしりと手に取る。
 右手が柄に、左手が鞘に。
 さあ、このまま右回りに振り向きながら、右腕と左腕を思い切り開けばいい。 簡単だ――
 きん、という小さな金属音と共に、鞘の口から白い輝きが迸る。 ヒューイは跳ねるように顔から振り向く。 肩、腕――と流れるように続けようとして――
「――っ」
 彼の目に残像が焼き付いた。 テーブルの向こう、血の気の失せた顔で、自分の肩をぎゅっと抱いて立ちすくむ女性の姿だ。
 ヒューイの右腕は危ういところで暴発を免れる。 駄目だ、血の海は止めろ――

 刹那の躊躇は目に見えない。 ただ振り抜かれるままの右腕を、鞘を握る左腕が追っていた。
 男が身を翻している。 太い喉。 相手とほぼ同時に振り返りながらヒューイはそこに、ほんの僅かだけ鞘から引き出した鋼を、ぴたり、と這わせた――

 かすかな呻き声が漏れる。 男は意外な聡明さで、ゆっくりとホールドアップの姿勢を取った。
 冷や汗が吹き出るのを感じながら目線だけでヒューイを見下ろす彼が見たのは、その刀身と同様、必要最低限の殺気だけを纏わせる赤魔道士の、静かな瞳。
 ごくり、と震えたその喉仏に、ぷつっと血が滲んだ。


  *  *  *


 ぱたぱた――ぱたぱたぱた。
 目の院を、小さな足音が駆ける。
「ジョド様……ジョド様!」
 懸命に押さえた声で叫びながら、タルタルが一人その部屋に転がり込んで来た。 手には何やら蓋の閉まった壺を抱え、慌てながらもその壺を落とすまいと必死の形相だ。
「騒々しい。 何事じゃ」
 部屋の奥に鎮座する物々しい机に埋もれるように座る、老いたタルタルが渋い声で言った。 こちらは顎髭を生やし、まるで文鎮のように椅子に座ったまま、開いていた書物からちらりと目だけを上げて彼を叱責する。
「も、申し訳ありません……っ、あのっ、ええと……」
 懸命に息を整えながら、壺を抱えたタルタルは大きなその机に足早に歩み寄る。 部屋には彼ら二人の他に誰もいないのに、まるで人を憚るような怯えた表情で口をもつれさせている。
 ジョドと呼ばれた老タルタルは、改めて訝しげな眼差しを彼に注いだ。
「落ち着け、フィーブ。 何を泡を食っているのじゃ。 その壺がどうかしたのか」
「あ、いえ、あのっ――こ、この壺がどうとかではなくて、いえ、これがそうなのですが、それよりもあの、」
「フィーブ!」
 小さな体に似合わぬ重厚な声で、老タルタルは一喝した。 びくん、と背筋を伸ばすフィーブ。
 落ち着いて、順を追って話せ――と、静かに諭すようにジョドは言った。


  *  *  *


「何じゃと――?」
「ですから、バストゥーク向けに納めていた呪符用の一般魔香紙に、規格外品が見つかったのです! 封じ込めの文言にズレが――しかも数カ所ありまして、それが火蜥蜴召還の呪文と酷似していた為に――」
 おろおろと説明しながら門下生のタルタルは持っていた壺を差し出す。 どうやらその中に問題の魔香紙が入っているらしく、壺全体にべたべたと張られた呪紙には封印の紋が施されていた。
 貸せ、と一言言って老タルタルはその壺をひったくる。 蓋に手を掛け、封印の種類を確認する。 そして何かに集中するように一瞬の間を置き、それをばっと開封した。

「……これは――」
 その中を覗いて、彼は呻き声を上げた。
 壺の底に沈む紙束。 そこに複雑に書かれる文様から、地虫のように小さなサラマンダーが無数に湧き出ていたのだ。 老タルタルは声を荒げる。
「どういう事じゃ! 管理部門は何をしておった!」
「そ、それがどうやら、院の管理を通過していない品らしく――問い合わせた所、通呪(ロット)が合わないそうなのです。 なので恐らく、意図的に管理ルートを外して流されたものではないかと――」

 フィーブの弱々しい説明を聞きながら、ジョドは壺の中の呪符に目をこらした。 そこにのたうつように書かれた古代語を追って、彼はみるみる苦虫を噛み潰したような表情になる。 そしてふん、と忌々しげに鼻を鳴らした。
「――ズレ、じゃと? 何をほざくか。 単なるミスを装っている分、可愛げがないではないか」
「え――あ、ではやはり――」
「意図的じゃ、決まっておろう。 読んでもなおそれが判らんとは嘆かわしい。 いや、ミスだとしたらそれはそれで、魔術師としての致命的な失脚に繋がるがな……いずれにせよ」
 がぽ、と老タルタルは壺に蓋をし、フィーブに尋ねた。
「他国向けの魔香紙生成を担っておったのは誰じゃ。 このような真似をして――すぐさまその者を取り調べねばならん」
「はい、あの……シャルレイ師です。 キヴァン=シャルレイ」

 奥歯に物の挟まったようなフィーブの口調。 記憶にかすかにひっかかるその名。 老タルタルは小さな頭の中を探る。 シャルレイ――
「……あの、赤魔導士の論文を著した者、か」
「はい――そうなんです――」

 自分がその罪を犯したかのように力なく、門下生のタルタルはしおれて答える。
 老いたジョドは、腕の中の壺にゆっくりと目を落とした。 まるで突然枯れてしまった貴重な花を見るように。 急速に失われていくその美しさを嘆くように。
 憤りと、無念さと、何かを惜しむような辛く沈んだ表情がそこに浮かぶ。 出来ることなら消してしまいたい、背徳の微熱を帯びる壺。

「楽しみが一つ、幻と消えてしまったのう――」
 やるせない溜息と共に、老タルタルは小さくそう呟いた。


to be continued
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