テノリライオン
06-07-29
最終更新:
匿名ユーザー
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#blognavi
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本、本、本。
ここ数年、狂ったように本を読んでいる。
幼稚園では友達は数人、痺れを切らせた母親に連れて行かれた近所の公園でどう遊んで良いか判らずに立ち往生するほどのインドアな子供時代で人生のスタートを切った私は、元々人並み+α程度には本好きにできている。
決して本棚は大きくなかったけど、天与の忘却能力(笑)を活かしてマンガも本も繰り返し読むタイプで、ドリトル先生シリーズや新井素子やドラゴンボール(笑)などはもう何往復したか見当もつかない。
幼稚園では友達は数人、痺れを切らせた母親に連れて行かれた近所の公園でどう遊んで良いか判らずに立ち往生するほどのインドアな子供時代で人生のスタートを切った私は、元々人並み+α程度には本好きにできている。
決して本棚は大きくなかったけど、天与の忘却能力(笑)を活かしてマンガも本も繰り返し読むタイプで、ドリトル先生シリーズや新井素子やドラゴンボール(笑)などはもう何往復したか見当もつかない。
ところが。 それだけ本に親しんできたにも関わらず、誠に恥ずかしながら、定番古典文学作品というものをほとんど読んでいないのだ。
作家名や著書は知識として知っていても、実際に作品に目を通した事がない。
それが間違っているという訳ではないが、つまり私にとって読書は「娯楽の一つ」だったのだろう。 しかし自分でお話を書くようになってからというもの、私の読書は「娯楽」から「学習」、「摂取」にシフトした。
そこではたと気付き、焦りだす。 私は誰もが知っているであろう基本である所の古典を読んでいない。
作家名や著書は知識として知っていても、実際に作品に目を通した事がない。
それが間違っているという訳ではないが、つまり私にとって読書は「娯楽の一つ」だったのだろう。 しかし自分でお話を書くようになってからというもの、私の読書は「娯楽」から「学習」、「摂取」にシフトした。
そこではたと気付き、焦りだす。 私は誰もが知っているであろう基本である所の古典を読んでいない。
という訳で、毎週買い漁る文庫本の中に、少しずつそういうものを取り入れていっている次第である。
どう見ても、遊び呆けていた女の子が慌てて花嫁修業に勤しむような泥縄っぷりだ(笑)。
どう見ても、遊び呆けていた女の子が慌てて花嫁修業に勤しむような泥縄っぷりだ(笑)。
武者小路実篤「友情」。
子爵家の末子として生まれ、文芸誌「白樺」の中心人物となった著者の代表作の一つ。
子爵家の末子として生まれ、文芸誌「白樺」の中心人物となった著者の代表作の一つ。
主人公の青年の恋の行く末を描いたこの青春小説が語るのは、恋につきものの自意識過剰や、親友と好きな女性との間でかき立てられる苦しい自制心。
それら「王道」がどこまでもまっすぐに、何の誤魔化しもなく描かれる様は、まるで美しい絵画に起こされた数学の基礎公式だ。
それら「王道」がどこまでもまっすぐに、何の誤魔化しもなく描かれる様は、まるで美しい絵画に起こされた数学の基礎公式だ。
毎年毎月毎週毎日、現代では星の数ほどの作品が書かれ、出版されている。
人はオリジナリティを目指さずにはいられない。 物語のバリエーションが出尽くしたと言われる今、それを目指す為にはシチュエーションに懲り、手法を尖らせ、後世の者ほど歴史の勉強に四苦八苦するように『誰もしていない事』を模索することが宿命づけられる。
人はオリジナリティを目指さずにはいられない。 物語のバリエーションが出尽くしたと言われる今、それを目指す為にはシチュエーションに懲り、手法を尖らせ、後世の者ほど歴史の勉強に四苦八苦するように『誰もしていない事』を模索することが宿命づけられる。
文学という大樹の枝先を奪い合い、必死で咲き誇り狂い咲く作品達の中、「恋愛」という恐らくは最も太い幹の正中線を丸裸で歩くようなこの物語、そしてそのあまりにも誠実な描き方は、「基本は劣化しない」という事実を行儀良く叫んでいる。
毎日文章を書きながら、つい必死になる余りに忘れてしまう様々な「何か」を思い出す為に読み返す本はいくつかあるが。
その中の上位に、この「友情」は見事に収まったのであった。
その中の上位に、この「友情」は見事に収まったのであった。
カテゴリ: [読書] - &trackback() - 2006年07月29日 13:58:22
