テノリライオン
風と光の野へ 後編
最終更新:
corelli
シーフギルドから与えられた呪符にひきずられて私が出た先は、この仕事を請けたまさにその部屋だった。
そして戻ってきた視界に最初に飛び込んできたのは、あの幹部の男の、困ったような笑顔。
「あ……」
改めて事態を理解する。咄嗟に記憶にあるドアの方向に走ろうとしたが、すぐ後ろにいた屈強なガルカにあっさり取り押さえられ、男の前に引き戻される。
「困りましたねぇ」
ヒュームの男が、くすくすと笑いながら近寄ってくる。
「とても刺客の切る啖呵には聞こえませんでしたよ?」
「……ええ、そうでしょうね。私もそう思います」
言われるまでもない。私は仏頂面で言葉を突き返す。精一杯の抵抗だ。
渡された呪符デジョンは、盗聴器の役割も兼ねていたのだ。更には私があらぬヘマをした時の為、その場から強制的に私を回収する手段でもあった。
解錠の呪文などというのは全くの嘘だった。そりゃそうだろう、あんな呪文の存在、身内とは言えおいそれとは漏らせまい。
そして私は――捨て駒だった。何も知らぬまま首尾よく本を回収してくればよし、またそれに失敗した所で、あわよくばあの呪文の危険度の程を身をもって検証させられる。
そして古今東西、真実を知ってしまった捨て駒は――
「目の具合はいかがですか?」
言いながら幹部の男はつかつかと歩み寄ると、ぐいっと私の顎を上げて目を覗き込んだ。
「……ふむ、瞳孔が丸くなっていますね。絞る力が衰えたのかもしれない。暗い所での見え方はヒューム並になっているやもしれませんな」
手を離し、あっさり背を向けると机へと戻る。
「まぁ、そこそこには結果を残してくれました。お礼を言いますよ。やはりあの本の取り扱いは相当注意しないといけませんなぁ」
相変わらずのにやにや笑いが憎らしい。憎らしいが、手遅れだ。
「……とまぁ、そういう訳です。ありがとうございました。お連れして下さい」
もはや説明する事もなかろうと言わんばかりの、事務的な口調。最後の一言は私を押さえているガルカに。
次の瞬間、私の口と鼻を刺激臭のする布が覆った。目の前に、昏倒という名の黒い幕が降りる。
* * *
ぴちゃーん。
水の滴る音で目が覚めた。
「……痛」
後頭部が疼く。 ゆっくり体を起こし、周囲を見渡す。
洞窟のような岩肌と、所々にぼんやりとした明かり。天井は高く、扉や窓の類は一切見当たらない。
冷たい湿気を帯びて澱んだ寒さと、そして。
「暗い……な」
ぎゅっと目を細めてみる。光源はゼロではないのに、いつもは見える岩の輪郭や遠くがはっきり見えない。
……ああそうだ。幹部の男が――いや、あの男も言ってたな。
ゆっくりと、記憶が蘇る。
あの白い霧。耳と鼻は何とか無事みたいだけど、目はしっかり開けてたし。回復は無理――かな。
暗い中でろくに見えないんじゃ、シーフとしてはもうやっていけないだろう。ようやく痛みは引いたけど。目、どんな風になってるんだろう。鏡を見るヒマもなくこんな所に放り込まれて、ひどい話だ。
もはやどう見ても「打ち捨てられた」という表現がぴったりで。
ああ、本当に『特殊』な仕事には手を出すもんじゃない―――
岩壁によりかかって、私は大きく長い溜息をついた。
とりあえずどうにか取り戻した気力を奮い起こして立ち上がり、壁伝いに進んでみる。いくら状況がこの上なく判りやすいとは言え、さすがに何もしないではいられなかった。
進みながら壁を注意深く撫ぜ、叩いて反響音を聞く。目をこらす。少し進むと、暗闇の向こうから乾いたカタカタという音が聞こえてきた。
いい予感などするはずもない。ゆっくりと肩越しに、そちらに目をやる。
「……スケルトン……」
肉と魂を失い彷徨う虚ろな人の姿をしたものが、薄闇の向こうからぽっかりと開いた二つの空洞を私に向けていた。
お前もこちらに来たのかい。そんな問いかけをするように。
「っ……!」
奥歯を噛み締めて骸骨から目を逸らす。まだだ、まだ考えるな。
占い師の悪い予言から逃げるように、私は再度壁を這ってずるずると進み始める。
数刻の後。
私は力なく部屋の隅に座り込んでいた。
さして広い空間ではなかった。が、周囲の壁を三周しても、脱出口の手がかりすらない一枚岩。床も同様。
唯一あるのは、意識を取り戻した地点から数メートル上の天井、四角い穴が一つきりだ。
あそこから放り込まれたのだろう。手足をかけられるポイントもなく、登攀は無理だった。
そして――この空間にいるのは、数体のスケルトン。今の奴らは私の事など、全く意に介していないが。
このまま時が過ぎていけば、生者の私は飢えと渇きで徐々に衰弱していく。そうなれば「弱った餌」として認識され、奴らは一斉に食事を始めるだろう。
一体ずつなら倒せないことはない。しかし、例え一体とでも戦えば相応に消耗してしまうし、この狭い空間で奴らの嗅覚から逃れ続けるのはまず無理だ。
つまり、いつ私が「餌」のボーダーラインを越えるか。たったそれだけの問題なのだ。
「さすがシーフギルド、陰険極まりない……」
これはもう――駄目だろう。ここがどこかも分からないし、そもそもうかつに人が近寄るような所にこんな『ダストシュート』を作るとも到底思えない。
徒に消耗するだけ。裏の世界で生きてきたくせに往生際が悪い。理性ではそう思っていても、生身の体の奥底から突き上げて来る音の塊を押さえ込む事はできなかった。
「……誰か。誰かぁ!! いたら返事して!! だれかぁーーー!!」
天井に叩き付けた絶叫は、私を哀れむようにほんの一瞬手近な岩壁を蹴飛ばして見せるだけで。
それが終わると私を一人残して、みんな虚空に消えて行った。
* * *
――同刻 ベドー――
大きな荷物を背負った一人のタルタルが、鼻歌混じりでぬかるみの中を進んでいた。緊張感のない軽い足取り。
「えーっと、ここだっけなー?」
メモを見ながら、人通りから少し外れた扉に向かう。
「ノックしてー、出てきた人に荷物を渡すだけ、っと」
どんどん。
「すいませーん。……いませんかぁ?」
どんどんどん。反応はない。
「外に出てるのかな?」
しばらく周辺を歩いてそれらしき人を探すが、人影はない。
「うーん、どうしたらいいのかなー……ちょっと、お邪魔しますよー」
わずかに扉を開けてそっと中を覗く。
本がうず高く積まれた室内に、動くものは何もなかった。しんとして、もぬけの殻だ。
「あれぇ? 誰もいないじゃんかー」
ずかずかと部屋に入り、彼はうーんと腕を組んで考える。
「何か異変があったらギルドに報告しろって言われてるけどー……いないのも異変のうちかなぁ……。よくわかんないや、荷物だけおいて報告しよっと」
部屋の中央に、どすんと荷物を置く。そのまま戻ろうとしてちょっと考え、荷物の中からミスラントマトを2個ほど失敬すると、それを齧りながら荷運びのタルタルは部屋を後にした。
無造作に閉められた鉄製の扉が、どうんと重い音を立てた。
* * *
びくんと体が跳ねる。
うずくまったまま、いつのまにかうとうとしていたようだ。顔を上げ、目の焦点が合うと――至近距離に、白いスケルトンの姿。
「……っ!!」
思わず息を呑んで飛び起きる。が、骸骨は私など見えていないかのようにつと背を向けると、闇の向こうに消えていった。
ああ、どうやら私はまだ「元気」なようだ。
「…………」
壁を背にずるずると崩れ落ちる。叫び疲れた喉が涸れてカラカラだ。
空腹はもうとうに通りすぎた。精神の消耗が体力を蝕み始めている。
そろそろ、まともに思考できなくなっているのだろう。
胸の中の恐怖があたりの暗闇を吸い込んで膨らんでいく。
ぼんやりと、星の大樹の大きな影が見える。 夢か、幻覚か。
梢の周りをゆったりと滑る、大きな紅色の鳥たち。白い蝶もひらひらと辺りを舞う。
小さい頃、あの大樹に登ろうとして大人達にこっぴどく怒られたっけな……。
水の区の宿屋のおかみさん。あの男の子。どうしてるだろう。
居心地のいい宿屋の風景が蘇る。彼らの姿も見える。が、こちらを振り帰ることはない。振り返る事を望まない。
振り返った瞬間、悪夢になりそうだから、振り返らせない――
* * *
ぴちゃーん。
水の音が聞こえる。
どれだけ時間が経ったか、全く分からなくなった。二日? 三日か?
私の体は、固い岩肌にごろんと横たわっている。
体が動かなくなると、代わりに頭が猛スピードで動き出すらしい。でもそれは思考などというものではなく、脳に蓄積されているものがただ無秩序に暴れ回るだけ。
これが走馬灯というものだろうか。裏の世界でそれなりに汚いこともしてきたくせに、最後の最後で私は何て弱いのだろう。未練たらしい映像。加えて、見た覚えのない風景までもが目蓋の裏を行きすぎる。
ああ、今まで手にかけてきた人達の分まで、全部見せられてるのかな―――
スケルトンの遠い足音。
「もう……いいんじゃない……?」
口が勝手に言葉を紡ぎ出す。かたかた、と顎が笑う音が聞こえたような気がした――
* * *
ぎぎぃ――と。
何か、聞き慣れない響き。 続けてどん、という震動が。
床についた耳から、伝わってくる。近付いてくる。
「大丈夫ですか」
不意に聞こえた声に続いて、肩をゆさぶられている。何だろう。
「しっかりして」
ぺちぺちと頬を叩かれた。見上げると……白い色。
骨――じゃない。髪だ。短い髪。人の――男? エルヴァーン? 誰――ああ、何か狭い部屋で会ったような……。そうだ、あいつだ。何でこんな所に。
「…………何……しに」
口の中が乾いて、うまく言葉が出ない。男は言う。
「助けに決まってるでしょう。出ましょう。死んでは駄目だ」
……死んでは、駄目……?
「別に……死んで、駄目な奴なんて、いないでしょ……私も、あんた、も」
どろんと濁った目で呻く私の体を、かつて私が命を脅かした男は思いの外強い力で床から引き剥がした。目の前に顔が迫る。
何だか凄く怖い表情をして……怒ってるの……?
「あなたの意思を、聞いてるんです。生きたくないんですか。このまま死にたいですか」
生きたく……ないかって……?
「…………」
「ミスラさん」
……いいの……?
掴まれた肩の痛み。彼の手足からだろうか、土と草の匂いがする。
頭上に地上があるのだ。朝になれば日が昇り、夜になれば月が昇る大地。
生者の暮らす、眩しい、世界に――
「……帰り、たい……」
「わかりました」
一言そう言って彼は、片手を私の腕の下に通して抱え上げる。そうして立ち上がり、脱出の呪文を唱え始めた。
急激に襲う眠気に目を閉じる。気持ちいい……
* * *
風が、顔を撫でた。むせ返るような草いきれ。小さく虫の鳴く音も聞こえる。
黒魔道士のエルヴァーンは、もはや自分で立つ気のない私を下ろして傍にあった岩にもたれさせると、体力回復の呪文を数回私に施した。体が温まり、四肢に少し力が入るようになる。
「ちょっと待ってて下さい」
そう言うと体にかけていた鞄を置いて、彼はいずこかへ駆け出していった。
私は呆けた顔でゆっくり周囲を見回す。そこは夕闇のサルタバルタだった。空には星が瞬き始め、地上では小さな光虫が舞い始めている。
ああ、何てきれいなんだろう。もう世界なんか、見られないと思っていたのに―――
ぼんやりと天を仰いでいると、黒魔道士が手に器を持って戻ってきた。
「どうぞ、河の水ですけど」
差し出された器を受け取る。考える前にがぶりと飲んでいた。喉から胃に冷たい水が降りて行くのが、とてもよく分かった。一気に器を空にしてしまう。
「もう少しいりますか?」
私の勢いを見た彼が、そう尋ねながら手を伸ばす。しかし器は、二人の手の間でからんと落ちた。
「ふ……」
涙、が。
ちょうど地下で助けを求めて叫んだ時と同じように、今度は涙の塊が、止めようと思う間もなく堰を切って、私の奥からみるみる溢れ出てきた。まるで今飲み干した水が、そのまま逆流して来たかのような――
「う、っく……うえ、うええー……――」
器を取り落としたままの姿勢で、火がついたように大声で泣き出す私。それを見た黒魔道士は何も言わずに私の横に座ると、自分の肩に私をよりかからせた。あやすように、背中をぽんぽんと叩く。その手に何かを許されて、とめどなく涙が溢れ始める。
濃い紫色の黄昏を、丸い月と星々を引き連れた夜の帳が少しずつ西へ押しやっていく。
私は何が何だか分からないまま、黒魔道士のローブを絞るように、ひたすらに泣き続ける―――
* * *
腕に、草がちくちくする。あれ……私、横になってる……?
「う……」
いつのまにか眠ってしまっていたらしい。透明な夜の空気の匂いがする。重い目を薄く開けると、何故か目の前に布の柄があった。
枕かな、と思いながら上を見上げると。白髪の黒魔道士がが真上から笑顔で私を見下ろして――
「わぁあっ!」
一発で目が覚める。慌てて体を起こすと、そのままぐるりと景色が回った。慌てて地面に手をついて支える。
「ああほら、まだ休んでないと駄目ですよ。気持ち悪くないですか? 大丈夫? なら、お腹すいたでしょう。何せあれだけ地下にいたんですから」
座ったままでもふらつく私の腕を取って、黒魔道士が明るく言った。何か、やたらとにこやかだ。言いながら手繰り寄せた鞄をごそごそと探っている。
「えーと、パイでよければありますけど。ゆっくり食べてくださいね、お腹がびっくりするから」
どう対応していいか分からない。しどろもどろに彼を押し止める私。
「あ、いや、あの、ちょっと」
「はい?」
両手にアップルパイを持って、首を傾げながらにこにこと私を見る彼。どうにも調子が狂う。
「えーと、えーと……」
どうしよう、何から聞けばいいのか。何を言えばいいのか。総じて事態が飲み込めない。とりあえず、えーと。
「あの……何で、ここに?」
「はい。あなたの居場所が掴めたので、助けに来ました。無事で良かったです」
「は……あ、ありがとございます」
言葉の流れでつい頭を下げる。
「どういたしまして」
彼もぺこりと頭を下げた。……ええい、違うだろう。調子が狂う。やけ気味にぶんぶんと首を振る。
「いやいや、そうじゃなくて。何で助けに来てくれたのか、と」
自分で言いながら、やっと頭が回ってきた。同時に、色々なことに一気に思いが至る。
この男、ベドーで研究をしていたんじゃ。あの呪文はどうしたのか。私の目は。そうだ、シーフギルド。逃げ出したと判ったら、追っ手がかかるかもしれない。
「何で、ですか。うーんとですね」
どこか呑気な口調で、彼は喋り始める。
「暗殺に来たシーフが、暗殺を放棄した途端帰還の呪符で強制送還された。発動の気配からするに転送先は一般的な、国が指定するポイントではなさそうで、しかも本人はそんな段取りは知らされていなかったようだ。これはまぁどう見ても穏便には済まされそうにないと言うか、ちょっと危なそうだなと思ったんで、なんとか勘を働かせて探しました。専門外だったので大分手間取ってしまったから、あそこにいると分かった時は焦りましたけど。何とか間に合ってよかった」
滔々とそう語り、またにこっと笑う。
「はぁ……」
言っている内容は実に冴えていると思う。けど、私が聞いているのはそういう事じゃなくて。
「えっと、それもそうなんだけど、そうじゃなくて……何で、あなたが、私を、助けるのか? という……」
間抜けと知りつつ、自分と彼を指差しながら改めて尋ねる。命を狙われた者が、狙った者を必死でかけずりまわって助け出す。意味が判らない。
「あー、そういうことですか。えーと」
彼がひとまず、という感じでアップルパイを自分の膝の上に置いた。
「もう一度お会いして、お礼が言いたかったからです」
「へ?」
いよいよもって判らない。私、何かしたっけ? 思い切り短剣突き付けて罵詈雑言浴びせて帰ってきた記憶しかない。
しかしどうやら、冗談の類ではないようで。
「――図書館であの本を見つけた時、俺は迷いました」
真面目な顔で彼は、ベドーでの続きを語り出す。口調がゆっくりになり、それまでになかった――かすかに苦みが走ったような、そんな気がした。
「このまま封印するか、とことんまで研究してモノにするか。呪文の持つ恐ろしさも、研究の困難さも判っているつもりでした。数日迷って、考えて……研究する方を選んだ。呪文の働き方を明らかにして、それを元にその効果を解除する制御系の呪文を開発すればいいんだと思った。貴重な発見でもあるし、魔道の発展にも役立つかもしれない。他にもあれこれ考えましたが、まぁつまりは」
ふっとため息をつく。
「好奇心が、勝ったんです」
野ウサギが一匹、私の傍に寄ってきた。私と一緒に彼の話を聞くように。
月明かりの草原をゆっくりと渡っていく、暖かい風。
「黒魔道士ギルドのマスターだけには了承を取り付けて、極秘でベドーに篭りました。そこにあなたが来た。何としても、この魔道書と呪文の存在は守り抜かなければと思いました。……でもあなたは、あの呪文を陰湿だと、救いがないと言った。そんなご大層な研究かと」
小さく苦笑いして、彼は私を見る。
「解除できれば、人の五感を奪ってもいいのか――。思い切り、張り倒されたような気持ちでした。あれは喉元の短剣より効きましたよ」
くすっと自嘲ぎみに笑う。
「研究して全てを詳らかにすることで得る安全もあります。今でも、その選択肢自体を否定するつもりはありません。でも、色々な理由を味方につけても、今この呪文を研究している俺は『呪文を行使する者』の理屈だけで動いていると思ったんです。それは、恐らく、正しくない」
私はもう、半分ぼーっと話を聞いていた。危うく聞き流しそうになるくらいに。かける言葉を探しあぐね、かろうじて一言だけ。
「はあ……研究者さんってのは、色々考えて大変ねぇ……」
「ははは……でまぁ、そう思ったもので。やめちゃいました」
「あ、やめちゃいましたか……やめちゃった? え? あの本を、放り出してきちゃったの!? 危ないじゃない!」
「ああ大丈夫です、しっかり燃やしましたから」
「も……」
絶句する。
「あなたに、そうしろと命じられましたので」
にっこりと、またもや満面の笑み。
「た……確かに! 言ったけど……! あれはその場の勢いであって……何で、何でそんなのにあっさり従っちゃうの?
何だか色々と、今言ってたような主義主張があるんでしょ、それを――」
「だって」
さも当然という顔で私を見る彼。
「この世に、女の子の涙より強いものはありませんから」
「…………」
空腹とはまた別種の眩暈を覚える。何だ、何なんだこの男は。何と言うか、常軌を逸してやしないか……?
「な、涙って、私がいつ――」
はっと気付く。そう言えばあの時――白い霧で痛めた目が、確かに涙を流してしまっていた。それを指しての――いや待て。それよりも私、さっきこの人によりかかって号泣したあげくそのまま無防備にも、あまつさえ膝枕なんてもんで寝入ったんじゃないか!?
とたんに頬がぼっと熱くなった。極限状態だったとは言え、何てみっともない――!
慌てて片手の甲で顔を隠す。足元をせわしなく泳ぐ視線。
「さ、まぁそれはそれとして、とりあえずパイ食べませんか。実は俺もちょっと腹減ったんですよ。ああ、ジュースもありました、よければどうぞ」
意図的か天然か。彼はそんな私の狼狽をものともせず、いそいそと楽しそうに夜食の準備を始める――
* * *
そうして振る舞われた数日振りの食事のアップルパイはものすごくおいしくて、不覚にもまた目頭が熱くなりかける。
やばい。えーと何か……そうだ、ギルド。私は慌てて口を開く。
「脱走……した以上、シーフギルドから、追っ手がかかる事は避けられない……わね」
硬い私の声に、彼はのほほんと言葉を返す。
「どうでしょうね。あの穴の近辺には、見張りらしき人はいませんでした。まぁ素人判断ですけど、俺が誰にも咎められなかったぐらいですから。わざと見逃されたのでなければ、今すぐどうこうという事はないんじゃないでしょうか」
そう、か……。まぁそれでも、当分ギルドからは遠ざからないといけないだろう。目のこともあるし、ミスラとしての売りを失った今となっては、例え「廃棄」されなかったとしても同じ仕事を続ける事はできない。いずれにしても、いわゆる人生の転機というやつにさしかかってしまったわけだ。
「あなたは? 研究……というか、あの本を燃やしちゃったりして、大丈夫なの?」
「まぁ駄目でしょう。状況が伝わり次第、ギルドからは追放だと思います」
「え……」
何度目だろう。私は懲りもせず絶句する。この男はいちいち突拍子がなくて困る。
「うちはギルドと言っても半分は研究機関のようなものなんで、資料とか文献の類の保護には神経質なんです。極秘裏とは言え、そこであれだけ希少な本を無断で破棄したわけですから、当然一番重い処罰として『今後研究ができなくなる』という処置が取られると思います。研究者としては死に等しい……ま、シーフギルド程ではありませんけどね」
彼はからからと笑うと、パイの最後の一切れを食べ終えた。そんなにもあっけらかんと言える事なのだろうか。思わず尋ねる。
「……それは、いいの?」
「そうなるだろうと分かった上でやったことだから、いいですよ。命があればどうとでもなる」
またもあっけらかんと言い放ち、手をぱんぱんとはたいてパイ生地の屑を払い落とす彼なのだった。
「という訳で、ですね」
あらかた食事が終わった所で、彼は相変わらずの明るい口調で言った。
「とりあえず――シーフギルドから遠いバストゥーク辺りに腰を落ち付けて、冒険者ってやつをやってみませんか」
「そうだなぁ……って、『ませんか』? え、一緒なの? 何で?」
頓狂な声で聞き返す私に、彼はあっさり答える。
「一人より二人のほうが寂しくないし、その方が何かと便利ですよきっと。あとこれが重要なんですが」
う、嫌な予感。ちょっとだけいたずらっぽい顔で、何を言い出すのか――
「まだあなたの笑顔を見ていません」
――へなへなと、体中の力が抜ける。
もういいや。何か抵抗する気が失せた。私は眉間を押さえつつ降伏宣言をする。
「……判りました。じゃあとりあえず、バストゥークまでご一緒しましょうか」
「かしこまりました」
嬉しそうにそう言うと、目の前のエルヴァーンは恭しく一礼したのだった。
* * *
東の空が白んできた。夜が明けるのか、ずいぶん長い時間眠っていたらしい。ずっと膝を借りていたんだったら、きっと足が痺れただろう。悪い事をしたな。
立ち上がって岩山の間から光の筋がさしてくるのを待ってみる。
今日を境に、終わりの警告から始まりの合図になった朝日を――
「さてと、とりあえずはどうしましょうかね。何かご希望は?」
使い終わった道具類を片付けながら、彼が聞く。希望と言われても……あ、そうだ。
「鏡ある? ちょっと見たい」
「鏡ですか? えーっと……はい」
彼はごそごそと鞄を探ると、小さな手鏡を取り出した。まだほの明るい程度の朝日の中で映してみると、幹部の男に言われた通り私の瞳孔は縦長のミスラのそれではなくなっていた。丸みを帯びて、ヒュームの瞳に近い。
「どうしました?」
「うん、例の呪文の暴発でね、目がちょっと。暗い所が見えづらくなったみたい。瞳孔が前より丸いから、絞りが遅くなってると思う……ああ、こりゃもう駄目だなぁ」
手鏡の向こうで身を屈めた彼が、ひょいと私の顔を覗き込む。目が合うと、にこっと笑って白髪の黒魔道士は言った。
「大丈夫、可愛いですよ」
思わずぶっと吹き出す。もうどうしようもない。ほ、本当にこの男は……。
もはや何と答えていいか分からず、俯いて手鏡をつっかえす。顔が赤いかもしれなかった。
相変わらずの笑顔で鏡を鞄に仕舞いながら、彼は歌うように言った。
「あ、そうそう。まだお名前を聞いてませんでしたね――」
end
想定レベル・・・なし
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