テノリライオン
06-09-24
最終更新:
corelli
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遠藤 寛子「算法少女」読了。
珍しくハズレを引いた。
江戸時代、算法(数学)好きの女の子がある弾みでお上の目に留まったり、町で子供相手に塾を開いたり……といった内容だったのだが、肝心の算法そのものの影がどうも薄い。
スポットが当たっていたのは「江戸期の算法というものがどのように営まれていたのか」という点よりも、当時あった学閥のようなものの対立や固執、その中での少女の成長といったものが主だった。
スポットが当たっていたのは「江戸期の算法というものがどのように営まれていたのか」という点よりも、当時あった学閥のようなものの対立や固執、その中での少女の成長といったものが主だった。
一応児童文学と銘打ってあったので、「学問に男女も時代も関係ない」というテーマで書かれていたのかなとは思うのだが。
そうであってもやはり、数学そのものの魅力を添えなければ「算法好きの少女」というキャラは立ってこないような気がする。 やや中途半端の感あり。
そうであってもやはり、数学そのものの魅力を添えなければ「算法好きの少女」というキャラは立ってこないような気がする。 やや中途半端の感あり。
以下余談。 全部余談だろとか言うな。
以前読んだ「ソフィーの世界」が“哲学は永遠なり”というようなエンディングを迎えていたと記憶しているのだが、真の永遠というやつに触れる学問ってのは数学なんじゃないかなーと。
数学の世界では、あるものが一度「証明」されれば、それが後世になって覆される事はない。
誤りが見つかるという事はあっても、やっぱりこう思う、とか、現在ではこうだ、とか、そういった変更の入る余地はない。
その余地が一片たりともなくなる事を指して「証明」と呼ぶからだ。 そこに到らないものは「仮説」「予想」と呼ばれ、それが正しいことを、または正しくないことを「証明」されるのを待っている。
故に証明を見つけるということは、永遠を見つけるということ。 太陽が燃え尽きても、宇宙が点に戻っても、1+1は変わらず2のままだ。 曖昧な箇所、未確定の点は何もない。
楽しいだろうなぁと思う。
誤りが見つかるという事はあっても、やっぱりこう思う、とか、現在ではこうだ、とか、そういった変更の入る余地はない。
その余地が一片たりともなくなる事を指して「証明」と呼ぶからだ。 そこに到らないものは「仮説」「予想」と呼ばれ、それが正しいことを、または正しくないことを「証明」されるのを待っている。
故に証明を見つけるということは、永遠を見つけるということ。 太陽が燃え尽きても、宇宙が点に戻っても、1+1は変わらず2のままだ。 曖昧な箇所、未確定の点は何もない。
楽しいだろうなぁと思う。
そして更なるうろ覚え。
経済学者、史学者、数学者の3人が、ある国の草原で黒い馬を見かけた。
経済学者は「この国には黒い馬がいる」と言った。
史学者は「この国の、少なくともこの草原には、黒い動物がいる」と言った。
数学者は「この国のこの草原には少なくとも、体のこちら側が黒い動物がいる」と言った。
もうね、数学者大好き。
なんて事が、「フェルマーの最終定理」とか「博士の愛した数式」に書いてあったかしらん。
カテゴリ: [読書] - &trackback() - 2006年09月24日 17:08:50
