テノリライオン
野ばら 1
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匿名ユーザー
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「ローザ!! ローザ、あんたまた!!」
体を硬くして俯く私に、駆けつけた母の金切り声が降る。
目の前では、知り合いの男の子が腕を抱えて大声で泣いていた。 彼の手の甲から肘あたりにかけての皮膚が、うっすらと赤く腫れ始めている。 私の仕業だ。
「謝りなさい! 早く! ごめんね坊や、ああもう、またお詫びに行かなくちゃ……」
苛々と取り乱し、叱るというよりは喚き散らす母は、私を通り越すとその男の子の前に屈んで彼の腕の火傷を診ている。
声は苛烈でも、母は私を叩いたり、頭を下げさせたりはしない。 いつもそうだ。
むしろ時折様子を伺うようにちらちらと私を見る視線は、猛犬を放し飼いにした人を見るような、刺々しくも怯えた色を含んでいる。
私は息を潜めて視線を落とし、スカートをぎゅっと握り締めて必死で頭の中をからっぽにしようとしていた。
頭の中に真っ白な壁とその冷たい手触りを思い浮かべて、母が男の子をなだめる声を自分とは無関係な、通りすがりの人のものだと思い込む。
落ち着かなきゃ。 落ち着かなきゃ。
でも、お母さん。
その子、「お前の母さん、飲んだくれだから父さんに逃げられたんだって?」って言ったの……
「でもお前みたいな怖い子がいるから、カワイソウな人なんだって」って……
―――10月5日 雷曜日―――
私は南サンドリアの大衆食堂で、一人夕食を摂っていた。 兎肉と野菜のグリルにパンとサラダ、それとワインを少し。
夕食は大抵ここと決めている。 味と値段が釣り合っているし、何より店が大きく客も沢山いるから、そこにすっかり埋没することができる。
これが下手に小さくてアットホームな店だったりすると、私の事を知らない陽気な人がご親切にも声をかけて来る事があって、面倒なのだ。
「……ごちそうさま」
ゆっくりと料理を食べ終えると、グラスを手に一つ長い息をついて、背もたれに体を預けた。
肩の力を抜いてつぅっとワインを吸いながら、ほけっと目の前の光景を眺める。 賑やかで明るい、夕食時の光景。
新しい料理の香ばしい匂いをたなびかせながら右から左へと慌しくウェイターが横切り、その向こうでは家族連れが賑やかに食事を分け合っている。
隣のテーブルのカップルが席を立つ。 女が手を伸ばしかけた伝票を男がすっと取るのが、目の端に見えた。
「えーっ、ほんとぉにぃ!?」
離れた席からどっと沸き起こる計ったような女性達の笑い声が、鼓膜をじーんと痺れさせる。
料理を美味そうに見せる暖色の明かりの中、そんな色違いのシーンの塊が私の前に現れては消えていく。
動かないのは私だけだ。 そんな感覚に、まるで一人暖かい鳥の巣の中にうずくまっているような安心感にひたりこむ。 ほとんど日課のような感情に、日課のように身を委ねて。
唯一私を素通りしない事を仕事とするウェイターが、皿が空になっているのを認めて足早に歩み寄り「お下げしてよろしいでしょうか」と尋ねた。
私は視線を上げず、グラスから口を離して小さく顎で頷く。 手早く重ねられる皿やフォークを見るともなく見ながら、何となく息を殺してその作業が終わるのを待った。
軽く頭を下げて、ウェイターが身を翻し立ち去っていく。 小さな伝票の紙切れとワイングラスだけが載った、小さいくせに妙に広く、よそよそしくなったテーブルが残された。
ふっと心で息をつく。 そして改めて体の力を抜こうとした時。
給仕の去ったあたりの空間に、違和感を覚えた。 誰かがそこで立ち止まっている。 人の気配特有の、軽い圧迫感。
瞼を伏せぎみにしたまま、視線だけでその方向を伺う。 と同時に、私の視界にその足が進み出て来た。
「ローザ・フラメルさんですか」
突然響いた自分の名に驚いて、私は顔を上げた。
私に声をかける人など――ましてや名指しで――ここしばらく、居なかったから。
「――そう、ですけど」
眉をひそめ警戒心も顕わにその声の主を見やり、私は低い声で答えた。
エルヴァーンの男性。 多くの人の鼓動を一瞬早めて回っているに違いない。 恐ろしいほどの美形だ。
背が高い。 白髪を後ろでひっつめている。
着ているのは簡素なチュニックと、細身の剣を帯びて――恐らく、同業者。
そこまで観察した所で、男は再度口を開いた。
「炎系統の魔法の腕が立つと伺って参りました。 短期間で結構ですので、ご教示願いたい。 謝礼はお支払いします」
「――は?」
あまりにも突飛な内容の申し出に、私は一瞬ぽかんと口を開けてしまった。
ご教示? 私に、何かを教えろと? しかも、炎系統の魔法、と言ったか。
どうやら男はもう私の返事を待っているらしい。 店内の明かりの一つを背負い、言うべき事は言ったとでも言わんばかりに、眉ひとつ、気配ひとつ動かさずそこに立ち、私を見下ろしている。
居心地のいい時間を中断された苛立ちとは別に、小さな不快感が胸に湧き上がった。
男の発言内容からして、優位に立つべきはこちらの側だ。 そう彼自身が設定したはずなのに、それを無視してやすやすとペースを握られたような気がしたのだ。
私は持っていたグラスをテーブルに置くと、無遠慮に男を頭のてっぺんからつま先までねめつけて見せた。 それは、軽い威嚇のつもりで。
しかし、その視線はたったの一往復で止まってしまう。
――手応えが、ない。
この状況下にあってなお涼しげと言って差し支えない男の目は、私の非礼に対して何の「感想」も浮かべず、ただ私を見返している。
無表情……いや、違う。 無感動……いや。
「……座んなさいよ」
言葉遣いの上で主導権を握り、私はそう言って向かいの椅子を顎で指していた。
普段ならば面識のない人間は安全の為極力速やかに遠ざけるようにしているのだが、この男の「なにもなさ」は、何故かその必要を感じさせなかった。
興味を持ったのかもしれない。 私にしては珍しいことだ。
私の言葉を受けた男は、そのままの空気で私の正面にある椅子を引くと、そこに腰を下ろした。
* * *
目の前の雑多な光景を、男の長身が遮る。
同時に、それまで私を包んでいた食堂の喧騒までもがすぅっと引いていくような錯覚に襲われた。
そう言えば、こんな小さなテーブルで人と向かい合うなんて何年ぶりかしら。 ううん、そもそも人と実のある会話をする事自体が……
気泡のように次々と湧き上がる無軌道な思考を、腕を組んで一気に頭の隅に追いやる。 判断の邪魔だ。
「で? ご教示って?」
男を真っ直ぐに見据えて、私は短く訊いた。 明らかに年上の男性に向かってふてぶてしい事この上無いが、この際構うまい。 純粋な疑問でもある。
「申し上げた通りです。炎系統の魔法についてあなたから得る所があると考えたので、ご指導を仰ぎたいと思います」
深いバリトン。 抑揚のない、簡潔な口調。
「……私、人に魔法を教えた事なんかないわよ。 ほぼ独学。 そもそもあなた、職業は?」
「教わり方は私の方で考えます。 赤魔道士です」
やはり同業か。
彼の存在に気付いた給仕がグラスを運んで来た。 冷たい水を満たしたそれが、テーブルでこつんと音を立てる。
「なら魔法なんかお手のものじゃないの。 まさか炎系だけ習得してないって訳じゃないでしょう」
「扱える魔法は一通り習得しています。 今回の狙いは炎とエン系の強化です」
……狙いは、と来た。 何とも無駄の無い話の運び。 何故だろう、何だか少し楽しくなってきた。
しかし、『炎』、なわけか。 私は一呼吸の間を置くと、自嘲と意地悪の混じった笑みを浮かべて尋ねた。
「――それだけ?」
「はい」
「違うわよ。 どこからか知らないけど、私の事を聞いてきたんでしょう。 それだけ?」
「……ローザ・P・フラメル、ヒューム族の女性、二十歳。 赤魔道士、細身で中背、肩までの茶色い髪。住所は南」
「感情の激昂により、発火する」
淡々と流れるように私の表層データを並べる彼の言葉を、私は私を私たらしめる特徴をもってぶった斬った。
私は、過度に怒ったり悲しんだり、つまり感情が大きく動くと、体の回りに炎が噴き出すのだ。
またそうして炎を放出すると著しく体力・精神力を消耗する。
何故かは判らない。 物心ついた頃にはそうなっていた。 サラマンダーにでも取り憑かれたのかもしれない。
両親は私が幼い頃に離婚。 以来一緒に暮らしていた母は六年前に男を作り家を出て行った。 まぁ、無理もないと思う。
住んでいた家の家賃は私が冒険者稼業で稼ぎ出す事になったが、追い出されずに住む場所が残っただけでも儲け物だろう。 それ以来、生きた危険物としてこのサンドリアの隅でひっそりと暮らしている。
「聞いたんでしょ。 怒らせると大変な、アブナイ奴なのよ。 何を好き好んでそんな奴の近くにのこのこやって来る訳?」
まともな思考回路を持った者ならまず例外なく、私という人間の特徴を知るや遅かれ早かれ距離を置くものだ。 私もそうあってほしいと思っている。 無用なトラブルは御免だから。
しかし、テーブルに頬杖をつき意地悪く問う私の口調が聞こえているのかいないのか。 男はさらりと返した。
「特にあなたの怒りを買うつもりもないですし、その力があなたの魔法を優れたものにしている事は想像に難くありません。 ですから、それはあなたを忌避する理由にはならない」
…………は。
頬杖をついた姿勢のままで、私は自分の表情から力が抜けていくのを感じていた。
いつのまにか店内の客は少し引けてきて、BGMが人の話し声から小さな食器の音へと移行している。 手綱を緩めたように動きやすくなった空気を通して、奥の厨房から給仕の一息つく溜息が聞こえてきそうだ。
そんな周囲の変化を意識の隅で感じ取りながら、私は目の前に座るエルヴァーンを改めてまじまじと眺めていた。
ほんの少し浅黒い肌、締まった体。 しかし精悍と言い切るには迸る何かが足りない。
目も同じだ。 切れ長で鋭く、泳ぐことのない視線。 しかし射るような光は全く無い。
ほとんど動かずそこに居る様は冷たい胸像のようなのに、何故か空気のように軽い印象を受ける。
私の半ばぽかんとした視線にも全く動じることなく、ただその身を晒して待っている。 「観察はまだ終わりませんか」とでも言うように……
――ひとつ、判った。
動かないのだ。
体のことじゃない。心のことだ。
押しても来ない。 引いても来ない――
「……うちの住所は判ってるのね」
「はい」
「じゃ、十時ぐらいに。 窓が開いてたら起きてるから。 細かい事はその時に」
気が付くと私は、そんな台詞を口に乗せていた。
「判りました」
それを聞いた彼はあっさりと立ち上がる。 そして軽く一礼し踵を――
「――ちょっと」
「はい?」
「あなた、名前は?」
* * *
ヴォルフと名乗ったその男の背中が、食堂の扉の向こうに消えていく。
後ろで一つに結んでいた白髪はずいぶんと長く、扉の影からなびいて最後まで私の網膜に残った。
「……ふ」
まだ全部消化できていない。
私は視線を正面に戻し肺いっぱいに空気を吸い込むと、それを吐き出しながらずるっと椅子に沈み込んだ。 難解な舞台を観終わった後のような、軽い倦怠感が体を包んでいる。
まだ半分がた残っているワインに手を伸ばしかけたが、ふと思い直して彼の為に運ばれてきた水のグラスを手元に引き寄せた。
えーと、明日の十時だっけ?
自分で言ったのに、何だか遠い人ごとみたいな気がする。
というか、何でOKしちゃったんだろう。 明日、十時に彼が来て……それから何を……?
半分もやのかかったようにぼんやりとした頭で、他者との交流という久々の行事に思いを馳せる――と。
途端に、内臓をぎりっと掴むような不安が、私を襲った。
同時に脳裏に押し寄せる、火傷の痛みに顔を歪めた人達の怯え非難する眼差し、鼻を突く焦げた匂い、叫び声――
胸の奥底に押し込めていた過去の「失敗」達が、雪崩を打って記憶の表層に殺到する。
ぶるっと一つ身震いをして、グラスを握り直す。 冷たい。
その刺激に呼ばれるようにそのまま口に運ぶと、きんと冷えた水が胃の中の騒ぎを収めて、ゆっくりと私の心を食堂に連れ戻してくれた。
――そうよ。 最後の「失敗」だって、もう何年も前の事じゃない。
大丈夫、コツは掴んでる。 それにもうずっと平淡な日々を送ってきたんだもの、あの男が多少何か言ったりしたりした所で、そんなものに過剰反応するような細かい神経はとっくに枯れちゃってるわ。
そう自分に言い聞かせながらグラスに目を落とすと、それに手をつけずに立ち去ったエルヴァーンの、端正な顔と言葉が蘇る。
「忌避する理由にはならない」――か。
妙な確信があった。
多分、あの男は、『何もしない』。
だから、大丈夫だ。
「――どうだか」
口先で自分に予防線を張り、私は伝票を掴んで立ち上がると、レジへと向かった。
to be continued
体を硬くして俯く私に、駆けつけた母の金切り声が降る。
目の前では、知り合いの男の子が腕を抱えて大声で泣いていた。 彼の手の甲から肘あたりにかけての皮膚が、うっすらと赤く腫れ始めている。 私の仕業だ。
「謝りなさい! 早く! ごめんね坊や、ああもう、またお詫びに行かなくちゃ……」
苛々と取り乱し、叱るというよりは喚き散らす母は、私を通り越すとその男の子の前に屈んで彼の腕の火傷を診ている。
声は苛烈でも、母は私を叩いたり、頭を下げさせたりはしない。 いつもそうだ。
むしろ時折様子を伺うようにちらちらと私を見る視線は、猛犬を放し飼いにした人を見るような、刺々しくも怯えた色を含んでいる。
私は息を潜めて視線を落とし、スカートをぎゅっと握り締めて必死で頭の中をからっぽにしようとしていた。
頭の中に真っ白な壁とその冷たい手触りを思い浮かべて、母が男の子をなだめる声を自分とは無関係な、通りすがりの人のものだと思い込む。
落ち着かなきゃ。 落ち着かなきゃ。
でも、お母さん。
その子、「お前の母さん、飲んだくれだから父さんに逃げられたんだって?」って言ったの……
「でもお前みたいな怖い子がいるから、カワイソウな人なんだって」って……
―――10月5日 雷曜日―――
私は南サンドリアの大衆食堂で、一人夕食を摂っていた。 兎肉と野菜のグリルにパンとサラダ、それとワインを少し。
夕食は大抵ここと決めている。 味と値段が釣り合っているし、何より店が大きく客も沢山いるから、そこにすっかり埋没することができる。
これが下手に小さくてアットホームな店だったりすると、私の事を知らない陽気な人がご親切にも声をかけて来る事があって、面倒なのだ。
「……ごちそうさま」
ゆっくりと料理を食べ終えると、グラスを手に一つ長い息をついて、背もたれに体を預けた。
肩の力を抜いてつぅっとワインを吸いながら、ほけっと目の前の光景を眺める。 賑やかで明るい、夕食時の光景。
新しい料理の香ばしい匂いをたなびかせながら右から左へと慌しくウェイターが横切り、その向こうでは家族連れが賑やかに食事を分け合っている。
隣のテーブルのカップルが席を立つ。 女が手を伸ばしかけた伝票を男がすっと取るのが、目の端に見えた。
「えーっ、ほんとぉにぃ!?」
離れた席からどっと沸き起こる計ったような女性達の笑い声が、鼓膜をじーんと痺れさせる。
料理を美味そうに見せる暖色の明かりの中、そんな色違いのシーンの塊が私の前に現れては消えていく。
動かないのは私だけだ。 そんな感覚に、まるで一人暖かい鳥の巣の中にうずくまっているような安心感にひたりこむ。 ほとんど日課のような感情に、日課のように身を委ねて。
唯一私を素通りしない事を仕事とするウェイターが、皿が空になっているのを認めて足早に歩み寄り「お下げしてよろしいでしょうか」と尋ねた。
私は視線を上げず、グラスから口を離して小さく顎で頷く。 手早く重ねられる皿やフォークを見るともなく見ながら、何となく息を殺してその作業が終わるのを待った。
軽く頭を下げて、ウェイターが身を翻し立ち去っていく。 小さな伝票の紙切れとワイングラスだけが載った、小さいくせに妙に広く、よそよそしくなったテーブルが残された。
ふっと心で息をつく。 そして改めて体の力を抜こうとした時。
給仕の去ったあたりの空間に、違和感を覚えた。 誰かがそこで立ち止まっている。 人の気配特有の、軽い圧迫感。
瞼を伏せぎみにしたまま、視線だけでその方向を伺う。 と同時に、私の視界にその足が進み出て来た。
「ローザ・フラメルさんですか」
突然響いた自分の名に驚いて、私は顔を上げた。
私に声をかける人など――ましてや名指しで――ここしばらく、居なかったから。
「――そう、ですけど」
眉をひそめ警戒心も顕わにその声の主を見やり、私は低い声で答えた。
エルヴァーンの男性。 多くの人の鼓動を一瞬早めて回っているに違いない。 恐ろしいほどの美形だ。
背が高い。 白髪を後ろでひっつめている。
着ているのは簡素なチュニックと、細身の剣を帯びて――恐らく、同業者。
そこまで観察した所で、男は再度口を開いた。
「炎系統の魔法の腕が立つと伺って参りました。 短期間で結構ですので、ご教示願いたい。 謝礼はお支払いします」
「――は?」
あまりにも突飛な内容の申し出に、私は一瞬ぽかんと口を開けてしまった。
ご教示? 私に、何かを教えろと? しかも、炎系統の魔法、と言ったか。
どうやら男はもう私の返事を待っているらしい。 店内の明かりの一つを背負い、言うべき事は言ったとでも言わんばかりに、眉ひとつ、気配ひとつ動かさずそこに立ち、私を見下ろしている。
居心地のいい時間を中断された苛立ちとは別に、小さな不快感が胸に湧き上がった。
男の発言内容からして、優位に立つべきはこちらの側だ。 そう彼自身が設定したはずなのに、それを無視してやすやすとペースを握られたような気がしたのだ。
私は持っていたグラスをテーブルに置くと、無遠慮に男を頭のてっぺんからつま先までねめつけて見せた。 それは、軽い威嚇のつもりで。
しかし、その視線はたったの一往復で止まってしまう。
――手応えが、ない。
この状況下にあってなお涼しげと言って差し支えない男の目は、私の非礼に対して何の「感想」も浮かべず、ただ私を見返している。
無表情……いや、違う。 無感動……いや。
「……座んなさいよ」
言葉遣いの上で主導権を握り、私はそう言って向かいの椅子を顎で指していた。
普段ならば面識のない人間は安全の為極力速やかに遠ざけるようにしているのだが、この男の「なにもなさ」は、何故かその必要を感じさせなかった。
興味を持ったのかもしれない。 私にしては珍しいことだ。
私の言葉を受けた男は、そのままの空気で私の正面にある椅子を引くと、そこに腰を下ろした。
* * *
目の前の雑多な光景を、男の長身が遮る。
同時に、それまで私を包んでいた食堂の喧騒までもがすぅっと引いていくような錯覚に襲われた。
そう言えば、こんな小さなテーブルで人と向かい合うなんて何年ぶりかしら。 ううん、そもそも人と実のある会話をする事自体が……
気泡のように次々と湧き上がる無軌道な思考を、腕を組んで一気に頭の隅に追いやる。 判断の邪魔だ。
「で? ご教示って?」
男を真っ直ぐに見据えて、私は短く訊いた。 明らかに年上の男性に向かってふてぶてしい事この上無いが、この際構うまい。 純粋な疑問でもある。
「申し上げた通りです。炎系統の魔法についてあなたから得る所があると考えたので、ご指導を仰ぎたいと思います」
深いバリトン。 抑揚のない、簡潔な口調。
「……私、人に魔法を教えた事なんかないわよ。 ほぼ独学。 そもそもあなた、職業は?」
「教わり方は私の方で考えます。 赤魔道士です」
やはり同業か。
彼の存在に気付いた給仕がグラスを運んで来た。 冷たい水を満たしたそれが、テーブルでこつんと音を立てる。
「なら魔法なんかお手のものじゃないの。 まさか炎系だけ習得してないって訳じゃないでしょう」
「扱える魔法は一通り習得しています。 今回の狙いは炎とエン系の強化です」
……狙いは、と来た。 何とも無駄の無い話の運び。 何故だろう、何だか少し楽しくなってきた。
しかし、『炎』、なわけか。 私は一呼吸の間を置くと、自嘲と意地悪の混じった笑みを浮かべて尋ねた。
「――それだけ?」
「はい」
「違うわよ。 どこからか知らないけど、私の事を聞いてきたんでしょう。 それだけ?」
「……ローザ・P・フラメル、ヒューム族の女性、二十歳。 赤魔道士、細身で中背、肩までの茶色い髪。住所は南」
「感情の激昂により、発火する」
淡々と流れるように私の表層データを並べる彼の言葉を、私は私を私たらしめる特徴をもってぶった斬った。
私は、過度に怒ったり悲しんだり、つまり感情が大きく動くと、体の回りに炎が噴き出すのだ。
またそうして炎を放出すると著しく体力・精神力を消耗する。
何故かは判らない。 物心ついた頃にはそうなっていた。 サラマンダーにでも取り憑かれたのかもしれない。
両親は私が幼い頃に離婚。 以来一緒に暮らしていた母は六年前に男を作り家を出て行った。 まぁ、無理もないと思う。
住んでいた家の家賃は私が冒険者稼業で稼ぎ出す事になったが、追い出されずに住む場所が残っただけでも儲け物だろう。 それ以来、生きた危険物としてこのサンドリアの隅でひっそりと暮らしている。
「聞いたんでしょ。 怒らせると大変な、アブナイ奴なのよ。 何を好き好んでそんな奴の近くにのこのこやって来る訳?」
まともな思考回路を持った者ならまず例外なく、私という人間の特徴を知るや遅かれ早かれ距離を置くものだ。 私もそうあってほしいと思っている。 無用なトラブルは御免だから。
しかし、テーブルに頬杖をつき意地悪く問う私の口調が聞こえているのかいないのか。 男はさらりと返した。
「特にあなたの怒りを買うつもりもないですし、その力があなたの魔法を優れたものにしている事は想像に難くありません。 ですから、それはあなたを忌避する理由にはならない」
…………は。
頬杖をついた姿勢のままで、私は自分の表情から力が抜けていくのを感じていた。
いつのまにか店内の客は少し引けてきて、BGMが人の話し声から小さな食器の音へと移行している。 手綱を緩めたように動きやすくなった空気を通して、奥の厨房から給仕の一息つく溜息が聞こえてきそうだ。
そんな周囲の変化を意識の隅で感じ取りながら、私は目の前に座るエルヴァーンを改めてまじまじと眺めていた。
ほんの少し浅黒い肌、締まった体。 しかし精悍と言い切るには迸る何かが足りない。
目も同じだ。 切れ長で鋭く、泳ぐことのない視線。 しかし射るような光は全く無い。
ほとんど動かずそこに居る様は冷たい胸像のようなのに、何故か空気のように軽い印象を受ける。
私の半ばぽかんとした視線にも全く動じることなく、ただその身を晒して待っている。 「観察はまだ終わりませんか」とでも言うように……
――ひとつ、判った。
動かないのだ。
体のことじゃない。心のことだ。
押しても来ない。 引いても来ない――
「……うちの住所は判ってるのね」
「はい」
「じゃ、十時ぐらいに。 窓が開いてたら起きてるから。 細かい事はその時に」
気が付くと私は、そんな台詞を口に乗せていた。
「判りました」
それを聞いた彼はあっさりと立ち上がる。 そして軽く一礼し踵を――
「――ちょっと」
「はい?」
「あなた、名前は?」
* * *
ヴォルフと名乗ったその男の背中が、食堂の扉の向こうに消えていく。
後ろで一つに結んでいた白髪はずいぶんと長く、扉の影からなびいて最後まで私の網膜に残った。
「……ふ」
まだ全部消化できていない。
私は視線を正面に戻し肺いっぱいに空気を吸い込むと、それを吐き出しながらずるっと椅子に沈み込んだ。 難解な舞台を観終わった後のような、軽い倦怠感が体を包んでいる。
まだ半分がた残っているワインに手を伸ばしかけたが、ふと思い直して彼の為に運ばれてきた水のグラスを手元に引き寄せた。
えーと、明日の十時だっけ?
自分で言ったのに、何だか遠い人ごとみたいな気がする。
というか、何でOKしちゃったんだろう。 明日、十時に彼が来て……それから何を……?
半分もやのかかったようにぼんやりとした頭で、他者との交流という久々の行事に思いを馳せる――と。
途端に、内臓をぎりっと掴むような不安が、私を襲った。
同時に脳裏に押し寄せる、火傷の痛みに顔を歪めた人達の怯え非難する眼差し、鼻を突く焦げた匂い、叫び声――
胸の奥底に押し込めていた過去の「失敗」達が、雪崩を打って記憶の表層に殺到する。
ぶるっと一つ身震いをして、グラスを握り直す。 冷たい。
その刺激に呼ばれるようにそのまま口に運ぶと、きんと冷えた水が胃の中の騒ぎを収めて、ゆっくりと私の心を食堂に連れ戻してくれた。
――そうよ。 最後の「失敗」だって、もう何年も前の事じゃない。
大丈夫、コツは掴んでる。 それにもうずっと平淡な日々を送ってきたんだもの、あの男が多少何か言ったりしたりした所で、そんなものに過剰反応するような細かい神経はとっくに枯れちゃってるわ。
そう自分に言い聞かせながらグラスに目を落とすと、それに手をつけずに立ち去ったエルヴァーンの、端正な顔と言葉が蘇る。
「忌避する理由にはならない」――か。
妙な確信があった。
多分、あの男は、『何もしない』。
だから、大丈夫だ。
「――どうだか」
口先で自分に予防線を張り、私は伝票を掴んで立ち上がると、レジへと向かった。
to be continued