テノリライオン
野ばら 3
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匿名ユーザー
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―――10月7日 闇曜日―――
「いらっしゃいませー」
レンブロワ食料品店の木の扉を開けると、店員のハイトーンな声が私を迎えた。 その声で、私の頭も買い物モードに切り替わる。
えーと、小麦と塩と、あとジュースも買おうか……。
今日は、お休み。
ラテーヌから帰ったヴォルフが「お付き合い頂くのは一日おきで」と言ったからだ。
気を遣わせただろうか、という懸念も浮かんだけれど、敢えて反対する理由もないので素直に頷いて。
まあ普段の生活をするだけだ……と思ったが、彼から受け取った前金のお陰で懐が潤っている事に気付いた途端、あくせくと狩りに出る気が見事に失せてしまった。
昨日のラテーヌ平原での出来事をぼんやりと反芻しながら昼近くまでベッドでゴロゴロした後、食料の買い出しでもするかとようやく起き出して、今レンブロワにいる。
「小麦ひと袋と、あとライ麦もあれば」
「はいございますよ、ひと袋で?」
「ええ、じゃあそれとメープルと……」
頭の中で台所と忙しく相談しながら、足りないと思われるものを次々に店員に注文する。
こんなもんかな、という所で「それでお願いします」と告げ、ふぅとひと息。 財布を手に、店員が食料を袋に詰めるのをほけっと眺める。
……そういや今日は、あいつは何をしてるんだろう。 どこか行ってるのかな。 いやそれ以前に、どこに住んでるのかも知らなかったか……ま、いいけど。
「ありがとうございましたー」
会計を済ませ、袋を抱えて店を出る。
午後のうららかな街の香り。 堅牢な石壁に囲まれる南サンドリアの町並みが、几帳面な陰影を見せながら私の歩調に合わせて移ろっていく。
私をサンドリアに配置した点については、神様を評価してもいいかな、と思う。
ウィンダスじゃ草木が多くて、ちょっとしたボヤも大事になりそうだし。 バストゥークは……建造物はよくても、火薬や薬品類が危なそう。
そんな愚にもつかない事を考えながら、ぶらぶらと歩いていると。
どんっ。
一人の男と、すれ違いざまに勢いよく肩がぶつかった。 同時に声。
「んだコラ、どこに目ぇつけて……ひっ」
軽くよろける私に一方的に叩き付けられる罵声にムっとし、不満一杯の視線をその声の主へ向けると。
口汚いセリフそのまま、絵に描いたようにガラの悪そうなその男の声と表情が、私の顔を見るやぱたりと凍りついた。 後半が小さな悲鳴に取って変わる。
「あ、いやっ……すまん、すいませんでした、へへ」
――思い出した。 だいぶ前に、夜道で絡んできた男だ。
特に騒ぎにもならなかったし、火傷なんかもさせなかった筈だけど。 あの様子だと、相当怖かったのだろうか。
そいつは手の平を返したようにぺこぺこと頭を上下させると、矮小としか言いようのない愛想笑いを残して大急ぎで人混みへと消えていった。
「――ふぅ」
別に、今に始まった事じゃあない。 目の前で人から火なんかが出るのを見たら、まぁ当然の反応だろう。 いつものことだ。
一つ鼻で硬い溜息をついて、のろのろと歩き出し――
「……成程。 そういう訳か」
私は一人呟いた。くすっと笑いが漏れる。
あの、背の高いエルヴァーン。
私のこの力に対して、単なる癖の一つぐらいにしか思ってないんじゃないかというぐらい、反応が薄いんだ。 改めて気が付いた。
彼に対し妙な安堵を覚える理由は、それなのかもしれない。
「あのチンピラよりも変な奴だ、ということね」
一体どんな思考形態なのやら。
また鼻で笑うと、足取りが少し軽くなった。
―――10月8日 火曜日―――
「私に接触するのに、怖いとか危ないとかは思わなかったの?」
二日目。
私の家を後にし、東ロンフォールへの門に向かいながら、私は隣を歩くヴォルフに何の気なしに尋ねてみた。
すれ違う人々、主に女性達の視線がちくちくする。 気持ちいいような、悪いような。
「と言いますと」
……問い返されてしまった。
やっぱりと思いながらも少し拍子抜けして、横目で彼をちらりと見上げる。
物言わぬ砥石のような頬の上で、切れ長の静かな目がただ前に向けられている。
薄い唇は軽く結ばれ、辺りの様子を伺うことをしないまっすぐな眉だけが、僅かに不機嫌そうな印象を他者に与えていた。
直線に近い顎のラインが見事だ。 険しい山の峰のような鼻筋は、曖昧さや迷いといった概念を初めから知らされずに存在しているかのようで。
頑固な名工が誉れ高い英雄の為に作った鞘に、抜かれる気のない刃が納まっている。 そんなイメージを喚起する、生き物。
「修養の為って言っても、私と何かトラブルでも起こしたら危険じゃない」
問いたい内容に、もう一歩踏み込んでみる。 何と返すのだろう。
名品が淀みなく口を開いた。
「そこまでするつもりはありませんから」
私は視線を正面に戻す。
彼の横顔を盗み見ていた私とは別の、胸の内に住む冷静な私が、転がる彼の言葉を拾い上げ掌に乗せて考えていた。
これは――そこまでの興味はない、という事かしら。――だとすれば理想的じゃない、変に興味を持たれて良い結果になった事なんか、ほとんど無い――訊いてみなさいよ、きっとはい、いいえで答えるから――
いつもなら一人楽しむ、私の中の冷めた私が私を煽る言葉。 何故だか追い詰められるようで、今は聞きたくなかった。
「……怪我じゃ済まないかもしれないのよ?」
その代わりに、表情を欠いた声で駄目押しをしてみる。 と、一手前と同じ温度と速度で答えが返ってきた。
「その時は、その時です」
外へと続く大きな門を前に、もう一人の私がぴたりと口をつぐみ、疑問符を抱えて考え込む。
そのまま当分動きそうにもなかったので、私は彼女を街に置いて門を潜った。
* * *
東ロンフォールの森はいつも静かだ。 更に外れともなれば、人の足音一つも聞こえない。めったにない訪問者に驚いた兎が一羽、草むらから跳ねた。
空模様が良くない。 どんよりと曇った空から、少し冷たい風が吹き降ろしていた。
「では、お願いします」
ぴょんぴょんと去っていく兎を何となく目で追う私に、後ろからヴォルフの声がかかった。
少し離れて立つ彼にゆっくりと視線を戻し、続けて体を向ける。
本当にいいの? と訊こうとして、やめた。 多分無駄だろう。
今日は、先日出来なかった分のスケジュール消化。 彼に対し、ファイアを発動させる依頼だ。 気後れがしないと言えば嘘になるけど、本人がそう頼むものを拒否もできない。
「……守護呪文は?」
「必要ありません。 邪魔になるので」
うん。 そう言うと思った。
頭の中で呟いて、ちょっと目を落として足を肩幅に開く。 靴の裏でじゃりっという音がした。
「じゃ、Ⅰから」
「はい」
両腕を少し広げ、小さく呪文を唱える。
程無く手と手の間に灯る小さな紅い光が、ゆっくりと膨らんでいった。
――これは、私の炎じゃない。
魔法を習得し使い始めた時から、それは判っていた。 呪文という契約を示し、周囲の世界から火の元素だけを抽出して……そんな感じの、『借り物』だ。
多少威力にムラがあるけど、それは私の技術不足だろうし、最近はそこそこ安定もしてきた。 他の人のものとそう違うとは思えない。 それを観察してどうしようと言うのだろうか。 何か収穫があるものなのかしら――
呪文が終わると同時に、エネルギーの塊が手の内を蹴って勢い良く宙に飛び出した。 そのまま私の視線の先、ヴォルフの胸元へと吸い込まれるように奔り体当たりをする。
最も威力の低いⅠではダメージらしいダメージは行かないはずだ。 小さな破裂音を残し、炎の塊はあっけなく四散した。
彼もまた顔色一つ変えない。 残る火の粉を払いもせずに目を閉じ、利き酒でもしているかのような、何かを探る顔つきでじっと動かず立っている。
――痛かった、かしら。
あまりに動きのない彼の様子に、急に不安が襲った。
ううん、そんな筈はない。 たかがファイアⅠ、私だって大して痛くない。
なのに何故か、少しずつ動悸が速くなっている。 予想していなかった、恐怖感。
「……II、いいかしら」
「どうぞ」
静かなままのヴォルフにおずおずと声をかけると、ゆっくり目を開きながら彼は言う。
その強い視線に、気圧された。
考える前に動く腕が目の前にかざされる。 同時に気付く。 自分が、かすかに震えている事に。
(なんで……?)
大丈夫、Ⅰに比べれば強力だけど、彼なら命にかかわったりなんかは絶対しない。 回復呪文だってある、大丈夫……
「……ゼールス、フォリット、ウィルネスタ……」
私は、口では呪文を、心ではひたすら「大丈夫」という言葉を唱えていた。
呪文が結ぶ。 ごうっという唸りを乗せて、火焔の形をした獣が突風のように彼に襲いかかった。
「……っ!!」
どうんという炸裂音に身を竦めたのは、彼よりも私の方だった。
紅い弾幕の向こうでヴォルフのかかとが土をえぐる。 熱波を避けてかそれとも炎に打たれてか、彼の顔が平手打ちを食らったようにびっと横を向くのが見えた。
さすがに顔をしかめている。 炎が引くまでその姿勢で耐え、先程と同じに魔力の余韻を余さず検分するような長い間を置いた後、地に唾を吐くように顔を振って元に戻す。
そして無造作に服に残る煤とまとわりつく炎の切れ端を腕の一振りで払うと、まるで駅の窓口で行き先でも告げるかのように事務的な回復呪文を自身に吐いた。
* * *
「…………」
今や疑いようもなくはっきりと、私の体は震えていた。
――怖い!!
人にダメージを与える事が怖いんじゃなかった。 私から生まれた炎が、人を襲う事が、怖い!!
『化け物!』
『何てことをするんだ!!』
『来ないで、来ないでおくれよ!』
『熱いよぉ!』
これまで私に叩き付けられてきた罵声が、視線が、一斉に目を覚まして滝音のように私を罵り始める。
モンスターなら、狩りなら怖くない、そう思い込んで気を散らしたい――そう思ってもすでに、周囲には兎の一羽も見当たらない。
違うのに、どうしてこんな、最後の失敗からずいぶん経ったから忘れて弱くなってしまったの、呪文なのに、ファイアなのに、誰にも責められないのに―――
「次」
無造作に投げられる彼の低い言葉に、己の内で解け行く封印にすくんでいた私は小さく息を呑んだ。
「……お願いします」
思い出したように付け足される礼儀。 彼も恐らく自分の思考に集中しているのだろう。
体がこわばって、顔を上げられない。 手足が冷たい。 かちかちと歯が鳴っている。
これでラスト、ファイアⅢ。 彼が待っている気配がする。 やらなきゃ。
負の感情を必死で追い払い、息を詰めて腕を上げ頭上で交差させる。
「ギール ハリッド……」
背中を氷のような汗が伝った。 どうにか呪文を進める声が、明らかに震えているのが判る。
ふとヴォルフの視線を感じたような気がした。 見られている。 しっかり……
「……アーデル・ティルトウェイト……」
ああ、こんなに気が乱れたら私自身まで発火しかねない。 灼熱のイメージが私を責め焦がす。 怖い、怖い、怖い!!
じゃり。
前方にいる人物が、足を動かした気配。
その音に緊張の糸がぶつりと切れた。
私は逃げるように頭上から腕を引き下ろすと片手を俯いた顔に当て、もう片方の手を彼の方に上げて許しを乞う。
「……ごめん、ごめんなさい、ちょっと待って。 気が散っちゃって……今、やるから――」
全力疾走の後のような大きな息を吐き出す。 細かい震えが邪魔して、手足に力が入らない。何とかして心と体をまとめようと、必死で戦っていると。
ふと間近で気配を感じた。 はっと瞼を開く。
顔を覆う指の間から、 目の前でヴォルフが片膝をつき、私を見上げているのが見えた。 ぐずる子供を見守る、父親のような姿勢で。
「――判りました」
相変わらず乏しい表情。 でもその目の光が、今までに無い穏やかさを見せている。
驚いた私の、その驚きが、胸の内の恐怖を一瞬覆い隠した。 吊り上がっていた肩からすうっと力が抜けていく。
「いえ、判っていませんでした。 申し訳無い」
ぱた、ぱたという微かな音が、周囲で囁き始めた。 小さな、優しい雨音。
「無理はしないで下さい。 本意ではない」
それは、今まで味わったことのない感覚だった。
彼の短くも誠実な言葉が、私の中のの亡霊達を一つ一つかき消し、押し戻していく――
辺りの雨音は粒から柔らかい布へと移り変わって、森を暖かくゆったり包み始めている。
心臓はまだうるさく打っているけれど。 内から私を責め苛む怒声は、もう遥か遠くなっていた。
私は顔を覆っていた両腕をゆっくりゆっくり下ろし、そしてふうと微笑んだ。 弱々しかったかもしれない。
「――私も、まだまだね」
「いいえ」
ヴォルフは軽く首を振る。 そして空模様を気にするような素振りと共に立ち上がった。
「一旦戻って、雨宿りしましょう」
そう言って帰還の呪文を唱えかける彼を、私は片手を上げて遮る。 何故だかこの森に、この空間に、許されたような心地良さと、安らぎとを感じたから。 あっさりと立ち去ってしまうのが、惜しかった。
「ううん、木の多い所で待てばいいわ。 ……雨、好きだし」
「そうですか」
私は頷くと、いつのまにか動くようになっていた足を踏み出して適当に歩き出す。 雨は、本当に好き。
* * *
「……私のファイア、どこか違った?」
雨粒が少しずつ前髪を湿らせていくのを額で感じながら、散歩でもするような私の歩調に合わせて隣を歩くヴォルフに、私はぽつりと尋ねた。
「違いました。 魔術的手続きから抽出された以上の要素が、威力を上下させています」
「へぇ……」
これまでずっと、人と比べた事なんか無かったから、判らなかったな。
「他の人は、上下しないの?」
「素質によって僅かに強くなるか弱くなるかのどちらかで、その都度に変わるということはありません」
ふぅん、そうなのか。
「まぁ、私の気分に同調してそうなるんでしょうね……」
「炎に愛されているということでしょう」
――またこの男は、予想だにしない事を言う。
私は密かに呆然としながら、同時に心が少しだけ軽くなるのを感じていた。 そんな風に思った事なんか、今まで無かった――
歯の浮くような台詞を言っても、雨に降られても、彼の様子は変わらない。
たたずまいが変わらないのは、濡れそぼるべき髪を後ろできつく束ねてしまっているからだけど。
「……そうかもね」
ふと、雨と、彼が、同じものに見えた。
to be continued
「いらっしゃいませー」
レンブロワ食料品店の木の扉を開けると、店員のハイトーンな声が私を迎えた。 その声で、私の頭も買い物モードに切り替わる。
えーと、小麦と塩と、あとジュースも買おうか……。
今日は、お休み。
ラテーヌから帰ったヴォルフが「お付き合い頂くのは一日おきで」と言ったからだ。
気を遣わせただろうか、という懸念も浮かんだけれど、敢えて反対する理由もないので素直に頷いて。
まあ普段の生活をするだけだ……と思ったが、彼から受け取った前金のお陰で懐が潤っている事に気付いた途端、あくせくと狩りに出る気が見事に失せてしまった。
昨日のラテーヌ平原での出来事をぼんやりと反芻しながら昼近くまでベッドでゴロゴロした後、食料の買い出しでもするかとようやく起き出して、今レンブロワにいる。
「小麦ひと袋と、あとライ麦もあれば」
「はいございますよ、ひと袋で?」
「ええ、じゃあそれとメープルと……」
頭の中で台所と忙しく相談しながら、足りないと思われるものを次々に店員に注文する。
こんなもんかな、という所で「それでお願いします」と告げ、ふぅとひと息。 財布を手に、店員が食料を袋に詰めるのをほけっと眺める。
……そういや今日は、あいつは何をしてるんだろう。 どこか行ってるのかな。 いやそれ以前に、どこに住んでるのかも知らなかったか……ま、いいけど。
「ありがとうございましたー」
会計を済ませ、袋を抱えて店を出る。
午後のうららかな街の香り。 堅牢な石壁に囲まれる南サンドリアの町並みが、几帳面な陰影を見せながら私の歩調に合わせて移ろっていく。
私をサンドリアに配置した点については、神様を評価してもいいかな、と思う。
ウィンダスじゃ草木が多くて、ちょっとしたボヤも大事になりそうだし。 バストゥークは……建造物はよくても、火薬や薬品類が危なそう。
そんな愚にもつかない事を考えながら、ぶらぶらと歩いていると。
どんっ。
一人の男と、すれ違いざまに勢いよく肩がぶつかった。 同時に声。
「んだコラ、どこに目ぇつけて……ひっ」
軽くよろける私に一方的に叩き付けられる罵声にムっとし、不満一杯の視線をその声の主へ向けると。
口汚いセリフそのまま、絵に描いたようにガラの悪そうなその男の声と表情が、私の顔を見るやぱたりと凍りついた。 後半が小さな悲鳴に取って変わる。
「あ、いやっ……すまん、すいませんでした、へへ」
――思い出した。 だいぶ前に、夜道で絡んできた男だ。
特に騒ぎにもならなかったし、火傷なんかもさせなかった筈だけど。 あの様子だと、相当怖かったのだろうか。
そいつは手の平を返したようにぺこぺこと頭を上下させると、矮小としか言いようのない愛想笑いを残して大急ぎで人混みへと消えていった。
「――ふぅ」
別に、今に始まった事じゃあない。 目の前で人から火なんかが出るのを見たら、まぁ当然の反応だろう。 いつものことだ。
一つ鼻で硬い溜息をついて、のろのろと歩き出し――
「……成程。 そういう訳か」
私は一人呟いた。くすっと笑いが漏れる。
あの、背の高いエルヴァーン。
私のこの力に対して、単なる癖の一つぐらいにしか思ってないんじゃないかというぐらい、反応が薄いんだ。 改めて気が付いた。
彼に対し妙な安堵を覚える理由は、それなのかもしれない。
「あのチンピラよりも変な奴だ、ということね」
一体どんな思考形態なのやら。
また鼻で笑うと、足取りが少し軽くなった。
―――10月8日 火曜日―――
「私に接触するのに、怖いとか危ないとかは思わなかったの?」
二日目。
私の家を後にし、東ロンフォールへの門に向かいながら、私は隣を歩くヴォルフに何の気なしに尋ねてみた。
すれ違う人々、主に女性達の視線がちくちくする。 気持ちいいような、悪いような。
「と言いますと」
……問い返されてしまった。
やっぱりと思いながらも少し拍子抜けして、横目で彼をちらりと見上げる。
物言わぬ砥石のような頬の上で、切れ長の静かな目がただ前に向けられている。
薄い唇は軽く結ばれ、辺りの様子を伺うことをしないまっすぐな眉だけが、僅かに不機嫌そうな印象を他者に与えていた。
直線に近い顎のラインが見事だ。 険しい山の峰のような鼻筋は、曖昧さや迷いといった概念を初めから知らされずに存在しているかのようで。
頑固な名工が誉れ高い英雄の為に作った鞘に、抜かれる気のない刃が納まっている。 そんなイメージを喚起する、生き物。
「修養の為って言っても、私と何かトラブルでも起こしたら危険じゃない」
問いたい内容に、もう一歩踏み込んでみる。 何と返すのだろう。
名品が淀みなく口を開いた。
「そこまでするつもりはありませんから」
私は視線を正面に戻す。
彼の横顔を盗み見ていた私とは別の、胸の内に住む冷静な私が、転がる彼の言葉を拾い上げ掌に乗せて考えていた。
これは――そこまでの興味はない、という事かしら。――だとすれば理想的じゃない、変に興味を持たれて良い結果になった事なんか、ほとんど無い――訊いてみなさいよ、きっとはい、いいえで答えるから――
いつもなら一人楽しむ、私の中の冷めた私が私を煽る言葉。 何故だか追い詰められるようで、今は聞きたくなかった。
「……怪我じゃ済まないかもしれないのよ?」
その代わりに、表情を欠いた声で駄目押しをしてみる。 と、一手前と同じ温度と速度で答えが返ってきた。
「その時は、その時です」
外へと続く大きな門を前に、もう一人の私がぴたりと口をつぐみ、疑問符を抱えて考え込む。
そのまま当分動きそうにもなかったので、私は彼女を街に置いて門を潜った。
* * *
東ロンフォールの森はいつも静かだ。 更に外れともなれば、人の足音一つも聞こえない。めったにない訪問者に驚いた兎が一羽、草むらから跳ねた。
空模様が良くない。 どんよりと曇った空から、少し冷たい風が吹き降ろしていた。
「では、お願いします」
ぴょんぴょんと去っていく兎を何となく目で追う私に、後ろからヴォルフの声がかかった。
少し離れて立つ彼にゆっくりと視線を戻し、続けて体を向ける。
本当にいいの? と訊こうとして、やめた。 多分無駄だろう。
今日は、先日出来なかった分のスケジュール消化。 彼に対し、ファイアを発動させる依頼だ。 気後れがしないと言えば嘘になるけど、本人がそう頼むものを拒否もできない。
「……守護呪文は?」
「必要ありません。 邪魔になるので」
うん。 そう言うと思った。
頭の中で呟いて、ちょっと目を落として足を肩幅に開く。 靴の裏でじゃりっという音がした。
「じゃ、Ⅰから」
「はい」
両腕を少し広げ、小さく呪文を唱える。
程無く手と手の間に灯る小さな紅い光が、ゆっくりと膨らんでいった。
――これは、私の炎じゃない。
魔法を習得し使い始めた時から、それは判っていた。 呪文という契約を示し、周囲の世界から火の元素だけを抽出して……そんな感じの、『借り物』だ。
多少威力にムラがあるけど、それは私の技術不足だろうし、最近はそこそこ安定もしてきた。 他の人のものとそう違うとは思えない。 それを観察してどうしようと言うのだろうか。 何か収穫があるものなのかしら――
呪文が終わると同時に、エネルギーの塊が手の内を蹴って勢い良く宙に飛び出した。 そのまま私の視線の先、ヴォルフの胸元へと吸い込まれるように奔り体当たりをする。
最も威力の低いⅠではダメージらしいダメージは行かないはずだ。 小さな破裂音を残し、炎の塊はあっけなく四散した。
彼もまた顔色一つ変えない。 残る火の粉を払いもせずに目を閉じ、利き酒でもしているかのような、何かを探る顔つきでじっと動かず立っている。
――痛かった、かしら。
あまりに動きのない彼の様子に、急に不安が襲った。
ううん、そんな筈はない。 たかがファイアⅠ、私だって大して痛くない。
なのに何故か、少しずつ動悸が速くなっている。 予想していなかった、恐怖感。
「……II、いいかしら」
「どうぞ」
静かなままのヴォルフにおずおずと声をかけると、ゆっくり目を開きながら彼は言う。
その強い視線に、気圧された。
考える前に動く腕が目の前にかざされる。 同時に気付く。 自分が、かすかに震えている事に。
(なんで……?)
大丈夫、Ⅰに比べれば強力だけど、彼なら命にかかわったりなんかは絶対しない。 回復呪文だってある、大丈夫……
「……ゼールス、フォリット、ウィルネスタ……」
私は、口では呪文を、心ではひたすら「大丈夫」という言葉を唱えていた。
呪文が結ぶ。 ごうっという唸りを乗せて、火焔の形をした獣が突風のように彼に襲いかかった。
「……っ!!」
どうんという炸裂音に身を竦めたのは、彼よりも私の方だった。
紅い弾幕の向こうでヴォルフのかかとが土をえぐる。 熱波を避けてかそれとも炎に打たれてか、彼の顔が平手打ちを食らったようにびっと横を向くのが見えた。
さすがに顔をしかめている。 炎が引くまでその姿勢で耐え、先程と同じに魔力の余韻を余さず検分するような長い間を置いた後、地に唾を吐くように顔を振って元に戻す。
そして無造作に服に残る煤とまとわりつく炎の切れ端を腕の一振りで払うと、まるで駅の窓口で行き先でも告げるかのように事務的な回復呪文を自身に吐いた。
* * *
「…………」
今や疑いようもなくはっきりと、私の体は震えていた。
――怖い!!
人にダメージを与える事が怖いんじゃなかった。 私から生まれた炎が、人を襲う事が、怖い!!
『化け物!』
『何てことをするんだ!!』
『来ないで、来ないでおくれよ!』
『熱いよぉ!』
これまで私に叩き付けられてきた罵声が、視線が、一斉に目を覚まして滝音のように私を罵り始める。
モンスターなら、狩りなら怖くない、そう思い込んで気を散らしたい――そう思ってもすでに、周囲には兎の一羽も見当たらない。
違うのに、どうしてこんな、最後の失敗からずいぶん経ったから忘れて弱くなってしまったの、呪文なのに、ファイアなのに、誰にも責められないのに―――
「次」
無造作に投げられる彼の低い言葉に、己の内で解け行く封印にすくんでいた私は小さく息を呑んだ。
「……お願いします」
思い出したように付け足される礼儀。 彼も恐らく自分の思考に集中しているのだろう。
体がこわばって、顔を上げられない。 手足が冷たい。 かちかちと歯が鳴っている。
これでラスト、ファイアⅢ。 彼が待っている気配がする。 やらなきゃ。
負の感情を必死で追い払い、息を詰めて腕を上げ頭上で交差させる。
「ギール ハリッド……」
背中を氷のような汗が伝った。 どうにか呪文を進める声が、明らかに震えているのが判る。
ふとヴォルフの視線を感じたような気がした。 見られている。 しっかり……
「……アーデル・ティルトウェイト……」
ああ、こんなに気が乱れたら私自身まで発火しかねない。 灼熱のイメージが私を責め焦がす。 怖い、怖い、怖い!!
じゃり。
前方にいる人物が、足を動かした気配。
その音に緊張の糸がぶつりと切れた。
私は逃げるように頭上から腕を引き下ろすと片手を俯いた顔に当て、もう片方の手を彼の方に上げて許しを乞う。
「……ごめん、ごめんなさい、ちょっと待って。 気が散っちゃって……今、やるから――」
全力疾走の後のような大きな息を吐き出す。 細かい震えが邪魔して、手足に力が入らない。何とかして心と体をまとめようと、必死で戦っていると。
ふと間近で気配を感じた。 はっと瞼を開く。
顔を覆う指の間から、 目の前でヴォルフが片膝をつき、私を見上げているのが見えた。 ぐずる子供を見守る、父親のような姿勢で。
「――判りました」
相変わらず乏しい表情。 でもその目の光が、今までに無い穏やかさを見せている。
驚いた私の、その驚きが、胸の内の恐怖を一瞬覆い隠した。 吊り上がっていた肩からすうっと力が抜けていく。
「いえ、判っていませんでした。 申し訳無い」
ぱた、ぱたという微かな音が、周囲で囁き始めた。 小さな、優しい雨音。
「無理はしないで下さい。 本意ではない」
それは、今まで味わったことのない感覚だった。
彼の短くも誠実な言葉が、私の中のの亡霊達を一つ一つかき消し、押し戻していく――
辺りの雨音は粒から柔らかい布へと移り変わって、森を暖かくゆったり包み始めている。
心臓はまだうるさく打っているけれど。 内から私を責め苛む怒声は、もう遥か遠くなっていた。
私は顔を覆っていた両腕をゆっくりゆっくり下ろし、そしてふうと微笑んだ。 弱々しかったかもしれない。
「――私も、まだまだね」
「いいえ」
ヴォルフは軽く首を振る。 そして空模様を気にするような素振りと共に立ち上がった。
「一旦戻って、雨宿りしましょう」
そう言って帰還の呪文を唱えかける彼を、私は片手を上げて遮る。 何故だかこの森に、この空間に、許されたような心地良さと、安らぎとを感じたから。 あっさりと立ち去ってしまうのが、惜しかった。
「ううん、木の多い所で待てばいいわ。 ……雨、好きだし」
「そうですか」
私は頷くと、いつのまにか動くようになっていた足を踏み出して適当に歩き出す。 雨は、本当に好き。
* * *
「……私のファイア、どこか違った?」
雨粒が少しずつ前髪を湿らせていくのを額で感じながら、散歩でもするような私の歩調に合わせて隣を歩くヴォルフに、私はぽつりと尋ねた。
「違いました。 魔術的手続きから抽出された以上の要素が、威力を上下させています」
「へぇ……」
これまでずっと、人と比べた事なんか無かったから、判らなかったな。
「他の人は、上下しないの?」
「素質によって僅かに強くなるか弱くなるかのどちらかで、その都度に変わるということはありません」
ふぅん、そうなのか。
「まぁ、私の気分に同調してそうなるんでしょうね……」
「炎に愛されているということでしょう」
――またこの男は、予想だにしない事を言う。
私は密かに呆然としながら、同時に心が少しだけ軽くなるのを感じていた。 そんな風に思った事なんか、今まで無かった――
歯の浮くような台詞を言っても、雨に降られても、彼の様子は変わらない。
たたずまいが変わらないのは、濡れそぼるべき髪を後ろできつく束ねてしまっているからだけど。
「……そうかもね」
ふと、雨と、彼が、同じものに見えた。
to be continued