テノリライオン
野ばら 5
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匿名ユーザー
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―――10月12日 氷曜日―――
熱が引き、体調が戻るのに三日かかった。
ヴォルフはあれから二度ほど、食料や薬を携えて様子を見に現れたが。
私の症状が安定して回復に向かっているのを見届けると、郵便箱に家の鍵を残し、その後はぱったりと姿を見せなくなった。
* * *
「……ま、あんまり、みっともいいもんじゃないしね」
すっかり調子も戻った、秋風も涼しい昼下がり。
私は水槽に餌をぱらぱらと落としながら、その中を泳ぐ三匹の赤い金魚達に独り言のように語りかける。
やっと熱や咳などの風邪の症状から自由になり余裕を取り戻した私は、自分の中をまるで壊れたブランコのように不安定に行き来する思考がある事に気が付いていた。
勿論、面倒を見てもらった事はありがたいし、感謝をしないといけない。 でも、できれば臥せっている所なんかは見られたくなかった――そういう意味では、放っておいてくれなかった事を恨めしいと思ってしまう自分がいて。
そんな勝手な自分に対する、遣り場の無い嫌悪感。 素直に看病を受けておいて、何を今更。
あの低く小さな歌とオレンジ色の光景が、繰り返し脳裏に蘇る。 熱のせいで冷静な判断力が飛んでいたのかもしれない。 あの時は、構わないでくれという言葉が浮かびもしなかった。
それとも、これまで病気の時は一人の方がいいと思っていたのは、ただの強がりだったのだろうか――
そしてその不規則なフラッシュバックは、必ず最後には私の意識を家の扉の前へと連れて行く。
再度あの扉が叩かれるのを、恐れる自分と待つ自分のせめぎあいが始まるのだ。
たった二日、魔法を見せただけで終わりなんて訳がない。 多分、またすぐ尋ねて来るだろう。
それとも、当分来ないつもりかしら。 気を遣っているとか……ううん、単に仕事は終わったと普通に過ごしているだけかもしれない。
風邪なら治った。 もう大丈夫だ、という事自体は、早く伝えたい気がする。
でも――気が重い。 どんな顔をして何を話せばいいのか、何故だか心が定まらない。
勿論、礼を言って、次のスケジュールを決めて……なのは判っている。 するべき事に選択肢など無いのに、何故かひどく落ち付かないのだ。
それを鎮める為に、頭の中で扉が開いた後のシミュレーションが始まり、適切な言葉を選ぶ為に自分の中の感情を探ると、その刺激で結局思考は冒頭に戻る。 その繰り返しだった。
「なんだかなー……」
もう何度目とも知れない思考のループの途中で吐息混じりに呟いて、私はことんと餌の箱を置く。
そして、はたと気付いてしまった。
この、金魚達。 うっかりしていた、寝込んでいる間中ずっと餌をあげていなかった。 今更ながら息を呑み、慌てて水槽を観察する。
が、三つの赤い宝石達はいつもと変わらない様子で餌の粒をゆらゆらと追っている。 特に水槽内の水草がついばまれたり、争ったような気配もない。
……そう言えば昨日餌をやった時にも、数日間飢えていたというような必死さは全く見られなかった――
「…………」
はーっ、と、大きな溜息が出る。
安堵と、感謝と、うかつだったという思いと。 そしてどこから生まれたのか自分でもよく判らない、不安にも似た感情の混じった、複雑な溜息。
頭の中の迷路が、また長くなった。
* * *
コンコン。
秋の短い陽が、そろそろ傾き始める。
空気が冷え出す前に、二階に干しておいた布団を取り込んでしまおうか……と、椅子から立ち上がりかけた時。
玄関の木の扉から、硬い音が二つ響いた。
「!!」
心臓がどきんと跳ね上がる。 体などは文字通り飛び上がってしまった。 膝の後ろで鉄製の椅子ががたんと派手な音を立てて躍った。
(お……驚きすぎ、驚きすぎ)
頭の中で自分をなだめ、どきどきと暴れまわる心臓を拳で押さえながら一つ大きく息を吸う。
そして一気に扉の前まで歩いた。 ノブを握り、一拍置いてがちゃりと引く。
「こんにちは」
「どうも」
「良くなられたようですね」
「……ええ、お陰様で」
「何よりです。 よろしければ明日からまたお願いしたいのですが」
「ええ」
「肩慣らしに、軽い狩りにするつもりです。 休んでおいて下さい」
「判ったわ」
言葉数が、いつもと逆だ。
話しながら私の視線はヴォルフの顔とそれ以外をうろうろと行き来し、改めて速くなる鼓動が早く言えと急き立てる。
「それでは、明日」
あっけなく話を終えてしまった彼が、軽く会釈すると背を向けた。 玄関先の数段の階段をとんとんと降りる。
「――あっ!!……、の」
「はい」
私の唐突で間の抜けた呼び声に驚く様子も見せず、彼はするりと振り向いた。 階段の下から、涼しく凪いだ水面のような、でもどこか柔らかい眼差しが私を見上げる。
「あ――。 あ、りがと」
何とか、言えた。
でも、視線は泳いだまま、その上ふてくされたような小さい声しか出なかったのは。
先程まで色々な事をぐちゃぐちゃと考えていた自分の姿が、対照的に静かなその水面に映されているような気がしたから。
「いいえ」
――また、微笑ったのだろうか。
どうしていつも、ちゃんと観察できない時にばかり……
* * *
ゆっくりと、扉を閉めた。
大きな仕事を終えた後のような、重い吐息が漏れる。
胸の奥に、小さな赤い光が見えた気がした。
何かの警告のランプだと、思った。
―――10月13日 雷曜日―――
その街中にあってはあたかも最大にして唯一の山のようにそびえ立つ、北サンドリア、ドラギーユ城。
荘厳かつ威圧感溢れるその建造物へ、私とヴォルフの二人は向かっていた。
「本当に大丈夫ですか」
「平気よ。 行った事がないわけじゃないし、大体バルクルムあたりのモンスターじゃ狩りらしい狩りにもならないでしょ」
気が進まない様子のヴォルフに、私はきびきびと言葉を返す。 実際、私達二人の相手をそこそこにでも出来るようなモンスターは、砂丘にはいない。 その事自体は事実なので、彼はそれについては口を閉ざした。
事の始まりは、昼前に家に来たヴォルフのバルクルム砂丘あたりで狩りをしようと言う提案に私が唱えた異だった。
彼が、どう考えても大した敵のいないその地を選んだのは、少し距離はあるけど危険が少ない事、気温が低くない事、町が近い事……つまり、病み上がりの私を気遣っての妥協案だと解釈したからだ。
「危険があったらすぐに脱出しますから、極力離れないようにお願いします」
「判ってる、大丈夫」
彼の注意を半分はねのけるように、私は背筋を伸ばし、ドラギーユ城正面の広場で飛沫を躍らせる大きな噴水の横を早足に通り過ぎる。 すぐ斜め後ろを普通の歩調でついてくるヴォルフ。
昇ってまもない陽の光と、柔らかい風が髪をなぶる。
体調は万全と言ってよかった。 熱やだるさは全く引きずっていない。
それを示すためにも、私は行き先としてボストーニュ監獄を挙げてみせたのだ。 モンスターの強さも適度で申し分ないはずだし、街からもすぐだ。 何しろ、ドラギーユ城の真下なのだから。
案の定、ヴォルフは渋った。 それはそうだろう、じめじめした地下の監獄などという不健康かつ物騒な狩り場に、諸手を挙げて賛成する訳がない。
それでも私は、砂丘という半端な狩り場に対して頷く事はできなかった。 だってそこでは、私の持てる力の半分も出す事はできないだろうから。
彼が私の前に姿を現してから、かれこれ十日近くが経っている。
振り返ればそれだけの時間が過ぎているのに、残り五万の授業料を貰うだけの成果には遠く及んでいないと、私は感じていた。
勿論、途中で体調を崩してしまったという仕方のない事情はある――いや、だからこそ。 ちゃんとやりたい。
どうすれば「ちゃんと」やった事になるのかは、彼にしか判らないけれど。
「ご用件は」
「監獄のモンスターの掃討です」
「承知致しました。 お気をつけてどうぞ」
城門を守る兵士に用向きを告げ、大儀そうな軋みを響かせて開く、大きな扉をくぐる。 やはり早足で。
* * *
「…………」
赤を基調にした絢爛にして豪華たる輝きに満ちるロビーに両手を広げて迎えられて、私は足を止めた。
頭上で上品な光をこぼすシャンデリア。 見事に活けられたあでやかな花達、繊細な作りの調度品、匠の手になる絵画。 靴を包むつやのある絨緞、どこからか漂う控え目な香。 贅を凝らしたそれらが織り成す、華麗の代名詞のような空間に、思わずほうと溜息が漏れた。
何度来ても――いや、そう何度も来ないからだろうけれど――自然と目と心を奪われてしまう。
そんな非日常に圧倒される私の背後で、重々しく扉の閉まる音がした。
それではっと我に帰り、無意識に音のした方に顔を向けかけて――その途中、すぐ横に。
いつのまにか、真紅の魔装のエルヴァーン。
輪郭線が、無い。
彼の横顔とその背景を視界に捉えた瞬間、唐突にそんな思考が浮かんだ。
この部屋を絵とするならば、同じ絵の具で同時に描き込まれたかのように。
この部屋をジグソーパズルとするならば、当然収まるべきピースのように。
今この扉を抜けて、外から入ってきたのは、私だけだったんじゃないか――
キャッスルという非日常に違和感無く溶け込むその姿を前に、私は一瞬奇妙な錯覚に襲われる。
と。 その秀麗な風貌がつと動き、彼を見上げて一瞬固まっている私の視線をかちん、と捕らえた。 途端に私は、とってつけたようにふいと顔を逸らす。
そう。 昨日から、私はずっとこうだ。
「行きましょう」
が、そんな私の不自然な態度などどこにもひっかけず。 背の高いエルヴァーンはそう言うとすいと前に立って、監獄の入り口へと足を向けた。
絢爛豪華な空間にあっても、全く頓着しない。 むしろその無造作が堂々に裏返り、この部屋を従えているようにさえ見える。
育ちの良さが出ているのか、単なる性格か。 きっと両方だろう。
(……今帰った、とでも言い出しそうだわ)
いつも通り飄々と揺れるその長い白髪を追いながら、私は頭の中でふっと笑って呟いた。
前を歩く大きな背中に、不思議な安心感を覚える。 でもきっと振り返られたら一瞬でそれは消え去って、代わりに不快感が襲うに違いない事も、何故か判る。
――掴めない心の動きは、狩りに埋没させてしまえばいい――
ボストーニュ監獄への硬い階段を降りながら。
自分が初めて、赴く戦いに安らぎを求めている事に気が付いた。
to be continued
熱が引き、体調が戻るのに三日かかった。
ヴォルフはあれから二度ほど、食料や薬を携えて様子を見に現れたが。
私の症状が安定して回復に向かっているのを見届けると、郵便箱に家の鍵を残し、その後はぱったりと姿を見せなくなった。
* * *
「……ま、あんまり、みっともいいもんじゃないしね」
すっかり調子も戻った、秋風も涼しい昼下がり。
私は水槽に餌をぱらぱらと落としながら、その中を泳ぐ三匹の赤い金魚達に独り言のように語りかける。
やっと熱や咳などの風邪の症状から自由になり余裕を取り戻した私は、自分の中をまるで壊れたブランコのように不安定に行き来する思考がある事に気が付いていた。
勿論、面倒を見てもらった事はありがたいし、感謝をしないといけない。 でも、できれば臥せっている所なんかは見られたくなかった――そういう意味では、放っておいてくれなかった事を恨めしいと思ってしまう自分がいて。
そんな勝手な自分に対する、遣り場の無い嫌悪感。 素直に看病を受けておいて、何を今更。
あの低く小さな歌とオレンジ色の光景が、繰り返し脳裏に蘇る。 熱のせいで冷静な判断力が飛んでいたのかもしれない。 あの時は、構わないでくれという言葉が浮かびもしなかった。
それとも、これまで病気の時は一人の方がいいと思っていたのは、ただの強がりだったのだろうか――
そしてその不規則なフラッシュバックは、必ず最後には私の意識を家の扉の前へと連れて行く。
再度あの扉が叩かれるのを、恐れる自分と待つ自分のせめぎあいが始まるのだ。
たった二日、魔法を見せただけで終わりなんて訳がない。 多分、またすぐ尋ねて来るだろう。
それとも、当分来ないつもりかしら。 気を遣っているとか……ううん、単に仕事は終わったと普通に過ごしているだけかもしれない。
風邪なら治った。 もう大丈夫だ、という事自体は、早く伝えたい気がする。
でも――気が重い。 どんな顔をして何を話せばいいのか、何故だか心が定まらない。
勿論、礼を言って、次のスケジュールを決めて……なのは判っている。 するべき事に選択肢など無いのに、何故かひどく落ち付かないのだ。
それを鎮める為に、頭の中で扉が開いた後のシミュレーションが始まり、適切な言葉を選ぶ為に自分の中の感情を探ると、その刺激で結局思考は冒頭に戻る。 その繰り返しだった。
「なんだかなー……」
もう何度目とも知れない思考のループの途中で吐息混じりに呟いて、私はことんと餌の箱を置く。
そして、はたと気付いてしまった。
この、金魚達。 うっかりしていた、寝込んでいる間中ずっと餌をあげていなかった。 今更ながら息を呑み、慌てて水槽を観察する。
が、三つの赤い宝石達はいつもと変わらない様子で餌の粒をゆらゆらと追っている。 特に水槽内の水草がついばまれたり、争ったような気配もない。
……そう言えば昨日餌をやった時にも、数日間飢えていたというような必死さは全く見られなかった――
「…………」
はーっ、と、大きな溜息が出る。
安堵と、感謝と、うかつだったという思いと。 そしてどこから生まれたのか自分でもよく判らない、不安にも似た感情の混じった、複雑な溜息。
頭の中の迷路が、また長くなった。
* * *
コンコン。
秋の短い陽が、そろそろ傾き始める。
空気が冷え出す前に、二階に干しておいた布団を取り込んでしまおうか……と、椅子から立ち上がりかけた時。
玄関の木の扉から、硬い音が二つ響いた。
「!!」
心臓がどきんと跳ね上がる。 体などは文字通り飛び上がってしまった。 膝の後ろで鉄製の椅子ががたんと派手な音を立てて躍った。
(お……驚きすぎ、驚きすぎ)
頭の中で自分をなだめ、どきどきと暴れまわる心臓を拳で押さえながら一つ大きく息を吸う。
そして一気に扉の前まで歩いた。 ノブを握り、一拍置いてがちゃりと引く。
「こんにちは」
「どうも」
「良くなられたようですね」
「……ええ、お陰様で」
「何よりです。 よろしければ明日からまたお願いしたいのですが」
「ええ」
「肩慣らしに、軽い狩りにするつもりです。 休んでおいて下さい」
「判ったわ」
言葉数が、いつもと逆だ。
話しながら私の視線はヴォルフの顔とそれ以外をうろうろと行き来し、改めて速くなる鼓動が早く言えと急き立てる。
「それでは、明日」
あっけなく話を終えてしまった彼が、軽く会釈すると背を向けた。 玄関先の数段の階段をとんとんと降りる。
「――あっ!!……、の」
「はい」
私の唐突で間の抜けた呼び声に驚く様子も見せず、彼はするりと振り向いた。 階段の下から、涼しく凪いだ水面のような、でもどこか柔らかい眼差しが私を見上げる。
「あ――。 あ、りがと」
何とか、言えた。
でも、視線は泳いだまま、その上ふてくされたような小さい声しか出なかったのは。
先程まで色々な事をぐちゃぐちゃと考えていた自分の姿が、対照的に静かなその水面に映されているような気がしたから。
「いいえ」
――また、微笑ったのだろうか。
どうしていつも、ちゃんと観察できない時にばかり……
* * *
ゆっくりと、扉を閉めた。
大きな仕事を終えた後のような、重い吐息が漏れる。
胸の奥に、小さな赤い光が見えた気がした。
何かの警告のランプだと、思った。
―――10月13日 雷曜日―――
その街中にあってはあたかも最大にして唯一の山のようにそびえ立つ、北サンドリア、ドラギーユ城。
荘厳かつ威圧感溢れるその建造物へ、私とヴォルフの二人は向かっていた。
「本当に大丈夫ですか」
「平気よ。 行った事がないわけじゃないし、大体バルクルムあたりのモンスターじゃ狩りらしい狩りにもならないでしょ」
気が進まない様子のヴォルフに、私はきびきびと言葉を返す。 実際、私達二人の相手をそこそこにでも出来るようなモンスターは、砂丘にはいない。 その事自体は事実なので、彼はそれについては口を閉ざした。
事の始まりは、昼前に家に来たヴォルフのバルクルム砂丘あたりで狩りをしようと言う提案に私が唱えた異だった。
彼が、どう考えても大した敵のいないその地を選んだのは、少し距離はあるけど危険が少ない事、気温が低くない事、町が近い事……つまり、病み上がりの私を気遣っての妥協案だと解釈したからだ。
「危険があったらすぐに脱出しますから、極力離れないようにお願いします」
「判ってる、大丈夫」
彼の注意を半分はねのけるように、私は背筋を伸ばし、ドラギーユ城正面の広場で飛沫を躍らせる大きな噴水の横を早足に通り過ぎる。 すぐ斜め後ろを普通の歩調でついてくるヴォルフ。
昇ってまもない陽の光と、柔らかい風が髪をなぶる。
体調は万全と言ってよかった。 熱やだるさは全く引きずっていない。
それを示すためにも、私は行き先としてボストーニュ監獄を挙げてみせたのだ。 モンスターの強さも適度で申し分ないはずだし、街からもすぐだ。 何しろ、ドラギーユ城の真下なのだから。
案の定、ヴォルフは渋った。 それはそうだろう、じめじめした地下の監獄などという不健康かつ物騒な狩り場に、諸手を挙げて賛成する訳がない。
それでも私は、砂丘という半端な狩り場に対して頷く事はできなかった。 だってそこでは、私の持てる力の半分も出す事はできないだろうから。
彼が私の前に姿を現してから、かれこれ十日近くが経っている。
振り返ればそれだけの時間が過ぎているのに、残り五万の授業料を貰うだけの成果には遠く及んでいないと、私は感じていた。
勿論、途中で体調を崩してしまったという仕方のない事情はある――いや、だからこそ。 ちゃんとやりたい。
どうすれば「ちゃんと」やった事になるのかは、彼にしか判らないけれど。
「ご用件は」
「監獄のモンスターの掃討です」
「承知致しました。 お気をつけてどうぞ」
城門を守る兵士に用向きを告げ、大儀そうな軋みを響かせて開く、大きな扉をくぐる。 やはり早足で。
* * *
「…………」
赤を基調にした絢爛にして豪華たる輝きに満ちるロビーに両手を広げて迎えられて、私は足を止めた。
頭上で上品な光をこぼすシャンデリア。 見事に活けられたあでやかな花達、繊細な作りの調度品、匠の手になる絵画。 靴を包むつやのある絨緞、どこからか漂う控え目な香。 贅を凝らしたそれらが織り成す、華麗の代名詞のような空間に、思わずほうと溜息が漏れた。
何度来ても――いや、そう何度も来ないからだろうけれど――自然と目と心を奪われてしまう。
そんな非日常に圧倒される私の背後で、重々しく扉の閉まる音がした。
それではっと我に帰り、無意識に音のした方に顔を向けかけて――その途中、すぐ横に。
いつのまにか、真紅の魔装のエルヴァーン。
輪郭線が、無い。
彼の横顔とその背景を視界に捉えた瞬間、唐突にそんな思考が浮かんだ。
この部屋を絵とするならば、同じ絵の具で同時に描き込まれたかのように。
この部屋をジグソーパズルとするならば、当然収まるべきピースのように。
今この扉を抜けて、外から入ってきたのは、私だけだったんじゃないか――
キャッスルという非日常に違和感無く溶け込むその姿を前に、私は一瞬奇妙な錯覚に襲われる。
と。 その秀麗な風貌がつと動き、彼を見上げて一瞬固まっている私の視線をかちん、と捕らえた。 途端に私は、とってつけたようにふいと顔を逸らす。
そう。 昨日から、私はずっとこうだ。
「行きましょう」
が、そんな私の不自然な態度などどこにもひっかけず。 背の高いエルヴァーンはそう言うとすいと前に立って、監獄の入り口へと足を向けた。
絢爛豪華な空間にあっても、全く頓着しない。 むしろその無造作が堂々に裏返り、この部屋を従えているようにさえ見える。
育ちの良さが出ているのか、単なる性格か。 きっと両方だろう。
(……今帰った、とでも言い出しそうだわ)
いつも通り飄々と揺れるその長い白髪を追いながら、私は頭の中でふっと笑って呟いた。
前を歩く大きな背中に、不思議な安心感を覚える。 でもきっと振り返られたら一瞬でそれは消え去って、代わりに不快感が襲うに違いない事も、何故か判る。
――掴めない心の動きは、狩りに埋没させてしまえばいい――
ボストーニュ監獄への硬い階段を降りながら。
自分が初めて、赴く戦いに安らぎを求めている事に気が付いた。
to be continued