テノリライオン
守護者は踊る 4
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次に聴取すべきそのエルヴァーンの後ろ姿を前にして躊躇いを覚える自分を、私は恥じていた。
その原因となったのは勿論、先に過剰なまでの熱弁を振るわれたあのエルヴァーンの黒魔道士である。
彼と同族にして仲間、そしてあの恐ろしいほどに喧嘩っ早かった暗黒騎士のタルタルとも付き合いがあると来れば。
そんな男にささやかな警戒心を抱いてしまうのは――この世界を統治するマスターとしてはあまりに不甲斐ない弱腰ではあるが――致し方ない所ではなかろうか。そう思いたい所だった。
私はかすかに、幾度めとも知れない溜息をつく。
全く、いつから冒険者という人種はこうも反抗的――否、弁ばかりが立つようになってしまったのだろうか。
少々無鉄砲で世間知らずでも、その能動的な性質は主に自身の冒険に、そして世界に対する挑戦に向けて発揮されるものではないのか。
その世界を外から束ねるマスターは彼らの鋭気をぶつける対象ではあり得ず、指導を受ければ従うべき存在――そんな謙虚な認識が、こちらから強制せずとも期待できた、そんな時代があった筈だ。そう、少なくとも天地開闢 の頃は――。
ある集団が、進化を遂げる上での一過程か。少年が通過する反抗期のようなものか。だとすれば守護者として寿 ぎこそすれ、憤りや苛立ちを覚えるなどは狭量というものだろう。それを受け容れるだけの懐も、マスターとして要求される手腕の一つに違いない――と、思うべきだろうか。
ともあれ、私はそんな彼らを見守り、導かねばならない存在である事に変わりはないのだ。超越者の職務は遂行されねばならない。
……とは云ってみるものの。
一方的に感情をぶつけたり立て板に水とばかりに熱弁を振るうような連中と、またしても相対さねばならぬのは少々気が重かった。
類は友を呼ぶとも云う。気を引き締めて臨むに越した事はない。
己を軽く鼓舞し、サルタバルタで唯一海を望む岸壁の上で釣り糸を垂れているその赤いエルヴァーンの背後に、私は降り立った。
* * *
「――――…………」
……まさか、また口が利けないのだろうか。
岸壁の淵にある岩に腰だけで寄りかかり、上等そうな釣り竿を海原に向けていたエルヴァーンは、背後から声を掛けた私を肩越しにちらりと一瞥した――だけで、すぐにその視線をふいと正面に戻してしまった。
私は密かに言葉の継ぎ穂を失う。赤魔道士の証である紅色の装束の背中と、同じく赤い帽子が、温暖な海の青緑色に包まれて映えている。その帽子の後ろからは、長い白髪が一筋流れていた。
―― 失礼する。 少々尋ねたい事があって来た。
口の利けないはずがない。かなり少なかったとは云え、この人物の発言は『我々』の記録にあるのだ。
その記憶を拠り所に私は、毅然とした姿勢を崩すことなく繰り返した。すると。
「どうぞ」
果たして返事が帰ってきた。 しかしそれはひどく短い。まるでこちらに全く頓着していないような、実に余所余所しい態度だ。
これで十分な応えは返した、とでも云わんばかりに、彼の言葉はそれきり続かない。遙か眼下に寄せる波音が、両者の間に充満していく隙間を懸命に埋めているようだった。
……何を企んでいるのだ。
あの黒魔道士とは根本的に異なる、作為による沈黙を前面に押し出す彼。その姿はもはや私を軽んじ、こちらの出方を伺っているようにしか思えない。
白を切るつもりか。 それとも居直るつもりか。
海に釣り糸を垂らしたまま微動だにしないその男の傍らへと、私は決然として歩を進め――その歩みが、ゆっくりと止まる。
サルタバルタでケイン青年の背後を歩き続けたというその男の顔には、一つの表情も乗っていない。しかしその顔が持つ恐ろしいまでの端正さに、私は不覚にも息を呑んでしまっていた。
少し浅黒い肌、刀剣を思わせる鋭角的な目鼻立ち。そしてあの母親がいみじくも使用した言葉――「刺客」。その二つのイメージが私の中でゆっくりと重なりかけ――離れた。
何故ならその刃は、彼の纏う空気が持つ見えない鞘にぴったりと収められていたから。
引き結ばれた薄い唇。むっつりとしているように見えなくもない。しかしその上にある静かな眼差しは不機嫌と云うよりも無為無心、まるで世を見限った仙人――と云うにはあまりに若く、その風貌が万人に対し魅力的に過ぎるが――を思わせる。
そしてそこには殺気や怒気、あるいは狡猾さと云った負のエネルギーは毛ほども感じられない。かと云って善意に充ち満ちた聖人のオーラがあるかと云えばさにあらず。
これだけの美貌を備えながら、この男。驚くほどに、その面(おもて)から何も主張していないのだ。
見る者が見れば持ち腐れだと妬むだろう。対人関係に於いてほぼあらゆる望みを叶えてしまいそうな魅力をその容姿に授かりながら、まるで他者というものを求めず、あまつさえ自己主張からして泰然と放棄しているかのような、こんな存在は。
他者の評価や賞賛をまるで必要としていないこの男の印象を、それでも敢えて何かに例えるとするならば……彫像、か。
――……二日前、サルタバルタにて貴殿に尾行されたという冒険者の訴えが届いている。
居座る静寂に加速していく思考の羅列をかき分け、私は告げるべき言葉を口に乗せる。自分の声ではないような気がした。
――現時点でそれ自体を違法行為と目している訳ではない。包み隠さず話してもらいたいのだが――この件について、心当たりはあるか。
「いいえ」
長い白髪のエルヴァーンは、眉ひとつ動かさずにさらりとそう答えた。その深いバリトンの響きの後には、また静寂。
その時分は何をしていました、とか、何か事件があったのですか、とか、添えられて然るべき言葉は何もない。
彼の持つ釣り竿も、まるで彼の眼差しそのもののようにゆったりと水平線を指したまま、ぴくりともしない。
執拗に訪れる沈黙。 これでは埒が明かない。私はその静寂に抗うように、焦点を絞った問いを重ねる。
――では、貴殿は二日前の午後、西サルタバルタの地に居た。これに相違はないか。
「ええ」
いよいよ短い言葉。この男、三文字以上の言葉を使う気がないのか。
あの恐ろしくにこやかだった、そして機関銃のようだったエルヴァーンの対極を行くが如き物腰。表情は常に能面が貼り付いたように不動、そして必要以上の言葉は一切吐かない。
しかし、サルタバルタに居た事自体はどうやら認めるようだ。
白を切るつもりならば、それにも首を横に振ればよいものを……否、所在情報についてはこの私を誤魔化し得ないと知っての計略か。
何しろあの黒魔道士の仲間、油断は禁物だ。また足下をすくわれてはたまったものではない。埋められる外堀は全て埋めてしまおう。私は毅然として問い質す。
―― ならば思い出してもらいたい。徒歩にてホルトトからギデアスに向かっていたヒューム族の戦士の若者が、背後から尾けてきた者だと云って貴殿の風貌特徴を述べた。彼はその者に長時間無言にて背後を忍び歩かれ、大層空恐ろしく不安な思いをしたと云う。更に、その時間帯にサルタバルタに居たエルヴァーンの赤魔道士は貴殿のみであったことが調査により既に判明しているのだ。覚えがあるはず。 申し開きしてみよ。
「………………」
無言のまま、赤魔道士の整った眉がごく僅かに寄った。まるで気持ちの良い午睡を妨げられたかのような空気が、薄く醸し出される。その動作で記憶を探っているのか、それともただ私の質疑に対する不快感が表出しただけなのか。
いずれにしても――ようやくこの男を動かす事に成功した――ようだ。
が、最初に彼の本格的な動作を呼び起こす事ができたのは、絶対者 たる私ではなく、一本の細い釣り竿であった。
彼の次なる動きを全身で待ち受ける私をあざ笑うかのように、それまで素知らぬ顔で海を向いていた太公望が、くいと頭を垂れる。
赤魔道士はその表情のまま、彼の相棒のために無造作に腕に力を込めた。体重を乗せる風もなく流れるように差し上げられた腕に従い、さしたる抵抗もなくしなやかな太公望は高々と天を向く。どうやら糸の先にいるのは小物のようだった。
「……ああ」
穏やかな海から踊るように釣り上げられた魚を手に取ると針から外し、身を屈めて地に置かれた魚籠 にそれを収めながら、赤魔道士は穏やかに口を開いた。
「いましたね、そう言えば」
云いながら、悠然と針の先に餌を付けなおしている。それを終えて樫色のグリップを手にすると、まるで指揮でもするように彼は、ふうると太公望を宙にしならせた。
軽々と操られる釣り糸は蜂が飛ぶように優雅な流線を描き出すと、ゆっくり一本の直線に戻りながら眼下の海原へと吸い込まれていく。
その間、やはり彼のその視線はこちらを向かない。やっと三文字以上の言葉を紡いだと思った口も、またふっつりと閉じてしまっていた。
まるで釣り糸を垂れ直し、得物を釣り上げる前と寸分違わぬ姿勢に戻るその短い間に、あっさりと私の存在を意識から追い出してしまったかのように。
……断っておくが、私は彼の十年来の友人などではないのだ。
いましたね、というたった一言だけを聞いて、その裏で省略されているであろう諸々の内容を察する力も義理も持ち合わせてはいない。この男の性分なぞ与り知らぬ。そもそも私がせねばならないのは事情聴取だ。穏やかな海を臨んでの閑々とした世間話などでは断じてない。
喋ってもらわねばならない。その整った唇を動かしてもらわねばならない。為に私は三度口火を切る。
受け容れ難い敗北感のようなものを、胸中に覚えながら。
――その青年がギデアスへと向かう道程で、貴殿に尾行されている気配を感じたと云うのだ。直接危害を加えられた訳ではないにせよ、尾行などという穏便ならざる行為は秩序を乱し人心を脅かすもの。それを排除するのが我等マスターの責務である。隠し立ては無益であり、長じては貴殿の為にならぬと忠告しておく。聞かせてもらうとしよう。どのような意図を持って、彼の後を尾けたのだ。
「……尾けていませんよ」
詰問に近い語調で揺さぶりをかけたつもりの私の言葉にも微動だにせず――まさに文字通り、微動だにせず――それがさも当然の事のように、尚も八面玲瓏 の赤魔道士は無感情に返答する。
しかし今回は流石に言葉足らずだと思ったのだろうか。その無色の眼差しを海に向けたままで、彼は続けた。
「あの近くに少々用事があっただけです。行く手を一人の青年が歩いていた事は記憶にありますが」
それだけの事です――と静かな声で云って、彼はまた黙る。それもまた当然のように。 私は踏み込む。
―― ならばその用事とは。
「野暮用です」
放り捨てるような一言で答え、彼はまた黙る。それもまた当然のように。
穏やかな心持ち――とは到底云えなかった。
危惧していたような過剰で破天荒な態度こそ取られなかったものの、かと云ってこうまでにべもない態度であしらわれては、そうおめおめと納得できようもない。むしろ更なる警戒心と不信感が募っていくばかりだ。
心証、というものを考慮することがないのだろうか、この男は。
――では、尾行されたというのはその者の考え違いであると、貴殿は主張するのか。
「ええ」
――同行者や証拠物件など、それを証明するものは。
「特には」
―― その上で貴殿は、私に信じろと?
「ええ」
―― 無茶な話だとは思わぬか。
「…………」
――そもそもその青年が背に感じたという威圧感を、貴殿は一体どのように――
畳み掛けるようにそこまで云って、私の言葉はふつりと止まった。
暖かい潮風が、堅固な赤い鎧の隙間を吹き抜ける。
同じ風が、目の前のエルヴァーンの長い白髪と服の裾をふわりとなびかせた。
僅かにはためいた深紅の帽子のつばから覗く切れ長の目は、それだけ見ればまるで剃刀のように鋭い。
柔らかな風を受けながらも、麗しいまま能面のように動かぬ表情。高い背丈、無駄な付属物のない体躯、動作、言葉。
親しみ、という単語からこれほどまでに遠い存在も珍しい。
そのあまりか、魚籠に収まった魚達が、供物にさえ見えた。
ただの釣りをしていてこの調子だ。
この人物が、この風貌で黙々と後ろを歩いていたならば。更にそれが、地下迷宮で無数のモンスターに追われるなとどいう恐怖を味わった直後となれば尚更。
臆病で気弱な青年は想像力を逞しくし、一人震え上がってしまうのではなかろうか。
「……まあ、近くには居ない方がいいとは思っていましたが」
と、唐突にぽつりと漏らした彼の言葉が、風に乗って私の耳に届いた。
それはどういう事か――と尋ねてみた所で、ろくな返事は帰って来まい。不本意ながら、短時間で私にも免疫がついてしまった。
いつのまにかひょこひょこと足下に寄ってきた小さな白いマンドラゴラが、覗き込むようにして私を見上げていた。まるで労られているような励まされているような複雑な気分になりつつ、私は一人西サルタバルタの地形を頭に浮かべる。
ホルトト遺跡群から、ギデアスまでの道のり。その道中にあるものと云えば――アウトポストか。
しかしあれは、せいぜいシグネットを付与されたり、所属国に向けた空間移動の利便の為にある拠点だ。周囲が無人であることを望むような用件があるとは考えづらい。
強いて探すならば、遠征軍 が――獣人の波状攻撃を防ぐ為、大量の冒険者が派遣されての大規模な戦闘の舞台となる事が稀にある。そこでは長く激しい乱戦が繰り広げられる為、無関係な者が間近に居ては危険とも云える――が。
私はいつしか逸れていた視線を、目の前のエルヴァーンに戻す。
混乱がひしめき怒号が飛び交う、その人と獣のぶつかり合いに彼が参加したとは、今の私にはどうしても思えなかった。
この男に粗野な戦乱は似合わない。それ以前に、そもそもあの時間帯にガリスンなどが発生していたかどうかは不明だ。
となると――その他にあるのは――
星降る丘。
ぱしゃり、と水音。
今度は少し大きな魚が、魅入られたように彼の手の内へ吸い込まれていく。
非の打ち所のない外見を持つエルヴァーンは、ただそこに居るだけで、のどかなサルタバルタの風景を美しく引き立たせる。
何故だか疑いはなかった。あれほど渦巻いていた苛立ちも、いつの間にか熟練のシーフに盗まれてしまったかのように鳴りを潜めている。
星降る丘。柔らかな緑草に覆われ、夜半になれば数え切れないほどの夜光虫が地表を舞い、統べる月の下で天と地の境目を見失うような景色に包まれるあの小高い丘。
そこにこの男が一人居て、何の不思議があろうか。
草原に花が咲くのに理由が要らぬように。
美術館に神像があるのに理由が要らぬように――
ひゅう、と。
不意に吹き寄せた潮の香りに、はっと我を取り戻す。
何を――大仰な事を、私は。
この男はただの冒険者ではないか。支配者たるマスターに対しても全く良識を弁えぬ、無愛想で扱いづらいばかりのエルヴァーンだ。
……もういい。
私は内心で首を振る。暖簾に腕押し、糠に釘とはこの事だ。ここはひとまず聴取を終えてしまおう。
星降る丘で、あるいはその近辺で。この男が何をしていたのか、それを追求する事がひどく無粋で意味のない事に思えてきた。
唯一の収穫と云えば、終始一貫彼のたたずまいに虚偽の色が見えない――代わりに協力の姿勢も皆無だが――事だけであるが、この場はそれでよしとするしかあるまい。そんな心持ちに、なってしまっていた。
―― ……了解した。 協力、感謝する。
定型文じみた私の言葉が帯びるかすかな溜息色は、疲労にも似た倦怠を押し隠しているせいだ。
それにも返ってくるのは、相も変わらず無愛想で傍若無人な沈黙だった。それでもその沈黙の中に、ほんの吐息一つほどの首肯の気配が混じっていたように感じたのは、私の希望的観測かもしれない。
私は踵を返す。これ以上長居する理由も、その気持ちもない。
地を蹴りもせずふわりと宙に浮き、まっすぐに青い虚空を目指す――手前で、ついに最後までこちらを見ようともしなかった傲慢な男に最後の一瞥をくれるべく、私は肩越しに彼を振り返った。
初めと同じように、最後と同じように、やはり静かに海を向いたままの赤魔道士。
が、そこに一つだけ、違いを見つけた。
赤い帽子の影から覗く整った口元が、言葉なしに――しかしあくまで上品げに――くわ、と開いていた。
私は思う。
この男――眠かった、のか?
to be continued
その原因となったのは勿論、先に過剰なまでの熱弁を振るわれたあのエルヴァーンの黒魔道士である。
彼と同族にして仲間、そしてあの恐ろしいほどに喧嘩っ早かった暗黒騎士のタルタルとも付き合いがあると来れば。
そんな男にささやかな警戒心を抱いてしまうのは――この世界を統治するマスターとしてはあまりに不甲斐ない弱腰ではあるが――致し方ない所ではなかろうか。そう思いたい所だった。
私はかすかに、幾度めとも知れない溜息をつく。
全く、いつから冒険者という人種はこうも反抗的――否、弁ばかりが立つようになってしまったのだろうか。
少々無鉄砲で世間知らずでも、その能動的な性質は主に自身の冒険に、そして世界に対する挑戦に向けて発揮されるものではないのか。
その世界を外から束ねるマスターは彼らの鋭気をぶつける対象ではあり得ず、指導を受ければ従うべき存在――そんな謙虚な認識が、こちらから強制せずとも期待できた、そんな時代があった筈だ。そう、少なくとも天地
ある集団が、進化を遂げる上での一過程か。少年が通過する反抗期のようなものか。だとすれば守護者として
ともあれ、私はそんな彼らを見守り、導かねばならない存在である事に変わりはないのだ。超越者の職務は遂行されねばならない。
……とは云ってみるものの。
一方的に感情をぶつけたり立て板に水とばかりに熱弁を振るうような連中と、またしても相対さねばならぬのは少々気が重かった。
類は友を呼ぶとも云う。気を引き締めて臨むに越した事はない。
己を軽く鼓舞し、サルタバルタで唯一海を望む岸壁の上で釣り糸を垂れているその赤いエルヴァーンの背後に、私は降り立った。
* * *
「――――…………」
……まさか、また口が利けないのだろうか。
岸壁の淵にある岩に腰だけで寄りかかり、上等そうな釣り竿を海原に向けていたエルヴァーンは、背後から声を掛けた私を肩越しにちらりと一瞥した――だけで、すぐにその視線をふいと正面に戻してしまった。
私は密かに言葉の継ぎ穂を失う。赤魔道士の証である紅色の装束の背中と、同じく赤い帽子が、温暖な海の青緑色に包まれて映えている。その帽子の後ろからは、長い白髪が一筋流れていた。
―― 失礼する。 少々尋ねたい事があって来た。
口の利けないはずがない。かなり少なかったとは云え、この人物の発言は『我々』の記録にあるのだ。
その記憶を拠り所に私は、毅然とした姿勢を崩すことなく繰り返した。すると。
「どうぞ」
果たして返事が帰ってきた。 しかしそれはひどく短い。まるでこちらに全く頓着していないような、実に余所余所しい態度だ。
これで十分な応えは返した、とでも云わんばかりに、彼の言葉はそれきり続かない。遙か眼下に寄せる波音が、両者の間に充満していく隙間を懸命に埋めているようだった。
……何を企んでいるのだ。
あの黒魔道士とは根本的に異なる、作為による沈黙を前面に押し出す彼。その姿はもはや私を軽んじ、こちらの出方を伺っているようにしか思えない。
白を切るつもりか。 それとも居直るつもりか。
海に釣り糸を垂らしたまま微動だにしないその男の傍らへと、私は決然として歩を進め――その歩みが、ゆっくりと止まる。
サルタバルタでケイン青年の背後を歩き続けたというその男の顔には、一つの表情も乗っていない。しかしその顔が持つ恐ろしいまでの端正さに、私は不覚にも息を呑んでしまっていた。
少し浅黒い肌、刀剣を思わせる鋭角的な目鼻立ち。そしてあの母親がいみじくも使用した言葉――「刺客」。その二つのイメージが私の中でゆっくりと重なりかけ――離れた。
何故ならその刃は、彼の纏う空気が持つ見えない鞘にぴったりと収められていたから。
引き結ばれた薄い唇。むっつりとしているように見えなくもない。しかしその上にある静かな眼差しは不機嫌と云うよりも無為無心、まるで世を見限った仙人――と云うにはあまりに若く、その風貌が万人に対し魅力的に過ぎるが――を思わせる。
そしてそこには殺気や怒気、あるいは狡猾さと云った負のエネルギーは毛ほども感じられない。かと云って善意に充ち満ちた聖人のオーラがあるかと云えばさにあらず。
これだけの美貌を備えながら、この男。驚くほどに、その面(おもて)から何も主張していないのだ。
見る者が見れば持ち腐れだと妬むだろう。対人関係に於いてほぼあらゆる望みを叶えてしまいそうな魅力をその容姿に授かりながら、まるで他者というものを求めず、あまつさえ自己主張からして泰然と放棄しているかのような、こんな存在は。
他者の評価や賞賛をまるで必要としていないこの男の印象を、それでも敢えて何かに例えるとするならば……彫像、か。
――……二日前、サルタバルタにて貴殿に尾行されたという冒険者の訴えが届いている。
居座る静寂に加速していく思考の羅列をかき分け、私は告げるべき言葉を口に乗せる。自分の声ではないような気がした。
――現時点でそれ自体を違法行為と目している訳ではない。包み隠さず話してもらいたいのだが――この件について、心当たりはあるか。
「いいえ」
長い白髪のエルヴァーンは、眉ひとつ動かさずにさらりとそう答えた。その深いバリトンの響きの後には、また静寂。
その時分は何をしていました、とか、何か事件があったのですか、とか、添えられて然るべき言葉は何もない。
彼の持つ釣り竿も、まるで彼の眼差しそのもののようにゆったりと水平線を指したまま、ぴくりともしない。
執拗に訪れる沈黙。 これでは埒が明かない。私はその静寂に抗うように、焦点を絞った問いを重ねる。
――では、貴殿は二日前の午後、西サルタバルタの地に居た。これに相違はないか。
「ええ」
いよいよ短い言葉。この男、三文字以上の言葉を使う気がないのか。
あの恐ろしくにこやかだった、そして機関銃のようだったエルヴァーンの対極を行くが如き物腰。表情は常に能面が貼り付いたように不動、そして必要以上の言葉は一切吐かない。
しかし、サルタバルタに居た事自体はどうやら認めるようだ。
白を切るつもりならば、それにも首を横に振ればよいものを……否、所在情報についてはこの私を誤魔化し得ないと知っての計略か。
何しろあの黒魔道士の仲間、油断は禁物だ。また足下をすくわれてはたまったものではない。埋められる外堀は全て埋めてしまおう。私は毅然として問い質す。
―― ならば思い出してもらいたい。徒歩にてホルトトからギデアスに向かっていたヒューム族の戦士の若者が、背後から尾けてきた者だと云って貴殿の風貌特徴を述べた。彼はその者に長時間無言にて背後を忍び歩かれ、大層空恐ろしく不安な思いをしたと云う。更に、その時間帯にサルタバルタに居たエルヴァーンの赤魔道士は貴殿のみであったことが調査により既に判明しているのだ。覚えがあるはず。 申し開きしてみよ。
「………………」
無言のまま、赤魔道士の整った眉がごく僅かに寄った。まるで気持ちの良い午睡を妨げられたかのような空気が、薄く醸し出される。その動作で記憶を探っているのか、それともただ私の質疑に対する不快感が表出しただけなのか。
いずれにしても――ようやくこの男を動かす事に成功した――ようだ。
が、最初に彼の本格的な動作を呼び起こす事ができたのは、
彼の次なる動きを全身で待ち受ける私をあざ笑うかのように、それまで素知らぬ顔で海を向いていた太公望が、くいと頭を垂れる。
赤魔道士はその表情のまま、彼の相棒のために無造作に腕に力を込めた。体重を乗せる風もなく流れるように差し上げられた腕に従い、さしたる抵抗もなくしなやかな太公望は高々と天を向く。どうやら糸の先にいるのは小物のようだった。
「……ああ」
穏やかな海から踊るように釣り上げられた魚を手に取ると針から外し、身を屈めて地に置かれた
「いましたね、そう言えば」
云いながら、悠然と針の先に餌を付けなおしている。それを終えて樫色のグリップを手にすると、まるで指揮でもするように彼は、ふうると太公望を宙にしならせた。
軽々と操られる釣り糸は蜂が飛ぶように優雅な流線を描き出すと、ゆっくり一本の直線に戻りながら眼下の海原へと吸い込まれていく。
その間、やはり彼のその視線はこちらを向かない。やっと三文字以上の言葉を紡いだと思った口も、またふっつりと閉じてしまっていた。
まるで釣り糸を垂れ直し、得物を釣り上げる前と寸分違わぬ姿勢に戻るその短い間に、あっさりと私の存在を意識から追い出してしまったかのように。
……断っておくが、私は彼の十年来の友人などではないのだ。
いましたね、というたった一言だけを聞いて、その裏で省略されているであろう諸々の内容を察する力も義理も持ち合わせてはいない。この男の性分なぞ与り知らぬ。そもそも私がせねばならないのは事情聴取だ。穏やかな海を臨んでの閑々とした世間話などでは断じてない。
喋ってもらわねばならない。その整った唇を動かしてもらわねばならない。為に私は三度口火を切る。
受け容れ難い敗北感のようなものを、胸中に覚えながら。
――その青年がギデアスへと向かう道程で、貴殿に尾行されている気配を感じたと云うのだ。直接危害を加えられた訳ではないにせよ、尾行などという穏便ならざる行為は秩序を乱し人心を脅かすもの。それを排除するのが我等マスターの責務である。隠し立ては無益であり、長じては貴殿の為にならぬと忠告しておく。聞かせてもらうとしよう。どのような意図を持って、彼の後を尾けたのだ。
「……尾けていませんよ」
詰問に近い語調で揺さぶりをかけたつもりの私の言葉にも微動だにせず――まさに文字通り、微動だにせず――それがさも当然の事のように、尚も
しかし今回は流石に言葉足らずだと思ったのだろうか。その無色の眼差しを海に向けたままで、彼は続けた。
「あの近くに少々用事があっただけです。行く手を一人の青年が歩いていた事は記憶にありますが」
それだけの事です――と静かな声で云って、彼はまた黙る。それもまた当然のように。 私は踏み込む。
―― ならばその用事とは。
「野暮用です」
放り捨てるような一言で答え、彼はまた黙る。それもまた当然のように。
穏やかな心持ち――とは到底云えなかった。
危惧していたような過剰で破天荒な態度こそ取られなかったものの、かと云ってこうまでにべもない態度であしらわれては、そうおめおめと納得できようもない。むしろ更なる警戒心と不信感が募っていくばかりだ。
心証、というものを考慮することがないのだろうか、この男は。
――では、尾行されたというのはその者の考え違いであると、貴殿は主張するのか。
「ええ」
――同行者や証拠物件など、それを証明するものは。
「特には」
―― その上で貴殿は、私に信じろと?
「ええ」
―― 無茶な話だとは思わぬか。
「…………」
――そもそもその青年が背に感じたという威圧感を、貴殿は一体どのように――
畳み掛けるようにそこまで云って、私の言葉はふつりと止まった。
暖かい潮風が、堅固な赤い鎧の隙間を吹き抜ける。
同じ風が、目の前のエルヴァーンの長い白髪と服の裾をふわりとなびかせた。
僅かにはためいた深紅の帽子のつばから覗く切れ長の目は、それだけ見ればまるで剃刀のように鋭い。
柔らかな風を受けながらも、麗しいまま能面のように動かぬ表情。高い背丈、無駄な付属物のない体躯、動作、言葉。
親しみ、という単語からこれほどまでに遠い存在も珍しい。
そのあまりか、魚籠に収まった魚達が、供物にさえ見えた。
ただの釣りをしていてこの調子だ。
この人物が、この風貌で黙々と後ろを歩いていたならば。更にそれが、地下迷宮で無数のモンスターに追われるなとどいう恐怖を味わった直後となれば尚更。
臆病で気弱な青年は想像力を逞しくし、一人震え上がってしまうのではなかろうか。
「……まあ、近くには居ない方がいいとは思っていましたが」
と、唐突にぽつりと漏らした彼の言葉が、風に乗って私の耳に届いた。
それはどういう事か――と尋ねてみた所で、ろくな返事は帰って来まい。不本意ながら、短時間で私にも免疫がついてしまった。
いつのまにかひょこひょこと足下に寄ってきた小さな白いマンドラゴラが、覗き込むようにして私を見上げていた。まるで労られているような励まされているような複雑な気分になりつつ、私は一人西サルタバルタの地形を頭に浮かべる。
ホルトト遺跡群から、ギデアスまでの道のり。その道中にあるものと云えば――アウトポストか。
しかしあれは、せいぜいシグネットを付与されたり、所属国に向けた空間移動の利便の為にある拠点だ。周囲が無人であることを望むような用件があるとは考えづらい。
強いて探すならば、
私はいつしか逸れていた視線を、目の前のエルヴァーンに戻す。
混乱がひしめき怒号が飛び交う、その人と獣のぶつかり合いに彼が参加したとは、今の私にはどうしても思えなかった。
この男に粗野な戦乱は似合わない。それ以前に、そもそもあの時間帯にガリスンなどが発生していたかどうかは不明だ。
となると――その他にあるのは――
星降る丘。
ぱしゃり、と水音。
今度は少し大きな魚が、魅入られたように彼の手の内へ吸い込まれていく。
非の打ち所のない外見を持つエルヴァーンは、ただそこに居るだけで、のどかなサルタバルタの風景を美しく引き立たせる。
何故だか疑いはなかった。あれほど渦巻いていた苛立ちも、いつの間にか熟練のシーフに盗まれてしまったかのように鳴りを潜めている。
星降る丘。柔らかな緑草に覆われ、夜半になれば数え切れないほどの夜光虫が地表を舞い、統べる月の下で天と地の境目を見失うような景色に包まれるあの小高い丘。
そこにこの男が一人居て、何の不思議があろうか。
草原に花が咲くのに理由が要らぬように。
美術館に神像があるのに理由が要らぬように――
ひゅう、と。
不意に吹き寄せた潮の香りに、はっと我を取り戻す。
何を――大仰な事を、私は。
この男はただの冒険者ではないか。支配者たるマスターに対しても全く良識を弁えぬ、無愛想で扱いづらいばかりのエルヴァーンだ。
……もういい。
私は内心で首を振る。暖簾に腕押し、糠に釘とはこの事だ。ここはひとまず聴取を終えてしまおう。
星降る丘で、あるいはその近辺で。この男が何をしていたのか、それを追求する事がひどく無粋で意味のない事に思えてきた。
唯一の収穫と云えば、終始一貫彼のたたずまいに虚偽の色が見えない――代わりに協力の姿勢も皆無だが――事だけであるが、この場はそれでよしとするしかあるまい。そんな心持ちに、なってしまっていた。
―― ……了解した。 協力、感謝する。
定型文じみた私の言葉が帯びるかすかな溜息色は、疲労にも似た倦怠を押し隠しているせいだ。
それにも返ってくるのは、相も変わらず無愛想で傍若無人な沈黙だった。それでもその沈黙の中に、ほんの吐息一つほどの首肯の気配が混じっていたように感じたのは、私の希望的観測かもしれない。
私は踵を返す。これ以上長居する理由も、その気持ちもない。
地を蹴りもせずふわりと宙に浮き、まっすぐに青い虚空を目指す――手前で、ついに最後までこちらを見ようともしなかった傲慢な男に最後の一瞥をくれるべく、私は肩越しに彼を振り返った。
初めと同じように、最後と同じように、やはり静かに海を向いたままの赤魔道士。
が、そこに一つだけ、違いを見つけた。
赤い帽子の影から覗く整った口元が、言葉なしに――しかしあくまで上品げに――くわ、と開いていた。
私は思う。
この男――眠かった、のか?
to be continued