テノリライオン

06-12-06

最終更新:

corelli

- view
管理者のみ編集可
#blognavi
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」読了。



冗長、大仰、誇張。
数ページも延々と続くセリフ、喜んでは叫び悲しんではわめく人々、あきれるほどに極端な表現。
エンターテインメントというものに著しく欠ける、これは数あるロシア文学の一つにして至高。

金にも女にもだらしなくがめつく、親らしい事はなにひとつしない酒飲みの父フョードルは、酔いから覚めるごとに己の不明を嘆く。
矮小さと高貴さを併せ持つ長兄ドミートリイは、着せられた無実の罪を訴える。
冴え渡る頭脳の奥に不安を抱える次兄イワンは、神の無力さを声高に叫ぶ。
彼らがその思いを迸らせる相手は、修道士にして末弟のアレクセイ。 この物語の主人公だ。

アレクセイは嘘をつかない。
それは素直だとか人がいいとか、そんなありきたりなレベルの話ではなく。
彼の言葉は、それが正であれ負であれ、彼の心の中にあるものを、決して偽らないのだ。
だから誰もが彼に縋る。 因縁からまり思惑うごめくどうしようもない愛憎劇の中、まるで疲れ果てた遭難者が流木にしがみつくように、一様に彼らはアレクセイに問う。
自分はこう思うんだ、本当はこうだったんだ、そんなつもりじゃなかったんだ、自分の望みはこうなんだ。なあアレクセイ、自分は正しいか? それとも間違っているか? どう思うアレクセイ、私はお前のことが好きなんだ、お前は嘘をつかない、お前の言うことなら信じられる、お前は私の事が好きか――?

登場人物たちのセリフは、概してすさまじく長い。 偏執的とも言えるほどにとめどなく執拗に執拗に綴られる、彼らの苦悩や自己主張、懺悔に絶望に希望。 それらをアレクセイは静かに聞く。
そしてその末にもたらされる、僅か数文字。 彼の「はい」そして「いいえ」は、それを得るために綴られた幾百幾千の文字に、たったの一撃で揺るぎなき救いを与えるのだ。
自分の訴えが肯定されるか否かは問題ではない。 重要なのは内容にあらず、アレクセイが自らの問いに答えをくれたという、その一点。 彼らはその言葉を胸に奮い立ち、また続く物語を歩んでいくのだ。
何故なら、アレクセイの言葉に、嘘はないから――。

どんなに「いい人」でも、いや「いい人」だからこそ、心と言葉の間にかけられるフィルターというのがある。
相手を傷つけたくない、問題をこじらせたくない、余計な心配をかけたくない。 だから少し、言葉に「手心」を加えてしまう。
しかし、いかに美しい理由があったとしても、それはやはり「嘘」である。 嘘も方便――それこそ方便だ。 心と違うなら、言葉をねじ曲げていることに変わりはない。 例え優しさの顕れであっても、「真意」でない事に変わりはない。
「嬉しいけど、きっと気を遣って言ってくれてるんだよね――」そんなかすかなしこりが、聞く者を新たな孤独に突き落とす事もままある。

しかし、それをも飛び越える存在がいたらどうだろうか。
あなたの考えを怖いと思いました。 あなたの言葉を悲しく思いました。
そんな事まで包み隠さず言ってくれる、それでもなお強く自分を信じてくれる。 己の全てをさらけ出し、さらけ出された全てがまるで天使のように清い。 そんな存在がいたらどうだろうか。
それがアレクセイだ。
登場人物たちの冗長極まる語りの中で、いやそれだからこそ、誠実で短い彼の言葉が放つ強烈な光は、幾度も私の胸を焦がした。
あんな人間が目の前にいたら、きっと一発で惚れてしまうだろうと思うくらいに。

文学史上最高傑作の一つと言われるこの作品。
有名な「大審問官」の章は、息をするのを忘れて読んだ。
裁判の後、アレクセイが子供達と語り合う場面は、読んでいるのが電車の中でなかったら泣いていた。

雷に打たれるような衝撃がいくつもある、「強い」小説である。


カテゴリ: [読書] - &trackback() - 2006年12月06日 21:33:34
名前: コメント:
#blognavi
記事メニュー
ウィキ募集バナー