テノリライオン

野ばら 6

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匿名ユーザー

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 地下の湿気を含んで冷たく澱む空気が、私の意識をデフォルトに引き戻してくれた。
 ぴりぴりと走る緊張感に、喜んで感覚器官を委ねる。

「とりあえず、身を隠せる所まで移動しましょう」
「ん」

 まずは敵からの不意打ちを受けにくい場所を探さなければならない。 私とヴォルフはそれぞれ消音の呪文を自分に施し、ボストーニュ監獄の奥を目指して歩き出した。


 聞こえるはずの音が聞こえない、という違和感に真綿で耳を覆われるような感覚を味わいながら、幾つめかの角を曲がった時。

(――――)
 静かにヴォルフが立ち止まり、肩越しに私を振り返った。
 それを受けて周囲に目を走らせる。 どうやらこの辺りはモンスターの縄張りから外れるようだ。 最後にすれ違った魔犬は手前の角のずっと向こう、ここには何も居ない。
 私は一つ頷いて、消音の呪文を振り払った。
 守護魔法を唱え始める彼の前を横切り、その先のT字路の向こうをそっと伺うと、人の頭ほどもある大きさのコウモリが数匹、湿った羽音を立てて薄暗い空間を漂っていた。

「まずあれね」
 小声でそう言いながら一歩下がる。 と同時に、彼の唱えた護りの呪文が完成し、私を包んだ。 その青白い光に一瞬驚き、 同時に気付く。
 ……そういえば私、人に守護の呪文をかけてもらった事なんか、あったかしら。
 続けて彼の口から魔力増幅の呪文が低く響き始める。

 ……っと、いけない。 余計な事は考えるな――

 少し慌てて、同じ呪文を自分に施す。 いつもの狩りと一緒。 思い出せ。
「呼びます」
 ヴォルフのそう告げる声で、私は静かに腰から剣を抜いた。 その重みが心地よい。
 同じように抜刀する彼が数歩進み、すっと通路の角から僅かに体を滑り出させると、ぴんと弾くように短い弱体呪文をコウモリに向けて放った。
 途端にキィキィという耳障りな啼き声を上げて、標的にされた黒い塊がぎくしゃくと飛来する。 ヴォルフが素早く戻って通路の中程まで後退した。 私もそれに倣う。
 鋭い牙を剥き出すコウモリが、ちょっかいを出してきたエルヴァーンへと一直線に襲い掛かる。


  *  *  *


 私の剣は結果、ほとんど振られることがなかった。
 私よりも数段重く巧みなヴォルフの打撃が敵を引き付け続けたということもあるが。 そうと言わなくても、彼が回復魔法以外の呪文を唱えるのを控えていたのだ。
 必然的に諸々の攻撃呪文、補助・弱体呪文などは私が受け持つことになり、それだけではモンスターの注意を引くには中々至らない。
 意識的に使っていた炎系の攻撃呪文に苛立った敵が、私に向き直り襲い掛かることが時折あったが。 その都度ヴォルフが私を癒して見せるなどして、その怒りの矛先をあっさり持っていってしまう。

 ……楽だ。

 数匹のコウモリを次々と倒しながら、いつしかそんな暗黙のセオリーが場に確立されているのを知った私は、思った。
 普段一人でしている戦いでは、自分のダメージの回復などが煩わしく、またそこが駆け引きになったりもする。 それが無い――誰かが、ダメージを分け合ってくれることが、これ程楽だとは。
 誰かが、居ることが――――


* * *


 何匹目かのコウモリを地に落とした所で、私達は壁際に寄り少し休息を取った。 ひんやりとした石壁に背を預けて腰を下ろし、敵が残した戦利品をカバンの中で整理しながらぼんやりと考える。

 ――当然、私の魔法を観察する為と、私に体力的な負荷をかけない為の立ち回りなんだろうな。 敵の攻撃を捌きながら、魔法の状態も見てるのかしら。
 私もそれなりにはダメージを与えてるのに、ほとんど標的がこちらに移らないのはどうしてだろう。 たまに唱えてる色々な魔法で調整してるんだろうか。

 ……もしかして、私の方が教わる事が多いんじゃないかしら。
 そんな思いつきにふと後ろめたいような気持ちになり、傍らの赤魔道士をちらりと盗み見る。

 手を伸ばせば届く、他人ではない近さ。 しかし手を伸ばさなければ届かない、親しいとは到底言えない遠さ。
 恐ろしく繊細な距離のその向こうで、伸ばした背で石壁にもたれ、静かに瞼を閉じ片膝を立てたエルヴァーンが座っている。 地下道のどこからか響く風鳴りと小さな水音が、二人の間の空間を密に埋め立てていた。
 他には、何も聞こえない。 何も動かない。 きっと、動いているのは、私の思考だけ――

「……そろそろ、いいかしら」
 取り止めのない物思いをすっぱりと打ち切りながら、私は立ち上がった。 はい、と腰を上げるヴォルフ。
「連れて来る」
 彼が進み出る前にそう言うと、私は剣を抜いてT字路の角に寄った。

 ずっと庇われてるばかりじゃ、嫌だ。 何か、役に立ちたい。 そう思っていた。
 彼の修養が目的とはいえ、これだけ楽に不安なく狩りができるのは、彼の力によるものだ。 単なる足手まといのような存在のまま終わるのだけは避けたいと思った。

 そんな安心という名の雑念が、原因だったのかもしれない。

 角からその先の通路をそっと覗き見ると、大きなコウモリが一匹、ふらふらと羽ばたいている。 仕掛けてしまおう。
 先程まで彼がしていたのと同じように、短い呪文を敵に放つ。
「キィ!」
 すぐさま黒い塊は反応し、私の方へとその羽音を――

「退いて!」
 視界を向けていたのとは逆の通路、背後にもう一つの羽音を感じたのと、ヴォルフの鋭い声が響いたのはほぼ同時だった。 はっと振り向くと目の前、至近距離にかっと開かれたコウモリの口。
「――!!」
 思わず目を閉じ、思いきり後ろに跳び退った。 小さくも凶暴な牙にかろうじて空を切らせる。
「くっ……!」
 自分に腹を立てている暇はない。 二匹のコウモリを引き込むべく、私は身を翻し駆け足で通路を逆行する。 すれ違いざま、ヴォルフが眠りの雲の呪文を唱えているのが聞き取れた。

「!!」
 走りながら肩越しに敵を睨む視線を前方に戻した瞬間、私は再度息を呑んだ。 私達が元来た方向、手前の通路に、影が映っている。
 四本足。 やせこけた体。 そしてかちかちと硬質な爪音。
 慌てて踏み止まる私の足が、通路を流れる水でばしゃりと音を立てる。 途端にその影の主が、立体になって私の正面に躍り出た。
「うあ……!!」
 背後に二匹のコウモリ、前方に黒い魔犬。 一瞬パニックに陥りかけた私は、正面から突進してくる魔犬に向かって大きく剣を振りかざす。
「――の、彼方へ!」
 その瞬間、背後でヴォルフの呪文が完成した。 辺り一帯に半透明の霧が渦巻き、敵達を人工的な眠りへと引きずり込もうとする。 私に踊りかかろうとしていた魔犬にもその息吹は及び、一瞬その顔がひるんだように見えた。 恐怖に振りかぶっていた私の剣がかろうじて止まる。 が。
「ガ……ウ!!」
 魔犬は忌々しげに顔をぶるんと振ると再度牙を剥き出し、荒々しく床を蹴って疾風のように私の止まった刃の下をすり抜けた。

「ヴォ……!!」
 闇に棲む魔物に、やはり闇の力を持つ眠りの雲の呪文は極端に効きづらい。 運悪く、三匹の魔物はどれも彼の魔法に堪えてしまっていた。
 魔犬の姿を追って振り向く私の目に、コウモリの体当たりを受け、躍り掛かる魔犬の牙に左腕をざくりと捕らえられたヴォルフの姿が映った。
 彼の体にたかる、不気味な黒いモンスター達。 彼の表情が僅かに苦痛に歪んでいる。 魔犬の口元に、赤いものが見えた。

「……ぁ!!」
 音にならない叫び声。 倒せ! という意思で、思考が真っ白に染まった。 私は叩き付けるように剣を鞘に戻すとぎゅっと目を瞑り、吼えるが如く呪文を唱え始めていた。
 ファイガ。
「ルーヴェルシュタイト ゼギストリンデ、エーメ……きゃ!!」
 がつっと鈍く重い音が聞こえたかと思うと、不意に腕がぐいと引っ張られた。 よろけて詠唱が中断される。

 それはヴォルフが魔犬を弾き飛ばした音だったらしい。 犬は少し離れた所で地に這い、床石をがりりと掻いている。
 肩口に食らいつくコウモリもそのままに、私を引き寄せていたのは彼の腕。
 私の体は勢い余ってその胸にぶつかる。 同時に彼の魔力が形容し難い音を立て、時間を巻き込んでブラックホールのように凝縮される気配を感じた。

 ……そうだ、これが正しい選択だ。
 そう気付く事ができたのは、強力に圧縮された彼の魔力によって瞬時に完成した脱出の呪文が空間を歪ませ、私達を地上へと放り出すべく闇で包んだ、その後だった――


  *  *  *


 転がるようにさえずる鳥の声。 涼しい風が髪をなぶる。
 すぐ頭上から、覆い被さるように大きく息をつく音がした。
 ゆっくり目を開くと、周囲に広がっているのは明るいロンフォールの森。
 いや、正確には。 すぐ目の前に、赤い魔装を纏った、ヴォルフの胸。

「――は、離し、て」

 俯いて半歩後ずさりながら、私はかすれた声で言った。 彼の手が、まだ痛い程に私の腕を掴んでいる。
「――すみません」
 一拍置いて、大きな掌が解かれた。 森の静寂の中、ふらつくように私は更に二歩離れる。

「ごめん……見えて、なかった」
「いいえ。 無事で何よりです」
 いつも通りの穏やかな声が返って来る。 しかし、恐る恐る顔を上げると。
 視界に飛び込んで来る彼の肩に、血が滲んでいる。 腕に、血が流れている。
 一瞬、世界がぐらりと揺れた。

「ごめん……ごめんなさい!!」

 私の口から悲壮な声が迸った。
 火傷ではない。 でも、同じこと。 安心して油断した、私のせいだ――
 そう思った瞬間。
 昨日見た赤い警告ランプが胸の中で大きく脈打ち、後悔のようなおののきのような、数えきれない感情の渦が奔流のように溢れ渦巻いた。

 そうよ。 こんな短い間に、どうして忘れてしまったの。 自分のせいで人を傷つけるのが怖いから、一人で居たんじゃない。
 それぐらいなら自分の痛みに耐えた方がマシだから――

「もう……ここまでにしましょう。 教えられる事なんかないわ、迷惑がかかるばかり――」
「ロ――」
「怖いのよ! あなたみたいな人といると、気持ちがあっちこっちに暴走して……収拾がつかなくなるの!」

 どちらにとっても、このまま続けるのはきっと危険だ。 安心と油断が、いつか炎という名の破綻を連れて来る予感がする。
 離れよう、元の生活に戻ろう――そう思った途端。
 凍えそうな寒さに襲われ、ぶるっと体が震えた。 その寒さの理由に愕然とする私。

 体が弱っても。 狩りで窮地に陥っても。 一人で、解決できると思っていた。 できなければ、それまで。 
 それでいいと思っていた。 危険な鬼っ子の自分は、そうして生きていくのが一番だと思っていた。

 それを――生きていく為に、長い時間をかけて築き上げた、その覚悟を。
 この赤魔道士の存在が、たった数日で脅かしたというの……!

「もう、たくさんなの……今の油断だってそうよ。 気を抜いたら、私はいつあなたに怪我をさせるか判らない」

 いつも心を繋ぎ止めてくれていた冷静な自分は、一体いつから私を見捨ててしまったのだろうか。
 網に捕らえられた野生動物の如く暴れ回る強い感情に危機感を覚えながら、私は俯いて言葉を吐き出している。

 食堂で初めて会った日、援護に癇癪を起こした時。 雨に煙る森、夕日に乗せた歌、ノックを待つ自分。
 津波のように次々と蘇る光景に、何故か鳩尾のあたりに熱い痛みが走った。

「お願い……お願いだから、これ以上、教えないで……」
 温もりという麻薬を。 安心という危険を。

 今にも消え入りそうな私の声。
 ああ、先刻から、一言も発しないこの人を、早く遠ざけなくては。 今までの「失敗」のような別れ方だけは、したくない――
 唇を固く結んでそろりと顔を上げ、私は恐る恐るヴォルフを仰ぎ見る。

 ゆっくりと、風が吹き抜けていった。
 闘争心を置き去りにした猛禽類の瞳が、一歩も動かずそこに立ち、私を見つめている。
 それは――今まで見たこともないような、深い、いたわりの色で――

 その瞳の色が、私の心にばりっと爪を立てた。
 途端に血潮のように噴き出す、哀しみともやるせなさともつかない、正体不明の熱い感情の洪水。 それがあっという間に私を呑み込み、燃える――!!

「……!!」
 みるみる歪む顔をばっと両手で覆うと同時に、ぼうっ、と空気の破裂するような音が私を包んだ。
 止められない!!

「行って、早く!! 危ない!!」
 後ずさりながら叫ぶ。 行って――行ってしまう――
 その思いに、ぼっ、という音が、ごうっと紅く逆巻く音に膨れ上がった。
 炎が私と世界を隔てれば。 その炎が引いた後、私は独りだ。 また強烈な寒さが襲い、思うさま胸を裂く。 その痛みと私の生気とを燃料に、更に噴き出す灼熱の炎。
「はなれてぇ!!」
 一気に削られる体力に眩暈を覚える。 彼が低く何か言った気がしたが、渦巻く炎の唸りと私の必死の叫び声に蹴散らされて届かない。
「お願い、早く……!!」

 かすかな足音。 遠ざかるはずのそれが、近付いてくる。
 はっと顔を上げる。

 私が泣く度に、怒る度に、その相手と私を決定的に隔絶してきた、目の前の真っ赤な炎の壁。
 そのすぐ向こうに、ヴォルフの長身があった。
 彼の両手がつと上がる。 それがまっすぐ、そして易々と炎をくぐる。 信じ難い光景を前に、息を呑んで固まる私。
 その両腕が大きく開いた。 あたかも重いカーテンを引くように、炎を左右に割る。 彼の服の裾が、逆巻く熱気に強くはためいている。
 そしてそのまま一歩進んで炎の谷間を乗り越えたかと思うと、開いたと同じ軌跡を辿って、腕が閉じた。
 その腕の輪の中にいるのは、私――

「大丈夫です」

 自分の腕の中にすっかり私を取り込んでしまった、ヴォルフの声。 断固としていて、でも静かな声が耳元で告げる。
 私の炎に触れ焼かれるはずの彼の体の表面を、もう一つの炎が覆い守っているのが、たくさんの驚きに見開かれる私の目に映った。 彼の肩と言わず腕と言わず這うあれは、刀身に纏わせる炎の色。 先刻の声は、火力付与の呪文だったのか。
 二つの炎が手を取り踊っている。 私の生気の消耗がゆるやかになった。 彼の炎が同化して抑えてくれているのだろうか。 何という……

「俺なら、大丈夫ですから」

 自分の炎の内側に人がいる事が信じられない私は、彼の腕の中で無意識に怯えるようにもがいていた。
 でも離れない。 彼は、離れない――

 ひとのうで。 ひとのからだ。 もうどれだけ触れていなかったのだろう。
 こんなにも理屈を超えて暖かく、圧倒的に安らいでしまうものだという事を、知らないのか忘れていたのかすら思い出せない。

「そんなに、怯えなくていい」

 炎を越えてきた、その腕が。
 不器用に子犬に言い聞かせるような、その言葉が。
 私を、根こそぎ赦していた――

「う……うぅーーー……!」

 ついに私の心から、すうっと力が抜ける。 と同時に、凄まじい勢いで氷が融けるように、私の目からぼろぼろぼろと涙が溢れ始めた。
 何かにさらわれそうになる自分を繋ぎ止めるように、彼の服の胸元をぎゅうっと握り締める。
 どんなに歯を食い縛っても、息を詰めて声を押し殺してみても。 不規則にぼうっと唸りを上げて湧き上がる炎が、みっともないほどに私の胸の内を表現してしまう。

「や……やめて、よ……どうせ、どうせ、いな、いなくなっちゃう、くせ、にぃ……!!」
 震える涙声でまだ虚勢を張る私の声に、ヴォルフは答えない。 代わりにその腕が更に強く私を戒める。
 肺から押し出される吐息が、また炎を煽った。
 言葉を吐く力をもぎ取られ、代わりにとめどなく溢れる涙――


  *  *  *


 その後も、炎と涙の中で私は支離滅裂に何かを言い募っていたのかもしれない。
 どうして怒らないの、とか、もう人が離れていくのは見たくない、とか。
 そのどれにも彼はろくに返事をしなかったと思う。 ただひたすら私を炎の手から、世界の目から庇うかのように覆い隠し続け、私の涙と言葉を、その広い胸で吸い取っていた。

 そして、徐々に体力を消耗した私は。
 麻酔が回ったかのように、彼の腕に体を預けたまま、泣きながら昏倒してしまったのだった――


to be continued
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