テノリライオン
野ばら 7
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匿名ユーザー
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―――10月14日 火曜日―――
自分の部屋で、目が覚めた。
「…………」
薄く開けた目で、しばらくぼーっと天井を見つめていた。 それに飽きた頃に、ごろんと寝返りを打つ。
「……んあ」
妙に動きづらい。 改めて目を開け、自分の腕を見る。 ……外出着だ。
「んーー……?」
何で服のまんま寝てる……? えーっと……
布団の中で眉根を寄せて考える。 ゴホンと一つ咳が出る。 と、窓辺に座るエルヴァーンの姿がぽっと脳裏に浮かんだ。
するとそれを皮切りに、ボストーニュ監獄に始まる一連の記憶が、早送りの映像のように駆け足で蘇る。
「――――」
ゆっくりと体を起こす。
窓も閉じて、しんと薄暗い室内。 鎧戸の隙間から細く漏れる陽の光は濃い。 外は明るいような気配がする。 賑やかに走っていく子供の歓声が聞こえた。
顔を巡らせ、目を細めて時計を見る。 昼少し前。 昏倒してから一日――なのだろうか。
そのまま窓辺に目をやる。 何もない。
ぼんやりと室内を見渡す。全くいつも通りの、自分の部屋。 何も増えていない、何も減っていない。
私は鼻で大きく溜息をつくと、ベッドの上で起こした体を横の壁にもたれかけさせた。
――あの、オレンジ色の情景と、歌。
あの時から、私の中で何かの歯車が狂い始めたような気がする。
「気を、許しすぎたのかなー……」
改めて記憶を辿り始めるや、鮮やかに二の腕と背中に蘇る、力強い腕の感触。 一瞬心臓が跳ね上がり、体がかぁっと熱くなった。
あれは……私を鎮めようとしてくれたのよね、うん。 だいぶ錯乱してたし――でも、あそこまでして留まってくれた人なんか、今まで居なかった。 どう考えても危険なのに、どうしてだろう。 判らない。
いや、判らないと言えば、むしろ自分の方。
頑張ろう、と思ったら、他に気が回らなくなった。 彼が複数の敵に襲われるのを見た瞬間、冷静な判断が吹き飛んだ。 彼を遠ざけようと思った途端、感情が爆発した。
平静とは程遠い――何をそんなに必死になっていたんだろう、私は。
「うーん……」
錯綜する思考に辟易して、ぼりぼりと頭をかく。
判らない事は増えるばかり。 でも今は、不思議と心が――丸いのだ。
何を考えても、どんなに迷走しても、まるでどこかに碇を下ろしたかのように、不安という波にさらわれない自分がいる。
それにしても、倒れるほど自分を抑えられなかった事なんか無いのに。 ずいぶん恥ずかしい所を見せてしまった。 ここまでも運ばせてしまったんだろう。 これは――顔を合わせづらいな。
「こないだの風邪の再来じゃないの……」
どうも看病のようなことばかりさせている。 けど――何故だろう、今回の気まずさは病み上がりの時の比ではないような――
コンコン。
「ひゃっ……!!」
唐突に階下から聞こえた音に、思わずベッドの上で飛び上がる。 ノックの音だ。
「あ……え……と、えと」
おろおろと腰を上げたり下ろしたり、無意味に布団を探ってみたりと、体が支離滅裂な動きをする。 どうしよう、服も髪もぐしゃぐしゃだし、寝てる事にして居留守を――いや、そんなの失礼だわ、でも会って何と言っていいか――
コンコンコン。
「……っ!!」
意を決し、抱き寄せていた布団をばっと跳ね除けると、床に降り立った。
大急ぎで服を伸ばし髪を直しながら階段を駆け下りる。 と、ノックとは違う、がちゃがちゃという音がしている事に気がついた。
え……鍵? 風邪の時みたいに、持って出たのかしら――
その音が止むと同時にばたんとドアが開き、私の足がぴたっと止まった。 高い声が居間に響く。
「あら、いるんなら開けてちょうだいよ。 ああ久しぶりねぇ、ローザ」
「……お、母さん」
* * *
予想だにしない訪問者に呆然としている私を尻目に、母さんはずかずかと――そりゃ、一応自分の家なのだから当然と言えなくもないが、今の私には「ずかずか」としか思えなかった――居間に上がり込んできた。
「何だい、ずいぶんとすっきりしちゃってるねぇ。 別にそんなに金に困ってるって訳じゃないんだろ?」
きょろきょろと家の中を見回しては、遠慮のない言葉を並べ立てている。
六年振りに見る母さんは、何だかずいぶんと「派手に」なっていた。 若くなったとか、水商売に染まっているというのではなく――商品であろうとしている、という雰囲気があった。 これでも一応同じ女だ、なんとなく判る。
「まぁでも、きれいにはしているねぇ。 私のしつけの賜物かね、やっぱり」
「ど……どうしたの、いきなり―――」
いきなり。 そうよ、私を一人放り出してどこかに行ったっきり連絡もなし、それが急に「元気だったかい」の一言もなくしれっと顔を出すなんて、今更――今更。
胸の奥に、めらっと仄めく何かを感じた。
しかしその動きを認識するや否や、ここしばらくその仕事をさぼっていたもう一人の冷静な自分が現れて、すっとその危険な感情を私から見えなくしてくれた。
何だ、おまえ、いるんじゃないの――
自分の目つきが冷静に冷めて行くのを感じ取り安心しながら、私は彼女にこっそりと苦情を言う。
「いやね、ちょっと訳あってさ、サンドリアに戻ろうかと思うんだよ」
くるりと向き直った母さんが、また思いも寄らない事を言った。
「え……うちに?」
「そりゃそうさ、ここは私の家じゃないかい」
平然と言い放つ言葉に一瞬かちん、と来たが、このくらいはもう一人の私が易々と押さえ込む。
「ボビーがね――ああ、ボビーってのはさ、今母さんにあれこれ良くしてくれる人なんだけどね、彼がサンドリアで商売を始めたいって言うんだよ。 それでやっぱり最初は色々と入り用だからさ、ほら、ここに住めば家賃も安くて済むし、彼も喜んでくれると思ったわけよ」
男、か――
そう驚く気にもなれなかったが、六年前出て行った時の人と多分違う名前。 さすがにちょっと顔をしかめた。 そんな人にいきなり来られても……
「それでねぇ」
急に、母さんの声音が変わった。 猫なで声と呼ぶに相応しい、とってつけたような優しい声。
驚いて顔を上げると、その表情も声に相応しく、不自然なまでに相好を崩していた。
「お前、もう二十歳過ぎてるよねぇ。 どうだい、いつまでも実家っていうのもあれだろう? 母さん達が戻ってきてどたばたするのも何だしさ、どこかでこう、一人暮らしをしてみるってのは」
「…………は?」
――今、何て言った? ひとりぐらし?
今までだって一人暮らし……いや、そういう事じゃない。
「え……出てけ、って事……?」
「嫌だよ、そんな風には言ってないじゃないか。 ただほら、お前も年頃の娘だし、知らない男性が同じ家に住むってのも気分がよくないだろう、ね? 幸い家賃は稼げてるようだしさ、それなら――」
にこにこと、いかにも親切で言っているんだと言わんばかりの表情と口調。 もう一人の私が、その仕事の負荷に悲鳴をあげているのが聞こえる。 かすかに吐き気すら覚えた。
実の親なのに……いや、実の親だからこそ、こんな――こんな酷い話が、あるのか?
細かく震え出す手をどうにか抑え、私は言葉を搾り出す。
「そんな事、急に言われたって――行く所なんかないわよ、宿屋にでも泊まれっていうの? そうそう新しい家なんか、こんな独り身の女に――」
「なぁに言ってるんだい」
抗議を始める私に、母さんは奇妙にねばっこい声を返してきた。 その視線にも、何やら奇妙に親しげな、ほくそえむような光が混ざる。
訳が判らずぷつりと言葉が止まる私。 母さんは続ける。
「ここに来る前にね、お隣のおばさんにばったり会ってさ。 話を聞いてきたよ。 ああいいんだいいんだ、ちっとも悪いことじゃないよ」
「な……何、を」
「お前、ここんとこ頻繁に男を連れ込んでるそうじゃないか。 どこの馬の骨か知らないけど、とりあえずはその男の所に行くってのはどうだい? いいじゃないか、押しかけ女房ってのに弱い男も世間にゃ」
かっと、私の目が開いた――
* * *
そりゃ、悲しくないかと言われれば、悲しいに決まっている。
久し振りに会った実の親の心無い言葉だけでも十分に悲しいのに、その言葉で初めてそれに気が付いただなんて。
そして今、部屋じゅうに逆巻く炎も、母さんの切り裂くような悲鳴も、自分の責任だって、取り返しがつかないって、判ってる。
それでも――それ以上に――
もう一人の冷静な私の姿は、とっくに消し飛んでいた。
彼を指しての下品で侮辱的な物言いが始めの火を点けた、気も狂わんばかりの憤りだけが原因じゃない。
それによって、初めて知った、
やっと見つけた、
この感情の名を、私が呼んだから――
私は目を閉じている。
どこからか、圧倒的な熱量にガラスが弾け飛ぶ音がした。
母さん、ごめんなさい。 でも、最後の楔を鮮やかに砕いたのは、あなたです。
そうよ、どんなに責められたって構わない。
判ったの。 今、判ったのよ。
この数日、私を突き動かしてきたものの名前が。
自分の胸を掻き抱く。 ここにある。 真っ赤に輝いて、なんて暖かくて、愛しい……
ごめんね、なかなか気付いてあげられなくて。 警告のランプなんかじゃなかったね。
もう遠慮しなくていいよ――
猛り止まない炎の中、大きく息を吸って、顔を上げる。
嬉しい。 嬉しい。 むせ返るような想いが後から後から溢れて、見る間に悲しい憤りを呑み込んでいく。
ううん、その悲しみや憤りすら糧に、津波のように私の全てを蹂躙して――
長い白髪。 浅黒い肌。 深いバリトン、鋭いのに穏やかな不思議な瞳、赦してくれた強い腕。
ああ、お願い。
ここに来て。
伝えたい事があるのよ。
ヴォルフ――――――
* * *
「火事だぞー!」
「猟犬通りだ!」
競売所に向かうヴォルフの耳にも、その怒号は届いた。
はっとその方向を仰ぎ見ると、遥か遠くに上がる黒い煙の姿が彼の目に飛び込んでくる。
「――!!」
彼は弾かれたように身を翻すと、猛然と駆け出した。
* * *
「水だ! 早く!!」
「延焼を抑えろ! 隣を――おい! あんた!!」
男たちが総出で消火活動を行い、通りがかりの魔道士たちが水や氷の魔法で協力している。
その喧騒と野次馬の波を割って躍り出た、一人のエルヴァーン。 男たちの制止の声に何の反応も見せず、まだ炎の残る扉を突き破って燃えさかる家の中へと消えていく。
階下は、不思議と炎が収まっていた。
いや、収まったと言うより、もはや新たに燃えるものがなくなったという方が正しいのかもしれない。
そしてその部屋のほぼ中央に、一人の人影が背を向けてぽつんと立っている。
「ローザ!!」
ヴォルフの声に、彼女は振り向いた。
夢から覚めたようなその表情には、顔色というものがない。 まるでゴーストだ。
しかし、自分の名を呼ぶ彼の姿を認めた途端。 彼女は、大輪の薔薇が咲くような笑顔を浮かべた。
「――ヴォルフ――」
そしてふわりと彼に向き直り、両手を差し伸べる。 が、ただそれだけの動作で、彼女の華奢な体はバランスを崩し、ゆっくりと彼の方に倒れかかる。
「――!!」
素早く駆け寄り、崩れるローザの体を抱き止めて床に膝をつくヴォルフ。 その瞬間、彼は目を見開き、大きく息を呑んだ。
何故なら、腕の中に舞い降りた細い体は氷のように冷たく、そして――
灰のような軽さしか、無かったから。
(燃やし尽くしてしまったのか――!!)
もはやこの世に生きているものの重さではない。 その事を本能的に感じ取りながらも、彼の口は彼が扱い得る最も強い回復呪文を紡ぎ始めていた。
「あまねく命を愛で給うアルタナよ、森羅の息吹を今一度――」
詠唱が結び、体の芯を揺さぶるような低い音と共に、天から降る真白いエネルギーの塊がローザの体へと吸い込まれていく。
が――変化は、なかった。
平然と、ゆっくりと、冷たくなっていく体。 軽くなっていく、魂。
ヴォルフは噛み砕かんばかりに奥歯を食い縛ると、彼女を抱く手に、少しだけ、ほんの少しだけ力を込めた。
「お……母さ、にね……言わ……て、気がついた、の……」
一時たりとも見逃すまいとするかのように強く見つめるヴォルフの視線の下で、彼を見上げるローザの声が揺れる。
さやかに水の流れるような、小さな囁き。
ヴォルフはその視線を一瞬外して、部屋の中を見回した。
彼女の想いを浴びてぐにゃりと熔けた鉄の椅子とテーブル。 原型を留めない家具類。 その向こう、部屋の奥に、人の形をした炭が横たわっていた。
「あなたの……事に、なると……、気持ちが……炎が、止まらなか、たのは」
手に入れた宝物を慈しむかのような、柔らかい笑顔。
「私の、心……あなたで、満たされ……て、たから……だったのね……」
ヴォルフの腕の中、ローザの手がゆっくりと上がり、彼の頬に触れて優しく撫でる。
どんどんとか細くなっていく声は、狂おしい程の幸せに声を詰まらせる囁きのように。
どんどんと安らかになっていく表情は、愛しい想いを抑えきれない微笑みのように。
冷たい頬を、涙が一筋暖めて落ちていった。
「会えて……よか……た……、ヴォ……フ……」
「ローザ」
「嬉し、の……あり……と、見つけて、くれ……て」
「ローザ」
「嬉し……。 ね、呼ん、で……。 声、好き……も……と、呼ん……で……」
二人の横で、棚が一つ、大きな音を立てて崩れた。
雪崩のように滑り落ちる木材から、一塊の炎が舞い上がる。
床の上で、粉々に割れた金魚鉢のかけらが、その光を受けてきらりと輝いた――
* * *
「ローザちゃんのお母さんがね、急に帰ってきたんだよ。 私、ばったり会って、何だか香水の匂いをぷんぷんさせて派手な格好をしてたから、あの子が嫌な気持ちになりやしないかって心配したんだけど……ローザちゃんはどうしてるかって聞かれたから、ここんとこ仲良くしてる人がいるみたいだよって……そんな話をして、家に入ってしばらくしたら、急にどうんって音が――」
いつのまにか鎮火していた家の扉の前で、人の良さそうな女性が皆に向かっておろおろと話していた。
その後ろでバケツを抱えた男たちや野次馬が、恐る恐る家の中を覗き込みながらあれこれと言い合っている。
「おい、どうすんだこの始末。 住んでたのはその――あの女の子、一人だろう?」
「母親ったって、この中にいたんじゃ助かる訳が……恐ろしい話だな」
「誰か親戚とか、知人とかいねぇのかよ……お」
暗く煤けた部屋から、所々その煤を纏わせた長身のエルヴァーンが歩み出て来た。
その腕に、あの業火の中にいたとは思えない程に綺麗なままの、そして彼の胸に頬を寄せて目を閉じ、この上なく幸せそうに見える女性を抱きかかえて。
彼女のだらりと垂れた手が、振り子のように揺れている。
「あ……」
ざわっとたじろいだ人垣が、家を囲む輪を少し大きくした。
そんな人の壁など全く見えていないかのようにゆっくりと歩を進める彼に、一人の男が遠慮がちに声を掛ける。
「……お、おい、あんた、その娘の知り合いかい? あのな、ここの」
「退け」
岩をも射るような眼光と地の底から響くような低い声に、男はひっと息を呑む。 小さくざわめいていた人垣が、その言葉にしんと静まり返った。
「退け」
少し音量を上げた二度目の声に弾かれて、その音の延長線上にいた野次馬が左右に分かれた。
その中を彼は歩いて行く。 さながら戦いを終えた騎士のように。
* * *
陽が、高く昇っていた。
さんさんと降り注ぐ陽光が、動かぬローザの体を僅かに温める。
道行く人々が立ち止まって送る視線やざわめき、そして追いすがる人の制止の声をものともせず、苦くも厳しい表情で毅然と街を抜けて進むヴォルフに抱かれる彼女の顔は、少し誇らしげだ。
そこを行くのは、孤独から解き放たれた幸せな女。 そのままの形で己の時を止めた。
そこを行くのは、守るべきものの存在を知った男。 引き換えに孤独の存在を知った。
石畳に黄金色の光が舞い落ちる、秋の一日。
振り返る事無くサンドリアの街を後にし、いずこへかと去る彼らの足を。
止める事が出来た者は、一人として居なかった。
広い草原に、風が吹く―――
End
自分の部屋で、目が覚めた。
「…………」
薄く開けた目で、しばらくぼーっと天井を見つめていた。 それに飽きた頃に、ごろんと寝返りを打つ。
「……んあ」
妙に動きづらい。 改めて目を開け、自分の腕を見る。 ……外出着だ。
「んーー……?」
何で服のまんま寝てる……? えーっと……
布団の中で眉根を寄せて考える。 ゴホンと一つ咳が出る。 と、窓辺に座るエルヴァーンの姿がぽっと脳裏に浮かんだ。
するとそれを皮切りに、ボストーニュ監獄に始まる一連の記憶が、早送りの映像のように駆け足で蘇る。
「――――」
ゆっくりと体を起こす。
窓も閉じて、しんと薄暗い室内。 鎧戸の隙間から細く漏れる陽の光は濃い。 外は明るいような気配がする。 賑やかに走っていく子供の歓声が聞こえた。
顔を巡らせ、目を細めて時計を見る。 昼少し前。 昏倒してから一日――なのだろうか。
そのまま窓辺に目をやる。 何もない。
ぼんやりと室内を見渡す。全くいつも通りの、自分の部屋。 何も増えていない、何も減っていない。
私は鼻で大きく溜息をつくと、ベッドの上で起こした体を横の壁にもたれかけさせた。
――あの、オレンジ色の情景と、歌。
あの時から、私の中で何かの歯車が狂い始めたような気がする。
「気を、許しすぎたのかなー……」
改めて記憶を辿り始めるや、鮮やかに二の腕と背中に蘇る、力強い腕の感触。 一瞬心臓が跳ね上がり、体がかぁっと熱くなった。
あれは……私を鎮めようとしてくれたのよね、うん。 だいぶ錯乱してたし――でも、あそこまでして留まってくれた人なんか、今まで居なかった。 どう考えても危険なのに、どうしてだろう。 判らない。
いや、判らないと言えば、むしろ自分の方。
頑張ろう、と思ったら、他に気が回らなくなった。 彼が複数の敵に襲われるのを見た瞬間、冷静な判断が吹き飛んだ。 彼を遠ざけようと思った途端、感情が爆発した。
平静とは程遠い――何をそんなに必死になっていたんだろう、私は。
「うーん……」
錯綜する思考に辟易して、ぼりぼりと頭をかく。
判らない事は増えるばかり。 でも今は、不思議と心が――丸いのだ。
何を考えても、どんなに迷走しても、まるでどこかに碇を下ろしたかのように、不安という波にさらわれない自分がいる。
それにしても、倒れるほど自分を抑えられなかった事なんか無いのに。 ずいぶん恥ずかしい所を見せてしまった。 ここまでも運ばせてしまったんだろう。 これは――顔を合わせづらいな。
「こないだの風邪の再来じゃないの……」
どうも看病のようなことばかりさせている。 けど――何故だろう、今回の気まずさは病み上がりの時の比ではないような――
コンコン。
「ひゃっ……!!」
唐突に階下から聞こえた音に、思わずベッドの上で飛び上がる。 ノックの音だ。
「あ……え……と、えと」
おろおろと腰を上げたり下ろしたり、無意味に布団を探ってみたりと、体が支離滅裂な動きをする。 どうしよう、服も髪もぐしゃぐしゃだし、寝てる事にして居留守を――いや、そんなの失礼だわ、でも会って何と言っていいか――
コンコンコン。
「……っ!!」
意を決し、抱き寄せていた布団をばっと跳ね除けると、床に降り立った。
大急ぎで服を伸ばし髪を直しながら階段を駆け下りる。 と、ノックとは違う、がちゃがちゃという音がしている事に気がついた。
え……鍵? 風邪の時みたいに、持って出たのかしら――
その音が止むと同時にばたんとドアが開き、私の足がぴたっと止まった。 高い声が居間に響く。
「あら、いるんなら開けてちょうだいよ。 ああ久しぶりねぇ、ローザ」
「……お、母さん」
* * *
予想だにしない訪問者に呆然としている私を尻目に、母さんはずかずかと――そりゃ、一応自分の家なのだから当然と言えなくもないが、今の私には「ずかずか」としか思えなかった――居間に上がり込んできた。
「何だい、ずいぶんとすっきりしちゃってるねぇ。 別にそんなに金に困ってるって訳じゃないんだろ?」
きょろきょろと家の中を見回しては、遠慮のない言葉を並べ立てている。
六年振りに見る母さんは、何だかずいぶんと「派手に」なっていた。 若くなったとか、水商売に染まっているというのではなく――商品であろうとしている、という雰囲気があった。 これでも一応同じ女だ、なんとなく判る。
「まぁでも、きれいにはしているねぇ。 私のしつけの賜物かね、やっぱり」
「ど……どうしたの、いきなり―――」
いきなり。 そうよ、私を一人放り出してどこかに行ったっきり連絡もなし、それが急に「元気だったかい」の一言もなくしれっと顔を出すなんて、今更――今更。
胸の奥に、めらっと仄めく何かを感じた。
しかしその動きを認識するや否や、ここしばらくその仕事をさぼっていたもう一人の冷静な自分が現れて、すっとその危険な感情を私から見えなくしてくれた。
何だ、おまえ、いるんじゃないの――
自分の目つきが冷静に冷めて行くのを感じ取り安心しながら、私は彼女にこっそりと苦情を言う。
「いやね、ちょっと訳あってさ、サンドリアに戻ろうかと思うんだよ」
くるりと向き直った母さんが、また思いも寄らない事を言った。
「え……うちに?」
「そりゃそうさ、ここは私の家じゃないかい」
平然と言い放つ言葉に一瞬かちん、と来たが、このくらいはもう一人の私が易々と押さえ込む。
「ボビーがね――ああ、ボビーってのはさ、今母さんにあれこれ良くしてくれる人なんだけどね、彼がサンドリアで商売を始めたいって言うんだよ。 それでやっぱり最初は色々と入り用だからさ、ほら、ここに住めば家賃も安くて済むし、彼も喜んでくれると思ったわけよ」
男、か――
そう驚く気にもなれなかったが、六年前出て行った時の人と多分違う名前。 さすがにちょっと顔をしかめた。 そんな人にいきなり来られても……
「それでねぇ」
急に、母さんの声音が変わった。 猫なで声と呼ぶに相応しい、とってつけたような優しい声。
驚いて顔を上げると、その表情も声に相応しく、不自然なまでに相好を崩していた。
「お前、もう二十歳過ぎてるよねぇ。 どうだい、いつまでも実家っていうのもあれだろう? 母さん達が戻ってきてどたばたするのも何だしさ、どこかでこう、一人暮らしをしてみるってのは」
「…………は?」
――今、何て言った? ひとりぐらし?
今までだって一人暮らし……いや、そういう事じゃない。
「え……出てけ、って事……?」
「嫌だよ、そんな風には言ってないじゃないか。 ただほら、お前も年頃の娘だし、知らない男性が同じ家に住むってのも気分がよくないだろう、ね? 幸い家賃は稼げてるようだしさ、それなら――」
にこにこと、いかにも親切で言っているんだと言わんばかりの表情と口調。 もう一人の私が、その仕事の負荷に悲鳴をあげているのが聞こえる。 かすかに吐き気すら覚えた。
実の親なのに……いや、実の親だからこそ、こんな――こんな酷い話が、あるのか?
細かく震え出す手をどうにか抑え、私は言葉を搾り出す。
「そんな事、急に言われたって――行く所なんかないわよ、宿屋にでも泊まれっていうの? そうそう新しい家なんか、こんな独り身の女に――」
「なぁに言ってるんだい」
抗議を始める私に、母さんは奇妙にねばっこい声を返してきた。 その視線にも、何やら奇妙に親しげな、ほくそえむような光が混ざる。
訳が判らずぷつりと言葉が止まる私。 母さんは続ける。
「ここに来る前にね、お隣のおばさんにばったり会ってさ。 話を聞いてきたよ。 ああいいんだいいんだ、ちっとも悪いことじゃないよ」
「な……何、を」
「お前、ここんとこ頻繁に男を連れ込んでるそうじゃないか。 どこの馬の骨か知らないけど、とりあえずはその男の所に行くってのはどうだい? いいじゃないか、押しかけ女房ってのに弱い男も世間にゃ」
かっと、私の目が開いた――
* * *
そりゃ、悲しくないかと言われれば、悲しいに決まっている。
久し振りに会った実の親の心無い言葉だけでも十分に悲しいのに、その言葉で初めてそれに気が付いただなんて。
そして今、部屋じゅうに逆巻く炎も、母さんの切り裂くような悲鳴も、自分の責任だって、取り返しがつかないって、判ってる。
それでも――それ以上に――
もう一人の冷静な私の姿は、とっくに消し飛んでいた。
彼を指しての下品で侮辱的な物言いが始めの火を点けた、気も狂わんばかりの憤りだけが原因じゃない。
それによって、初めて知った、
やっと見つけた、
この感情の名を、私が呼んだから――
私は目を閉じている。
どこからか、圧倒的な熱量にガラスが弾け飛ぶ音がした。
母さん、ごめんなさい。 でも、最後の楔を鮮やかに砕いたのは、あなたです。
そうよ、どんなに責められたって構わない。
判ったの。 今、判ったのよ。
この数日、私を突き動かしてきたものの名前が。
自分の胸を掻き抱く。 ここにある。 真っ赤に輝いて、なんて暖かくて、愛しい……
ごめんね、なかなか気付いてあげられなくて。 警告のランプなんかじゃなかったね。
もう遠慮しなくていいよ――
猛り止まない炎の中、大きく息を吸って、顔を上げる。
嬉しい。 嬉しい。 むせ返るような想いが後から後から溢れて、見る間に悲しい憤りを呑み込んでいく。
ううん、その悲しみや憤りすら糧に、津波のように私の全てを蹂躙して――
長い白髪。 浅黒い肌。 深いバリトン、鋭いのに穏やかな不思議な瞳、赦してくれた強い腕。
ああ、お願い。
ここに来て。
伝えたい事があるのよ。
ヴォルフ――――――
* * *
「火事だぞー!」
「猟犬通りだ!」
競売所に向かうヴォルフの耳にも、その怒号は届いた。
はっとその方向を仰ぎ見ると、遥か遠くに上がる黒い煙の姿が彼の目に飛び込んでくる。
「――!!」
彼は弾かれたように身を翻すと、猛然と駆け出した。
* * *
「水だ! 早く!!」
「延焼を抑えろ! 隣を――おい! あんた!!」
男たちが総出で消火活動を行い、通りがかりの魔道士たちが水や氷の魔法で協力している。
その喧騒と野次馬の波を割って躍り出た、一人のエルヴァーン。 男たちの制止の声に何の反応も見せず、まだ炎の残る扉を突き破って燃えさかる家の中へと消えていく。
階下は、不思議と炎が収まっていた。
いや、収まったと言うより、もはや新たに燃えるものがなくなったという方が正しいのかもしれない。
そしてその部屋のほぼ中央に、一人の人影が背を向けてぽつんと立っている。
「ローザ!!」
ヴォルフの声に、彼女は振り向いた。
夢から覚めたようなその表情には、顔色というものがない。 まるでゴーストだ。
しかし、自分の名を呼ぶ彼の姿を認めた途端。 彼女は、大輪の薔薇が咲くような笑顔を浮かべた。
「――ヴォルフ――」
そしてふわりと彼に向き直り、両手を差し伸べる。 が、ただそれだけの動作で、彼女の華奢な体はバランスを崩し、ゆっくりと彼の方に倒れかかる。
「――!!」
素早く駆け寄り、崩れるローザの体を抱き止めて床に膝をつくヴォルフ。 その瞬間、彼は目を見開き、大きく息を呑んだ。
何故なら、腕の中に舞い降りた細い体は氷のように冷たく、そして――
灰のような軽さしか、無かったから。
(燃やし尽くしてしまったのか――!!)
もはやこの世に生きているものの重さではない。 その事を本能的に感じ取りながらも、彼の口は彼が扱い得る最も強い回復呪文を紡ぎ始めていた。
「あまねく命を愛で給うアルタナよ、森羅の息吹を今一度――」
詠唱が結び、体の芯を揺さぶるような低い音と共に、天から降る真白いエネルギーの塊がローザの体へと吸い込まれていく。
が――変化は、なかった。
平然と、ゆっくりと、冷たくなっていく体。 軽くなっていく、魂。
ヴォルフは噛み砕かんばかりに奥歯を食い縛ると、彼女を抱く手に、少しだけ、ほんの少しだけ力を込めた。
「お……母さ、にね……言わ……て、気がついた、の……」
一時たりとも見逃すまいとするかのように強く見つめるヴォルフの視線の下で、彼を見上げるローザの声が揺れる。
さやかに水の流れるような、小さな囁き。
ヴォルフはその視線を一瞬外して、部屋の中を見回した。
彼女の想いを浴びてぐにゃりと熔けた鉄の椅子とテーブル。 原型を留めない家具類。 その向こう、部屋の奥に、人の形をした炭が横たわっていた。
「あなたの……事に、なると……、気持ちが……炎が、止まらなか、たのは」
手に入れた宝物を慈しむかのような、柔らかい笑顔。
「私の、心……あなたで、満たされ……て、たから……だったのね……」
ヴォルフの腕の中、ローザの手がゆっくりと上がり、彼の頬に触れて優しく撫でる。
どんどんとか細くなっていく声は、狂おしい程の幸せに声を詰まらせる囁きのように。
どんどんと安らかになっていく表情は、愛しい想いを抑えきれない微笑みのように。
冷たい頬を、涙が一筋暖めて落ちていった。
「会えて……よか……た……、ヴォ……フ……」
「ローザ」
「嬉し、の……あり……と、見つけて、くれ……て」
「ローザ」
「嬉し……。 ね、呼ん、で……。 声、好き……も……と、呼ん……で……」
二人の横で、棚が一つ、大きな音を立てて崩れた。
雪崩のように滑り落ちる木材から、一塊の炎が舞い上がる。
床の上で、粉々に割れた金魚鉢のかけらが、その光を受けてきらりと輝いた――
* * *
「ローザちゃんのお母さんがね、急に帰ってきたんだよ。 私、ばったり会って、何だか香水の匂いをぷんぷんさせて派手な格好をしてたから、あの子が嫌な気持ちになりやしないかって心配したんだけど……ローザちゃんはどうしてるかって聞かれたから、ここんとこ仲良くしてる人がいるみたいだよって……そんな話をして、家に入ってしばらくしたら、急にどうんって音が――」
いつのまにか鎮火していた家の扉の前で、人の良さそうな女性が皆に向かっておろおろと話していた。
その後ろでバケツを抱えた男たちや野次馬が、恐る恐る家の中を覗き込みながらあれこれと言い合っている。
「おい、どうすんだこの始末。 住んでたのはその――あの女の子、一人だろう?」
「母親ったって、この中にいたんじゃ助かる訳が……恐ろしい話だな」
「誰か親戚とか、知人とかいねぇのかよ……お」
暗く煤けた部屋から、所々その煤を纏わせた長身のエルヴァーンが歩み出て来た。
その腕に、あの業火の中にいたとは思えない程に綺麗なままの、そして彼の胸に頬を寄せて目を閉じ、この上なく幸せそうに見える女性を抱きかかえて。
彼女のだらりと垂れた手が、振り子のように揺れている。
「あ……」
ざわっとたじろいだ人垣が、家を囲む輪を少し大きくした。
そんな人の壁など全く見えていないかのようにゆっくりと歩を進める彼に、一人の男が遠慮がちに声を掛ける。
「……お、おい、あんた、その娘の知り合いかい? あのな、ここの」
「退け」
岩をも射るような眼光と地の底から響くような低い声に、男はひっと息を呑む。 小さくざわめいていた人垣が、その言葉にしんと静まり返った。
「退け」
少し音量を上げた二度目の声に弾かれて、その音の延長線上にいた野次馬が左右に分かれた。
その中を彼は歩いて行く。 さながら戦いを終えた騎士のように。
* * *
陽が、高く昇っていた。
さんさんと降り注ぐ陽光が、動かぬローザの体を僅かに温める。
道行く人々が立ち止まって送る視線やざわめき、そして追いすがる人の制止の声をものともせず、苦くも厳しい表情で毅然と街を抜けて進むヴォルフに抱かれる彼女の顔は、少し誇らしげだ。
そこを行くのは、孤独から解き放たれた幸せな女。 そのままの形で己の時を止めた。
そこを行くのは、守るべきものの存在を知った男。 引き換えに孤独の存在を知った。
石畳に黄金色の光が舞い落ちる、秋の一日。
振り返る事無くサンドリアの街を後にし、いずこへかと去る彼らの足を。
止める事が出来た者は、一人として居なかった。
広い草原に、風が吹く―――
End
MainTheme : LIFE(feat.bird) MONDO GROSSO
EndingTheme : Andante Cantabile Tchaikovsky
EndingTheme : Andante Cantabile Tchaikovsky