テノリライオン
黒魔道士の憂鬱 前編
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匿名ユーザー
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「ズルじゃないか、そんなの」
「……へ?」
責めるような少年の言葉に、彼はぽかんと口を開けた。
「……へ?」
責めるような少年の言葉に、彼はぽかんと口を開けた。
― 1 ―
それは、とある日の午後のことだった。 舞台は南グスタベルグ。
むきだしの岩肌にまばらな緑が張り付く風景の中、そのエルヴァーンの男性は、彼にしては珍しくチョコボにまたがり一人バストゥークの町を目指していた。
黒魔道士という職業を示す、黒を基調としたローブを身に纏っている。 短く刈られた白髪を騎上の風にはためかせる彼は、名をバルトルディと言う。 通称バルト。
やや線が細く理知的な面立ちとペン胼胝の目立つ指、そして経験の浅い魔道士には触れる事すら許されない神秘的な意匠の凝らされた魔装。 その姿は、文武で言うならば間違いなく「文」の側の属性を見る者に思わせる。 が、一般的に魔道士なる人種に多く抱かれがちな、ひ弱、偏屈といった印象は決して強くない。 それは恐らくどこか子供のような、今にも「文」の領域を踏み越えそうに溌剌とした好奇心を秘める、彼の瞳の色がそうさせているものなのだろう――
むきだしの岩肌にまばらな緑が張り付く風景の中、そのエルヴァーンの男性は、彼にしては珍しくチョコボにまたがり一人バストゥークの町を目指していた。
黒魔道士という職業を示す、黒を基調としたローブを身に纏っている。 短く刈られた白髪を騎上の風にはためかせる彼は、名をバルトルディと言う。 通称バルト。
やや線が細く理知的な面立ちとペン胼胝の目立つ指、そして経験の浅い魔道士には触れる事すら許されない神秘的な意匠の凝らされた魔装。 その姿は、文武で言うならば間違いなく「文」の側の属性を見る者に思わせる。 が、一般的に魔道士なる人種に多く抱かれがちな、ひ弱、偏屈といった印象は決して強くない。 それは恐らくどこか子供のような、今にも「文」の領域を踏み越えそうに溌剌とした好奇心を秘める、彼の瞳の色がそうさせているものなのだろう――
まあ、そんな少々独特でアンバランスな彼の雰囲気は、研究者上がりの冒険者、というやや独特な来歴である程度説明をつける事ができなくもない。 しかしそれも、今彼が向かっているバストゥークで待つ彼のパートナー、ミスラでシーフのアルカンジェロに言わせれば、
「性格」
の一言で片付けられてしまうであろうというのが実際の所であった。
「性格」
の一言で片付けられてしまうであろうというのが実際の所であった。
さて、そんな黒魔道士の間近に、こっそり耳をそばだててみよう。
黄色いチョコボの刻む力強くリズミカルな足音の上、流れる乾いた風の中で、彼は何やら嬉しそうに呟いている。
「いやぁ、文字通りの掘り出し物だなぁ……」
黄色いチョコボの刻む力強くリズミカルな足音の上、流れる乾いた風の中で、彼は何やら嬉しそうに呟いている。
「いやぁ、文字通りの掘り出し物だなぁ……」
そう、そもそもバルトは、たいそう上機嫌だったのだ。
その彼に、一体何があったのかと言えば――
その彼に、一体何があったのかと言えば――
* * *
その日の朝一番。 彼は所用の為、コンシュタット平原にあるホラの岩へと出向いていた。
ところが、用事を終えてさあ帰るか、という段になって、帰還の呪文で辿るべきマーキングをバストゥークに置いてくるのをついうっかり忘れてしまった事にはたと彼は気付いた。
――しょうがない、一旦アルテパに飛んで、そこからコロロカの洞門を通って町に戻るかなぁ……それともズヴァールに移動してアウトポストから……でもあそこは寒いなぁ――などと考えた所で彼が思い出したのは、自分のカバンにいくつか入れっぱなしにしていたギサールの野菜。
白く巨大なホラの岩近くに常設されている出張所に声をかけ、バルトは鼻の利きそうなチョコボを一羽借りた。
手綱を引かれながらやる気いっぱいに地面をひっかく相棒にまたがり気合をくれる。 バストゥークに向け、小鳥のさえずりが聞こえる緑の平原(ラテーヌ)から土色の荒野(グスタベルグ)を目指し走り出す。 その途中、所々で好物のギサールの野菜を与え、チョコボのその大きなくちばしで地面を掘ってもらった。
すると幸運にも彼のチョコボは、希少性の高い鉱石を一つ掘り当てたのだ。 これぞまさに怪我の功名。
その石はある種の魔力を帯びる性質を持つもので、研磨精製し魔力を注ぐことで魔術師必携の呪術媒体となる貴石であった。 言うなれば宝石屋が原石を、花屋が花の種を見つけたようなものである。
とは言っても、アルカンジェロを含む同じ冒険者の仲間内から
「静寂知らずの魔術(マジック)オタク」
「神をも畏れぬ呪文(スペル)フェチ」
などなどの渾名を頂戴してへらへらと笑っている彼である。 その緑の魔石を頂く杖なぞ、当然の如くとっくに入手済みなのであった。
故にこの「掘り出し物」は、彼の身を飾る代わりにまっすぐ競売所に入れられ、彼の実益を兼ねた趣味である魔導書蒐集資金へと姿を変える、はず、だったが――
ところが、用事を終えてさあ帰るか、という段になって、帰還の呪文で辿るべきマーキングをバストゥークに置いてくるのをついうっかり忘れてしまった事にはたと彼は気付いた。
――しょうがない、一旦アルテパに飛んで、そこからコロロカの洞門を通って町に戻るかなぁ……それともズヴァールに移動してアウトポストから……でもあそこは寒いなぁ――などと考えた所で彼が思い出したのは、自分のカバンにいくつか入れっぱなしにしていたギサールの野菜。
白く巨大なホラの岩近くに常設されている出張所に声をかけ、バルトは鼻の利きそうなチョコボを一羽借りた。
手綱を引かれながらやる気いっぱいに地面をひっかく相棒にまたがり気合をくれる。 バストゥークに向け、小鳥のさえずりが聞こえる緑の平原(ラテーヌ)から土色の荒野(グスタベルグ)を目指し走り出す。 その途中、所々で好物のギサールの野菜を与え、チョコボのその大きなくちばしで地面を掘ってもらった。
すると幸運にも彼のチョコボは、希少性の高い鉱石を一つ掘り当てたのだ。 これぞまさに怪我の功名。
その石はある種の魔力を帯びる性質を持つもので、研磨精製し魔力を注ぐことで魔術師必携の呪術媒体となる貴石であった。 言うなれば宝石屋が原石を、花屋が花の種を見つけたようなものである。
とは言っても、アルカンジェロを含む同じ冒険者の仲間内から
「静寂知らずの魔術(マジック)オタク」
「神をも畏れぬ呪文(スペル)フェチ」
などなどの渾名を頂戴してへらへらと笑っている彼である。 その緑の魔石を頂く杖なぞ、当然の如くとっくに入手済みなのであった。
故にこの「掘り出し物」は、彼の身を飾る代わりにまっすぐ競売所に入れられ、彼の実益を兼ねた趣味である魔導書蒐集資金へと姿を変える、はず、だったが――
「うーん、これはなかなかいい色になりそうだ……大きさも十分だし……」
チョコボの鞍の上でバルトはその鉱石を高い日にかざし、嬉しそうにためつすがめつしながら呟いていた。 その黒い岩石質の間から覗く、乙女の纏う薄絹を思わせるような澄んだ若草色の輝きをうっとりと愛でる。
「……これだけのサイズなら、やっぱりスタッフかロッドにしてやりたいなぁ……リングやピアス用にカットされるのは忍びない……あー、スタッフに仕立てちゃおうかなー……予備にもう一本、あってもいいよなぁ……」
剣のように磨耗するでもなく、象徴や飾りにも等しい魔術媒体。 それなりに高価な値で取引される上級属性スタッフ。 そんなものに「予備」なぞ要るはずもない。
揃って首を横に振ってくれる仲間達が居合わせない為に、また彼のぞろ困った趣味が発動しそうになっていた、その時だった。
「……ん」
チョコボが走る行く手から、鋭い剣戟が一つ、彼の長く尖った耳に飛び込んできた。
チョコボの鞍の上でバルトはその鉱石を高い日にかざし、嬉しそうにためつすがめつしながら呟いていた。 その黒い岩石質の間から覗く、乙女の纏う薄絹を思わせるような澄んだ若草色の輝きをうっとりと愛でる。
「……これだけのサイズなら、やっぱりスタッフかロッドにしてやりたいなぁ……リングやピアス用にカットされるのは忍びない……あー、スタッフに仕立てちゃおうかなー……予備にもう一本、あってもいいよなぁ……」
剣のように磨耗するでもなく、象徴や飾りにも等しい魔術媒体。 それなりに高価な値で取引される上級属性スタッフ。 そんなものに「予備」なぞ要るはずもない。
揃って首を横に振ってくれる仲間達が居合わせない為に、また彼のぞろ困った趣味が発動しそうになっていた、その時だった。
「……ん」
チョコボが走る行く手から、鋭い剣戟が一つ、彼の長く尖った耳に飛び込んできた。
あらゆる場所で常に冒険者達が切磋琢磨するこのヴァナ=ディールでは特に珍しい光景という訳ではなかったが、習慣でバルトはその音がする方向を伺い――思った通り、そこに駆け出しらしき冒険者の剣を振るう姿を、彼は見つけた。
やや小柄に見えるヒュームの戦士が、自分の背丈を越えるクゥダフを相手に孤軍奮闘している。 バルトは碧色の鉱石を掲げていた腕を下ろし少し身を乗り出すと、徐々に近づくその光景に目を凝らした。
やや小柄に見えるヒュームの戦士が、自分の背丈を越えるクゥダフを相手に孤軍奮闘している。 バルトは碧色の鉱石を掲げていた腕を下ろし少し身を乗り出すと、徐々に近づくその光景に目を凝らした。
装備からして完全な初心者という訳ではなさそうだ。 怯まない太刀筋はそこそこに場慣れしていて、敵の打撃を受け止める盾にも揺るぎはない。
しかし彼の息は意外なほど上がっており、やや切迫した雰囲気が遠目にも見て取れた。 戦局そのものは戦士の方が僅かに有利、決着はもうじきといった感じだが、いかにも辛そうな彼の表情には明らかな焦りの色が滲んでいる。 体の動き全体が疲労に重くなっている。
――もしかしたら既に一匹を打ち倒した後で、不意の連戦を強いられているのかもしれないな――
そう読んだバルトは手にしていた鉱石をポケットにしまうと、礼の代わりにその巨鳥の逞しい首筋をぽんと一つ叩いて、走るチョコボからひらりと飛び降りた。 その重厚な足音が遠ざかる中体勢を整え、魔力の飛距離に戦士を捉えてすぅっと胸に空気を含む。
しかし彼の息は意外なほど上がっており、やや切迫した雰囲気が遠目にも見て取れた。 戦局そのものは戦士の方が僅かに有利、決着はもうじきといった感じだが、いかにも辛そうな彼の表情には明らかな焦りの色が滲んでいる。 体の動き全体が疲労に重くなっている。
――もしかしたら既に一匹を打ち倒した後で、不意の連戦を強いられているのかもしれないな――
そう読んだバルトは手にしていた鉱石をポケットにしまうと、礼の代わりにその巨鳥の逞しい首筋をぽんと一つ叩いて、走るチョコボからひらりと飛び降りた。 その重厚な足音が遠ざかる中体勢を整え、魔力の飛距離に戦士を捉えてすぅっと胸に空気を含む。
「……遥か青緑の流れにたゆとう光、時を貫きこの地に出でよ……」
流れるように、中程度の回復呪文を囁く。 するとヒュームの戦士の周囲に薄い霧のような輝きが現れ、その体を包んだ。 突如として湧き上がる光と不思議に賦活する体に驚いて、戦士がはっと周囲を見回す。 肩越しに振り返る。 両者の視線が一瞬合った。
若い。 ――いや、少年と言ってもいいような、かすかにあどけなさすら残るその冒険者の顔を、バルトは認めた。 熱い覇気に満ちた鳶色の瞳と、ぴんと張って汗に光る肌が彼の目を射る。
と、思わず笑みを浮かべそうになるバルトの視線の先で、直立歩行をする巨大な亀がその手にした棍棒を大きく振り上げた。
危ない――と叫ぶ必要はなかった。 バルトがぎゅっと表情を引き締めたのを見て取った歳若い戦士は、すぐさま顔を正面に戻すと瞬発力の戻った足で横ざまに飛びすさり、まっすぐ降ってきた敵の一撃を紙一重でかわした。 そのまま手にした剣を素早く振りかぶる。
黒魔道士が見守る中、軽さを蘇らせた刃は見事に閃いて、敵の首筋を真一文字に切り裂いた。 濁った叫び声を最後に、獣人はずしんと膝をつくとゆっくり大地に崩れ落ち、静かに灰塵へと戻っていったのだった。
流れるように、中程度の回復呪文を囁く。 するとヒュームの戦士の周囲に薄い霧のような輝きが現れ、その体を包んだ。 突如として湧き上がる光と不思議に賦活する体に驚いて、戦士がはっと周囲を見回す。 肩越しに振り返る。 両者の視線が一瞬合った。
若い。 ――いや、少年と言ってもいいような、かすかにあどけなさすら残るその冒険者の顔を、バルトは認めた。 熱い覇気に満ちた鳶色の瞳と、ぴんと張って汗に光る肌が彼の目を射る。
と、思わず笑みを浮かべそうになるバルトの視線の先で、直立歩行をする巨大な亀がその手にした棍棒を大きく振り上げた。
危ない――と叫ぶ必要はなかった。 バルトがぎゅっと表情を引き締めたのを見て取った歳若い戦士は、すぐさま顔を正面に戻すと瞬発力の戻った足で横ざまに飛びすさり、まっすぐ降ってきた敵の一撃を紙一重でかわした。 そのまま手にした剣を素早く振りかぶる。
黒魔道士が見守る中、軽さを蘇らせた刃は見事に閃いて、敵の首筋を真一文字に切り裂いた。 濁った叫び声を最後に、獣人はずしんと膝をつくとゆっくり大地に崩れ落ち、静かに灰塵へと戻っていったのだった。
* * *
剣の切っ先を地に下ろして、息を切らし背を向けたままの戦士は構えを解く。
ふ、と軽い安堵の息をつくバルトは、その場でもう一度呪文を唱え出した。 不可視の鎧と精神の衣だけ付与してから去ろうと思ったのだ。
窮地に立つ冒険者を――それが初心者なら尚更――見過ごせない性質の黒魔道士。 しかしそれと同じくらいに、魔術が活躍できる場に遭遇すると大人しくしていられないのが彼だった……が。
ふ、と軽い安堵の息をつくバルトは、その場でもう一度呪文を唱え出した。 不可視の鎧と精神の衣だけ付与してから去ろうと思ったのだ。
窮地に立つ冒険者を――それが初心者なら尚更――見過ごせない性質の黒魔道士。 しかしそれと同じくらいに、魔術が活躍できる場に遭遇すると大人しくしていられないのが彼だった……が。
「――すいません、いいです」
再度の詠唱の声に振り向いたその戦士が、少し苦々しげにバルトに向かってそんな事を言ったのだ。
は、という少し間の抜けた音で、彼の呪文が止まる。 行き場を失った純白の泡が、目の前でぱちんと弾けて消えた。
「ごめんなさい、回復してくれた事は感謝します、でも俺、戦いの途中で自分だけ体力が戻ったりとか見えない細工をしたりとか、そういうの嫌なんだ」
まだ上気している顔をきっと上げて、訴えるような口調で少年は続ける。 それを聞くバルトの脳内を疑問符だけが駆け巡っていた。
無理もない。 それはあまりに意外な――いや、今だかつて聞いた事すらない、不遜とも不条理とも言える抗議の言葉だ。 厚意で手助けした側としては白けるべき、あるいはああそうですかと立ち去るべき所だろう。
再度の詠唱の声に振り向いたその戦士が、少し苦々しげにバルトに向かってそんな事を言ったのだ。
は、という少し間の抜けた音で、彼の呪文が止まる。 行き場を失った純白の泡が、目の前でぱちんと弾けて消えた。
「ごめんなさい、回復してくれた事は感謝します、でも俺、戦いの途中で自分だけ体力が戻ったりとか見えない細工をしたりとか、そういうの嫌なんだ」
まだ上気している顔をきっと上げて、訴えるような口調で少年は続ける。 それを聞くバルトの脳内を疑問符だけが駆け巡っていた。
無理もない。 それはあまりに意外な――いや、今だかつて聞いた事すらない、不遜とも不条理とも言える抗議の言葉だ。 厚意で手助けした側としては白けるべき、あるいはああそうですかと立ち去るべき所だろう。
にも関わらず。 バルトはまるで時間を止められたようにその場に立ち尽くし、そして一つも言葉を発することができずにいた。
まるで春先の太陽が己を覆う灰色の雲に対して怒ってでもいるかの如く、きっぱりと無垢で眩しい。 そんな風に、その少年は彼の瞳に映っていたからだ。 その姿に、瞬間、言葉を奪われた。
だって――と、太陽は続ける。
「ズルじゃないか、そんなの」
「……へ?」
責めるような少年の言葉に、彼はぽかんと口を開けた。
まるで春先の太陽が己を覆う灰色の雲に対して怒ってでもいるかの如く、きっぱりと無垢で眩しい。 そんな風に、その少年は彼の瞳に映っていたからだ。 その姿に、瞬間、言葉を奪われた。
だって――と、太陽は続ける。
「ズルじゃないか、そんなの」
「……へ?」
責めるような少年の言葉に、彼はぽかんと口を開けた。
「戦ってのは命と命の削り合いでしょう。 互いに全力でぶつかって最後に立っていた方が勝者なのに、それを途中で巻き戻し、なんて――フェアじゃない。 俺は戦士として、自分の力で正々堂々と戦いたいんだ」
――魔物の中にも不思議な力で体力を回復するものはいるし、人と同じように魔術で体を鎧うものもいるよ――
開いたままのバルトの口は、そんなありきたりな反論ひとつ紡げない。
不思議と憤りの感情は姿を現さなかった。 少年が皮肉でも何でもなく心底そう思っているのが、その少し不機嫌そうな中にも真摯な表情からひしひしと伝わって来るのだ。 鳶色の瞳が、痛いくらいまっすぐバルトを見据えている。
開いたままのバルトの口は、そんなありきたりな反論ひとつ紡げない。
不思議と憤りの感情は姿を現さなかった。 少年が皮肉でも何でもなく心底そう思っているのが、その少し不機嫌そうな中にも真摯な表情からひしひしと伝わって来るのだ。 鳶色の瞳が、痛いくらいまっすぐバルトを見据えている。
発展途上の生命体だけが持つ尖った矜持は単純故に結晶のように清冽で力強く、無鉄砲とか世間知らずなどという無粋な単語を寄せ付けさえしなかった。 だから声が出ない。
お得意の理屈の全てが麻痺し、目の前の存在に淡い感嘆すら覚えながら立ち尽くす己を、いつしかバルトは自覚していた。
お得意の理屈の全てが麻痺し、目の前の存在に淡い感嘆すら覚えながら立ち尽くす己を、いつしかバルトは自覚していた。
「だから――ありがとうございました、でも、すいません」
最後にそう言うとヒュームの少年はぶっきらぼうに頭を下げ、くるりとバルトに背を向けて走り去って行った。
残されたエルヴァーンの黒魔道士は、遠ざかる少年の背中を呆けたような表情で見送る。
そしてその姿が、茶色い大地が巻き上げる砂埃の向こうに完全に見えなくなってからたっぷり一分。
ひゅうと吹く乾いた風の中、彼はまるで銅像のようにその場に突っ立っていたのだった。
最後にそう言うとヒュームの少年はぶっきらぼうに頭を下げ、くるりとバルトに背を向けて走り去って行った。
残されたエルヴァーンの黒魔道士は、遠ざかる少年の背中を呆けたような表情で見送る。
そしてその姿が、茶色い大地が巻き上げる砂埃の向こうに完全に見えなくなってからたっぷり一分。
ひゅうと吹く乾いた風の中、彼はまるで銅像のようにその場に突っ立っていたのだった。
* * *
「串焼きにパイにドリンクー、いかがっすかー、お安くしときますよー」
「観光協会のお仕事に行かれる方ー、いらっしゃいませんかーぁ」
「バストゥーク名物錆びバケツ、今ならもれなく一つ百ギル!」
「観光協会のお仕事に行かれる方ー、いらっしゃいませんかーぁ」
「バストゥーク名物錆びバケツ、今ならもれなく一つ百ギル!」
商業区の広場を賑わす人々の声に包まれて、バルトはぼうっと足を進めていた。 風物詩的に飛び交う売り子の宣伝文句も仲間を募る冒険者の声も、その耳に届いているが聞こえてはいない。
はぁ、と黒魔道士は溜息をついた。
はぁ、と黒魔道士は溜息をついた。
奇妙な寂しさが剥がれない。 あの少年に抱いた感嘆と驚愕が去った後に残ったのは、憤慨でも諦観でもなかった。 自分の影を引きずって歩きながら彼は、太陽の輝く天を軽く仰ぐ。
「ズル……かぁ……」
「ズル……かぁ……」
――魔導の魅力に、人生の大半を捧げてきたのだ。
――決して楽ではなかったこの道のり、今更他者の拒絶の一つや二つで揺らいだりしない。
――仲間も経験も戦場も歴史も、自分の味方だ。
――けれど――
――決して楽ではなかったこの道のり、今更他者の拒絶の一つや二つで揺らいだりしない。
――仲間も経験も戦場も歴史も、自分の味方だ。
――けれど――
「…………の、あの……」
「――え、あ」
ふと、足元から自分に向けて発されている声に気付き、バルトは慌てて我に返った。 見下ろせば、小さなタルタルの少女がもどかしげに彼を見上げている。
「すみません、あのっ、黒魔道士の方でいらっしゃいますよね……?」
「あ――ええ」
意味もなくどきりとしながらバルトは頷く。 黒いローブが揺れた。 タルタルは言う。
「あの、もしできたら、私に帰還の呪文をお願いできませんでしょうか? 急いでウィンダスに戻らなければいけなくなってしまって――えと、勿論お礼は」
「ああ……」
ふうと肩の力を抜いて、バルトは表情を和らげる。
そして住所を述べるような気軽な口調で、彼女に求められた呪文の詠唱を始めた。 程なく低い唸りと共に小さなタルタルの周囲の空間が歪み出す。
「えっ、あの――」
財布か何かを出そうとしてか腰のポーチを探っていた彼女は、驚き慌てたように黒魔道士を見上げる。 慣れた手つきで虚空に印を描き詠唱を続けながら、バルトは微笑んで首を横に振った。
「……すみません、ありがとうございます!」
嬉しそうに笑ってぺこりとお辞儀するタルタルの少女。 完成した呪文と共にその小さな姿は時空を抜け、普通に移動すれば一日以上かかる遥か海の向こうのウィンダスへと一瞬にして飛んでいった。
「――え、あ」
ふと、足元から自分に向けて発されている声に気付き、バルトは慌てて我に返った。 見下ろせば、小さなタルタルの少女がもどかしげに彼を見上げている。
「すみません、あのっ、黒魔道士の方でいらっしゃいますよね……?」
「あ――ええ」
意味もなくどきりとしながらバルトは頷く。 黒いローブが揺れた。 タルタルは言う。
「あの、もしできたら、私に帰還の呪文をお願いできませんでしょうか? 急いでウィンダスに戻らなければいけなくなってしまって――えと、勿論お礼は」
「ああ……」
ふうと肩の力を抜いて、バルトは表情を和らげる。
そして住所を述べるような気軽な口調で、彼女に求められた呪文の詠唱を始めた。 程なく低い唸りと共に小さなタルタルの周囲の空間が歪み出す。
「えっ、あの――」
財布か何かを出そうとしてか腰のポーチを探っていた彼女は、驚き慌てたように黒魔道士を見上げる。 慣れた手つきで虚空に印を描き詠唱を続けながら、バルトは微笑んで首を横に振った。
「……すみません、ありがとうございます!」
嬉しそうに笑ってぺこりとお辞儀するタルタルの少女。 完成した呪文と共にその小さな姿は時空を抜け、普通に移動すれば一日以上かかる遥か海の向こうのウィンダスへと一瞬にして飛んでいった。
―― ズルじゃないか、そんなの ――
すう、とバルトの微笑みはかき消える。
落とした視線の先、両の手のひらにうっすらと残る魔力の残滓。 それを初めてほろ苦く感じた。
所在なさげに握ったり開いたりする仕草に、またかすかな溜め息が漏れる。 その吐息を押し込めるようにポケットに手を突っ込んで、彼は再度のろのろと歩き出した。
「――あ」
と、その指先にごつごつとした硬いものが当たった事に彼は気付く。 すっかり存在を忘れていた、碧色の石だ。
その塊を掴んで取り出すと、彼はそれを手に乗せてぼんやりと眺めた。 岩肌の合間から覗く若草色が、日の光を受けて優しくバルトに微笑みかけている。
落とした視線の先、両の手のひらにうっすらと残る魔力の残滓。 それを初めてほろ苦く感じた。
所在なさげに握ったり開いたりする仕草に、またかすかな溜め息が漏れる。 その吐息を押し込めるようにポケットに手を突っ込んで、彼は再度のろのろと歩き出した。
「――あ」
と、その指先にごつごつとした硬いものが当たった事に彼は気付く。 すっかり存在を忘れていた、碧色の石だ。
その塊を掴んで取り出すと、彼はそれを手に乗せてぼんやりと眺めた。 岩肌の合間から覗く若草色が、日の光を受けて優しくバルトに微笑みかけている。
が、チョコボの背で感じた浮き立つような高揚感は、彼の中からすっかり姿を消していた。
心なしか手にかかる重量すらも増えたような錯覚を覚えて、バルトはもう何度目か知れない溜息をつく。
愛しいはずのその輝きが自分の中で色あせてしまった光景はもはや切なく重たいばかりで、彼は寄宿舎へ向かう足を止めると、大きな噴水の向こうに見える競売所にちらりと視線を送った。
つと踵を返して飛沫のきらめく噴水を回り込み、ずらりと並ぶカウンターに続く石段を登る。 鉱石を握ったままその一つの前に立って――唸るように動きを止めた。
まるで「飼えないから捨てていらっしゃい」と言われた子犬を抱いた子供のように眉を曇らせる。 カウンターという段ボール箱に、近付いては離れてを繰り返すバルト。
心なしか手にかかる重量すらも増えたような錯覚を覚えて、バルトはもう何度目か知れない溜息をつく。
愛しいはずのその輝きが自分の中で色あせてしまった光景はもはや切なく重たいばかりで、彼は寄宿舎へ向かう足を止めると、大きな噴水の向こうに見える競売所にちらりと視線を送った。
つと踵を返して飛沫のきらめく噴水を回り込み、ずらりと並ぶカウンターに続く石段を登る。 鉱石を握ったままその一つの前に立って――唸るように動きを止めた。
まるで「飼えないから捨てていらっしゃい」と言われた子犬を抱いた子供のように眉を曇らせる。 カウンターという段ボール箱に、近付いては離れてを繰り返すバルト。
結局。
なかなか返ってこない彼を探して寄宿舎を出てきたアルカンジェロに、何してるの? と肩を叩かれるまで、バルトはそうして哀しげに石を抱えたまま競売所の前をうろうろとしていたのだった。
なかなか返ってこない彼を探して寄宿舎を出てきたアルカンジェロに、何してるの? と肩を叩かれるまで、バルトはそうして哀しげに石を抱えたまま競売所の前をうろうろとしていたのだった。
* * *
数日後。 夕闇迫るバストゥーク、港区。
飛空挺の発着所を臨む波止場の淵に、一人のヒュームの少女がちょこんと腰掛けていた。
質素だけれど可憐な町着が、野の花のようにかわいらしい彼女によく似合っている。 小さな竪琴を抱えてぼんやりと水面を眺める瞳は、潮に照り返す静かな夕焼けを映す黒水晶のようだ。
ひとつふたつ、時折り琴を弾く指。 張っていない弦のようにしなやかな、黒く長い髪。 人待ち顔の少女をかすかな潮風が包んでいた。
質素だけれど可憐な町着が、野の花のようにかわいらしい彼女によく似合っている。 小さな竪琴を抱えてぼんやりと水面を眺める瞳は、潮に照り返す静かな夕焼けを映す黒水晶のようだ。
ひとつふたつ、時折り琴を弾く指。 張っていない弦のようにしなやかな、黒く長い髪。 人待ち顔の少女をかすかな潮風が包んでいた。
暖かい夕日が、遠くそびえる大工房の一番高い煙突に並んだ頃。
「――メアリ!」
「――メアリ!」
背後から弾けるように呼ばれた自分の名に、少女は嬉しそうに振り返った。
「お帰りなさい、ヤン」
メアリはそう言って明るく微笑むと、鳶色の瞳を輝かせて駆け寄ってくるその少年を迎えた。
笑顔を返しながら軽やかに彼女の隣までやって来たヤンは、そのすぐ隣に並んで座る。 どちらかと言うと簡素な戦士の武具が、波止場の硬い地面でかしゃんと音を立てた。
まるで離れていた工具が工具箱の中で隣同士の定位置に戻ったような、すっぽりと暖かい安堵の空気が二人を抱きかかえる。
「お帰りなさい、ヤン」
メアリはそう言って明るく微笑むと、鳶色の瞳を輝かせて駆け寄ってくるその少年を迎えた。
笑顔を返しながら軽やかに彼女の隣までやって来たヤンは、そのすぐ隣に並んで座る。 どちらかと言うと簡素な戦士の武具が、波止場の硬い地面でかしゃんと音を立てた。
まるで離れていた工具が工具箱の中で隣同士の定位置に戻ったような、すっぽりと暖かい安堵の空気が二人を抱きかかえる。
「お帰りなさい、修練はどうだった? 怪我とかしてない?」
メアリは改めて言うと、優しく首をかしげヤンの顔を覗き込んだ。 少年は頼もしげに頷いて答える。
「ああ、この通り問題ないよ。 勿論楽じゃないけど、様子を見ながら少しずつ強い敵にも挑んでるんだ。 今の所全勝さ」
海に向かって胸を張り、ヤンは誇らしげに言う。 そう、と優しい吐息を漏らすメアリに、彼は土産話のように数々の冒険譚を語り始めた。
荒野の岩山を登った先にあった石碑。 硫黄の臭いが立ち込める谷間、そこに潜む未知の敵。
その熱っぽい口調は、少しずつ広がっていく自分の世界の半径に抑えきれない彼の、勇敢な興奮と喜びそのものだった。
メアリは改めて言うと、優しく首をかしげヤンの顔を覗き込んだ。 少年は頼もしげに頷いて答える。
「ああ、この通り問題ないよ。 勿論楽じゃないけど、様子を見ながら少しずつ強い敵にも挑んでるんだ。 今の所全勝さ」
海に向かって胸を張り、ヤンは誇らしげに言う。 そう、と優しい吐息を漏らすメアリに、彼は土産話のように数々の冒険譚を語り始めた。
荒野の岩山を登った先にあった石碑。 硫黄の臭いが立ち込める谷間、そこに潜む未知の敵。
その熱っぽい口調は、少しずつ広がっていく自分の世界の半径に抑えきれない彼の、勇敢な興奮と喜びそのものだった。
「頑張ってるのねぇ……」
ヤンが長い話を一息区切った所で、メアリがぽつりと言った。 その呟きに、彼はふと視線を隣に座る少女へと戻す。 メアリの素直な喜びにほころぶ桃色の頬の上、その瞳が少しだけ気遣わしげな色を見せている事に彼は気付いた。 メアリは言う。
「すごく興奮して嬉しそうだから、何だか逆に心配だわ。 ――ね、無茶だけはしないでね? まだ修行も始めたばかりなんだし……怖いモンスターに遭って大怪我した、なんて、嫌よ、私」
膝に乗せた小さな竪琴を軽く抱いた、メアリの不安げな言葉。 それを聞いてヤンは、少し浮かれていた口調を改めるとしっかりと頷いて見せる。
「うん、判ってるよ。 大丈夫。 ――立派な戦士になる為にはまだまだ経験が必要だし、その途中できっと危険な目に遭うかもしれない。 けど、君を悲しませるような事だけはしないって、そう約束しただろ?」
彼女を見つめて力強く答える。 彼の声は汗と努力と信念に裏打ちされ、若々しい自信に満ちていた。 それを聞いたメアリはゆっくりと微笑む。
「うん――うん、そうよね。 判った、もう言わないわ」
頷く彼女に、ヤンは満たされたような笑顔を返して。
帰路を辿る夕日が、町を囲む岩山の稜線に降り立った。
ヤンが長い話を一息区切った所で、メアリがぽつりと言った。 その呟きに、彼はふと視線を隣に座る少女へと戻す。 メアリの素直な喜びにほころぶ桃色の頬の上、その瞳が少しだけ気遣わしげな色を見せている事に彼は気付いた。 メアリは言う。
「すごく興奮して嬉しそうだから、何だか逆に心配だわ。 ――ね、無茶だけはしないでね? まだ修行も始めたばかりなんだし……怖いモンスターに遭って大怪我した、なんて、嫌よ、私」
膝に乗せた小さな竪琴を軽く抱いた、メアリの不安げな言葉。 それを聞いてヤンは、少し浮かれていた口調を改めるとしっかりと頷いて見せる。
「うん、判ってるよ。 大丈夫。 ――立派な戦士になる為にはまだまだ経験が必要だし、その途中できっと危険な目に遭うかもしれない。 けど、君を悲しませるような事だけはしないって、そう約束しただろ?」
彼女を見つめて力強く答える。 彼の声は汗と努力と信念に裏打ちされ、若々しい自信に満ちていた。 それを聞いたメアリはゆっくりと微笑む。
「うん――うん、そうよね。 判った、もう言わないわ」
頷く彼女に、ヤンは満たされたような笑顔を返して。
帰路を辿る夕日が、町を囲む岩山の稜線に降り立った。
「メアリの方も、歌の練習は順調なの? 先生に新しい曲を教わった?」
彼女の竪琴に視線を落としたヤンは優しく言った。 と、それをくすぐったがるかのようにメアリは小さく答える。
「あ――ええ、ヤンが外に行ってる間にね、またいくつか覚えたのよ。 ちょっと難しくて、まだ自信がないんだけど――」
「聞かせてよ。 練習も兼ねてさ」
彼女の竪琴に視線を落としたヤンは優しく言った。 と、それをくすぐったがるかのようにメアリは小さく答える。
「あ――ええ、ヤンが外に行ってる間にね、またいくつか覚えたのよ。 ちょっと難しくて、まだ自信がないんだけど――」
「聞かせてよ。 練習も兼ねてさ」
二人の頭上に、一番星が瞬き始める。
暗くなり始めた東の空で、上がる跳ね橋の影がゆっくりと大きな二つの弧を描いた。 遠くジュノから宙を駆けて来た飛空挺。 滑るように港へと舞い降りるその影。
ざぁん――という水音と飛沫を振りまいて、巨大な船はまるで波を切る鯨のように二人の前を横切ると、ゆったりと減速して桟橋に身を寄せ、静かに泊まった。
暗くなり始めた東の空で、上がる跳ね橋の影がゆっくりと大きな二つの弧を描いた。 遠くジュノから宙を駆けて来た飛空挺。 滑るように港へと舞い降りるその影。
ざぁん――という水音と飛沫を振りまいて、巨大な船はまるで波を切る鯨のように二人の前を横切ると、ゆったりと減速して桟橋に身を寄せ、静かに泊まった。
「……笑っちゃだめよ? まだ完璧じゃないんだからね」
「笑うもんか。 大体メアリの歌が間違ったり下手だったりしたのを、今まで聞いた事がない」
「それはね、ヤンに聴く耳がないだけよ」
くすりと笑うと、メアリは胸元に彼女の竪琴を抱いた。 ヤンは少し背筋を伸ばす。
ぽろん、と最初の音を細い弦が紡いで、柔らかい歌声が静かな水面に流れ始めた。
「笑うもんか。 大体メアリの歌が間違ったり下手だったりしたのを、今まで聞いた事がない」
「それはね、ヤンに聴く耳がないだけよ」
くすりと笑うと、メアリは胸元に彼女の竪琴を抱いた。 ヤンは少し背筋を伸ばす。
ぽろん、と最初の音を細い弦が紡いで、柔らかい歌声が静かな水面に流れ始めた。
雲雀がさえずるような、鳶が呼ぶような。 そんなメアリの伸びやかで澄んだ歌声が、ヤンは大好きだった。
高く低く生まれる声が胸に流れ込むと、それがそのまま透明なエネルギーになっていくような思いがする。 あらゆる疲れが吹き飛ぶ。 何でも出来そうな気になる。
気持ちが落ち着いて、いつまでもこうしていたいと願ってしまう――
高く低く生まれる声が胸に流れ込むと、それがそのまま透明なエネルギーになっていくような思いがする。 あらゆる疲れが吹き飛ぶ。 何でも出来そうな気になる。
気持ちが落ち着いて、いつまでもこうしていたいと願ってしまう――
客の入れ替えを済ませた飛空挺のプロペラが、新たな唸りを上げた。 ゆっくりと速度を上げながら水の上で大きくターンし、港の向こう側で取った助走を力にしてまた悠然と空へ舞い上がって行く。
星を目指す船が蹴立てた波のかけらが、二人の水際に下ろした足元まで寄せてきた。
星を目指す船が蹴立てた波のかけらが、二人の水際に下ろした足元まで寄せてきた。
少年は少女の歌声にうっとりと聞き入りながら、そのさざめきを眺めるともなく眺めている。
しかし彼の目に映っているのは、流れる優しいメロディと歌が、それを奏でる彼女のつま先から丸い波紋となって水面に広がっていく――そんなささやかな幻想だった。
しかし彼の目に映っているのは、流れる優しいメロディと歌が、それを奏でる彼女のつま先から丸い波紋となって水面に広がっていく――そんなささやかな幻想だった。
* * *
空へと駆け上がっていく飛空挺(ふね)。
その足元、波止場に寄り添うように座る二人の小さな後姿を、高みにある大通りの一角から遠くぼんやりと見下ろす人影があった。
短い白髪のエルヴァーン――道に沿った石塀に両肘をつく、バルトだ。
潮風に乗ってかすかに流れてくる少女の可憐な歌声は、そこに立つ彼の鼓膜も楽しませていた。 しかしその、どこか虚ろで寂しげな表情を和ませるまでには至らずに――
その足元、波止場に寄り添うように座る二人の小さな後姿を、高みにある大通りの一角から遠くぼんやりと見下ろす人影があった。
短い白髪のエルヴァーン――道に沿った石塀に両肘をつく、バルトだ。
潮風に乗ってかすかに流れてくる少女の可憐な歌声は、そこに立つ彼の鼓膜も楽しませていた。 しかしその、どこか虚ろで寂しげな表情を和ませるまでには至らずに――
「ただいまぁ」
そんな背中に朗らかな声。 振り返ると、飛空挺発着所の扉から出てきたミスラが、彼に歩み寄りながらひらひらと手を振っていた。
トレードマークのベレー帽をかぶった、茶色いおかっぱ頭の彼女――アルカンジェロにバルトは微笑んで、おかえりルカ、と言った。
そんな背中に朗らかな声。 振り返ると、飛空挺発着所の扉から出てきたミスラが、彼に歩み寄りながらひらひらと手を振っていた。
トレードマークのベレー帽をかぶった、茶色いおかっぱ頭の彼女――アルカンジェロにバルトは微笑んで、おかえりルカ、と言った。
「いやー、飛空挺が混んでてさー。 もう座る場所もないもんだから、久し振りに甲板なんかに上がっちゃった。 たまにはいいもんだねぇ」
言葉と一緒に長い尻尾をふよふよと揺らしながら、ルカはのんびりと彼の隣までやって来る。
――そう言えば、彼女は猫耳は神経質なまでに隠すくせに、尻尾は隠さない。 服装の露出もミスラにしては極端に低い方だ。
ちゃんと服を着て耳が見えない方が、ヒュームやエルヴァーンに混じる上で目立たないでしょう――という理由を聞いたことがあるが、なら尻尾はいいのだろうか。
ミスラであることを隠したいのか隠したくないのか。 頭隠して尻隠さず、の諺を地で行くが如き滑稽寸前のその行動は、実はレーシャルアイデンティティvs職業理念という、微妙にして壮絶なる鬩ぎ合いのぎりぎりの境界線なのかもしれない――
彼女を伴侶とする黒魔道士は、頭の中で言葉を使わずに、そんなことをぼんやりと思うともなく思ってみたのだった。
と、そのバルトの顔を見たルカは首をかしげ、うん? という表情になる。 彼の物思いを読み取ったのではなく、彼女を迎えるその笑顔に、少し覇気がないのに気付いたのだ。
バルトはそんな彼女に投げ掛けられた疑問の眼差しをふと外すと、無言でその視線を波止場の二人へと戻した。
「……あら、可愛いカップル」
その先に目をやって、ルカは言った。 バルトがしているように自分も石塀にもたれ、夕景に溶け込むような二つの影を並んで眺める。 潮風が小さな歌声を彼女の耳にも運ぶと、茶色い髪のミスラはふうと目を細めて言った。
「戦士の男の子と、歌唄いの女の子かぁ。 絵になる……って言うか、うん、眩しいね」
小さな笑みを含んだルカの言葉に、バルトも薄く鼻で笑った。
言葉と一緒に長い尻尾をふよふよと揺らしながら、ルカはのんびりと彼の隣までやって来る。
――そう言えば、彼女は猫耳は神経質なまでに隠すくせに、尻尾は隠さない。 服装の露出もミスラにしては極端に低い方だ。
ちゃんと服を着て耳が見えない方が、ヒュームやエルヴァーンに混じる上で目立たないでしょう――という理由を聞いたことがあるが、なら尻尾はいいのだろうか。
ミスラであることを隠したいのか隠したくないのか。 頭隠して尻隠さず、の諺を地で行くが如き滑稽寸前のその行動は、実はレーシャルアイデンティティvs職業理念という、微妙にして壮絶なる鬩ぎ合いのぎりぎりの境界線なのかもしれない――
彼女を伴侶とする黒魔道士は、頭の中で言葉を使わずに、そんなことをぼんやりと思うともなく思ってみたのだった。
と、そのバルトの顔を見たルカは首をかしげ、うん? という表情になる。 彼の物思いを読み取ったのではなく、彼女を迎えるその笑顔に、少し覇気がないのに気付いたのだ。
バルトはそんな彼女に投げ掛けられた疑問の眼差しをふと外すと、無言でその視線を波止場の二人へと戻した。
「……あら、可愛いカップル」
その先に目をやって、ルカは言った。 バルトがしているように自分も石塀にもたれ、夕景に溶け込むような二つの影を並んで眺める。 潮風が小さな歌声を彼女の耳にも運ぶと、茶色い髪のミスラはふうと目を細めて言った。
「戦士の男の子と、歌唄いの女の子かぁ。 絵になる……って言うか、うん、眩しいね」
小さな笑みを含んだルカの言葉に、バルトも薄く鼻で笑った。
片やギルドを放逐された、未曾有の力を使う黒魔道士。
片やギルドから追放、闇から闇へと抹消されかけた元裏稼業のシーフ。
眼下で無垢な歌声に身を浸す二人と引き比べてしまえば、この二人の取り合わせに少しばかり「スレた」印象が与えられてしまうのは、仕方のない所だろう。
片やギルドから追放、闇から闇へと抹消されかけた元裏稼業のシーフ。
眼下で無垢な歌声に身を浸す二人と引き比べてしまえば、この二人の取り合わせに少しばかり「スレた」印象が与えられてしまうのは、仕方のない所だろう。
わずかな空白が場に降りる。 基本的にお喋りなはずの彼が何故か口を開かずに見せ続ける、どこか憂いを含んだ表情――それをつい最近も見た事を、沈黙の中でルカは思い出す。
「……あの男の子なの?」
そう訊くと、うん、とバルトは頷いた。
「……あの男の子なの?」
そう訊くと、うん、とバルトは頷いた。
彼の魔法での援助を断った、若い戦士がいたと言う。
数日前に南グスタベルグで起こったその顛末をぽつりぽつりと話してくれた時の彼の様子を、ルカはよく覚えていた。 しょぼんと垂れた耳の先。
思い出す彼女の隣で、ようやくバルトは口を開いた。
「……歌だってさ、魔法みたいなものじゃないか」
「ん? そう?」
そうさ、とバルトは、石塀の上で組むように重ねる腕に顎を乗せた。
「ふぅん……ほら、そんなに拗ねないの。 引きずってるなぁ」
くすくすと笑ってルカは手を上げ、彼の白い髪を撫でる。 波止場を見下ろす目をしばたいてバルトは言った。
「別に、拗ねてはないけどさ」
――じゃあ、ちょっとへの字のその唇はなぁに――と言う代わりに、ルカは促すように訊いてやる。
「で? 歌の、どこらへんが魔法と似てるの?」
「うん……」
ミスラの水向けに小さく答える彼の瞳の奥で、何かがすぅっと整頓されていくのが見えた。 彼は言う。
「まず――魔法ってのは、突き詰めれば――精神と、言葉の力だ」
数日前に南グスタベルグで起こったその顛末をぽつりぽつりと話してくれた時の彼の様子を、ルカはよく覚えていた。 しょぼんと垂れた耳の先。
思い出す彼女の隣で、ようやくバルトは口を開いた。
「……歌だってさ、魔法みたいなものじゃないか」
「ん? そう?」
そうさ、とバルトは、石塀の上で組むように重ねる腕に顎を乗せた。
「ふぅん……ほら、そんなに拗ねないの。 引きずってるなぁ」
くすくすと笑ってルカは手を上げ、彼の白い髪を撫でる。 波止場を見下ろす目をしばたいてバルトは言った。
「別に、拗ねてはないけどさ」
――じゃあ、ちょっとへの字のその唇はなぁに――と言う代わりに、ルカは促すように訊いてやる。
「で? 歌の、どこらへんが魔法と似てるの?」
「うん……」
ミスラの水向けに小さく答える彼の瞳の奥で、何かがすぅっと整頓されていくのが見えた。 彼は言う。
「まず――魔法ってのは、突き詰めれば――精神と、言葉の力だ」
そのままの姿勢で、そのままの表情で、黒魔道士は喋り出した。 岩山の向こうに沈み始める夕日に気付いたように、大通りを飾る街灯がぽうと人工的な灯りをともし始める――
「人間の発する言葉には、意味という力がある。 一部でコトダマと呼ばれる考え方だけど……その、意味に魔力を混ぜて示す事で、普段はただの思いである所の人間の精神力から、物理的な奇跡が組成されるんだ。 風火水土の世界を、俺達の願いに巻き込む――平たく言えば、意思を意味にして自分と世界に『言い聞かせる』ことで、双方を『その気にさせる』のが魔術だ。 人は自分が竜巻を起こせると信じ、世界は呪文と印の意味に込められた人の願いに動いてしまう。 そして両者の合意の元に、竜巻(トルネド)が、地震(クエイク)が、天変地異が起動する――」
ふてくされた駄々っ子のように少し尖った彼の唇から滑り出るのは、ひたすら難解な言葉の羅列。 そのちぐはぐな情景を、ルカは静かに見守る。 そこに流れるのは少女の唄声。
「――言葉を使って、原始の領域に精神力で食い込む。 人間にしか通じなかったはずの言葉を、魔力ずくで世界に関与する手足に挿げ替える。 肉体的に脆弱な人類が獲得した牙の終着点の一つ、それが魔法だ――」
「ふぅん……成程ね。 それなら、歌は?」
「ふぅん……成程ね。 それなら、歌は?」
ルカは無意識に、彼を彼の言葉の力に委ねていた。
彼が魔術について語る時、そこにはいつも貪欲な情念がある。 きっと同種の魔道士ならば即座に共鳴し熱い議論を始めたがるであろうその思いを、言葉に乗せさせる――それがこのエルヴァーンには何よりの活性剤となる事を、ルカは知っていた。
彼が魔術について語る時、そこにはいつも貪欲な情念がある。 きっと同種の魔道士ならば即座に共鳴し熱い議論を始めたがるであろうその思いを、言葉に乗せさせる――それがこのエルヴァーンには何よりの活性剤となる事を、ルカは知っていた。
「歌ってのは――突き詰めれば、リズムと言葉の力」
黒魔道師は続ける。 視線の下、黒髪の少女が歌う声にじっと聞き入る少年のその後ろ姿に、遠慮がちに訴えかけるように。
「――人間に限らずどんな単純な生命体でも、生命活動とリズムは切っても切れない関係にあるんだ。 代表的な所では鼓動や呼吸、もっと広く捉えるなら走ることや泳ぐこと、昆虫が薄い羽で飛ぶ事だってリズムの支配下で成り立つ――つまり、リズムは生命の根本に触れる魔法なんだ。 それを聴けば理屈を越えて、体が先に従わされてしまう。 ただ太鼓でビートを刻まれるだけで体がむずむずする、そんな経験があるよね」
彼の語りを受け止めながら、ルカは改めて波止場を見下ろした。 変わらず流れ続けるさやかな歌声はまるでBGMのように――彼が築く言葉の砦をも、やすやすと包み込んでいく。
彼女の茶色い髪をふわりと持ち上げる潮風までもが、その調べの起こすいたずらのようだ。
彼女の茶色い髪をふわりと持ち上げる潮風までもが、その調べの起こすいたずらのようだ。
「そのリズムを操り、更にメロディと言葉を上乗せして対人強化したのが、歌なんだ。 高度に発達した人間は、世界から与えられた単なるリズムに手を加える事で、その原始的な力を精神――つまり心にまで及ぶように改造した。 音階の上下で情緒を表して刷り込む。 歌詞で意味を持たせ、向かわせたい思考の方向をより直接的に示す。 冷静に立ち返らないよう、リズムの力で体を制する。 理性に目隠しをする。 そうして聞き手の心を恣意的に導き、『その気にさせる』のが、歌の目的であり力なんだ。 自然現象なんかに関与はできないけれど、何百人という人間の心を一斉に同じ方向へ向かわせるなんていう奇跡を起こすのが、歌だ」
歌というものの骨格を、バルトは容赦なく丸裸にする。
しかし少女の歌声は、そんな彼とルカの前に屈したりはしなかった。
彼の口上などどこ吹く風とばかりにいよいよ麗しく、聞き入る者の心に暖かく沁み込んでいく音色。 少し幼い声の響きも愛おしく、黒魔道士の舌鋒に従って無理に突き放そうとすれば理由もない背徳感に阻まれた。
それが正しいと、それでいいのだと、全てを超えて思わせ安らがせる、暖かい音波の連なり。 歌。
ああ、本当に魔法に似ているんだな――と、ルカは素直に思った。
しかし少女の歌声は、そんな彼とルカの前に屈したりはしなかった。
彼の口上などどこ吹く風とばかりにいよいよ麗しく、聞き入る者の心に暖かく沁み込んでいく音色。 少し幼い声の響きも愛おしく、黒魔道士の舌鋒に従って無理に突き放そうとすれば理由もない背徳感に阻まれた。
それが正しいと、それでいいのだと、全てを超えて思わせ安らがせる、暖かい音波の連なり。 歌。
ああ、本当に魔法に似ているんだな――と、ルカは素直に思った。
そして少年は彼女のメロディに身を委ねる。 母親の子守唄を聞くような安らいだ表情で。
荒野の太陽の下で黒魔道士に見せたような、拒絶の色はかけらも――
荒野の太陽の下で黒魔道士に見せたような、拒絶の色はかけらも――
「――人間の内から外の世界へ向かった魔法。 外の世界から人間の内へと向かった歌。 方向性も程度も違うけれど、ツールとメカニズムと目的が酷似している。 そう、どちらも、言葉による世界の操作だよ――」
* * *
長い長い語りを〆たバルト。 小さく息をつく。
するとそれに合わせるように、控えめなビブラートが聞こえた。 その少し拙くも儚い音色は、彼らの周囲に残る不要なものを全て掃き清めるかのように細く尾を引き、生まれたての宵闇の中へゆっくりと溶けていく。
後に残るのは、波止場で寄り添う少女と少年の姿だけ。
するとそれに合わせるように、控えめなビブラートが聞こえた。 その少し拙くも儚い音色は、彼らの周囲に残る不要なものを全て掃き清めるかのように細く尾を引き、生まれたての宵闇の中へゆっくりと溶けていく。
後に残るのは、波止場で寄り添う少女と少年の姿だけ。
その声に――バルトの主張は、全てさらわれ連れ去られてしまった。
ありったけの知識を尽くして抗うように紡いだ沢山の言葉達は、気付けば波に崩された砂の城の粒のように、港の空気の中にもはや一片たりとも残っていない。
その目に見えない勝敗を、バルトもルカも否応なしに感じ取っていたのだった。
ありったけの知識を尽くして抗うように紡いだ沢山の言葉達は、気付けば波に崩された砂の城の粒のように、港の空気の中にもはや一片たりとも残っていない。
その目に見えない勝敗を、バルトもルカも否応なしに感じ取っていたのだった。
「……負けね」
港に舞い戻る涼しい静寂の中、ルカは軽く苦笑しながら言った。 バルトは蘇る潮の香りを倦むように腕の中に顔を埋めると、連敗だ、と呟いた。
港に舞い戻る涼しい静寂の中、ルカは軽く苦笑しながら言った。 バルトは蘇る潮の香りを倦むように腕の中に顔を埋めると、連敗だ、と呟いた。
歌の世界から戻ってきた波止場の二人は、何事か会話を交わしているようだ。 その親密な空気が、街灯の明かりを通して伝わってくる。
太陽の下、鳶色の瞳の少年がバルトをはねつけたのは、ただ今彼が必死で獲得しようとしている信念の中で、魔法という力は異物であった――それだけの事だ。
己が信ずる境地に向かい、応援してくれる人の癒しを胸にがむしゃらに進む。 そのひたむきさが、ただ眩しかった。 議論好きのエルヴァーンが並べた汎用理論は、故に少年の前に全く用を成さない。
最小単位の元素のようにシンプルな存在にひとつも言葉を返せなかった自分。 それが答えの全てで、黒魔道士は小さく切ない溜息をついた。
己が信ずる境地に向かい、応援してくれる人の癒しを胸にがむしゃらに進む。 そのひたむきさが、ただ眩しかった。 議論好きのエルヴァーンが並べた汎用理論は、故に少年の前に全く用を成さない。
最小単位の元素のようにシンプルな存在にひとつも言葉を返せなかった自分。 それが答えの全てで、黒魔道士は小さく切ない溜息をついた。
まるで真冬の旅人だ。 それなりに長い年月の間に、色んなものを着込んで着込んで。
その重みでいつしか歩みは鈍重に、陽光の輝きは網膜だけでしか感じられなくなっていたのだろうか――
その重みでいつしか歩みは鈍重に、陽光の輝きは網膜だけでしか感じられなくなっていたのだろうか――
「……まっすぐすぎるんだよなぁ……」
ついに諦めたように、そして少し哀しそうに、バルトは顔を上げるとぽつりと言った。
まるで泣き言のようだ。 ルカは慰めるように言う。
「まぁ、そんな時期もあっていいんじゃないの?……あの子も、そのうち判ると思うわよ」
「うん……」
くるりと港に背を向け背中で石塀にもたれるルカの言葉に、バルトは小さく頷いた。 が、頷きつつも一向に晴れない彼の表情に、ルカは子供を労わるようにして再度ぽんぽんとその白髪を叩く。
「寂しがることないよ。 あの子だって歌は聴くんだもの、岩石みたいな心の持ち主じゃないってことでしょう。 ――いつか気付いて、歩み寄ってくれるって。 魔法だって悪くないってさ」
ついに諦めたように、そして少し哀しそうに、バルトは顔を上げるとぽつりと言った。
まるで泣き言のようだ。 ルカは慰めるように言う。
「まぁ、そんな時期もあっていいんじゃないの?……あの子も、そのうち判ると思うわよ」
「うん……」
くるりと港に背を向け背中で石塀にもたれるルカの言葉に、バルトは小さく頷いた。 が、頷きつつも一向に晴れない彼の表情に、ルカは子供を労わるようにして再度ぽんぽんとその白髪を叩く。
「寂しがることないよ。 あの子だって歌は聴くんだもの、岩石みたいな心の持ち主じゃないってことでしょう。 ――いつか気付いて、歩み寄ってくれるって。 魔法だって悪くないってさ」
そう老け込みなさんな、青年――と言ってルカは笑った。
その一言に、バルトはようやく少しだけ笑顔を取り戻す。
その一言に、バルトはようやく少しだけ笑顔を取り戻す。
波止場の二人が腰を上げた。
肩を並べ、暮れていく一日に促されるように、町明かりの方へとゆっくり歩き出す恋人達。
オレンジ色の街灯と白い月明かりの中を去っていく二人を、白髪の黒魔道士は切なげな眼差しで見送った。
肩を並べ、暮れていく一日に促されるように、町明かりの方へとゆっくり歩き出す恋人達。
オレンジ色の街灯と白い月明かりの中を去っていく二人を、白髪の黒魔道士は切なげな眼差しで見送った。
― 2 ―
翌日。
正午前の爽やかな光が窓から差し込む寄宿舎の中で、バルトはリビングのテーブルに向かい何やらちまちまと作業をしていた。
くるくると細かく動く指先。 かさかさ、という小さな音。 その中で四角い紙切れが、見る見る何かの形を取っていく。
それは、どう見ても折り紙――いや、「紙兵」である。
霊力の織り込まれた紙を使って、彼は忍術の触媒である紙兵を作っているのだった。
正午前の爽やかな光が窓から差し込む寄宿舎の中で、バルトはリビングのテーブルに向かい何やらちまちまと作業をしていた。
くるくると細かく動く指先。 かさかさ、という小さな音。 その中で四角い紙切れが、見る見る何かの形を取っていく。
それは、どう見ても折り紙――いや、「紙兵」である。
霊力の織り込まれた紙を使って、彼は忍術の触媒である紙兵を作っているのだった。
勿論彼が使うのではない。 ルカの分だ。
器用さが売りのシーフであるはずの彼女は、物騒な作業には手先が利いても、どういう訳か平和的な日常の技術の方はからきしで。
「何も毎回競売所で高い忍術触媒を買う事はない」と主張するバルトは、そのやたらと器用な手先と無駄に溢れる知識を用いて色々な消耗品を作る。 時には武器や防具の類、果ては狩り用の食事までをも率先して作って提供したりもする。
口先以外にも色々と回る男なのであった。
器用さが売りのシーフであるはずの彼女は、物騒な作業には手先が利いても、どういう訳か平和的な日常の技術の方はからきしで。
「何も毎回競売所で高い忍術触媒を買う事はない」と主張するバルトは、そのやたらと器用な手先と無駄に溢れる知識を用いて色々な消耗品を作る。 時には武器や防具の類、果ては狩り用の食事までをも率先して作って提供したりもする。
口先以外にも色々と回る男なのであった。
しかしその紙兵の使い手、ルカの姿が、何故か寄宿舎に見当たらない。
それもそのはず、朝っぱらから元気に乱入してきた冒険者仲間であるタルタルの少女に、彼女は強引に外へと連れ出されてしまったのだ。
小さな赤毛のタルタルにぐいぐいと手を引かれるルカを、いってらっしゃい、と笑顔で送り出したバルトは、静かになった室内で一人テーブルに着くと黙々と折り紙――否、紙兵製作作業に精を出し始めた。
それもそのはず、朝っぱらから元気に乱入してきた冒険者仲間であるタルタルの少女に、彼女は強引に外へと連れ出されてしまったのだ。
小さな赤毛のタルタルにぐいぐいと手を引かれるルカを、いってらっしゃい、と笑顔で送り出したバルトは、静かになった室内で一人テーブルに着くと黙々と折り紙――否、紙兵製作作業に精を出し始めた。
かさかさと紙を折る乾いた音が、明るい室内に漂う。
手のひら大ほどの正方形の紙を、対角線で半分に折る。 出来た三角形を更に半分の三角に。 その片方を起こし袋のように開いて、折れ線を中心に潰すと四角形になる。 ひっくり返して同じ手順で残りも四角に折って……
一定の手順を繰り返し繰り返し、右側に積まれていた四角い紙の束は、彼の前を通過するとずんぐりしたカカシのような形の紙兵となって左に出てくる。 一人オートメーション、人間ベルトコンベア。
それは、どう見ても内職――間違いない、内職だ。
手のひら大ほどの正方形の紙を、対角線で半分に折る。 出来た三角形を更に半分の三角に。 その片方を起こし袋のように開いて、折れ線を中心に潰すと四角形になる。 ひっくり返して同じ手順で残りも四角に折って……
一定の手順を繰り返し繰り返し、右側に積まれていた四角い紙の束は、彼の前を通過するとずんぐりしたカカシのような形の紙兵となって左に出てくる。 一人オートメーション、人間ベルトコンベア。
それは、どう見ても内職――間違いない、内職だ。
しかし速い。
バルトの手と指は一時も休むことなく、まるで機械音の聞こえてきそうな正確さで次々と紙を折り、決められた形に整えていく。 壁に掛けられた時計が刻む秒針の音の方が、彼を追いかけているようだ。
が、その手つきと仕事量にそぐわず、バルトの顔は寛いでいるような呆けているような、どこか弛緩した表情を見せていた。
バルトの手と指は一時も休むことなく、まるで機械音の聞こえてきそうな正確さで次々と紙を折り、決められた形に整えていく。 壁に掛けられた時計が刻む秒針の音の方が、彼を追いかけているようだ。
が、その手つきと仕事量にそぐわず、バルトの顔は寛いでいるような呆けているような、どこか弛緩した表情を見せていた。
何を考えているのだろう。
椅子の背に沈むようにもたれ、テーブルの上で指だけがせわしなく働いているが、眼球は指先に向いているもののほとんど動かない。 手と体が、全く別のプログラムで動いている感じだ。
焦点が少しだけ遠い視線が、時折ちらりと上がる。
その先には、本棚に収まりきらない新旧様々の魔道書の山。
しかしその目はすぐに伏せられ、彼はぼんやりと黙々と、紙(紙兵)を折り続ける。
しん、と静かな寄宿舎の部屋。 聞こえるのは秒針のかすかな息遣いと、紙を擦る音だけ――
椅子の背に沈むようにもたれ、テーブルの上で指だけがせわしなく働いているが、眼球は指先に向いているもののほとんど動かない。 手と体が、全く別のプログラムで動いている感じだ。
焦点が少しだけ遠い視線が、時折ちらりと上がる。
その先には、本棚に収まりきらない新旧様々の魔道書の山。
しかしその目はすぐに伏せられ、彼はぼんやりと黙々と、紙(紙兵)を折り続ける。
しん、と静かな寄宿舎の部屋。 聞こえるのは秒針のかすかな息遣いと、紙を擦る音だけ――
高い窓を貫く日の光が、ゆっくりと濃くなっていく。
ばさばさっ。
「……わっ」
「……わっ」
その音よりもむしろ光景の方に驚いて、バルトはようやく紙を折る手を止めた。
大きなテーブルの左半分が、いつの間にかうず高い紙兵の山に占拠されている。 何かの拍子にその山の一部が雪崩を起こした音で、バルトは我に帰った。 小さな人型がテーブルの向こうで、まさに紙吹雪のように床に散らばっていたのだった。
「ああ、作りすぎた……」
大きなテーブルの左半分が、いつの間にかうず高い紙兵の山に占拠されている。 何かの拍子にその山の一部が雪崩を起こした音で、バルトは我に帰った。 小さな人型がテーブルの向こうで、まさに紙吹雪のように床に散らばっていたのだった。
「ああ、作りすぎた……」
二抱えもありそうな紙兵の小山。 バケツなら軽く五杯分はあろうか。 いくらいずれは使うと言っても、これはいささか置き場に困る。
ぽりぽりと頭をかいて彼は立ち上がると、もうほとんどなくなっていた手付かずの四角い紙を片付け、出来上がった紙兵の半分ほどを手早く紐で束ねて袋に詰めた。
「ちょっと競売に入れてこよう……」
ぽりぽりと頭をかいて彼は立ち上がると、もうほとんどなくなっていた手付かずの四角い紙を片付け、出来上がった紙兵の半分ほどを手早く紐で束ねて袋に詰めた。
「ちょっと競売に入れてこよう……」
* * *
時刻は午後になっていた。 比較的人影の少ない鉱山区の通りを、荷物を持ってこきこきと肩を鳴らしながらバルトは歩く。
何しろバケツに五杯だ。 さすがに肩が凝っていた。
少しばかり年寄りくさい自分のアクションに、「老け込むなかれ」という昨日のルカのセリフが蘇って、彼は思わず苦笑いをする。
「……確かに、このノリはご隠居さんか僧侶に近いなあ」
そんな彼の耳に、鈴を振るような歓声が聞こえてきた。 鬼ごっこでもしているのか、数人の子供達が笑いさざめきながら走って来る。 それを軽く避けつつ、バルトはぶらぶらと競売所の建物へ向かった。
何しろバケツに五杯だ。 さすがに肩が凝っていた。
少しばかり年寄りくさい自分のアクションに、「老け込むなかれ」という昨日のルカのセリフが蘇って、彼は思わず苦笑いをする。
「……確かに、このノリはご隠居さんか僧侶に近いなあ」
そんな彼の耳に、鈴を振るような歓声が聞こえてきた。 鬼ごっこでもしているのか、数人の子供達が笑いさざめきながら走って来る。 それを軽く避けつつ、バルトはぶらぶらと競売所の建物へ向かった。
人のいないカウンターを見つけ、手際よく数束の人型に値をつけてそこにぽんぽんと預けていく。
「……うん、やっぱり値が落ちないな、紙兵は……」
そのまま何となく習慣で様々な売り物の価格推移などをチェックしながら、バルトは一人呟いていた。 まばらに行き交う冒険者達の足音を背に、備え付けの出品リストをのんびりと物色する。
「……うん、やっぱり値が落ちないな、紙兵は……」
そのまま何となく習慣で様々な売り物の価格推移などをチェックしながら、バルトは一人呟いていた。 まばらに行き交う冒険者達の足音を背に、備え付けの出品リストをのんびりと物色する。
物流のさかんなジュノほどの活気や品数はないものの、地方には地方なりに「おいしい」出品があるものだ。 その地の特産やモンスターの分布、ギルドの勢力などを正確に把握しさえすれば、賢い買い物をすることができる。
が、こういった手間を賢いと取るかまだるっこしいと取るかは人それぞれである。 こまめな観察と並以上の記憶力を必要とする、つまりバルトの得意分野ど真ん中とも言えるこの購買術であったが、ともすればその様子は生活臭漂う主婦の買い物じみてしまうが為に、仲間内ではおしとやかなタルタルの白魔道士以外からは今ひとつ尊敬を集められずにいるのであった。
が、こういった手間を賢いと取るかまだるっこしいと取るかは人それぞれである。 こまめな観察と並以上の記憶力を必要とする、つまりバルトの得意分野ど真ん中とも言えるこの購買術であったが、ともすればその様子は生活臭漂う主婦の買い物じみてしまうが為に、仲間内ではおしとやかなタルタルの白魔道士以外からは今ひとつ尊敬を集められずにいるのであった。
つらつらとリストを眺め続けるバルト。 ふと、同じカウンターに人の手が伸びている気配に彼は気付いた。 リストから目を離さないまま、邪魔にならないようにと少し身を引く。
引いた事で、その手の姿が目の端に入った。
細くて白い腕。 武骨な篭手も厚いグローブも着けていない、むき出しの華奢な手だ。 位置が低い。
何の気なしに彼はちらりとその腕の主に視線を走らせ――そして、ぎょっと固まった。
引いた事で、その手の姿が目の端に入った。
細くて白い腕。 武骨な篭手も厚いグローブも着けていない、むき出しの華奢な手だ。 位置が低い。
何の気なしに彼はちらりとその腕の主に視線を走らせ――そして、ぎょっと固まった。
彼の隣で遠慮がちに競売所のカウンターを覗き込んでいたのは、あの歌唄いの少女だった。 夕暮れの港で戦士の少年に歌を聞かせていた、ヒュームの女の子。
竪琴こそ携えていなかったが、長くて綺麗な黒髪には覚えがあった。 遠く見えた少しあどけない横顔の雰囲気もそのまま、つぶさに思い出して確認するまでもなくバルトは確信していた。
間違いない、あの時の子だ――
竪琴こそ携えていなかったが、長くて綺麗な黒髪には覚えがあった。 遠く見えた少しあどけない横顔の雰囲気もそのまま、つぶさに思い出して確認するまでもなくバルトは確信していた。
間違いない、あの時の子だ――
密かに息を呑んだまま、しばし凍りついたように黒魔道士はその場に立ち尽くす。 昨日聞いた少女の可憐な歌声が、鮮やかにその耳に蘇り――途端、後ろめたいような気持ちに彼は襲われる。
彼が少女を知っているのは、あの戦士の少年との逢瀬を遠くから眺めていたからなのだ。 覗き見をしていたという訳ではないが、結果的にはそれに近いのではないか。 そしてそれは今も――
彼が少女を知っているのは、あの戦士の少年との逢瀬を遠くから眺めていたからなのだ。 覗き見をしていたという訳ではないが、結果的にはそれに近いのではないか。 そしてそれは今も――
そろ、と片足を引く。 声を掛けるのは何か違うし、かと言ってこのまま彼女と知りながらこっそり気を引かれているのもあまりいい趣味とは思えなかったのだ。 が。
「……あの、すみません」
「え」
そんなバルトに、少女はその顔を向けると小さく声を掛けたのだ。 どきん、と彼の心臓が跳ね上がる。
「この、商品の見方なんですけど……ちょっと判らなくて……あの、教えて頂いてもいいですか?」
春風のような声。 彼女を見て驚いていたのを気付かれはしなかったか――と思わずうろたえる彼の内心に気付いた風もなく、少女は幼い困り顔でエルヴァーンの黒魔道士を見上げている。
「――あ、ああ――いいですよ、どれですか」
どうにか平静を保って、バルトはさりげなく体勢を戻すとカウンターにあるリストに目を向けた。 そうして彼女から顔を逸らす。 咄嗟の事で、さすがに笑顔までは繕えなかった。
「え」
そんなバルトに、少女はその顔を向けると小さく声を掛けたのだ。 どきん、と彼の心臓が跳ね上がる。
「この、商品の見方なんですけど……ちょっと判らなくて……あの、教えて頂いてもいいですか?」
春風のような声。 彼女を見て驚いていたのを気付かれはしなかったか――と思わずうろたえる彼の内心に気付いた風もなく、少女は幼い困り顔でエルヴァーンの黒魔道士を見上げている。
「――あ、ああ――いいですよ、どれですか」
どうにか平静を保って、バルトはさりげなく体勢を戻すとカウンターにあるリストに目を向けた。 そうして彼女から顔を逸らす。 咄嗟の事で、さすがに笑顔までは繕えなかった。
「ええと、モブリン糸っていうのを探してるんですけど……お裁縫道具の所で見つからなくって」
「ああ、あれは獣人が作るものだから、こっちではないんですよ。 その他って所に――そう、獣人製品」
バルトの言葉に従って、少女の手がつたなくリストを繰る。
その単調な動きと空白の時間に、彼は徐々に内心の動揺が鎮まっていくのを感じ、ほっと胸をなで下ろす。 彼の視線の下で、少女の手が止まった。
「あ、あった――これですね」
探す糸の名前と、横に載っている小さな糸巻きの写真を見つけて、彼女は嬉しそうな声を上げた。 目を細め、やっぱり綺麗――と呟く。
邪気のないその声と表情に、あの少年の面影が不意に重なった。 バルトはその映像を覆い隠すように言葉を発する。
「何かに使うんですか?」
「ええ、あの、刺繍に使うと綺麗だって聞いて。 その、知り合い――に、プレゼントなんです」
はにかんだ笑顔でバルトを見上げると、そう少女は言った。
その「知り合い」は、きっと彼もよく知っている顔なのだろう。 誕生日でも近いのだろうか。 ようやく浮かぶようになった笑顔でバルトは言う。
「ああ、それはいいですね。 これは細くて少し強度は弱いけど、二本取りや三本取りにすれば十分ですし、滑らかさがよく持つから刺繍飾りに向いてるでしょう。 色も選べば味のある物がある。 いい選択だと思いますよ」
彼の言葉に、そうなんですか、と微笑む彼女。 黒髪がさらりと流れる。
「友達が本で読んだって教えてくれたんですけど、普通のお店じゃ売ってないみたいで――それで競売所に来てみたんです。 でも、初めてでよく判らなくって」
「そう、一般の店にはあれは入らないですから――って、ここでも品切れか。 困りましたね」
改めてリストを見て、バルトは言った。 在庫の数字がゼロになっている。 と、少女は慌てたように首を振った。
「あ、いえ、いいんです。 買うんじゃなくて、お値段と写真が見たかっただけで」
え? と首を傾げるエルヴァーンに、彼女は言った。
「その知り合いの子が、取ってきてくれるって言ったんです。 でもあんまり高い物だったら悪いし、いくらぐらいするのかは一応知っておこうかなって――」
「取ってきて……くれる――?」
少女の無防備な言葉の意味する所に、バルトの息が凍るように止まった。
「ああ、あれは獣人が作るものだから、こっちではないんですよ。 その他って所に――そう、獣人製品」
バルトの言葉に従って、少女の手がつたなくリストを繰る。
その単調な動きと空白の時間に、彼は徐々に内心の動揺が鎮まっていくのを感じ、ほっと胸をなで下ろす。 彼の視線の下で、少女の手が止まった。
「あ、あった――これですね」
探す糸の名前と、横に載っている小さな糸巻きの写真を見つけて、彼女は嬉しそうな声を上げた。 目を細め、やっぱり綺麗――と呟く。
邪気のないその声と表情に、あの少年の面影が不意に重なった。 バルトはその映像を覆い隠すように言葉を発する。
「何かに使うんですか?」
「ええ、あの、刺繍に使うと綺麗だって聞いて。 その、知り合い――に、プレゼントなんです」
はにかんだ笑顔でバルトを見上げると、そう少女は言った。
その「知り合い」は、きっと彼もよく知っている顔なのだろう。 誕生日でも近いのだろうか。 ようやく浮かぶようになった笑顔でバルトは言う。
「ああ、それはいいですね。 これは細くて少し強度は弱いけど、二本取りや三本取りにすれば十分ですし、滑らかさがよく持つから刺繍飾りに向いてるでしょう。 色も選べば味のある物がある。 いい選択だと思いますよ」
彼の言葉に、そうなんですか、と微笑む彼女。 黒髪がさらりと流れる。
「友達が本で読んだって教えてくれたんですけど、普通のお店じゃ売ってないみたいで――それで競売所に来てみたんです。 でも、初めてでよく判らなくって」
「そう、一般の店にはあれは入らないですから――って、ここでも品切れか。 困りましたね」
改めてリストを見て、バルトは言った。 在庫の数字がゼロになっている。 と、少女は慌てたように首を振った。
「あ、いえ、いいんです。 買うんじゃなくて、お値段と写真が見たかっただけで」
え? と首を傾げるエルヴァーンに、彼女は言った。
「その知り合いの子が、取ってきてくれるって言ったんです。 でもあんまり高い物だったら悪いし、いくらぐらいするのかは一応知っておこうかなって――」
「取ってきて……くれる――?」
少女の無防備な言葉の意味する所に、バルトの息が凍るように止まった。
モブリンとは北グスタベルグの奥、ムバルポロスという動く地下集落に棲んでいるモンスターだ。
名前同様、姿もゴブリンと瓜二つ――と言うか、その生活形態が独特に異なるだけで、二つは同じ種類の獣人である。
しかし、その強さとなれば話は全く別だ。
名前同様、姿もゴブリンと瓜二つ――と言うか、その生活形態が独特に異なるだけで、二つは同じ種類の獣人である。
しかし、その強さとなれば話は全く別だ。
「それは」
あの戦士の男の子ですか、という言葉が咄嗟に出掛かって、バルトはそれをぐっと呑み込んだ。 動悸が上がり始める。
「――それは、強い冒険者の人とかが、行ってくれると?」
不吉な焦りを押し殺し、一縷の望みをかけて訊く。 少女は――首を横に振った。
「あ、いえ……強い、って言うか。 まだ駆け出しの、でも戦士の男の子なんです。 昨日、私がこの糸の話をしたら、それなら自分が取ってきてやる、って。 グスタベルグの向こうにいる、外のゴブリンと同じようなモンスターなんですよね? なら大丈夫だからって――」
「……っ!」
あの戦士の男の子ですか、という言葉が咄嗟に出掛かって、バルトはそれをぐっと呑み込んだ。 動悸が上がり始める。
「――それは、強い冒険者の人とかが、行ってくれると?」
不吉な焦りを押し殺し、一縷の望みをかけて訊く。 少女は――首を横に振った。
「あ、いえ……強い、って言うか。 まだ駆け出しの、でも戦士の男の子なんです。 昨日、私がこの糸の話をしたら、それなら自分が取ってきてやる、って。 グスタベルグの向こうにいる、外のゴブリンと同じようなモンスターなんですよね? なら大丈夫だからって――」
「……っ!」
その瞬間。
彼の中でそれまでずっと沈黙していたある感情が、初めて黒い鎌首をもたげた。 バルトはぎりっと歯噛みして眉を吊り上げる。
全く――全く、何が戦士としてだ……!
「え、あの……?」
「お嬢さん。 彼は――その子は、もう出発したんですか」
にわかに緊迫したエルヴァーンの声と表情に、少女の笑顔が掻き消える。
「あ――はい、今朝……何時間か前に、港区の門から出かけました、けど、あの」
薄々状況が見えてきたのだろう、みるみる少女を不安の翳りが覆う。 隠したり誤魔化したりしようという機微も働かず、バルトは早口で言葉を続けた。
「街からそう遠くない所に棲んではいますが、モブリンってのはここらの地上にいるゴブリンよりも数段危険なモンスターなんです。 彼では――駆け出しの戦士では、一匹だって相手にしちゃいけない。 自殺行為だ。 モブリン糸を取ってくると、確かに彼は言ったんですね?」
バルトの言葉に、少女の顔からさあっと血の気が引いた。 細い両手が頬を覆う。
「そんな……! はい、確かにそう――ああ、どうしよう、私! ヤンが、そんな所に――」
彼の中でそれまでずっと沈黙していたある感情が、初めて黒い鎌首をもたげた。 バルトはぎりっと歯噛みして眉を吊り上げる。
全く――全く、何が戦士としてだ……!
「え、あの……?」
「お嬢さん。 彼は――その子は、もう出発したんですか」
にわかに緊迫したエルヴァーンの声と表情に、少女の笑顔が掻き消える。
「あ――はい、今朝……何時間か前に、港区の門から出かけました、けど、あの」
薄々状況が見えてきたのだろう、みるみる少女を不安の翳りが覆う。 隠したり誤魔化したりしようという機微も働かず、バルトは早口で言葉を続けた。
「街からそう遠くない所に棲んではいますが、モブリンってのはここらの地上にいるゴブリンよりも数段危険なモンスターなんです。 彼では――駆け出しの戦士では、一匹だって相手にしちゃいけない。 自殺行為だ。 モブリン糸を取ってくると、確かに彼は言ったんですね?」
バルトの言葉に、少女の顔からさあっと血の気が引いた。 細い両手が頬を覆う。
「そんな……! はい、確かにそう――ああ、どうしよう、私! ヤンが、そんな所に――」
彼の名を、初めて聞いた。
バルトは強く舌打ちをすると、ばっと振り返る。 その視線の先に、チョコボ厩舎。
「あっ、あのっ! お願いです、ヤンを――私、私――」
彼の黒いローブの袖にすがりついて少女が言った。 小さな美術品のような声が割れている。
が、震えて今にも泣き出しそうな瞳が放つ訴えは、黒魔道士には必要のないものだった。 彼は頷く。
「大丈夫です、俺が行きますから。 襟首掴んで引きずり戻してやる。 このままで済ませる気はない」
「え……?」
不思議そうに問う少女の声に、彼は答えなかった。
バルトは強く舌打ちをすると、ばっと振り返る。 その視線の先に、チョコボ厩舎。
「あっ、あのっ! お願いです、ヤンを――私、私――」
彼の黒いローブの袖にすがりついて少女が言った。 小さな美術品のような声が割れている。
が、震えて今にも泣き出しそうな瞳が放つ訴えは、黒魔道士には必要のないものだった。 彼は頷く。
「大丈夫です、俺が行きますから。 襟首掴んで引きずり戻してやる。 このままで済ませる気はない」
「え……?」
不思議そうに問う少女の声に、彼は答えなかった。
* * *
――地底なのに、変に明るいんだな。
戦士の少年――ヤンは、全てが急ごしらえのような足場で構成された地下都市をゆっくりと進んでいた。
十分に広くても、ただ乱雑に板を並べて棒で支えただけにしか見えない危うい空中の通路は、所々で線路の枕木のように大きな隙間を見せる。 そんな足場が上下左右の空間を縦横無尽に走る不思議な光景に、彼は知らず目を奪われていた。
「……馬鹿、よそ見してる場合か」
物珍しさにそわそわしている自分に気付いたヤンは声に出して己を叱咤すると、改めて周囲に目を配る。
地図を持っていないので、あまり奥深くまで進む気はなかった。 入り口近くにいるモブリンを見つけ、何匹か倒して糸を頂戴すればいい、そう考えていたのだが――
十分に広くても、ただ乱雑に板を並べて棒で支えただけにしか見えない危うい空中の通路は、所々で線路の枕木のように大きな隙間を見せる。 そんな足場が上下左右の空間を縦横無尽に走る不思議な光景に、彼は知らず目を奪われていた。
「……馬鹿、よそ見してる場合か」
物珍しさにそわそわしている自分に気付いたヤンは声に出して己を叱咤すると、改めて周囲に目を配る。
地図を持っていないので、あまり奥深くまで進む気はなかった。 入り口近くにいるモブリンを見つけ、何匹か倒して糸を頂戴すればいい、そう考えていたのだが――
「何もいないな……もしかして、もっと深い所に棲んでいるのか」
無秩序に分岐する空中の通路を二度ほど折れ、広い踊り場のような空間に出た所で、彼は訝しげに立ち止まった。
拍子抜けするほどに、周囲には何の気配もない。 まるで廃墟のような静けさを、あちこちに配置されたランプの光が素知らぬ顔で照らし出していた。
あまり深入りすると戻れなくなる。 どうしたものかと、ヤンはぐるりと辺りを見渡した。
と、澄ました彼の耳に、かすかに剣戟のようなものが届いた。 足元の方からだ。 気を引かれて彼はその音へと進み、手すりから身を乗り出してそちらを見下ろしてみた。
無秩序に分岐する空中の通路を二度ほど折れ、広い踊り場のような空間に出た所で、彼は訝しげに立ち止まった。
拍子抜けするほどに、周囲には何の気配もない。 まるで廃墟のような静けさを、あちこちに配置されたランプの光が素知らぬ顔で照らし出していた。
あまり深入りすると戻れなくなる。 どうしたものかと、ヤンはぐるりと辺りを見渡した。
と、澄ました彼の耳に、かすかに剣戟のようなものが届いた。 足元の方からだ。 気を引かれて彼はその音へと進み、手すりから身を乗り出してそちらを見下ろしてみた。
十数メートル下に渡された広い通路の上で、数名の冒険者がモンスターと剣を交えているのが見えた。 目を凝らせば、敵はやはり見慣れたゴブリンのような姿をしている。
あれがモブリンだな――とヤンは思ったが、遠目だった為にその戦いの状況までは彼には掴めなかった。 敵の姿形に気を取られて冒険者達の装備や武具にも目が届かず、地図がないからそこが自分が立っている通路の先であるという事も判らない。
そうしている内に眼下の戦いはあっさり終わり、溶けるように剣戟が止んだ。 ヤンはふと目を泳がせる。
周囲を縦横に走り岩壁に消えていく不安定そうな板張りの足場や、そこからいくつも吊り下がるバケツの姿が浮かぶ。 そこかしこに無秩序に据え付けられた、見た事もない動燃機関が唸っている。
そして、その向こうにじっとりと広がるのは――夜空の裏返し、重力を塗り込めた深淵の闇。
あれがモブリンだな――とヤンは思ったが、遠目だった為にその戦いの状況までは彼には掴めなかった。 敵の姿形に気を取られて冒険者達の装備や武具にも目が届かず、地図がないからそこが自分が立っている通路の先であるという事も判らない。
そうしている内に眼下の戦いはあっさり終わり、溶けるように剣戟が止んだ。 ヤンはふと目を泳がせる。
周囲を縦横に走り岩壁に消えていく不安定そうな板張りの足場や、そこからいくつも吊り下がるバケツの姿が浮かぶ。 そこかしこに無秩序に据え付けられた、見た事もない動燃機関が唸っている。
そして、その向こうにじっとりと広がるのは――夜空の裏返し、重力を塗り込めた深淵の闇。
「――――」
ヤンは軽く顔をしかめ、手すりを突き放すようにしてそこから離れた。 そしてかすかに覚えた眩暈を振り払いながらくるりと踵を返した、その瞬間。
「っ!!」
彼はびくりと息を呑んだ。
ヤンは軽く顔をしかめ、手すりを突き放すようにしてそこから離れた。 そしてかすかに覚えた眩暈を振り払いながらくるりと踵を返した、その瞬間。
「っ!!」
彼はびくりと息を呑んだ。
いつの間にそこにいたのか、広い踊り場の反対側に山と積まれた木箱の影から、のそりと巨大な影が姿を現したのだ。
両手両足、人間の形。 筋肉なのか脂肪なのか判然としない、異形のレスラーのように極端に膨れ上がった上半身。 それが類人猿を思わせる過剰な前傾姿勢で、背に大量の荷物を背負っていた。 顔全体を覆うマスクはゴブリンのそれに似て、まるで知性を感じさせない。
それはバグベアと呼ばれる、主に運搬などの肉体労働でモブリンが使役する改造された生命体の巨躯だったのだが――
両手両足、人間の形。 筋肉なのか脂肪なのか判然としない、異形のレスラーのように極端に膨れ上がった上半身。 それが類人猿を思わせる過剰な前傾姿勢で、背に大量の荷物を背負っていた。 顔全体を覆うマスクはゴブリンのそれに似て、まるで知性を感じさせない。
それはバグベアと呼ばれる、主に運搬などの肉体労働でモブリンが使役する改造された生命体の巨躯だったのだが――
「何、だ……あれ」
喘ぐようにヤンは言葉を漏らした。 初めて見るモンスターだった事もある。 だが、それ以上に。
「……人、なのか――?」
喘ぐようにヤンは言葉を漏らした。 初めて見るモンスターだった事もある。 だが、それ以上に。
「……人、なのか――?」
慣れ親しんだ形の中に紛れ込む異形、非日常の中に紛れ込む日常、常識と常識の在り得ない融合。
これらは、人間の感覚に恐ろしいまでの生理的嫌悪感をもたらすものだ。
例えば人体から生える機械の刃、例えば魔力の壁に並ぶ生きた瞳、例えば人の顔を持った獣。
これまでずっとバストゥーク近辺ばかりで活動してきたヤンは、必然的にいわば「有名で常識的な」モンスターとしか、未だ対峙したことがなかったのだった。
これらは、人間の感覚に恐ろしいまでの生理的嫌悪感をもたらすものだ。
例えば人体から生える機械の刃、例えば魔力の壁に並ぶ生きた瞳、例えば人の顔を持った獣。
これまでずっとバストゥーク近辺ばかりで活動してきたヤンは、必然的にいわば「有名で常識的な」モンスターとしか、未だ対峙したことがなかったのだった。
「…………」
バグベアはぼんやりと、目覚めたばかりのような意思の薄い目であさっての方向を見て突っ立っている。 パーツは全て人間のものなのに、そのゲージがことごとく狂っている奇怪な体。
――気味が悪い。
冷たい鳥肌が走る。 じり、とヤンは足をにじらせた。 元来た方へ。
その力を計るよりも、得体の知れないものに対する回避行動が先に立ったのだった。 それは生き残る為には大切な条件反射と言える。
そう、彼が、一般人であったならば――
バグベアはぼんやりと、目覚めたばかりのような意思の薄い目であさっての方向を見て突っ立っている。 パーツは全て人間のものなのに、そのゲージがことごとく狂っている奇怪な体。
――気味が悪い。
冷たい鳥肌が走る。 じり、とヤンは足をにじらせた。 元来た方へ。
その力を計るよりも、得体の知れないものに対する回避行動が先に立ったのだった。 それは生き残る為には大切な条件反射と言える。
そう、彼が、一般人であったならば――
視界の外から、がちゃ、という音が響いた。 ヤンは目だけではっとそちらを伺う。
踊り場から更に奥へと続く通路の入り口に、バグベアに続けて二体のモブリンが出現していた。 幸い揃ってヤンに背を向け、何事か判らない音を呟き合っている様子だ。
「……く」
ひとまず退こう。
そう判断して――いや、背筋を伝う悪寒にそう判断させられて、彼はモンスター達から目を離さずにじわじわと移動する。
そのまま抜き足で、入り口に通じる通路へとゆっくり後退し――――
踊り場から更に奥へと続く通路の入り口に、バグベアに続けて二体のモブリンが出現していた。 幸い揃ってヤンに背を向け、何事か判らない音を呟き合っている様子だ。
「……く」
ひとまず退こう。
そう判断して――いや、背筋を伝う悪寒にそう判断させられて、彼はモンスター達から目を離さずにじわじわと移動する。
そのまま抜き足で、入り口に通じる通路へとゆっくり後退し――――
「……まヒご、かァ?」
彼の背中に投げ掛けられた、くぐもったおかしなイントネーション。
「っ!?」
咄嗟に剣を抜き払い、がばと振り向く。
ほんの数歩先で、薄茶色のマスクを被ったモブリン(魔物)が嗤った。
細く切られた目の穴の奥で、にぃ、と。
咄嗟に剣を抜き払い、がばと振り向く。
ほんの数歩先で、薄茶色のマスクを被ったモブリン(魔物)が嗤った。
細く切られた目の穴の奥で、にぃ、と。
「シンにゅうシャ、だなァ――」
to be continued