テノリライオン

BlueEyes RedSoul 1

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 灰色の嵐のただ中、ぴったりと接舷する二艘の船はまるで木の葉のように翻弄されていた。

「野郎! 積荷にだきゃあ手ェ出さすんじゃねぇぞコラァ!」
「クソったれがぁ、死にさらせぇっ!」
 聞くに堪えない罵詈雑言と、意味を成さない怒号と、大量の剣戟が雨あられと降り注ぐ。
 そのちっぽけな騒ぎを、本職の豪雨と暴風が荒れ狂う大海原の中に閉じ込める。
 ごうごうと唸る嵐の音は、まるで彼らの争いを煽り立てる歓声のように。
 決して広いとは言えないその船上には、そしてその外にはそれ以上に、安全な場所などありはしなかった。

 ノーグを出航して二日。
 縄張り荒らしの海賊船は、嵐と手を組んで彼の船を襲う。

 赤い色を纏ったそのヒュームの男性は、この船の――ある意味では――ゲストと言えた。 金を払って乗り込んだ、客である。 なのにこの危機的状況下、彼の安否を気遣う乗組員はただの一人も居ない。
 それもその筈、海賊船に襲われたと言えば聞こえはいいが、彼の乗っている船の素性とてそれと大して変わりはしないのだ。
 暗黙のブラックマーケットたる南海の隠れ里ノーグに迷わず入港し、そして出航する船が、いずれまともなモノやヒトを乗せている道理もない。 その積み荷は暗闇を抜け、その売人は簡単に血を流す。 だから彼には、飛び交い罵り合う声また声が一体どちらの船に属する人間のものなのか、全く区別がつかずにいた。
 荒くれどもが身を置く所の、縄張りだとか不文律だとか勢力争いだとか――そういった厳然たる裏事情に明るい訳でもない。 だから彼はこの状況に、せいぜい『闇夜に乗じる者同士が喰い合っている』といった程度の認識しか持ち得ない。
 何しろ、彼はただそこに、乗っているだけなのだから。

 自分の居場所としていた狭苦しい船室を抜け出し、彼は甲板に上がった。 途端に顔と言わず体と言わず、機関銃の一斉掃射のような特大の雨粒が狂ったように叩き付けて彼を迎える。
 彼は思わず顔をしかめた。 リヴァイアサンのくしゃみひとつにただ足を踏み締め耐え続けるしか、儚い人間には成す術が無いと太古の昔から決められているのだと彼は思う。
 強い風に煽られて、咄嗟に彼は頭に乗せていた赤い帽子を押さえる。 が、そんな行為は、絶え間ない暴風の前には無意味だ。 彼は僅かに反り返ったつばを掴んで頭から振り外すと、それを無造作に左手に下げた。 右手には既に抜き放たれた細身の剣が、不快げに濡れて輝いている。
 うねる高波に絶え間なく翻弄される船底。 足元は不安定を極めていた。

 ノーグで船員に握らせた金に、護衛料までは含まれない。
 彼は顕わになった金色の髪を豪雨に晒し、肩口で揃えた毛先があっという間に水を含んで頬に重くへばりつくのを感じながら、細めた目で素早く周囲を伺った。
 すると早速とばかりに、敵に思うさま殴り飛ばされた男の大きな背が、横合いから飛んでくる。 彼が無駄のない動きでその黒い影をひょいとかわしてのけると、直後その巨体の行く先で派手な破壊音が響いた。 大方男の頑丈な体が、そこらにあった樽か木箱を無残に叩き潰しでもしたのだろう。
 いかな船乗りの肉体が質量でそれを上回ったとは言え、破壊された木片は男の背へと相応の意趣返しをしているに違いなかった――が、彼はその悲劇には目もくれない。 そもそもが悲劇なら、もっと選りすぐりのものが文字通りそこらに累々と転がっているのだ。
 彼はふいと身を翻すと、様々な障害物が散乱する甲板を抜けて船尾の方へと走った。 そちらの方が、比較的人が少ないと読んだのだ。

 臆病風、の三文字を浮かべたのなら間違いである。
 その船の船員でもなければ、彼らの朋友とも言えない彼――ヒューイ=ヴィクレマに、海賊同士のいざこざの天秤に触れるつもりはさらさら無かっただけだった。
 それでもわざわざ船室から上がってきたのは、そこにある積荷を狙って殺到する海賊どもの相手をする気もその義理も無いからだ。 自分の乗る船と今やってきた船、そのどちらに戦いの軍配が上がろうと、彼に興味は皆無だった。
 強いて言うならば、こうして乗り込んでいる船の船員が全滅してしまうのは厄介だと思う。 新たに向こうの海賊船に居候の交渉をし直さなければならないし、また出費を余儀なくされる。 それは面倒――その程度だ。
 だから、彼らのいざこざが収束するまで、ヒューイはハリネズミよろしく護身に徹する事にしたのだった。 なるべく騒ぎから遠い所に陣取り、身を隠す。 敵船に乗り換える可能性も視野に入れれば、相手方の海賊との敵対接触は極力避けるべき局面でもあった。
 力の限り大人しくしていよう――と、彼は船尾に向かう。

 有り難い事に、辿り着いた船尾の一角に人影はなかった。 そこだけぽっかりと忘れ去られたようにかりそめの平和を保っている。 ヒューイは操舵室の陰に身を寄せると握っていた剣を鞘に収め、低い声で呪文をひとつぼそりと呟いた。
 魔力の風がぐるりと彼を包む。 するとまるで消しゴムをかけるように、風に刷かれる側からその姿が透けていく。 ひゅるんと消滅する魔力の渦の後には、光を反射することのなくなった彼の、かすかな気配だけが残った。

 己の姿が消えた事を確認したヒューイはふっと一つ息をつくと、そのまま操舵室の壁を背にずるりと座り込んだ。 全身をしとどに濡らし尽くす豪雨に少なからず寒さを覚えたが、今は贅沢は言っていられない。
 嵐と対面し、海賊の怒号を背負い、荒海の乱暴な揺れに腰を下ろす彼は改めてため息をつく。
 そして物憂げに、そこから逃げるように、ゆっくり目を閉じた。

 それでもなお、彼の耳は全ての剣戟を拾う。
 ……重たげな刃と刃が鍔迫り合う音は――どちらかが見事に刃こぼれしている。
 あれはレイピアの音だ。 海賊らしいと言えばらしいが。 相手は――短剣か。 こちらはずいぶん腕が立つな――ああ、レイピアが落とされた。 南無。
 化け物みたいな奴がいる。 何て重い斧だ。 相手を剣ごとなぎ倒しているじゃないか――あれでは勢い船まで傷つけてしまう……

 『――兄さん、判ってて手加減するのはやめてくれよ! 屈辱だ!――』

 大波の背に持ち上げられ、甲板がぐらりと傾いた。 目の前に鎮座する大きな樽がずずっと床を滑る。 中身は空なのかもしれない。 その横では無造作に積まれた縄の束がたっぷりと水を含んで、その質感を増している。 まるで叩き付ける雨に崩された蟻塚のようだ。
 ヒューイは時ならぬ夢想に捕われかけていた目を、ぱち、と開いた。 半ば無意識に聞き取っていた金属音の一つが、にわかに彼のいる船尾へと迫ってきた事を察知したのだ。

「――おらぁっ、くたばっとけぇッ!!」
 乱れた足音に続き、多分に巻き舌を含んだ怒号が響く。 鋼が鋼を弾く鋭い音。 続けて船乗りの体が、ひしゃげるようにしてずぶ濡れの甲板を勢いよく滑ってきた。
 ヒューイは眉をひそめると素早く立ち上がり距離を置いた。 彼の斜め前で船の舷に叩き付けられようやく止まったその男も、必死の形相で舷に手をかけ身を起こしている。 するとそこに相手の海賊が容赦なく躍りかかっていく。 魔法の力で姿を消しているヒューイに、彼らは当然気付かずにいた。

 とばっちりを受けてはたまらない。 ヒューイは居場所を変えるべく左右に視線を走らせた。
 が、甲板の中央ではひしめきあう海賊達が火花を散らしているし、背後は荒れる波頭で真っ白な海面だ。 船倉の地獄は言うに及ばずだろう。
 一瞬の思案の後、彼はつと顔を上げた。 その先には操舵室の屋根。 ごうごうと唸る風と雨をバックに、まっすぐに横たわるその縁が激しい飛沫に煙っていた。
 間近で再度剣戟が響き始める。 それを聞いたヒューイは左手の赤い帽子を口にくわえると、意を決したようにぐっと身を低くし、思い切り床を蹴って真上に跳んだ。
 彼の両手が屋根の縁を捉えた。 雨水に滑りそうになる掌を力一杯握り、勢いをつけてぐいと上半身を持ち上げる。
 目の前で踊り狂う雨の膜。 そしてその向こうでもはや境界を失い渾然となった、遙か灰色の空と海が彼の視界に飛び込んできた――その時。

「わぁっ!!」

 幕引きを思わせる叫び声が上がる。 海賊の戦いにひとつ、決着がついたのかと思った。 それが油断だった。
 屋根に這い上がるべくその端に片膝をかけながら、男の爆ぜるような悲鳴が聞こえた方向をヒューイはちらりと伺い――
「!!」
 大きく息を呑んだ。

 うねうねと蠢くそれは、禍々しい巨人の指か。
 赤黒い軟体生物。 まるで悪意に満ちた災厄の象徴のように、巨大な全身で船尾を鷲掴みにする異様な影は――大海の悪魔、シーホラーと呼ばれるクラーケン族の姿だった。
 その凶悪なまでに太い足の一本が、船乗りを追い詰めていた海賊の上に振り下ろされるあっけない瞬間を、ヒューイは見た。 一拍遅れて、嵐のうねりとは全く違う鈍い振動が彼の体を震わせる。
「――――」
 彼は咥えていた帽子のつばをぎりっと噛む。
 普段の彼なら、こうまで大きな敵の接近を見過ごすなどという事はあり得ないのだ。 海賊の騒ぎに気を取られていたものか、はたまた嵐の見せる幻に身を委ね過ぎたか。
 呑気にしてはいられない。 そう思い、彼が急いで屋根の上に両足を上げた、その瞬間。
「っ!!」
 ヒューイの視界の外で、悪魔の腕が閃いた。
 恐ろしくしなやかな重量に後頭部を直撃され、彼の視界が大きくブレる。

 ふわりと現れる彼の赤い衣装に気付いた者はいない。
 その金色の髪が、荒れ狂う大海原に静かに吸い込まれていくのを見た者もいない。
 ほんの二日間便乗した船を無言で去るという、その瞬間。
 彼の意識の最後に焼き付いたのは、暗い空に飛び去っていく彼の帽子の羽根飾り、そのやけにくっきりと輝く白い色だった――


  *  *  *


「――報告を」
「はい。 一昨日派遣致しました捜索部隊の連絡によりますと――昨日夕刻、カザムにおいて赤魔道士ヒューイ=ヴィクレマ氏を確認。 接触したところ抵抗に遭い、氏はユタンガ大森林へと逃走。 追跡するもヨアトル大森林にてロスト、その後行方が知れないとの事です。 カザムに戻った形跡はなし。 ウガレピ寺院やイフリートの釜を同時調査するには、さすがに人員が足りませんでした。 その後すぐノーグにも手を入れたのですが……」
 言い淀む部下に、彼は軽く手を振って言った。
「ああ、あそこでまっとうに調査しようったって無理な話だ。 法が違うようなものだ、致し方ない。 他には」
「は、他には特になく――以上です。 引き続き調査を続行させたいと思います。 みすみす取り逃がしたとあっては――あ、いえ」
 部下が慌てて言葉を選ぶ気配に、彼は薄く苦笑する。
「君の調査隊は優秀だ、全力を尽くしてくれたのはよく判っている。 無理を言っているのは私の方だ――そうだな、ノーグを可能な限りで構わないからざっと再調査して、それで姿が無いようならば手を広げよう。 済まないがもう少し、よろしく頼む」
「かしこまりました」

 一礼して退室する部下の背中を見送りながら、その男は小さく溜息をつく。 権威や威厳を目的としない実務的な机を回り込み、その向こうにある自分の椅子に彼はどっかりと腰を下ろした。
 と、立ち去った部下とほとんど入れ替わりに、ノックもなしに入ってくる人物が一人。 机の向こうで鬱々と沈む彼の表情とは対照的な、気安い声が部屋に響いた。
「よーう、エヴァリオ」
 入室者にエヴァリオと呼ばれたヒューム族の彼は、その同期のエルヴァーンを横目で迎える。 机に片肘をつき、疲れたように眉間に指を当てて彼は言った。
「――何だよロアルド、暇なのか」
「おいおいそりゃどんなご挨拶だ。 お前を心配して来てやったってのに」
 後ろ手で薄いドアを閉めながら、少し軽薄な苦笑いを浮かべるエルヴァーン――ロアルドは答える。


 ウィンダス連邦、特別捜査局。
 大自然と魔法が支配するある意味牧歌的なこの国において、法的・金銭的・威力的……言うなれば魔道士達が毛嫌いする類の「物理的な」問題やトラブルを専門に、陰となり日向となり処理する部局。
 この碧の国の雰囲気にそぐわない為か機関としての知名度は低く、「即物的で優雅さに欠ける何でも屋」と揶揄されたりもする。 が、時には互いに対立する「院」という派閥に与さないが故に、この機関の行動可能範囲は、常に院の壁を超える。
 多少泥臭いながらも、星の御子とは違った側面からこの国を支える。 それが彼ら二人が属する機関の役割だった。


 ふっつりと黙ったままのエヴァリオの机にぶらぶらと歩み寄りながら、長身痩躯のロアルドは尋ねた。
「聞いたぜ。 魔道士ギルド統括上層部から直々の捜索依頼だって? お前さんの双子の、ええと――」
「兄だよ」
 やや乱雑に刈った濃い金色の髪の下で、エヴァリオ=ヴィクレマの瞳がつと細まった。
 際だった美男子という訳ではないものの、真っ直ぐ通った鼻筋と結んだ口元は整った印象を人に与える。 実直そうな面立ちを曇らせたままのエヴァリオの言葉に、ロアルドは鼻先で頷く。
「そうか、向こうが兄貴だったか。 で、その兄貴、どうしたよ。 うちに捜索依頼とはまた穏やかでないな。 しかも黒でも白でも赤でもなく、魔導士ギルド総括の上部が一人の赤魔道士を捜索するなんてケース、聞いたことがないぜ。 別にこう、何だ――やらかしちまったって訳じゃ、ないんだろう?」
「ああ……」
 溜息混じりに呻くようなエヴァリオの声は、そこでまた淀む。 二人の間に横たわる重い空気を、しばしロアルドは無言で眺めた。

 自分と入れ替わりに出て行った捜査員の、せかせかした足取りをロアルドは思い出す。 噂に聞いた限りでは、かの兄に対する当局の扱いは「尋ね人」というよりもむしろ「お尋ね者」というニュアンスが強かった。
 そんな立場になってしまった自分の双子の兄を捜索する、実に微妙な役目をこの男は仰せつかっている訳だ。 指揮する彼自身も、それを知って指揮される方も、さぞかし神経をすり減らすだろう――

「な、今日はもう上がりだろ。 ちっと呑みに行こうや」
 椅子に沈んだままのエヴァリオの机の角に半分腰を下ろし、ロアルドはからりと言った。 心なしめんどくさそうに見上げる同僚の視線など意にも介さず、彼は楽しそうに続ける。
「水の区にな、いーい呑み屋ができたのよ。 何しろ可愛い子が多い。 酒のつまみの半分は店員の女の子でできてるってのを、あそこはよっく心得てるぜ。 ああいう店をこそ俺達は買い支えなきゃいけねぇよ。 おら行こう。 立った立った」
 まるで犬でも呼ぶように、笑顔で人差し指の先をひょいひょいと揺らして誘うロアルドの仕草に、ついにエヴァリオの口元からぽろりと笑みがこぼれた。


  *  *  *


 席に着くなりロアルドは陽気に店員の女の子を呼び、注文がてらひとしきり他愛もないやりとりを交わした。 店内の様子を伺いながら狙い打ちのようにその子に声を掛けたところを見ると、ころころと明るく笑うこのミスラが、どうやら現在の彼のお気に入りらしい。
 そんな声を聞きながら、エヴァリオは薄い熱気の漂う店内を見渡す。 なるほど、同僚の言った通りに可愛らしいウェイトレスが多い。 実によい景色と言えた。 これは確かに穴場だな――と、エヴァリオは密かに納得する。
 程なく酒と料理が二人の間に並べられ。
 そして話は、昔語りから始まった。

「――とにかく兄は、昔から出来が良かったんだ」
 手にしたグラスにとくとくと琥珀色の液体を注がれながら、エヴァリオは言った。
「何をやらせても飲み込みが早い。 勉強でも運動でも――二人で何かを同時に始めれば、必ず兄が一歩も二歩も先を行くんだ」
「は。 そりゃあお前、グレただろう」
 軽く鼻で笑いながら言うロアルドに、いやいや、とエヴァリオは返す。
「まあ小さい頃は、何度か拗ねもしたけどな。 兄の事は好きだし、両親もそれで俺のケツを叩いたりはしなかった。 そんじょそこらの兄弟よりは仲が良かったから、本気の仲違いなんかはしたことがない」
「ふうん。 あれか、双子ってのはどこもそういうもんか?」
「さぁ、他はどうか知らないよ。 けどうちに限って言えば……そうだな、片方がケンカに負けて帰って来れば片方がリベンジに飛び出し、片方が物語の一巻を買って来ればもう片方が二巻を買って来る、そういう具合だったな。 性格が似てるってんじゃなくて――互いの事が自然に判る、という感じだ」
 へー、と、鶏肉のソテーをナイフとフォークで切り分けながらロアルドは言う。
「そりゃまた便利だな。 テストの入れ替わりとか、そんな反則技もやったか?」
「そうそう、昔はそれもやった。 髪型まで揃えれば、仲のいい友達も見間違えるくらいには似ているからな。 ま、それは常に兄が僕の試験をやってくれるパターンだったんだが。 逆は成立しなかったよ」
 そう言ってグラスを傾けながら、屈託無く笑うエヴァリオ。 その笑顔を隙無く細めた目で伺いつつ、ロアルドは訊いた。
「何だ、お前さんは本当にいいとこなしか? ――双子の兄弟ってのは確か、後から生まれて来る方が兄って事になってるんだよな。 お袋の腹ん中の後始末をしてくるから、って理屈だったっけ。 お前、おいしい所をみんな置いて、慌てて先に出てきちまったのか」
 意地悪くからかうようなロアルドの言葉に、双子の弟はパンをちぎる手を止め、うーん、と唸ってから言った。
「……ああそうだ。 一つだけあったよ、僕の方が常に勝っていたジャンルが」
 ほう、と促すロアルド。 パンの最後の一切れにクリームを載せながら、楽しげに双子の弟は言った。
「他の事は何でも卒無くこなすくせに、どういう訳かあっちはこう、いわゆる人間心理って奴に疎くてね。 まあつまり」
 そこでエヴァリオはにんまりと笑う。 頬に一つ、えくぼができた。
「僕の方が、モテた」
「ああ、そりゃどデカいアドバンテージだ! 他の全てを補って余りあるぞ」
 大きく破顔するロアルド。 エヴァリオも小さく声を上げて笑った。
 ウェイトレスが空いた料理の皿を下げに来る。 その子に上機嫌で酒の追加を注文するロアルドを待ってから、それはともかく――と、もぞもぞと椅子に座り直しながらエヴァリオは言った。

「それまでは、兄は出来がいい人間なんだな、ぐらいに思っていたんだ。 僕も親も、周囲も。 けど――成人して赤魔導士という職に就いたとたん、その程度が……おかしくなった」
「――と言うと」
 ぼちぼち本題のお出ましだ。 ロアルドは語調をやや落として尋ねる。 エヴァリオは続けた。
「何でもかんでも、教わる端から覚えるんだ。 剣術と魔術の両方を――同時進行は決して楽じゃないはずなのに――まるで脳も体も海綿か何かで出来ているみたいに、あっという間に吸収していく」
「それは――優秀、の一言じゃ片付かないのか」
 訝しげに訊くロアルドに、エヴァリオは小さく首を横に振った。 そして瞼を伏せるようにして残った料理の皿に視線を落とし、ぼそりと呟いた。
「お前、練習ってするだろう」
「そりゃな…………、しない、のか」
 赤魔導士の双子の弟は頷く。
「しないんだ」

 その一言で十分だった。 ロアルドはテーブルにグラスを置いて小さく唸る。
「器用貧乏、とかならまだ判るさ。 だけどどれもこれも、日を置かずに並以上の成果を出すんだ。 知っての通り僕は戦士の道を進んだけど――兄と手合わせ中に喧嘩になった事もあったよ。 あれはもう、理不尽の域だったな――」
 職場の同期であり親友でもあるエルヴァーンに薄い苦笑いを見せながら、エヴァリオの視線はふと遠くを泳いだ。


 ――果てなく続く剣戟。 打ち込んでも打ち込んでも崩せない。
 自分は戦士だ。 修行中とは言え、剣での立ち回りを専門にする戦士だ。 その迫撃を――目の前の赤魔導士の細い剣は、突破させない。 流れる汗の玉の数も、自分の方が一桁多い。
 その上相手には、迷いという名の余裕の色が見えるのだ。 その気になれば次の一手で首を取れるものを、この状況をいつまで続けようか、そしてどう終局に持って行こうかと、剣を交える裏で思案している。 何たる優しさ。 それが剣を通して、分けた血を通して、否応なしに伝わって来るのだ。
 ついに耐えられなくなって彼は叫んだ。 屈辱だ、と――


 新しい酒瓶が到着する。 それをぼんやりと目で迎えながらエヴァリオは言った。
「……それに加えて、兄の魔法には何か――おかしな所があったらしい」
「また『おかしい』か――どんなだ」
 ロアルドは重い酒瓶をぐいと掴むと、グラスに手酌をしながら上目遣いで訊く。 漂ってくる新しい酒の香りを嗅ぎながら、エヴァリオはひょいと肩をすくめて言った。
「判らない。 本人は認めていないのか話そうとしないし、兄を教えた魔導士からその内容を聞かされたこともあったけど、僕は魔法は専門外だから結局理解できなかった」
 ふむ、とロアルドは鼻息を漏らす。 エヴァリオの手は琥珀色の液体が残るグラスを握ったまま、テーブルの上でぱったり止まっていた。 彼は言葉を続ける。
「赤魔導士としての技術が刺激になって、兄の中で何かが開花したのかもしれない。 何しろ目の院では、兄と親しく接触した研究者が論文まで書いたらしいんだ」
「それはまた――大したもんだな」
「身内の話で恐縮だけどな。 その論文が他のギルドでも取り上げられて話題になり、ついに統括上層部のお出ましって訳さ。 ――専門的な事は判らないよ。 でも、これだけは間違いない。 兄は――」
 エヴァリオはやおらグラスを持ち上げると、ぐいと中身を煽った。 とん、と空になったグラスをテーブルに戻し、吐息と共に彼は言葉を吐き出す。
「……天才だ。 僕はそう思ってる」
 賑わい出した店内の熱いざわめきが、沈黙する二人をゆっくりと包んだ。

「――で――その兄貴を、ついにギルドが招請しようとしたって訳か」
 腕組みをして全てを咀嚼し終え、完全に真面目な顔つきになったロアルドはゆっくりと口を開くと、話をまとめるようにそう言った。
 まあそうだ――とエヴァリオは頷く。 しかしそうして俯いた彼の顔を、じわりと覆い始めるのは――苦み。
「……だけど、兄は嫌がったんだ。 何度要請されても頑なに断り続ける。 それが僕には歯痒かった。 他ならぬ魔導士ギルドと院の、しかも統括から認められてお呼びがかかってるんだぞ、それは名誉じゃないか、僕も鼻が高い――と再三説得したもんだ。 それでも兄はどうしてもうんと言わずに、使者からも書簡からも逃げ回ってた。 訳が判らなかったよ――」

 実際、エヴァリオは嬉しく思ったのだ。 誇らしく思ったのだ。
 時には密かに嫉妬したり、羨んだ事もあった。 しかし双子の兄が、偏屈な魔道士達からもぎ取った高い評価を、彼は本心から喜んでいたのだ。 少なくとも彼はそう思っていた。
 が――

「そんな時だ。 兄ではなく、僕の所に、魔導士ギルドの使いが来た――――」

 あの日。
 使いの言葉に腹を決めたエヴァリオは、ちょっとした頼みがあるから、と言って兄を連れ出した。
 このままでは埒が開くまい、話し合いだけでも――そう思って。
 しかし、そうして向かった先に、弟と打ち合わせ済みの魔導士ギルド幹部と各院の上層部が揃っているのを見た赤魔導士は、一言叫ぶと身を翻して彼らの前から逃走したのだ。

「『俺はモルモットじゃない』。 兄はそう言ったよ――」

 その時の、兄の悲しげな嫌悪感に満ちた表情が、エヴァリオの脳裏を離れない。
 ロアルドは黙って彼のグラスに酒を注ぐ。 苦渋に満ちた表情で、彼はそれを口に運んだ。

「……つまりは、招請は招請でも、研究対象としてだった――って事か」
 少しの沈黙の末、ぼそりとそう呟くロアルドの言葉に、ま、向こうは否定したけどな――と溜息混じりにエヴァリオは答えた。
「僕が――僕だけが、何も判っていなかったんだ。 あのお偉いさん達が、弟であり特別捜査局に所属する僕に接触する事までしたのは、それだけ彼らが熱心に兄を求めているからだと思った。 いや、それ自体は正しいんだろうけれど――その『熱心さ』の動機が――」
「お前さんの認識とはちっとばかり違っていたようだと、こういう訳だな」
 ロアルドは淡々とそう言うと、温くなり始めた酒をグラスの中でゆっくり転がした。
 深刻な話をしている様子を見て取ったのだろうか。 いつもならサービスがてら定期的に声をかけてくる華やかなウェイトレス達も、今は時折さり気なく彼らの側を横切るにその行動を止めていた。
 しばし自分の考えに沈み込むように、グラスを持つ自分の手元にロアルドは視線を落とす。

 ――結果として、兄を売り渡すような行為になってしまったという事か――と、ロアルドは思う。
 魔導という「社会」に疎かった事で、彼は双方の本心を正しく見通す事が出来なかった。 そうして図らずも最後の亀裂を穿つ引き金を、弟は引いてしまったのだ。
 それは四面楚歌の瞬間だったに違いない。 遂に逃走する双子の兄。 当然のように自分の所に回って来る捜索依頼。
 家族としては戻ってきて欲しいだろう。 職務としても兄を捕捉しなければならない。
 が、もし連れ戻せたとしても、その後には――

「……見つかりそうなのか」
 ロアルドは静かに訊く。 エヴァリオは丸めていた背を、何かを振り切るようにぐっと伸ばすと大きく息を吐き、投げ出すように言った。
「判らん。 アレックスの捜索隊がカザムで発見して、密林で取り逃がしたのが最後だ。 彼の部隊も優秀なんだが、兄という魔道士のポテンシャルを知っている僕としては頼んでいて心苦しいばかりだよ」
 一息でそう言いながらエヴァリオは自分のグラスに酒を注ぎ、半ば自棄のようにぐいと煽った。 テーブルの上に漂う苛立ちにも近いやるせなさが、ひっそりと料理を冷ます。
 ロアルドはそんな彼の様子を、何とも言えない眼差しでしばし眺めて――

「……ノーグだろうな」
 低い声に、エヴァリオは伏せていた瞳を上げた。 視線の先、テーブルの向こうでその身に仕事の匂いを纏わせたロアルドが、淡々と言葉を紡ぐ。
「火山も寺院もまともに身を潜められるような場所じゃない。 隠れたとしても一時的だろう。 となれば、あのジャングルでターザンになるつもりでもなきゃ、兄貴は遅かれ早かれあの島からは出るはずだな。 瞬間移動なら行き先は町かゲートクリスタル、さもなきゃアウトポストだが、各ポイントには当然通達してあるんだろう?」
「――ああ、姿が確認されれば報告が来る」
 ロアルドの沈着な問いに、エヴァリオは知らず居住まいを正して答えていた。 意識して切り替えたのであろう同僚のビジネスモードを受け取りながら、エヴァリオは落ち着いた声で言った。
「その報告がない以上、僕もノーグが臭う……いや、ノーグしかないだろうなと思っている。 うちが相手なら、あそこは駆け込み寺みたいなものだしな」
 同意だね、とロアルドは頷く。
「……ま、駆け込み寺と言うか、逃げる動物が川を渡るようなもんか。 匂いも足跡も消えて、更にどこから上陸したかも判らなくなるってな――実に正しい判断だよ」

 ジョッキを抱えたウェイトレスが、二人の脇を軽やかに通り過ぎる。
 表情を消してテーブルに目を落とすロアルドを、エヴァリオはじっと見ていた。 軽薄が常態のようなこの男がこうして無表情になるのは、決まって何かを考えている時なのだ。 果たして彼は言った。
「判った。 一肌脱いでやろう」
 同僚のその言葉に、エヴァリオは眉を上げる。 そう言ってフォークを手にし、皿に盛られたソーセージを一つ刺しながらロアルドは言葉を続けた。
「今俺の所に回ってきてる仕事ってのが、新しく発見された麻薬の調査と密輸取締りでな。 何しろ見た事もないブツで、そもそも生産地からして不明だ。 全くもって長丁場になりそうな――いや、それはどうでもいいな。 要は」
 ぱき、とソーセージを囓る。
「密輸と言やノーグだ。 うちの捜査網に引っかかったごろつきや海賊なんかが、ぼちぼち上がってきてる。 こっちの調べとは別に、そいつらに聞いといてやるよ――お前に似た赤魔道士を見なかったかどうか。 勿論単なる可能性と推測の域を出ないが、ノーグ筋が怪しいならやる価値はあるだろう。 何か判ったら、真っ先にお前さんに知らせよう」
 それは――と口を開きかけるエヴァリオを制するように、ロアルドは穏やかに言った。
「報告義務やら連れ戻す事の是非やらはひとまず置いておいて、だ。 とりあえず――誤解は解きたかろう?」

 エヴァリオはゆっくりと、背もたれに体を預ける。 開いたままの口から、溜息にも似た吐息を長く吐き出して彼は言った。
「――恩に着るよ」
 なぁに、とロアルドは笑う。
「まだ役に立つと決まった訳じゃない。 手が回らなかったら許せよ。 まあ幸か不幸か、奴らの取り調べに駆り出されるのは決まって俺だがな。 全く、他の仕事もあるってのに困ったもんだ」
 口の端を吊り上げながらごちるロアルド。 微笑むエヴァリオは酒瓶を取り、同僚のグラスに酌をしながら訊いた。
「何だ、人手が足りないのか。 この間の人員再編で持って行かれたな」
「いいや、人数ならいるんだよ。 ただメンツがなぁ、事務上がりみたいな弱腰の奴だの、どこかの坊ちゃんみたいな優男ばっかりなんだ。 どいつもこいつも荒くれどもの気迫に負けて、最後は俺に泣きついてきやがる――うん、そうだな」
 くどくどと続きそうになる繰り言を不意に止めると、ロアルドは目の前の同僚ににっと笑いかける。
「請け負い料金としてだな、とりあえず俺の愚痴を聞け」
 楽しそうにきっぱりと言い渡す彼の言葉に、やはり楽しそうに口元を綻ばせてエヴァリオは答えた。
「存分に」

 ウィンダスの空はとっぷりと暮れて。
 静かに眠る波止場には、ささやかな波音が寄せては返す。
 遙かな海の星明かりを抱き、優しく繰り返す子守歌。

 嵐は遠い。


to be continued
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