テノリライオン

BlueEyes RedSoul 3

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 かつ、かつ、かつ。
 木の床を削る軍靴の響きは、無尽の知識がひしめく壁――本棚に吸い込まれ、ねじ伏せられる。

 軍靴の主、エヴァリオ=ヴィクレマは、ここ目の院の幹事の一人に報告書を届けにやって来ていた。
 その他にも雑多な用件を抱え、かつそこそこに多忙な彼は、指定した人物の指定した時間、指定した部屋へと速やかに向かったのだ――が。
 あれー、さっきまでそこに居たんですけどねぇ――という、下っ端の魔道士らしきタルタルの気の抜けた言葉が、彼の小さな旅の始まりだった。
 多分あの人の所、と言われて向かった先に、その人物がいない。 そこに居合わせた者に改めて幹事を見なかったかと尋ね、それならきっとあそこに、と教えられた部屋の鍵が閉まっている。
 見事なたらい回しだ――と苦々しく思いながらあちこちでその消息を聞いて回って。
 そうして何度目かに向かった書庫の隅で、かびくさい古書に埋もれて何事か唸っている幹事のタルタルを、彼はようやく捕まえることができたのだった。

「いやあ、急にインスピレーションが湧いてしまったんだよ。 今進めている研究の中でね、どうしてもうまく流れなかったオドからオドへの――そう、実際天啓に等しいんだ。 そもそもこれまでの召還理論では――」
「申し訳ありません、私はそういったお話のお相手が出来る程に魔術に明るくありませんので。 先日の和議の件で参りました、ご覧下さい」
 (はな)から逸れている話の向きを、エヴァリオは力ずくで修正する。 院の中をさんざん右往左往させられてただでさえ浪費した時間を、これ以上増やしてたまるものか。
 まるで玩具を取り上げられた子供のような表情で、タルタルは彼の差し出す書類を渋々と受け取った。
「ああ……これね。 結局修復費用はこちら持ちになるのかい」
「はい、やはり実際的な事の発端は院生のパルファム氏の魔法発動ですので。 城壁に宿るノームに挑発された、と主張しましても、サンドリア側にしてみれば責任の取りようもないでしょう。 幸い怪我人などは出なかったとは言え――」
 淡々と説明しながらエヴァリオは、自分の論調が僅かにサンドリア側を養護する色を帯びるのを感じていた。

 露骨に魔術が絡んだ事例を扱うたび、自分にこうした傾向が見られる事を彼は自覚していた。 それがウィンダス連邦の機関に所属する者として、また仲介役としても、褒められた姿勢ではない事も。
 またよからぬ癖が出た――と、遅まきながらエヴァリオは言葉の裏でひやりとする。
 が、不機嫌なタルタルの幹事はそんな彼の様子に気付く事なく、手にした書類をぺらりと捲りながらぶつぶつと呟いていた。
「ふぅん。 まあ武人相手では難しかろうとは思っていたけど――こういった繊細な問題は、やはり彼らのような人種には荷が重いのだろうね。 理解できないのは嘆かわしい事だが、仕方ないか」
 エヴァリオの眉がぴくりと動く。 タルタルは手近にあった台に書類を置くと、俯いてさらさらとサインをした。
「了承した、このまま進めて。 他には」
「あとはこちら――スクロールの盗難と、守秘義務違反の件の稟議書です。 よろしければサインを」
 エヴァリオが事務的に差し出す書類に、タルタルも事務的に目を通しサインをする。 しばしの無言。 かりかり、という微かな音だけが書庫に響く。

 ――紙の擦れる音もペンの走る音も、新旧様々の書物に埋もれたこの院にはしっくりと馴染むもののはずだ。
 なのに、自分がそれを運んできたというだけで、その音は不協和音のようにエヴァリオの耳を刺激する。
 不意に、彼の腹の底がもぞりと疼いた。 早々にこの建物から引き揚げたい――という雑念。

「――では、これで頼むよ」
「かしこまりました」
 サインされた書類を受け取ってざっと確認し、それを揃えながらしまおうとする彼に、タルタルはふと思い出したように尋ねた。
「あ、そうそう。 君、あれどうなったか知ってる? 逃亡した赤魔道士。 ええと――」
 エヴァリオの手がぴくりと止まった。 ゆっくりと視線を目の前のタルタルに戻しながら、彼は絞り出すように答える。
「ヴィ――クレマ、ですか」
「そう、それだ。 見つかったのかね、彼は。 何か聞いてる?」
「――――」

 実に気軽な口調だ。 どうやら彼は、目の前に立っている金髪の捜査官がまさにその担当であり、かつ当の逃走者の双子の弟であるという事には全く気付いていないらしい。 逃走者のそれと同様に、エヴァリオの名字もまたこのタルタルの記憶からこぼれ落ちているのだろう。
 さして怒りも覚えない。 改めて名乗る気も起きなかったので、事務的な表情もそのままにエヴァリオは抑揚なく答える。
「……目下追跡中です。 現在は足跡を消されてしまった状態ですが、一個捜索隊が全力を以て行方を追っています」

 紋切り型な回答だが、嘘ではなかった。 良くも悪くも。
 捜索隊は任務を遂行すべく、昼夜を問わず活動を続けていた。 対象を見つける為にあらゆる手段を講じ、四方八方にその気配を探っている。 しかし、彼らの努力は未だ実ってはいない。
 何故ならかの逃走者は、ウィンダスを出ると同時に登録――シグネットと呼ばれる、冒険者として自己を申請し特殊なサービスを受ける為の登記――を、きれいに破棄していたのだった。
 つまり、国家機関と自分とを相互に繋ぐ糸を、彼は手放したという事だ。 それは様々な物品の支給や移動機関の利用権、更には自分の身に万が一の事があった時の救済措置をも返上する代わりに、自分の痕跡を、社会的な気配を完全に絶ったという事だ。 今や彼の身柄は、ちょっと散歩と町を出ている名も無き一般市民も同然である。
 捜索隊が編成されてすぐに判明したこの事実が、致命的な打撃を彼らに与えていたのだった。

 彼の返事を聞いたタルタルは、軽く残念そうな表情を見せて言う。
「そうか。 私もあの赤魔道士にはね、興味があるんだよ。 全く、あたら希有な能力を野に捨てるような振る舞い――理解できないね。 ともかく頑張って見つけるよう、くれぐれも頼むよ」
「――はい」
 短く答えてエヴァリオは一礼し、きゅっと音を立てて踵を返した。


  *  *  *


 軍靴の音を従えて、エヴァリオは本棚の谷間を足早に歩いていく。 この目の院に本棚のない部屋などは無いのだ。 古書独特のざらつくような紙の匂いが、彼の全身を包む。

 視界全てを書物に囲まれて、人が抱く感想は概ね二極に分かれるだろう。 安らぎを覚えるか、圧迫感を覚えるか。 エヴァリオは後者だった。 まるで命綱を握るように、彼は腰に下がった剣の柄に手を添えていた。
 歩くにつれ後ろに流れていく周囲の壁から、ありもしない視線を感じる。 そこに詰まっているのは護られるべき貴重な知識、この院に通うのはそれをこよなく愛する者。 そう判っていても、彼にはこの膨大な蓄積そのものが、物理的な怨念じみて感じられて仕方なかった。

 ――かつて、ララブを異常なまでに愛玩する民族がいて。 彼らが隣国に攻め入った時、迎え撃つ戦士達が機転を利かせ、皆ララブを抱いて出て来た為にまともに攻撃できず、その民族は壊滅的な返り討ちに遭った……なんて逸話があったな――
 脈絡なくエヴァリオはそんな事を思い出す。 そして、ならばここの魔導士達に攻め入られそうになった時は、この本棚で砦を築けばいいんじゃないか――そんな愚にもつかない空想を弄び、彼は一人ふっと鼻で笑った。

 格別に学問が苦手という訳ではなかった。 毛嫌いしているつもりもなかった。 ただ、それよりも剣の道を歩みたいと彼は思ったのだ。 それが自分には合っていると。
 しかし、魔術とそれにまつわる学問が空気のように支配するウィンダスという国に籍を置く限り、その影から逃れる事は不可能だ。 何かと言うと絡んでくる、難解な思想。 厄介な慣例。
 そのどうしても身に馴染まない風俗を、彼が最も色濃く感じるのが――ここ、「院」という空間なのだろう。
 歩く己をぐるりと取り囲む背表紙たちを、エヴァリオは醒めた目で見回した――その時。

「……で、その赤魔導士の人はどうしたんですか?」
「まだ捕まっていない。 正直気が気ではないよ」

 ふと本棚の向こうから聞こえてきたその会話に引かれ、彼はゆっくりと歩みを止めた。
「何でしたっけその人、えっと、ヴィクリム――」
 少女のような黄色い声。 少女がこんな所でこんな話をする筈もないから、いずれタルタルの女性のものだろう。 それに答えるのは対照的な、重々しい声。
「ヴィクレマだ。 全く、特捜は何をしているのか……事の重大さを正しく理解しているとは到底思えん」

 その場に柔らかく固まったまま、彼はつい耳をそばだててしまう。 本棚の向こうで、重い声は続く。
「彼については、すぐにでも検証したい事が山積みなのだ。 君は読んだかね、あのシャルレイの論文を」
「あ、いえ、概要を聞いただけであの、現物は――」
「読んでおけ。 読むべきだ」
 声は断言する。
「あの論文が覆しているのは、属性・反属性の法則だけではない。 大方の者はそればかりに着目しているが、闇凝結生成第二段階から第三段階への推移にアイデスの契約が見られたという記述は、素通りしてよいものではないぞ。 明らかにケルツァイの原理に反する――ハイスキップの証拠だ。 詠唱者がヒューム族の場合、対闇の盟約提示までの工程数は三ではないのだから」

 重い声は何やら蕩々と論を展開しているが、当然の如くエヴァリオにはさっぱり理解できない。 彼の耳は自然とそれを聞き流しにかかっていた。 声は続く。

「これが偶然や亜流では済まされない数字だという事は、お前も判るだろう。 ――ではこの四ものスキップが事実だとしてだ、これにより転調できず百パーセント除外されている宿座は何だと思う。 先週の講義を聴いていれば判るな」
 突然の問いの答えが見つからないのか、黄色い声はえっと、えっとと口ごもっている。 呆れたような溜息が聞こえ、復習しておけ――と重い声は言い渡した。 黄色い声が、取り繕うように話題を変える。
「本当に、早く特捜部の人が見つけてくれるといいですねぇ。 あ、でも、それだけ規格外の魔道士となると、追跡するのも難しくないでしょうか」
 だろうな、と頷く声。
「しかし――まあ細かくは知らなんだが――捜査に当たっているのは、他ならぬ彼の実弟だという話だ。 ならば仕事にも力が入るというものだろうし、有利な点もあるだろう――色々な意味でな」
「あら? じゃあその人も、何か特殊な――?」
 好奇心の旺盛そうな黄色い声を、その相手は、いや、と否定する。
「聞けば弟の方は、至って平凡な捜査官らしい。 捜査官として平凡かどうかは知らんが、とにかく魔導とは無縁の人種だそうだ――いずれにせよ、ヴィクレマ氏には早々に戻ってきてもらいたいものだな。 魔導著の研究者名に名を連ねたくてうずうずしている連中が、それこそ土下座も辞さない勢いで待っているのだから」
 そう言って心底待ち遠しそうに沈む声に、そうですねぇ、と黄色い声が頷く。
「でも、何だって逃げちゃうんでしょうねぇ。 別に取って食おうって訳じゃないのに」
「当然だ」
 黄色い声のちょっとした軽口を、相手は馬鹿正直にたしなめた。 相手が首をすくめる気配。
「あれほどの希少な人材、人にも魔物にもゆめゆめ食わせるものか。 完全なる未知の領域だぞ、何を孕んでいるものか見届けなくては儂も死ねんわ」
 とは言え――と、重い声が唐突に低くなる。 そしてぼそりと言った。
「……下手をすれば、取って食われるのは我々の方かもしれないのだがな――」

 ゆるり――とエヴァリオは歩き出す。 足音は殺した。
 徐々に足を速め、廊下へと抜ける。 まっすぐに院の出口を目指す。 程なく到達した重々しい扉をぐいと押し開け、エヴァリオは密閉されたその空間を抜けると、目映い日光と澄んだ空気の下へと舞い戻った。
 水から上がったように大きな息をつき、凝ってもいない肩をぐるんと回して、彼は伸ばした背筋で歩き出す。

 響くのは同じ名字でも、それはエヴァリオを呼んではいない。
 ――どうあっても、自分はここでは取るに足りない平凡な人間のようだ――と、彼は幾分自嘲気味に口の端を吊り上げた。
 ちらりと目の院を振り返る。
 兄もきっと、あの雰囲気が苦手だったのだ。 時を超えて雪のように降り積む声なき声と、それに埋もれながら駆り立てられる人々の姿が。 何故かそう確信する。
 鮮やかな緑の中にどっしりと建つ、それはまるで貪欲な爬虫類の如き影。

 関係ない。 どれだけ魔導士連中と相容れずとも、自分には自分の進む道がある。 鳥は空に、狼は地に生きればよい、ただそれだけのことだ。
 が。 それでもなお、そう思ってもなお――エヴァリオは、閉じた瞼に兄の背を思い浮かべてしまう。
 そして願うより、祈るよりも強く――念じてしまうのだ。

 ――見ろよ。 あのプライドの塊のような魔導士達が、まるで荒ぶる神の降臨を仰ぐようにして兄さんを待ってるんだぞ。
 戻ってきて、見せつけてやってくれよ。
 翻弄してやれ。 ふるい落として、食い散らかしてやればいい――

 エヴァリオは風を切って、目の院を後にする。
 大地を見下ろし居丈高に啼き交わす鳶たちを暗い瞳で見上げる、それは狼の姿だった。


  *  *  *


「それでは――お世話になりました」

 モザイク模様の落ち葉を敷き詰めた雑木林。 傾きかけた淡い木漏れ日。 どこからか鳥のさえずりが聞こえる。
 石造りの小さな家の戸口で振り返りながら、ヒューイは彼女に礼を述べた。

「とんでもありません、こちらこそ楽しかったですわ――あの、本当に町までお送りしなくても――?」
 玄関まで彼を見送りに出ながら、それに答えるのは蒼い瞳のデルフィーナ。 清楚な白い服と長い波を描く茶色い髪、お腹の前で両の手のひらを組んで立つその様は、まるで女の子の部屋を飾る綺麗な人形のような風情だ。
 どこか名残惜しそうな表情の彼女に微笑みかけると、ヒューイは言った。
「ご心配には及びません。 散々ご馳走になって、そんなご足労までかける訳には行かない。 先程の海岸を西に向かえばよいのですね?」

 あれから彼らは、デルフィーナの用意した暖かい料理を挟み、とりとめのない話をして穏やかな時を過ごした。
 それらはひどく散漫な世間話や、あるいは益体もない雑談ばかりであった。 しかし、まるで彼の声そのものを楽しんでいるかのようなデルフィーナの笑顔が時の流れとともに増えれば、それを見たヒューイは更に話を膨らませて。
 はっと気付けば、陽は西に向かい始めていた。 これは長居をしました――と席を立ったのが、つい先刻。

「ええ、しばらく行けば海沿いの町が見えてきます。 小さな町ですけれど、宿泊施設も確かありましたから――」

 ――尻切れとんぼ。
 言い切ってしまうのを惜しむように不自然に途切れたデルフィーナの言葉が、そんな二人の間に不意の沈黙を運んで消えた。
 止まる時間。 木々の静寂が甘い。 他にはもう何も残っていない、それでは、という言葉が、二人の側で固まる。

 ……このまま、この女性(ひと)を、ここに置いていっていいのだろうか――

 柔らかい風が雑木林を吹き抜けて、ヒューイの中に泡のようにそんな思いが浮かび上がってきた。
 唐突で脈絡のない思考に彼は自分で驚き、そして戸惑う。

 ――置いていくも何も。 一人暮らしであれ、彼女はここに住んでいるのではないか。
 大体ここを出て、どこに連れて行こうと言うのだ。 遠い海から流れ着いたばかりで自分の足下も覚束ない、食事から行く先まで世話になっている身で、俺は一体何を――

「あの――」
 と、デルフィーナが小さく沈黙を破る。 はっと我に返るヒューイを見上げて、彼女はか細い声でこんな事を言い出した。

「その、町の人達は……私の事は、知らな――いえ、あの、気にして……覚えて、いないんです。 ですから――」
「……? あなたの、事を?」
「はい、あの……ですからどうか、あまり、町で……私の事を、訊いたりは、なさらないで下さいね。 恥ずかしい――ですから」
「――――?」

 たどたどしい。
 まるで何かに怯えるような、小さな声だ。 海岸で出会った時に戻ってしまったかのようにおどおどと言葉を紡ぐデルフィーナを、ヒューイはじっと見守っていた。
 言い終わった彼女は押し黙り、かすかに俯いている。 長い睫毛がその神秘的な瞳を隠す。 それはまるで、叱られてうなだれる子供の仕草――

「――判りました。 この家とあなたの事は、胸の内に納めておく事にしましょう」
 ヒューイの口から、自然にそんな言葉が出ていた。 伏せていた顔を上げ、ほっと安心したように微笑むデルフィーナ。

 何故こんな事を頼むのか――理解不能だった。 が、根掘り葉掘り詮索して、困らせたいとも思わなかった。
 彼女がそうして欲しいと言うのなら、それは聞き届けてやりたい、そう思った。 強く思った。

「では――本当に、ありがとうございました」
 彷徨う思いを振り切るように、ヒューイはそう言って頭を下げた。 肩口で揃えた濃い金色の髪がぱらりと垂れる。
 無言で彼を見つめる彼女に精一杯の笑みを残し、ヒューイはゆっくりと踵を返す。

「――あの!」
 歩き出す彼の背に、デルフィーナの高い声が追いすがった。 振り向く。

「あの、お願いです、近くに――また近くにいらして、もし気が向きましたら――」

 どうしてそんな顔をするのか。

「また寄って下さい。 私はずっと、ここにおりますから」

 まるで地雷原に立っているような、

「私と――会ってやってもいいと、思って下さったらでいいんです」

 そこから一歩も動かないのは、

「それが何よりの――私には、何よりの」

 あなたをこの森に縛るものは、何だ――――


  *  *  *


 丸い太陽が招く方向に向かって、ヒューイは海岸線をなぞるように歩いていた。
 穏やかな波の裾が、彼の靴底を洗おうと静かに寄せては返す。

「――――」

 海賊の隠れ里、ノーグを出て、およそ二日で遭難した。
 今日の日付は聞かなかった。 どれくらい海を漂っていたのかは判らないが、体の衰弱具合から見て二日以上ではないだろう。
 約四日――追っ手。 どの程度警戒すべきだろうか。 いや、最大限に身を忍ばせなければならないのは判っている。 しかし――

 まるで夢遊病者のようなのろのろとした足取りでヒューイは歩く。 しばらくすると、行く手から商人とも冒険者ともつかない二人連れがやって来て、距離を置いて彼とすれ違った。
 やはり町はこちらの方向で間違いなさそうだ。 このまま進めばいい。 まっすぐに。

 そう、まずは、人里に行く。
 現在地を把握する。
 とりあえずの宿を確保する。
 それから……


『私はずっと、ここにおりますから――』


「……どうしてだ」
 観念したように呟いて、ヒューイは溜息をついた。

 今後の身の振り方を検討しなくてはならないはずの彼の頭の中が、すっかりあの小さな家とその住人の姿に占められてしまっている。
 気がかり――というのとは少し違った。 知らないまま終わった、あんな所に住んでいるその理由(わけ)も、背景の判らない霧のような言葉の数々も、究極的にはどうでもいい。
 ただ――ただ。

 ただ、あの青い瞳が頭から離れない。
 そして何故か、無性に哀しかった。
 あの女性(ひと)が、誰とも関わることなくたった独り、木々と海だけに囲まれて暮らしている。
 その事がひどく、哀しかった――許せなかった。
 彼女の作ってくれた手料理は、とても美味かったのだ。

 緑の海の遙か沖に、帆船が一艘浮かんでいる。
 いずれ追っ手はかかるだろう。 魔導士ギルドのしつこさと言ったらなかった。 それが特捜の協力を得たとなれば、不測の漂流でほぼ完全に撒いたに違いないとは言え――捜索の手は遠からず及ぶと見て間違いない。
 あれこれと鬱々と、半ば義務のようにしばしその事を推考して、ヒューイは――帆船の影から目を逸らした。

 自分自身の事に対する関心が、どんどん薄れていっているのが判った。
 逃避ではない。 だからその分(たち)が悪い。 思考の舵を奪われているような危機感を感じる。
 しっかりしろ――と声に出してみても、傾いた天秤は容易に戻りはしない。

「……捨ててしまうか……」
 そう呟いてヒューイは、自分の赤い装備を見下ろす。 今や赤魔導士という身柄を喧伝する必要も理由も、彼からは取り上げられてしまったのだ。 衣装も靴も、売っ払って日銭の足しにでも――
「……あ」
 唐突に彼は声を上げ、ぴたりと足を止めた。

 剣が、なかった。
 いつも左腰に提げていた、細身の剣がない。 自分の腰元を見下ろしたまま、あまりの事にヒューイは呆然と浜辺に立ち尽くす。
「――本当に……しっかりしてくれ」
 吐き捨てるように、苦々しく彼は呟いた。

 彼女の家に上がった時に帯剣を解いた。 そしてあろう事か、それをそのまま置いてきてしまったのだ。
 どうやら自覚していたよりもずっと、平常心から遠ざかっていたようだ。 赤魔道士として――いや、剣を持つ者として、あるまじき失態。
 剣と、そしてあるべき自分を取り戻すべく、ヒューイは足早に浜辺を元来た方へと引き返す。 図らずもこのショックで彼の思考は一気にクリアになっていた。

 ――あの女性(ひと)の家に、あんな物騒なものを置いてきてしまうとは。 俺は一体何をしているんだ。 急いで引き取って、謝らなくては。
 ほんの一瞬、もう一度彼女に別れを言わなければならない事に対する躊躇いがその歩みを止めかけたが、彼は即座にその考えを振り払う。
 防具はともかく、剣を手放すという選択肢は無い。 それは捨て鉢に過ぎる。 人と戦う為ではなく、自分を守る為に、あれはまだ必要だ――

 しっかりとした彼の足取りは、海沿いの雑木林へと吸い込まれていく。


  *  *  *


 質素な石造りの家が見えてくる。 かすかな気まずさに、ヒューイの歩調は知らず重くなった。
 それでも意を決しながら、ゆっくりと家に近づく――と、玄関の木の扉が細く開いている事に彼は気付いた。 中の様子は伺えない。 閉め忘れだろうか、とヒューイが訝しんだ、次の瞬間。

「――、お引き取り下さい!」

 その扉の隙間から、デルフィーナの甲高い声が漏れ響いた。
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