テノリライオン

07-01-28

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corelli

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ケータイ、ラノベ、ネット。



携帯で小説を読み書きする「ケータイ小説」という文化が最低限の市民権を得てから、そこそこの月日が経っていると思う。そして、沢山の人が一つの文化を共有すれば、そこにはおのずとルールというものが立ち上がってくる。
という訳で、このケータイ小説という文化には、以下のようなルールが生まれてきているそうだ。

  • 段落では一字下げをしない
  • 主人公の発言には、「」ではなく『』を用いる
  • あまり極端な改行はしすぎない

などなど。
これらは全て「携帯の画面で読みやすくするため」に、自然発生的に出来た暗黙のルールのようである。
読みやすい事はいい事だ。ケータイ小説の前身とも言えるネット小説にも同様の作法(行開けの多用など)はあるし、長いから優れた文章だなどという法則はない。問題はどのように書かれたかではなく、何が書かれたかという事なのだから。
しかし、このケータイ小説文化圏の人々が言う「読みやすさ」とは一体何だろうか。

日本人が一文として無理なく認識できる文章の文字数は、おおむね40字以内と聞いたことがある。
一つの意味をなす「。」から「。」の間、もしくは「、」と「。」の間が40字前後。この40という数字がどんどん小さくなっている事を、ケータイの数インチの液晶画面が正当化しているように思う。
ケータイ小説が書籍化される。当然一文は短い。それを好んで手に取る人達は「文章が短くて読みやすい」と喜ぶ。しかしその口調は、長い文章を読み慣れた上でそう言っているようには、どうも見えないのだ。

「短いから読みやすい」のではなく、「短くなければ読めない」のでは?

ケータイだと大量の文字がいきなり目に飛び込んでくることがない、というのがある。最初から何十行も見えていると、「まだこんなに残っているのか」とうんざりしてしまうものだ。料理でも、いきなり巨大な丼が出てくるよりは、同じ量でも小さな皿に何回かに分けて出てくるほうが、気分的には楽だろう。

そういうものだろうか。
それぞれが別の料理ならともかく、カツ丼の切り身が一切れずつ、ご飯が少しずつ出てきたら、私ならペースが掴めなくて困るけれど。ちゃんと自分のペースでかっこむから全部出しといてくれよ、と思う。
全体像の把握よりも、たくさんあるとそれだけでイヤになっちゃうからブツ切りにしてでもちょっとずつ出してね、という姿勢だとするならば、こりゃただの処理能力の低下ではないかと私は思う。
大きいものを出され、自分でブツ切れ、と言われると、もう内容も見ずにサジを投げてしまうのである。

長い文章を頭の中に取り込み、その意味を理解する処理能力。読解力以前の、言わば「読力」とでも言うべきものが、著しく低下している。
低下しているというか、そもそも鍛えられていない。
そんな気がする――と言うのは控えめな表現で。正直、そうとしか思えない。
それでいいのか? その程度でいいのか?

とは言え、言葉とは長きを生きる生き物だから、今この時代に私が体験したものが最上であり最終形である、などと言うのは妄言になる。
そもそも最初に挙げた「40字」からして、私より前の世代、もしくはもっと文章を読み慣れた人からしてみれば、多少少なくなっている字数なのだろうだから。
80代、90代の方の手書き文などを見ると、段落や改行どころか、句読点すら恐ろしく少なかったりする。頑固な文豪もかくやである。
習慣と言ってしまえばそれまでだけれど、その世代の人々は、「。」や「、」がなくても、どこからどこまでが一文かを把握できているという事でもあるのだ。
私がケータイ小説に向かって吠えている事を、彼らはそのまま私に言えることだろうと思う。

しかし、更に気になるのは2番目の
  • 主人公の発言には、「」ではなく『』を用いる
というルールだ。
これは、恐ろしい。カッコの形を変えなくては、どれが主人公の発言か判らないと言うのだ。
「○○は言った」という冗長文を排するためという大義名分があるのだろうが、裏を返せば、文脈によっても語調によっても、それが主人公の発言だということを伝えられないのだ。

これは「読みやすさ」ではない。ただの「書き手の手抜き」だ。

例えば欧米の文章には、発言の前後に"he said"、"○○ said"という一文が付くことが多い。これは、話し言葉に男女差がなく、語調の振り幅や立場の上下を現す表現も多くないため、発言が入り乱れる場面などではそう注釈をつけないと危ない事があるからだ。
欧米の小説家さんが日本語の話し言葉を知って「便利だ」と羨んだ、という話を聞いた事がある。
そんな言語的アドバンテージが日本語にはあるのに、ケータイ小説の作者さん達はどうやらそれをも忘れていらっしゃるようである。

もう一つ不思議なのは
ケータイ向けの文章で大切なのは、改行よりも段落である。ざーっと改行なしで書いてあって、適当なところで一段落つける、というような文章が読みやすい。
という文章だ。
「改行よりも段落」? 改行するという事はすなわち段落をつけるということ、という国語のルールが、破られる以前にそもそも認識されていないのだろうか。どうやら、「段落」ではない「改行」が、ケータイ界では存在するらしい。
まぁ、この手の風潮は私が身を置いているネット上の小説サイトでも、皆無とは言えないが。所詮は利益も動かなきゃ第三者のチェックもない自由な個人活動、何をどうやった所で文句を言われる筋合いではないのである。
そこを這いずる私が言ってもどんぐりの背比べ、目くそ鼻くそだろう――だろうけれど。

「知っていて破る」と「そもそも知らない」の間には、深くて暗い溝があるのだ。
「できるけどやらない」と「そもそもできない」の間には、高くて険しい山があるのだ。

長い文章も読むけれど、短い文章も読みやすくていいね、ならよい。
長い文章も書けるけれど、短い文章も書けるぜ、ならよい。
それは「知った上で、敢えてそうしている」と言えるから。

長い文章はいやだ、短小な文しか読めない、というのは単なる力不足だ。
まともな料理を食べたことのない人が、「カップラーメンは最高にウマい、みんなも食べてみて」と言っても周囲は困るだけなのである。
長い文章はめんどくさい、短小な文しか書けない、というのは単なる力不足だ。
卵焼きすら焼けない人が夕食一式を作ったところで、ウマいと言ってくれるのは新婚の旦那様だけなのである。

それは流行ではない。
ましてや進化でもない。
ただのレベルダウンだ。

勿論そうでない人も多々いるだろう。
しかし、短くするのが良いし読みやすいと言うのならば、短歌や俳句のように、その短さを生かして凝縮された文章を書かなければ、ただスカスカなだけで意味がない。
このジャンルではそれができているなと思えた時、私は初めてケータイのブラウザを立ち上げるだろう。

と、書き始めるとかように長くなってしまうネット垂れ流し素人の私なりに、そんな事を思ってみるのである。


カテゴリ: [雑記] - &trackback() - 2007年01月28日 19:47:36
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