テノリライオン

BlueEyes RedSoul 2

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匿名ユーザー

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「まいどー」
 片手で放り投げるような、低い愛想の声。

「おや、お客さんが来てたのかい」
 ぱたぱたと足音を立てて店の奥から出て来た女性が、手拭いで手を拭きながら店主である夫に声をかけた。
「ああ、外の森にいるあの娘さ。 買い出しだろう」
 ぶっきらぼうにそう言い捨てる夫の言葉に、彼女は眉をしかめた。
「……あんたねえ、そんな冷たい言い方するもんじゃないよ。 その分だとまた早々に追い返したね?」
「へっ。 売るもんは売ってやったよ、文句あるまい」
 悪びれる様子もない。 全く、とおかみは小さな溜息をつく。
「別にねぇ、悪さをした訳じゃないじゃないか。 その逆だよ。 邪険にしてやる筋合いじゃないんじゃないかい? あんな若い子が町の外に住むなんて――可哀想な話だよ」
 哀れむような彼女の言葉に、彼はまた、へっ、と鼻で答える。
「それはそれ、これはこれさ。 じゃあお前、あの娘と一緒に暮らせるか? 隣に住めるかよ? 俺ぁご免だね、気味が悪ぃ」
 おかみは言葉に詰まった。 そしてまるで言い訳でもするように、手にしていた布巾を所在なげに畳む。
「そりゃあ――ねぇ――」
 小さく呟きながら、彼女は窓の外に広がる空を見上げた。


  *  *  *


 青い空と緑色の水面を滑る潮風。 海鳥が一羽、みゃあと鳴いて高く舞い上がる。
 果てなく続く砂浜を一人歩くその女性は、名をデルフィーナと言った。

 折れそうなほどに細い体に、ふわりと白い服を纏っている。 清潔だが飾り気の少ない粗衣が風になびくその様は、まるで彼女がこの世のものではないかのような淡い儚さを醸し出していた。
 腰近くまで長く伸びる薄い茶色の髪。 彼女の傍らに寄せるさざ波をそのまま写したような、緩やかなウェーブ。
 スカートの裾から覗く華奢な足首は薄いサンダルを履き、さく、さくと遠慮がちに砂を踏みしめ――そして、ゆっくりと歩く足下を伺うように俯いたその顔の、何と麗しいことか。

 まるで焼かれて間もない陶器のように、なめらかで白い肌。 ほっそりとした顎。 その上で、小さな唇が控えめな朱を差している。
 髪と同じ薄茶色の眉が、長い髪を分ける額で優しげなカーブを描く。 伏せ気味の睫は濃く長く、それでいてとても柔らかそうだ。
 しかしその、喜びの女神から祝福を受けたような容貌とは対照的に。
 どこか寂しげに、何かを憂えるように遠く彷徨うのは――覗き込めば吸い込まれてしまいそうな――深い深い、蒼色の瞳だった。

 デルフィーナは広がる空を見上げる。 その小さな二つの海が、流れる薄雲を映す。
 穏やかな波音。 その中をふわふわと歩きながら、彼女は瞳を閉じた。 顔に当たる日差しが暖かい。 海鳥の鳴く、みゃあ、という声が、遙か頭上を横切って去っていった。

 ふと目を開いて、片手に抱えた荷物に彼女は気遣うような視線を落とした。 町で買い出してきた僅かな生活用品や食料の入ったその袋はそう重くはないが、卵などの割れ物がいっしょくたに入っているので扱いには気をつけなければならない。
 中身の位置に注意を払いながら、労るようにその荷物を抱え直す。 細い腕の中で、厚手の紙袋ががさりと音を立てて収まった。 小さく息をついて、デルフィーナは荷物から顔を上げ――
 その足が、ぴたりと止まった。 流れる潮風が彼女を追い越してその視線をなぞる。

 遠い波打ち際に、見慣れぬ色が打ち上げられている。
 それは、鮮やかな赤。 この土地の海からは、まず生まれない色だった。 何だろう――デルフィーナはかすかに眉をひそめる。
 彼女は止まっていた足を、恐る恐るその色の方に進め始める。 そして、
「――あ」
 小さく息を呑んだ。 人だ。 あれは服の色。 荷物を胸に抱くと、引かれるように彼女は走り出した。
 小振りのサンダルがみるみる砂まみれになる。 デルフィーナは急いで目指す人影に駆け寄り――その少し手前で、慌てたように足を緩めた。 軽く乱れた息を整えつつ、その人物の顔を恐る恐る覗き込む。

 仰向けに横たわるその人物は、男性だった。
 潮を含んだ赤い服、濃い金髪。 その少しだけ伸ばした髪の毛先が、しっとりと砂浜に貼り付いていた。
 瞼は眠るように閉じられている。 通った鼻筋。 ヒュームの人かしら――と彼女は思う。 その位しか、彼女には判断できなかった。

 さあ……と寄せる波が、男性の足先を洗っている。 デルフィーナはごくりと唾を呑むと、そっと彼の横に膝をついた。 荷物を傍らに下ろし、かがみ込む。
「もし……あの、もし」
 恐る恐る、小さく声を掛ける。 反応がない。
「もし、――もし」
 少し声量を上げながらおずおずとその肩に手を触れ、思い切って軽く揺する。 と――
「――――っ」
 不意にぐっと男の顔が歪み、微かに息を吸った気配が見えた――と思った瞬間、彼は弾けるように激しく咳き込んだ。
 きゃっ、と小さく叫んで身を引くデルフィーナ。 彼女に背を向け、男性は胎児の姿勢で肺の異物を吐き出すようにげほげほと苦しげな咳を続ける。 その背中をさすってよいものかどうか、おろおろと戸惑いながらデルフィーナは彼を見守った。

「っ――、は――」
 しばし空咳を繰り返したヒューイはどうにか呼吸を取り戻し、荒い吐息とともにごろんと仰向けに体を戻した。 思い切り空気を吸っては吐きを繰り返し、そうしてやっと人心地つく。
 彼はゆっくりと目を開いた。
 視界いっぱいに広がって彼を迎える、柔らかな青の空。 引き伸ばした綿のような薄雲がゆっくりと流れている。
 そんな青と白の風景をバックに――
「あ……あの――」
 その空よりもなお深い、二つの蒼い瞳が、彼をこわごわと覗き込んでいた。

「――――……」
 無言。
 ヒューイは見事なまでに空っぽな思考の中、とろんと呆けた目でその光景に見入る。
 一体自分はどうしたのか。 ここは何処なのか。 そんな自分を取り戻す為の記憶を探る事も忘れ――いや、そんな思考の存在をそもそも知りもしないかのように、彼はただ砂浜に身を預けて彼女を見ている。
 自分を縛る重力が何倍にも感じられる。 全身がこの上なく気だるかった。 そこにほんのりと暖かい日の光が注ぐ。 大地の鼓動のようにゆっくりと繰り返す波音に包まれて、目の前には不思議な瞳の女性がいる。 ひどく安らかな気持ちで、彼はうっとりとその光景に見入っていた。
 ――ああ、綺麗だ――
 彼の白い思考を支配するのは、たったその一言。


 このヴァナ=ディールに、青い瞳を持つ民は存在しない。 どんな種族・民族でも、黒または茶色に類する色を、その目に持って生まれてくるのだ。
 遠い海の底を映すような、初めて見る青い色。 目の前の女性の風貌はだから、あたかも夢の中のワンシーンのように、ヒューイの意識を夢幻の淵に引き留める。 異形、などという野暮な単語は、意識の遙か彼方にあった。
 潮風にふわりと舞う彼女の髪が、彼を照らす陽光を薄く遮る。 優しいカーテン。 ああ、綺麗だ――――


 デルフィーナは――幾分どぎまぎしていた。
 無事に息を吹き返してくれたはいいものの、目の前の男はぼんやりとその場に横たわったまま、まるで生まれたての赤子のように無垢な眼差しで彼女を凝視している。 いくら彼女が視線で問いかけても、その目はぴたりと彼女の顔に吸い付くばかりだ。
 待っても待っても出てこない彼の言葉とそのストレートな視線にすっかり困惑し、彼女はおどおどと再度小さく声をかける。
「あの……どう、されました? どこか……お怪我でも――」
 と、その儚げな声に、ヒューイの瞳の焦点がゆるゆると絞られ始めた。 夢の住人が発した言葉に触発されて、ようやく自分の脳が動き出すのを彼は他人事のように感じ取る。

 ――ここは……どこだ。 海辺――海――?
 ああ……そうだ。 海賊船……シーホラーに、叩き落とされたのか――

 赤い服の男はぼんやりと視線を空に転じる。 彼の記憶に蘇る、地獄のような嵐の喧噪なぞ与り知らぬとばかりに、穏やかに晴れ渡る空がその目を洗った。
 潮騒の他には何も聞こえない。 彼を追う者の気配もない。 あるのは奇跡的に陸へと流れ着いた、己の命だけだった。
 徐々に記憶が形を取り戻し、遡っていく。 そう――ノーグで売人に金を握らせ、密輸船に便乗した。 追っ手を振り切る為に……カザムにいた追っ手――あれは――
「――――」
 ぽつん、と胸を差す痛みで、その記憶の巻き戻しは終了する。 ヒューイは目を閉じ、小さく息を吐き出した。
 瞼の裏に、彼とよく似た面差しの青年の姿が鮮やかに浮かんで――消える。

 誰にも悪意はない。 誰も悪くない。
 強いて言うなら――色々なしがらみや往生際の悪さに縛られて何の説明もしないまま逃げていた、甘い自分が招いた事態だ。 研究の招請には初めから拒絶の意志を見せている以上、ギルドの事はもうどうでもいい。 ただ――
 兄さん、と叫んだ弟の声が耳に蘇る。 あの悲壮な呼び声だけが、胸に痛い。
 目を逸らしていただけだったのだ。 弟の勤め先が特捜である以上、ギルド側から彼を巻き込んでしまう可能性は十分予測できたのに。 ありもしない幸運にすがるように全てを延ばし延ばしにして、結局それは自分自身を追い詰めた。
 それでも――――

「あの――」
 再び、鈴の鳴るような声が彼を呼んだ。 ヒューイははたと目を開く。 そこでようやく、傍らに座る彼女の気遣わしげな表情に思いが至った彼は、重たいままの半身を慌てて起こし――
「あ゙――申し……っ」
 申し訳ない、大丈夫です――と言おうとして、彼は再度ごほごほと咳き込んだ。 そして自分の声が恐ろしく嗄れている事に驚く。 海水にやられでもしたのか、少しだけ発した声はまるで自分の声とは思えないほどにかすれていた。
 思わず喉を押さえるヒューイの横で、デルフィーナは慌てて紙袋を探る。
「どうぞ……よろしければ」
 そして細い手に水のボトルを差し出し、小首を傾げながら彼女は言った。 一瞬躊躇ったものの、ヒューイは頭を下げて感謝の意を示すとそれを受け取った。 ひやりと冷たい。
 栓を開け、喉を洗うように口に含んだ――つもりが、その喉の激しい渇きに気付くや一気に飲み干してしまう。 ほとんど条件反射だった。

 ひりつく喉の痛みが引いていく。 ヒューイは小さく咳払いをして声の調子を確かめると、空になったボトルを彼女に返して言った。
「どうも――ありがとうございます。 ご迷惑を――」
 まだ少し嗄れているものの、ようやく出るようになった声で、彼は礼を言った。 そして改めて、傍らに座るその女性を見る。
 ふと漏れそうになる感嘆の溜息を、ヒューイは呑み込んだ。

 ――子供の頃に読んだ、有名な童話の一ページ。 そこにあった妖精の挿絵を思い出していた。
 夜の森をバックに淡い光を抱いて飛んでいるその小さな姿は、まるで地上で迷子になった星屑を思わせた。
 仄かな月明かりは暗い梢の向こうに遠く、墨を吸い取ったように黒い木々が大地を覆う。 そんな風景に塗り潰された広いページの片隅にたった一人ぽつんと描かれていた彼女は、どんなに一人輝いても、きっととても寂しいんじゃないだろうか――幼い彼はそう思った。
 華奢な手足をしていた。 長い髪と青い目をしていた。 薄い羽を羽ばたかせていた。 あの童話の、題名は何だっただろうか――?

「いえ、私はただ通りすがっただけで……お怪我などなければ、よろしいのですが」
 彼から心なし目を逸らし、ふるふると首を振る妖精は言った。 彼女が人の言葉を発する度に、ヒューイは現実へと引き戻される。 彼は慌てて言った。
「あ――ええ、大丈夫です。 ご心配をお掛けして――」
 しかしそう言いながら立ち上がろうとしたヒューイの足腰は、見事に砕けて落ちる。 咄嗟に回復の呪文を唱えようとしたが、その嗄れた声に魔力はひとかけらも宿らなかった。
 どれだけ海を漂っていたのかは判らない。 しかしどうやら彼の体力・精神力は、嵐の漂流に根こそぎ奪われてしまったようだ。 全くもって大丈夫ではない。 力なく呻き、沈黙する赤魔導士。
 足掻いて落ちる彼をなだめるように小さく手を上げると、デルフィーナは言った。
「ああ、ご無理はなさらない方が――どうぞしばらく、お休みになって」
 その言葉に、すみません、と吐息混じりに呟いて、ヒューイはゆっくりと肩の力を抜いた。


  *  *  *


 目の前で諦めたように浜辺に座り直す男を、デルフィーナは遠慮がちに見つめていた。

 ――どこから来たのかしら。 見た事のない服装……この辺りの人ではなさそうだわ。 きっと何か事故にでも遭って海に落ちて、ここに流れ着いたのだろうけれど……
「――ここは」
 と、男がぽつりと口を開いた。 ぴくりと緊張して、はい、とデルフィーナは答える。
 しかし彼はふっと微笑むと、彼女の返事を待たずに金色の頭を振った。
「……いえ、何でもありません。 何処だって――構わないんだった」
 独り言のようにそう呟いて、彼は空を仰ぐ。 視線がとても遠い。 言葉がこぼれる。
「何処だっていい――いや、何処だか判らない方がいい。 自分で自分の足取りを見失っているとは、よもや誰も思うまい。 そうだ――これでよかった。 俺の事はもう、居ないものと――死んだ、ものと――」

 一体誰に語りかけているのだろうか。
 徐々に小さく、哀しげな歌のように消えていく彼の言葉に、デルフィーナはじっと聞き入っていた。
 その事情は判らずとも、彼女は確かに感じ取る。 これは――孤独だ。
 どう足掻いた所で受け容れざるを得ない、弾き出されるような孤独。 その色だけで判る。 とても、辛い――

「――よろしいのですか」
 気付けば彼女はそう言っていた。 不意を突かれたように男が、開いた目でデルフィーナを見る。
 彼女は慌てて口をつぐむ。 いけない、と思ってももう遅かった。 彼の問いかけるような視線に意を決し、二人を包むさやかな波の音に後押しされるように、彼女はゆっくりと言葉を続けた。
 それは、男の気配が、憂いの中にも――とても優しげだったから。

「あの、何も……進んで独りになることは、ない――と、思います。 その――もし一人でも、あなたを思ってくれる人が、いるのでしたら――それは、宝です。 それを放り出しては――――」
 たどたどしくそう語りながら、デルフィーナは伏せ気味にしていた目をふと上げる。 すると――まっすぐに彼女を見つめる、男の柔らかな瞳に出会った。 彼女の心臓が小さく跳ねる。 反射的に俯いて、彼女は言った。
「すみません、出過ぎた事を申しました」
「――その瞳は」
 彼女の小さく詫びる言葉を通り越して、男は訊いた。 先程までと変わらず暖かく好意的な声だったが、何故かデルフィーナはその問いにはびくりと身を固くする。
「……生まれつきのものです。 どうかお気になさらず――」
 まるで彼の視線を避けるように顔を逸らすと、彼女はそう言って口を閉じた。 しかし、その怯えるような気配を知ってか知らずか、そうですか、と穏やかにヒューイは頷いただけだった。 そして続いた言葉は。
「……では、お名前を伺ってもよいですか」
 え、と彼女は顔を上げる。 男の屈託のない微笑が、そこにあった。
「助けて頂いたお礼をしなくては――ああ、私はヒューイと言います。 ヒューイ=ヴィクレマ」

 助けるという程の事はしていない、それには及びません――という常套句は、どこに行ったのだろう。
「……デルフィーナ、と申します」
 彼女はゆっくりと、息を吐くようにそう答えていた。 長い髪が不意の潮風になびく。
 男の頬に浮かんだ小さなえくぼが、その青い瞳に焼き付いていた――


  *  *  *


 お礼を、とは言ったものの、文字通り身一つのヒューイに出来ることなど何もなく。
 とりあえず満足に歩けるまでに回復した彼は、髪と言わず服と言わずうっすらとまとわりつく塩気と砂を大雑把にはたき落とし、それから――
 彼女の荷物を持つ事にしたのだった。
 ささやかにも程がありますね、と彼が言うと、デルフィーナはようやく小さな笑顔を見せた。

「まあ、大きな蛸に襲われて――?」
「実際襲われていたのは船の方なのですがね。 私はただ、その足にはたかれて落ちてしまっただけで」
 彼女の住まいへと向かう道すがらに、ヒューイはこの海岸に辿り着いた経緯などをぽつぽつと語った。 とは言っても、複雑な事情などは意図的に省き端的な出来事を選んで話していた為に、それは何やら子供向けの冒険活劇のような趣となる。
 しかしそれに聞き入るデルフィーナはまるで珍しいお伽噺を聞くような反応を示すので、知らず彼は小さな少女を連れて歩いているように浮かれた気持ちになっていた。

「では、その船は……沈められてしまったのでしょうか」
 形の良い眉を曇らせて彼女は訊く。 ヒューイは微笑んで答えた。
「さて、どうでしょうか。 彼ら海賊が一致団結すれば、あるいは追い払う事も出来たかもしれませんね。 そうでなければ、船は海の藻屑と化して――」
 事の顛末を淡々と語りながらふとデルフィーナを見れば、彼女は今にも泣き出しそうな顔をして彼の話を聞いている。 ヒューイは慌てて言った。
「まあ、彼らも海の荒くれどもです。 嵐も敵襲も慣れたものでしょうから、それなりに切り抜けた筈ですよ。 海原に放り出され気を失って流れ着く、などという醜態を晒すのは私ぐらいのものです」
 おどけたようなヒューイの言葉に、そんな、とデルフィーナは遠慮がちに笑った。

 いつの間にか二人の足は海辺を離れ、その背後にある雑木林の小道へと進んでいた。
 淡い色合いの木立が、囁くような木の葉ずれの音を降らせる。 足下を飾る落ち葉を踏み締め、人の歩みを拒まない程度に生い茂る木々の間をしばらく進む。 するとやがて、石造りの小さな家が二人の行く手にその姿を見せた。
 すぐ脇に井戸が一つ。 後は物置を兼ねた薪小屋があるだけで、周囲には他の家も見当たらない。 小綺麗なたたずまいを見せながらも、実にぽつねんと――まるで人目を憚るように建っているその家を、
「あそこです」
とデルフィーナは指差した。

「これはずいぶんと――閑静な所に、お住まいですね」
 玄関の鍵を開けるデルフィーナの後ろで、ヒューイは言った。 彼が選んだ言葉が可笑しかったのか、彼女はええ、と答えながらくすりと笑う。
「どうぞ――取り散らかしておりますが」
 木で出来た扉を開き、彼女は先に立って室内へと入った。 失礼、と言ってヒューイは後に続く。 靴底が、こつんと音を立てた。

 ――テーブルが一つ。 椅子が二つ。 本棚にキャビネット。 小さな暖炉。 その横に、質素な機織り機。 きれいに整った炊事場。 洗面所らしき一角と、奥にドアが一つ――細く開いている。 家のサイズからして、洗面所を除けば、この二部屋がこの家の間取りの全てだろう。
 ヒューイは半ば狐につままれたように、その室内を眺めていた。 何故なら、奥の一室にも、そしてこの部屋の様子にも――彼女以外の人の気配が、全くなかったから。

「ありがとうございました、助かりましたわ」
 ぱたぱたと走り回って閉められていた部屋のカーテンを全て開け、昼下がりの光を室内に取り込み終えたデルフィーナは、笑顔でそう言いながらヒューイの手から荷物を引き取った。
 その茶色い袋を炊事場に運びつつ、玄関に立ちつくしたままの彼に彼女は声を掛ける。
「どうぞ、お掛けになって下さいな。 あまり良いものはありませんけれど、今お茶をお煎れしますから――」
 朗らかに言うデルフィーナに、ヒューイはどこか呆気に取られたような声で尋ねた。
「お一人暮らし――なのですか? ご家族は――」
 取り出したやかんに水を入れて火に掛けつつ、背を向けたままで彼女は答えた。
「おりません。 一人ですわ」
 そう言って肩越しに振り向く。 その口元は、決まりの悪そうな――と言うよりも、どこか済まなそうな形を取って微笑んでいた。 緩くウェーブした髪が背に流れ、窓からの陽光を透かして蜂蜜色にきらめいている。 彼女は静かに訊く。
「驚かれました?」
「ええ――いささか」

 正直な感想を漏らしてヒューイは、ゆっくりと室内を見回した。 質素で寂しげに見えた家のその中は、しかしとても居心地のよさそうな空間だった。
 何かのハーブのような香りがほのかに漂っている。 椅子には柔らかそうなクッションが敷かれ、人がそこに来て休むのを大人しく待っている。
 今は火の気のない暖炉の前、ラグマットの上にさり気なく床に置かれている本も、その横で少し乱れがちに籠に収まる毛糸玉も、慎ましやかで暖かい生活の匂いを感じさせる。 それらの全てが、この家の主を包み、愛してやまない――そんな雰囲気だった。

 ヒューイはその部屋の様子にしばし泳がせていた目を、はっと止めた。
「失礼しました、知らなかったとは言え女性の一人住まいに上がり込んでしまった。 どうかご容赦を――すぐに、退散いたしますので」
 そう言って今にも場を辞そうとするヒューイの言葉に、デルフィーナは振り返ると困ったように言った。
「まぁそんな、ご遠慮なさらないで下さい。 女の一人住まいと言っても、見られて困るような物など何もありませんもの」
いえ、そういう訳には――とかぶりを振る彼に、彼女は少し寂しげに言い募る。
「あの、もしご迷惑でなければ……その、お茶だけでも、召し上がって行かれませんか? こんな所に住んでいるものですから、お客様なんて久し振りで――あの――」

 もじもじ、という言葉がぴったりだ。
 手にした鍋掴みを絞るようにして、彼の表情を伺うデルフィーナ。
 ヒューイはふと肩の力が抜けるのを感じた。 妙にいじらしいその様子に、むしろこのまま出て行く事の方が無粋に当たるような気持ちになってしまう。 思わず浮かんだ笑顔で、彼は遠慮がちに頷いた。
「そう仰って頂けるのでしたら、少しだけ」
 デルフィーナの表情が、嬉しそうにほころんだ。


  *  *  *


 ヒューイがテーブルに着くや、デルフィーナはくるくると軽やかに立ち回ってあれこれと給仕の準備を始めた。
「お腹も空いてらっしゃるでしょう? 簡単なものですけど、すぐお作りしますから。 召し上がって下さいな」
 彼女の言葉の弾むような響きに、彼は口まで出かかった遠慮の言葉を引っ込めた。 断ってはまたあの哀しげな表情を誘ってしまうかもしれない。
 それに、確かに彼女の言う通り空腹ではあった――と言うか、意識が戻ってから徐々に体力は回復してきたものの、腹の中に燃えるものが何もない状態なのだった。 冷たい大海原を漂流してきたのだから無理もない。 平静を装ってはいたが、実際は立って歩くのがやっとで、それ以上の力は全く出せそうになかった。
 出された紅茶に頭を下げながら、ヒューイは言った。
「すみません、何から何まで」
 いいえ、とデルフィーナは上品に微笑む。
「お役に立てて、嬉しいですわ」

 暖かい紅茶にゆっくりと口をつけながら、ヒューイは逡巡していた。
 ――訊いてよいものだろうか。 こんなうら寂しい雑木林の奥深くに若い女性が一人住まいなど、どう考えても不便だろうし、何より物騒だ。 万が一強盗やモンスターに襲われでもたら、こんな小さな家では……そう、家の修繕などはどうしているのだろう。 女手一つでは賄えまい。
 一人で暮らさなければならない、何か事情でもあるのだろうか。 離れた家族の帰りを待って、家を守っているとか――
 あれこれと思いを巡らせながら、彼は暖炉の上やキャビネットにこっそりと視線を走らせる。 しかしそこには写真立ての一つもなく――

「この家は、結構丈夫なんですよ」
 小鍋を暖めながら、デルフィーナは唐突に言った。 え、とヒューイは視線を戻す。 キッチンに立つ、白い服の背中。
「たまに強い風が吹いたりしても、どこも壊れずにちゃんと建っていてくれます。 窓も扉も頑丈ですから、安心して暮らしておりますわ」
 そう言いながら彼女は振り返ると、湯気の立つ皿をヒューイの前にことりと置いた。 作り置きだろう、何種類もの野菜が溶け込んだスープだった。 美味そうな匂いが立ち昇り、彼の食欲を優しく刺激する。
 見て判るほどに訝しげな顔をしていただろうか。 ご馳走になります、と言ってスプーンを手に取りながら、ヒューイは遠慮がちに尋ねた。
「失礼ですが……お一人でいらっしゃると、色々と物騒ではありませんか。 この界隈にも、モンスターはうろついているでしょう。 それに他にも、例えば妙な輩が訪れたり――そう、私のように」

 まぁ、とデルフィーナは小さく吹き出した。 そして足下にあるオーブンの温度を見てから、自分の分の紅茶を持つと彼の斜め前に座った。
「今の所、そういった事は。 幸いこの辺りは襲ってくるような魔物もおりませんから、注意さえしていれば安全ですし」
 と。 そう言う彼女の目が、ふっと遠くを見た。 青い瞳にかすかな靄がかかる。
「それに――」
 そしてぽつりと――まるで己に言い聞かせるような、頼りない声音で――言った。
「守るようなものも、ございません」

 スープを掬おうとした、ヒューイの手が止まる。

 何も言っていないも同然だ。 真意など分からない。 ただの自分の思い違いかもしれない。
 けれどその言葉には、しかしどうしようもなく、どこまでも救いのない―――

 かちゃ、と皿の底で音を立てるスプーンの音にはっと顔を上げ、デルフィーナは慌てて言った。
「あ……すみません、何でもありませんわ」
 自分の蒼い瞳を覗き込むように見つめているヒューイに繕うような微笑を浮かべて、彼女は小さく首を振る。 そして言った。
「あの、よろしければ、何か貴方のお話も聞かせてくださいな。 今もう一品ご用意しておりますけど、少しお時間がかかりますから――それまで」
 そう言って、乞うように微かに首を傾げるデルフィーナ。
 ヒューイは彼女に注ぐ眼差しをふっと和らげ、そうですね――と頷くと、その頭をフル回転させ始めた。

 楽しい話がしたかった。
 この女性(ひと)の、笑顔が見たいと思った。
 懸命に記憶をかき分けて、その中から女性の喜びそうな話題を探す。 その非凡なる聡明さをそんな気の利いた芸当に費やした事などほとんどなかった彼は、大いに奮闘した。

 熱いオーブンがチーンという終了の合図を鳴らすまで、その間およそ十数分。
 合格を知らせる明るい笑い声は数回、小さな家の中に響いたのだった。


to be continued
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