テノリライオン
黒魔道士の憂鬱 後編
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匿名ユーザー
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己が限界を知れ。
己の足りぬを知れ。
其は即ち、知ると云う事。
混沌なるこの世を、生き抜くと云う事――
* * *
黒いローブが、 岩盤を貫いた洞窟を駆け抜ける。
北グスタベルグからムバルポロスへと潜る岩穴は二つある。
東寄りの手前側と、その西にある奥側だ。
直情型なら手前だ――と踏んだバルトは、迷わずそちらに飛び込んだ。
走る。 細い洞窟は程なく途切れて、モブリン達が築いた地下空間が彼の目の前に大きく開けた。 まるで狭い通路から大きな劇場へと踏み込んだような暗い開放感がバルトを迎える。 しかし彼はそれに圧されもせず、求める姿を探して素早く辺りを見回し始める。 そんな光景は見慣れているのだ。
戦士の少年の姿は視界に入らない。 その代わりにバルトを襲うのは――軽い違和感。
探す少年だけではなく、他の冒険者や――何より、常にそこを徘徊しているはずのモンスターの姿も見当たらないのだ。
これはもしや――とバルトが思った矢先、彼の目前にふわりと小さなコウモリが現れた。 続けてモブリンが一匹。
まるで霧から生まれるような魔物の出現に、彼は眉をひそめる。
駆け出しの戦士である少年に倒せる筈のない魔物達が、ぽつりぽつりと姿を現す。 これは、恐らく力のある冒険者が次々と殲滅して進んだものが、今立て続けに蘇っているのに違いない。
と言う事は――そうやってきれいに露払いされてしまっていた通路を、少年は、奥に……
「進んだって言うのか――?」
バルトは低く呻いて走り出す。 すぐに通路が錯綜するように分岐しはじめた。 ほんの一瞬だけ足を止め、彼は考える。
「……太い方、広い方だ」
己の推測に従い、より広い通路、目立つ通路を選んで曲がっていく。
一つ、二つ。 走りながら続けて三つ目を探した、その向こうだった。
鈍い打撃音。 踊り場になったような広場で、見覚えのある鎧が一匹のモブリンに軽々と弾き飛ばされる瞬間が、彼の目に飛び込んできた。
「
黒魔道士は床板を踏みつけるように立ち止まると、両腕を突き出して大きく息を吸い込んだ。
* * *
「ぐあっ――」
咄嗟に防いだ盾の陰で、腕の骨が軋みを上げた。
モブリンが振るったハンマーは防げたものの、そのたった一撃でヤンの体はまるで空きカンのようにあっけなく踊り場に向けて吹き飛ばされていた。 呻き声と共に床に叩き付けられる。
「な、」
何だこいつは。 外にいるゴブリンとは比べ物にならない――衝撃に揺れる脳よりも先に体でそう悟りながら、地に這う顔と体を必死に起こした、彼の視線の先で。
「ニンげんダ」
「にンゲんだ」
奥の通路にいた二対のモブリンが、彼に気付いて振り返った。 いびつな敵意の声を吐いた。
「くそっ――」
反射的に飛び起きる。 瞬間、盾を構えた腕がずきりと痛んでヤンは歯を食い縛った。 前後三匹のモブリンが、挟み打つように一斉にヤンに襲いかかる。
――あんな重い打撃は、一匹相手でも無理だ。 迫り来る三つの足音に真っ黒く麻痺しかける思考の下、彼が本能的に横ざまに飛ぼうとした、その時。
「……え?」
ぶわっ、と水蒸気のような白い霧が彼を包んだ。
否――正確には、彼を囲むモブリン達を。
突如として霧に遮られた視界の向こうで、獣人の恐ろしい足音がぴたりと止まる。 振り返れば、彼を殴り飛ばしたモブリンもまた唐突にだらりと立ち尽くしている姿が、急激に薄れていく白い色の中に見えた。
晴れていく霧。 その視界の、向こうから――
「全く――忌々しい――腹立たしい」
低い声で呟く黒い影が、背後の闇の中から浮き出るように現れた。
霧を抜けて来る髪だけが白い。 手には長い勺杖を無造作に掴んでいる。 その先に収められた宝珠も、黒。
夜の色なのに深い輝きを放つ、その魔力の珠の向こうで、二つの瞳がぎろりとヤンを睨んでいた。
「ひ――」
新手の魔物かと見まごうような怒気を纏ったその影は、よくよく見ればエルヴァーンだ。
狼狽しながらもヤンは気付く。 あの人は確か、少し前にグスタベルグで会った――黒魔道士の――
「……一人の戦士として正々堂々、ズルなしで戦いたい? 人の助けは要らないだと? よくもまあ、さんざん立派な口を利いてくれて――」
ほとんど怨嗟か恫喝のような重い声を吐きながら、黒魔道士は歩いて来る。 止まったまま寝息を立てているモブリンを通り越し、剣を握ってただ呆然としているヤンの目の前で足を止めた。 威圧感に固まるヤンの頭上に、殴りつけるような鋭い喝が響く。
「その挙句がこれか! モブリンの力も知らず周囲の状況も読まず、のこのこ敵陣に迷い込んで敵いもしない敵に囲まれる! 立派な戦士が聞いて呆れると言うんだ!!」
頭上から浴びせられる容赦のない罵声に、ヤンは思わず縮こまるように身をすくめた。 怒りに眼を吊り上げたまま何かの印を描き始める黒魔道士。 その手から、無色の魔力が湧き上がる。
「――そんな生意気な口は、一人前になってから叩けっ!」
続く短い詠唱。 途端にヤンの体の中を、透明な風のような何かが駆け抜けていった。
「うわっ――え?」
驚いて咄嗟に閉じてしまった瞼を恐る恐る開く。 ヤンは目を疑った。 自分の手が、体が、まるで幽霊のようにぼんやりと透けている。
「それでモブリンの目を誤魔化せる。 急いで出口まで戻れ。 抜刀は禁止だ、姿が現れてすぐ見つかる」
そう言うと白髪のエルヴァーンは見事な目測でヤンの透明な二の腕を掴み、ぐいと自分の背後に押しやった。
ハンマーを握ったまま眠っているモブリンが目の前に迫り、先程の強烈な打撃を思い出してぞっと総毛立つヤンはたたらを踏んで振り返った。
黒魔道士は既に次の詠唱を始めていた。 その声とは違う所で、空気の唸るような不思議な音が渦巻いている。
未だ鬼気迫る表情を崩さない彼の横顔に、ヤンは思わず声を掛け――
「あ、あの――っ」
その言葉と、目覚めるモブリンの唸り声を背中に聞いたのと、黒魔道士が振り向きざまにその腕から矢のような魔力を放ったのは同時だった。
「っ!!」
見えない力が迸る。 びくりと固まるヤンをかすめて、力はその背後にいるモブリンへと真っ直ぐに喰らいつく。
獣人の手が宙を掻いた。 足の裏がその場に縫い付けられて動けなくなったのか、黒魔道士に届かない腕をじたばたと振り回すモブリン。
急転する事態について行けない少年は言葉を失う。
「とっとと行け! ここにお前の出る幕は無いっ!」
もはや気配だけで存在しているヤンへ叩きつけるようにそう叫ぶと、黒魔道士は漆黒のローブをばっと翻して背を向ける。
次の瞬間、夏の嵐のような詠唱が始まった。
* * *
「集い給え十六夜の闇よ、遥か東雲の妙なる幻――」
遠からず襲い来る敵の陣の真ん中で印を切り呪文を唱え、あらん限りの防御魔法を打ち上げ次々と鎧っていくバルトの姿を、出口に向けて走ることも忘れたヤンは魅入られたように凝視していた。
そこにだけ暴風が渦巻いているかのように、黒いローブが絶え間なく舞い踊る。
眠っていたモブリンが、ぴくりと動いた――かどうかという瞬間、間髪を入れずそこに再度白い霧が生まれて湧き上がった。 再び人工的な眠りに突き落とされる獣人たち。
催眠魔法の効果時間を、この男は正確に記憶しカウントしているのだ。
その秒数を逆算し、二度目の唱え終わりと最初の効果切れの瞬間を見事にぶつけている。 しかもそれぞれ詠唱時間長の異なる、他の魔法を唱え続ける合間にだ。
まるで時間のパズルを組み上げるような絶妙の技を目の当たりにして、ヤンは背筋に戦慄を覚えた。
あっという間に魔力による武装を終えると、彼は続く呪文で眠っているモブリン達の足を次々と地面に縫い付けた。 刻々と過ぎ去る時間を食いちぎるような、それは凄まじい早口の詠唱だ。
その成功を確認して、敵から数歩後退するエルヴァーン。 そしてここからが本番、とばかりに強く手を打ち合わせると、両足を踏ん張り目を閉じた。
燕のように目まぐるしかった先程までの詠唱とは打って変わって、低く重厚な声が響く。 まるで地に伏す龍の唸りのような、太い詠唱の立ち上がりだ。
「ディディヴィルノーエ・ヴリーニア、ヒーストファルッケ……」
それが一体どんな言語なのか、それによって何に呼びかけ、この場に何を起こそうとしているのか。 未熟な少年に判ろうはずもなかった。
なのに感じる。
その長い
ごうっ、という真っ赤な轟きと、獣人の低い悲鳴が地下空間にこだました。
呪文の完成と共に、一匹のモブリンの足元から業火が上がる。 それはまるで天を突くジェット噴射のように獲物を炙ったかと思うと、その目覚めを巻き上げて瞬く間にまるごと炭へと還してしまった。
「危な――!」
次の瞬間、自分の立場も忘れてヤンは叫んだ。
炎の発動と同時にその横にいたもう一匹のモブリンが目を覚まし、己の足が動かないと知るやボウガンを取り出し構えたのだ。 びゅん、と鋭く大気を貫く音。
が、その矢はバルトの目の前で唐突に大きく撥ねる。 先に張っておいた彼の魔力の壁に阻まれたのだ。 頼りない弧を描いてあさっての闇へと消えていく矢弾。
その効果の残光と残響に思わず目を見張るヤンを、
「黙ってろ!!」
一時も黙らない黒魔道士は振り返りもせずに一喝した。
海流のように魔力がうねる。
モブリンが弓を射るに任せ、それを弾くを魔壁に任せ、バルトは一人朗々と呪文を紡ぐ。
ついに魔壁がその役目を終えて消滅する。 と同時に、もう一匹のモブリンが――ヤンの近くで手の届かないバルトに向けひたすら怒りの声を上げていたモブリンが、とうとうそのくびきを振りほどいた。
野蛮な獣人は手にしたハンマーを振りかざし、狂ったように憎き黒魔道士へと向かっていく。
「――!!」
息を呑むヤン。 が、敵のその突撃までもが黒魔道士の計算の内にあったとは、誰が知るだろうか。
「……、リンド エギロージュ・ヴィノア!」
獣人のハンマーの射程がバルトを捉えようかという、その時。
黒魔道士の長い咆哮を燃料に、二度目のジェット噴射が産声を上げた。 その数も二つ。 漆黒のローブが、勝利の雄叫びのように翻る。
彼と対面しボウガンを射ていたモブリンだけでなく、背後から突進しながらハンマーで襲い掛かろうとしていたモブリン、その両方の足元から、同時に強烈な火の手が上がっていた。 あっという間に料理されて濁った悲鳴を上げる獣人達。
ヤンには判らない。
距離の離れたモブリンの足止めが数秒後に解ける、自分の懐に飛び込んでくる、そのタイミングを読み切り逆算し、火炎呪文の対象を単体から範囲に切り替えて詠唱を始めていた事など――同業者か熟練の冒険者か、さもなくば彼の戦いぶりを熟知している者でなければ見抜けるものではない。
今この少年に与えられるのはただ、網膜に刻まれる紅い閃光と、頬を灼いて走り去る熱風ばかり。
ボウガンを持ったモブリンが、火炎の中ずしゃりと崩れて灰になる。
しかしもう一匹――ハンマーを握るモブリンは、ぎりぎりでその地獄を持ち堪えた。
見る影もなく煤色に焦がされ、ヤンの一薙ぎでも倒れてしまいそうな程の致命傷を負っているというのに、まるでそれを信じていないかのような荒々しい雄叫びを上げて惰性もろとも突進する獣人。
「……うあ」
ヤンが小さな悲鳴を上げた。
それは、モブリンの最後の足掻きを見てではない。
同族の断末魔を感じ取ったのだろうか、ヤンが最初に怯えたあのレスラーのようなバグベアが、バルトに向かい地震の如き足音を響かせ始めたのが彼の目に映ったのだ。
醜い改造生命体が、己が主を屠ろうとする黒魔道士へと突き進む。
「……ちっ」
舌打ちを、一つだけ。
捨て身のハンマーと地響きが彼に迫る。 それに応じるように、バルトは手にした杖を振りかぶり高く差し上げた。
「――――、――――!!」
高く掲げられたその黒い宝珠が、彼の言葉に輝くのか――ヤンが抱いたそんな予想を、バルトは見事に裏切った。
「――っ!、――」
どすり、と。
詠唱を止めないまま杖の首を両手で握ると、黒魔道士はその鋭い後端を思い切りモブリンの喉笛に突き込んだのだ。
避ける事も叫び声を上げる事もできず、あまりに予想外で原始的な黒魔道士の一突きに貫かれ、呆気なく生命活動を絶たれるモブリン。
「――――!!」
そこへバグベアが肉迫する。 杖を振るうままに唱え続ける黒いエルヴァーンめがけ、敵は丸太のような片腕をぶんと振り上げた。
バルトは逆手の大剣のように握っていた杖から片手を翻す。 その開いた掌が詠唱の終わりを敵に浴びせようとして――僅かに間に合わなかった。
「ぐっ!」
バグベアの、手と言うのも憚られるような大きな拳が、バルトの体をがつんと弾き飛ばした。
息を呑んだヤンは咄嗟に剣の柄に手をかける。 が、寸での所で「抜刀は禁止だ」という黒魔道士の言葉を思い出し、ぎりっと唇を噛んで己を引き止めた。
ざざっ、とバルトの背が床板を滑る。 殴り飛ばされても杖は放さない。 モブリンの喉笛から引き抜かれた杖の切っ先が、宙に黒い血の糸を引いた。
バルトは滑る勢いの最後で足を大きく跳ね上げ後転し、四つん這いの体勢まで持ち直すと全身で踏ん張る。 そのままがばと顔を上げてバグベアを睨んだかと思うと、印も音節も持たない一単語を叫ぶように叩き付けた。
「――
そこにも魔力が乗っている。 全呪文中最も詠唱の短い拘束魔術に、大きな亜人は再度振り上げていた拳をびたりと縛られ止められた。 その隙にバルトは素早く立ち上がる。
間合いは詰まった。 束縛はすぐに解けるだろう、もはやその巨体の目前から逃れる術も余裕も今はない。 なれば魔術師の武器たる最大限の集中を以って、打ち倒すべき蛮族と対峙するのみだ。
杖を握った両腕をかざし猛然と、黒魔道士は踊り狂うタイピストの指の如き詠唱を開始する。
目は閉じない。 魔力を練り上げる事とバグベアの拳を可能な限り受け流す事、全く性質の異なる二つの行動に、同時に最高の結果を得なければならないからだ。
きっと開いて目の前の蛮族を睨みつけるその瞳は視覚センサーの役割を超え、まるで彼の口と一緒に呪文を唱え上げんばかりの熱いエネルギーの塊と化している。
「踊れドライアドの猛き鞭、ただ一時我が声に――」
「グゥ――!!」
リーチが長い。 一歩二歩で追い付くバグベアは振り回す腕をバルトに叩き込む。
印を切りながらぐいと身を屈め、彼はその巨大な拳に空を切らせた。
が、二撃目はかわせない。 唸りを上げて暴れる肉塊が、立て続けに黒魔道士の体を襲った。
「っ!!」
横っ面と肩にそれぞれ打撃を食らい、踏ん張る黒魔道士の体は大きく揺らぐ。 その光景に声も上げられずヤンは喘いだ。
しかしバルトの受けた実質的なダメージは微々たるものだ。 肉弾戦を想定していない黒魔道士とは言え、それなりに冒険者として熟練すれば自ずと体も鍛えられている。 加えてバグベアなど、どんなに図体が大きくとも彼からすれば遥か格下のモンスターなのだ。 基本的には――次元が違う。
故に今守るべきは、体よりも言葉。 紡ぐ魔力を途切れさせてはならない。
「……遍く緑を、汝が髪と成し――」
呼びかけは続いていた。
後ろに流れそうになる踵にしっかりと床板を噛ませ、始めに纏っておいた言霊繋ぎの力を借り、痛みと衝撃にほころびかける魔力の流れを繋ぎ止め――
「――ァア!」
「――彼の者を、疾く戒めよ!」
高らかに編み上がる呪文と濁った雄叫び、敵の足元で凝固する光と黒いローブにめり込む拳とが、同時に交差した。
「!!」
弾け飛ぶバルトの姿に、ヤンは耐え切れず床を蹴っていた。
これ以上じっとしてなんかいられない。 罵倒されても怪我を負ってもいい、このまま黙って見ている訳には……!!
と。
「――あ」
たまらず戦場に駆け寄ろうとしたその足を、ヤンはぴたりと止める。
バグベアがもがいていた。 虎ばさみにかかった熊のようだ。 苛立たしげに唸りを上げ、太い腕を振り回し床を掻き、しかしその場から一ミリも前進しない。
ヤンは思わず強く瞬きをする。 幻がフラッシュしたのだ。
――濃緑の髪の乙女と、敵の足元に絡まる同じ色の蔦。 木の床から唐突に湧き上がったそれらが優しく、しかし断固として蛮族の前進を阻んでいる。
幻だ。 しかしそのあるはずのないビジョンが、そのままの事実を生んでいた。
そしてその緑色の精霊と、馬鹿馬鹿しいまでに大きなモンスターの、その向こうで――
「――チェックメイトだ」
ゆらりと立ち上がるのは、邪悪寸前の笑みを浮かべた黒いエルヴァーン。
頬を汚す土埃をぐいと拭う。 その上で爛々と輝く双眸。
戦意に歪む口元はそのままなのに、その瞳にかすかな悦楽の影が見えるのは少年の目の錯覚だろうか。
まるで軍旗を捧げるように、あるいは敵の喉元に剣を突きつけるように、ぴんと伸びた背筋でバルトは宙に勺杖をかざした。
* * *
暗い岩壁に閉ざされた広大な空間に、声が響く。
所々でゆらめくランタンや動燃機械の炉が放つ松明のような輝きが、満ちるはずの闇を押しのけて作ったこの広間は、さながら歪な大聖堂のよう。
ヤンは、いつの間にかからからに乾いていた喉を無理矢理ごくりと鳴らした。
もはや目の前の光景から、彼は目を離せない。
魔力に自由を奪われたバグベア。 対する黒魔道士はその手の届かない所まで退いて安全を確保している。 のみならず、彼は十重二十重に纏う見えない力にも己を守らせていた。
光の壁が、当たるはずの矢を逸らす。 打撃を受けても詠唱が途切れないよう、魔力にこっそりとその肩代わりをさせる。
そうして作り上げた状況の中、彼はなおも魔術でもって遠くから相手にとどめを刺そうとしている。
あれは――あれは、少年の言う所の「ズル」なのだ。
剣も握らず、自身の腕で相手を打たず、本来食らうはずの衝撃をあの手この手で和らげる。
姑息極まりない。 かつてヤンはそう断じて無意識に蔑んだ。
しかし。
「ディディヴィルノーエ・ヴリーニア――」
ただ声を出しているだけなのに、黒魔道士のこめかみから汗が伝っているのが見える。
いくつもの呪文を聞いた。 あれだけの長い式を、しかも極限状態の中で一言一句違えずに繰り出すには、そしてそれらを多種多様な状況の中で的確に操れるようになるには、一体どれだけの努力と鍛錬が必要なのだろうか。 少年には想像もつかない。
敵の前に流す汗も、仁王に立つ両足も、全てを跳ね返そうとするかのように熱気を孕む瞳も。
剣を手に戦う自分のそれとどこがどう違うのか、もはや少年には判らなくなっていた――
「ヒーストファルッケ パイラルガリリア――」
高く――低く――強く――弱く。
バグベアが撒き散らす落書きのような唸りにもしつこい罵声のような騒音にも汚される事無く、それは絶え間なくヤンの耳に響き続ける。
声質も激しさも目的も何もかもが全く違うのに、その流れる響きに彼の脳裏が鮮明に蘇らせるのは、昨日港で聞いたばかりのあの愛しい音色。
声が紡ぐ物語。 人の心がそれに従う。 世界が屈する。
標的という名の聴衆を前に大きく印を刻みながら、踊るように逆巻くその声はまるで――
「……歌、みたいだ」
見惚れるような表情で、ヤンはぽつりと呟いた。
「――、ネーメルズィーグド エ=フローヴェ!!」
四方を闇に包まれた地下空洞に言葉の光が閃き、紅色の嵐が轟音の渦を巻く。
それはまるで圧倒する絵画のような、人の心と目を奪わずには済ませない明と暗の競演だ。
だと言うのに。
その魔弾を迸らせた後に残る、黒魔道士の指の形。
それだけが、
この舞台の中で最も、そしてただ一つ、
たまらなく優雅で美しいと、少年は思った――
* * *
小山のようにうずくまるバグベアの巨体が、ゆっくりと大気に還っていく。
まるで嘘のようにあっさりと静まり返る踊り場の隅で、ふー、と大きく息をついてバルトはどっかりと座り込んだ。 側にあった大きな木箱に背を預けながら手にしていた杖を横たえて、ローブの襟首を緩めるように軽くぱたぱたと引っ張っている。
その光景にようやく戦いの終わりを実感して、ヤンの体を縛っていた緊張がゆっくりと解けていった。 収まらない動悸を抱えながら彼はおずおずと、自分を救ってくれた黒魔道士に歩み寄り始める。
とっくに自分の姿が色を取り戻している事には気付かず、しかし新たな緊張が心臓を鷲掴んでいくのはひしひしと感じながら、差し出すべき言葉も見つからないまま足音を忍ばせるようにして、おずおずと。
「――ああ」
と。 そんなヤンに気付いたバルトが、ひょいと視線を上げた。
改めて罵声を吐かれるに違いない――そんな覚悟に、ヤンは反射的にぴくりと顎を引く。
ところが、短い白髪のエルヴァーンの声は津波が去った後の海のように穏やかで、怒りどころかむしろ照れくさそうな響きを帯びてヤンの耳に届いたのだ。
「……えーと、ケガは、ないかい」
その場に腰を下ろしたまま、バルトは尋ねた。 人懐こい笑顔が、言葉と同じに少し照れたように何故か気まずそうに、少年を見上げている。
ヤンは戸惑いに言葉を失くした。 予想が見事なまでに空振りしたのだから無理もない。 とりあえずどうにか首を縦に振ってみせるのが精一杯だった。
どこかあやふやな二人のやりとりに、ふと行き場をなくしたような沈黙が訪れる。
「――あ、あの――」
「……いや、悪かった」
――何か言わなければ。
そう思って搾り出したヤンの声に、バルトの言葉とぺこりと下げる白い頭が重なった。
「……え?」
ぽかんと口を開けて呆気に取られるヤン。 その先で、少し情けなさげな笑みを浮かべた黒魔道士は言う。
「いや、少し、感情的になり過ぎた。 一人前になってから言え、だなんて――ああ、思い出すだけでも恥ずかしい」
俺だってまだまだ半人前だってのに――と口の中で呟いて俯き、彼は居心地悪そうにくしゃくしゃと頭を掻く。 ほんの少し前に地獄の底から火炎を掴み出していた手が、白い髪をかき回している。
「君の出番がない、なんてのも失言だった。 まあ、闇雲に立ち向かって行かれても困ったのは事実だけど……でも、もうちょっと言いようがあった。 ごめん」
「そ――」
そんな事は、と慌てて言おうとするヤンの視線の下で、彼はぼそぼそと言葉を続ける。
「どうもね、俺は魔法の事になると大人気なくていけない。 色々とこだわりすぎて、つい回りが見えなくなっちゃうんだよなぁ。 いけないとは思っても歯止めが利かなくて参ってる。 君がグスタベルグで言った事も――ああ、覚えてるかな」
覚えている。 言う代わりにヤンは遠慮がちに頷いた。 それを見上げて、ふっとバルトは親しげな笑みを浮かべる。
しかし彼はそこで言葉を止めた。 じっと自分の中で何かを考えるように口を閉ざし――数呼吸もあっただろうか。 まっすぐな目を床に落とすと、静かに、ゆっくりと黒魔道士は言った。
「無知は――時として、罪だ」
ざく、と。
音がしたような気がした。 彼の言葉が、みぞおちに刺さった音だ。 苦い痛みにヤンの体がぎゅっとこわばる。
その言葉に乗ってヤンの胸を射抜いたのは魔力ではなかった。 それは経験であり、時間であり、思いであり――切なる訴え。
黒魔道士は続ける。
「いいんだ、魔法に頼らなくたっていいんだ。 体一つで、腕一つで戦場を渡っていけるなら、それに越した事はない。 無理な戦いをするのでなければ、本来魔法の援護なんかは無くてもいいんだよ。 ただ、そうする為には」
バルトは言葉を切る。 自分の言葉と視線が、側で神妙な沈黙を守る少年を怯ませてしまうのを気に病むように僅かに俯いて喋っているが、それでもこれだけは訴えたい、と言うように、静かな力がその声にこもる。
「そうする為には――自分を弁えなきゃいけない。 誰の助けもなくても生きて帰って来られるように――生きて帰れない地には足を踏み入れないように、どうやっても生きて帰れないなんて事態に陥らないように、世界の怖さと、自分の力を、ちゃんと知って欲しい」
向かい合う二人の周囲を、黒魔道士の言葉と静かな灯りが包んでいる。 その灯りを更に取り巻くのは、人の命を拒んで止まない闇の淵。
「安全な街を自ら飛び出した俺達には、うっかり、で命を落とす事は許されないんだよ。 どんなに鍛えて強くなった所で、自分の限界を超えた地獄に立ち入れば満足に剣を振るう前に屍になる。 それは、避けられる悲劇だ。 避けなければいけない死だ。 知らなかったから――なんて理由で、大切な人を悲しませていい筈がない。 それは、罪悪だ」
はっ、とヤンは胸を突かれた。 港区の門で見送ってくれたメアリの笑顔が、鮮やかに脳裏に浮かぶ。
――そうだ。 自分はメアリの願いを引き受けて、ここにやって来たんだ。
なのにその先で自分が斃れてしまったら。 そこに自分を送り出した彼女は、どんなにか心を痛めるだろう――
自分の取った行動に寒気を覚え、ヤンは唇を噛み締める。
「だから、そうならない為に、人は知るんだ。 身を守り敵を退けるのは腕力だけじゃない。 例え同じ窮地に陥るでも、その正体を知っていると知らないとでは雲泥の差なんだよ。 知っていれば――出来る事が、飛躍的に増える。 逃げる事も含めてね」
そう語る黒魔道士は遠い何かを思い出すようにゆるりと顔を上げ、背の木箱に頭を預ける。 二人の視線が合った。
と、立ち尽くすヤンの硬い表情をどう読み取ったのだろうか。 短い白髪の下から覗く瞳が、少し寂しそうに微笑んだ。
「ああ――うん、まあその――魔術はね。 あれは確かに、不自然なものだから。 攻撃もするけど、基本的には逃げるとか誤魔化すとか書き換えるとか、物事を曲げる事に特化してるのは間違いない。 それが不本意であれば、君は君の望むやり方を貫けばいいんだ。 魔力に頼らず剣で道を拓く、それはとても潔いと思うよ。 自分の腕一本に全てを賭ける勇敢な戦士が前線に出てくれるからこそ、俺達魔道士はその後ろで――」
「いえ」
ようやく。 ようやくヤンは、瞳を上げた。
呪縛が解けて声が出る。 しっかりと目の前の黒魔道士を見返して、彼は言った。
「いいえ――すいませんでした。 俺、生意気言いました」
素直な声と表情で、少年はぺこり、と頭を下げる。
彼の抱いていた幼い拘りはあの炎の前に溶かされ、いつの間にかその形を柔らかいものに変えていた。 真新しい微笑みを乗せた顔を上げて、少年は言う。
「助けてくれて、ありがとうございました。 魔法、かっこよかったです」
ヤンの言葉に、バルトはまるで女の子に不意打ちの告白でも受けたかの如く目をまんまるにし。
そして、とろけるように嬉しそうな笑顔を浮かべた。
* * *
念の為、と言ってバルトはヤンに不可視の保護をかけ、先に立って地下都市の出口へと向かった。
薄められた自分の影。 ここに居ない事にされている、己の姿。 それをじっと噛み締めるように見ながら、ヤンは黒いローブの背を追う。
その途中で、自分を受け容れることのなかったムバルポロスという舞台を、彼は一度だけ振り返った。
無意識に右手で剣の柄をぎゅっと握り締め、そして思う。
――この先。
もっと鍛錬を重ねて強くなれば、またここに来る事もできるだろう。
力をつけて遠くへと遠征する冒険者は、安全の為に徒党を組むようになると聞いた。 自分にそれは必要ないと、ずっと思っていたけれど――
「……仲間がいるってのは、いいもんだよ」
と、そんなヤンの胸の内を見透かしたかのように、前を向いたまま歩くバルトがぽつりと言った。
少し驚いて少年は、黒い背中に視線を戻す。
「誰にでもね、一人では越えられない壁ってのが絶対にあるんだ。 単身全ての障害を突破、なんて事ができればそれは凄いし、きっと勇者と呼ばれるに値するんだろうけれど――目標を共有して、その仲間の中で自分だけの役割をこなしながら進むのだって、立派な冒険さ」
出口へと続く洞窟。 足元が木の床からごつごつした岩肌へと変わり、二人の左右をゆっくりとせり上がる岩肌が取り囲んだ。
進むにつれ徐々に周囲の明度が落ちていく中、黒魔道士の背中は淡々と語る。
「特に俺なんかの立場から言えばさ。 どんなに頑張ったって、敵に殴られてたらおちおち呪文も唱えられない訳。 だから、その間敵との間で壁になってくれる戦士達がいて初めて、全力が出せて役に立てるんだよ。 俺一人だけじゃあ、大した事は出来ない」
「……え、そんな」
彼の言葉に、ヤンは思わず疑問の声を上げる。
つい今しがた見た、合計四匹のモンスターを相手取っての完全勝利が脳裏をよぎる。 全てを焼き尽くすような炎や、足を縛る見えない力を駆使しての見事な戦いを目の当たりにしたばかりの少年に、その黒魔道士がまるで裏方に徹しているかのような発言はにわかには信じ難かった。
謙遜に違いない――ヤンは尋ねる。
「一人でもあんなに戦えるのに。 それを、戦士の後ろに控える必要なんかあるんですか? 信じられない。 もしそうだとしたら、後ろで」
持てる圧倒的な火力を敢えて抑え、敵の刃と仲間の命が交錯する戦場を背後から見下ろし、ならばそこで一体どんな呪文を――
「後ろで――何を、してるんですか?」
僅かな沈黙。
地下空洞を明るく照らすランタンの灯りは既に背に遠く、二人が進む洞窟には届かない。
生き物の胎内のような細い道にぽつりぽつりと掛かる少ない光源は、見えるものよりも見えないものの存在を浮き彫りにしてしまう、闇の引き立て役に成り下がる。
その薄闇の中で。
「……知りたい?」
ゆるり、と、肩越しに黒魔道士は振り向いた。
声は微笑んでいる。 口元もきっと。
が、その表情は小さな灯りを背負ってぼんやりと翳り、ヤンにははっきりと見えず――
「――――」
小さな寒気が走った。
ヤンの姿は空気に溶けているはずなのに、バルトの視線の気配はまっすぐ彼の目を射抜いて止まる。
――知りたい?
――戦場の後ろで、魔道士が何をしているか。
「あ――」
答えようとした舌が引き攣る。 一瞬思考が竦むヤン。
その脳裏に唐突に浮かんだのは何故か、透明に広がる蜘蛛の巣のイメージ――
「……さ、着いたよ」
いつの間にか歩く二人の真横に移動していた光源が、そう言ってにぱっと笑うバルトの顔を暖かく照らしていた。
「え……あ」
ヤンは目をしばたかせ、面食らったような声を上げる。 先導していたバルトがすっと脇に寄ると、その先には洞窟の終わりのぼんやりとした気配があった。
夢から醒めたように我に帰り、慌てて礼を言おうとして足を止めかけるヤンの見えない背中を、またも見事な目測で探ってバルトはぽんと促すように叩いたが。
「おっと、そうだ……ヤン、これを」
彼はふと思い出したような声を上げると、その叩いた手をヤンの透ける背から肩、腕の先の手へと滑らせた。 そしてどこからか取り出した、柔らかく滑らかな手触りの白い塊を取り出すとその手に握らせる。
「え、これ……え? あれ?」
渡されたその白い塊が何であるかに思いを巡らせる前に、ヤンはもっと大きな疑問に突き当たって声と顔を上げた。
「あの――どうして俺の名前を?」
「――。 あいた」
と。
小さく呟く黒魔道士はいたずらっぽい苦笑いを浮かべ、軽くそっぽなど向くのだ。
更に問おうとするヤンの背中を、まあまあと言うように彼はもう一度とんと押し出す。
バルトの含み笑いを体を捻って見上げたまま、ヤンの体はムバルポロスの出口を潜った――
* * *
「ヤン!! ヤンっ!!」
眩しく照り付けるグスタベルグの太陽の光に続いて少年の上に降り注いだのは、悲鳴にも近い少女の声だった。
「うわっ……メアリ!?」
ヤンが姿を現した出口のすぐ横に、黄色いチョコボがぬっと立っていた。 その上から転げ落ちるようにして自分に駆け寄り飛び付いてくる黒髪の少女を、ヤンは慌てて抱き止める。
「ごめんなさい! 私、何も知らなくて、あの糸がこんな危ない所にあるなんて知らなくて――ヤン、怪我はない!? 大丈夫だった!? ああ、本当に――」
半分涙声でまくしたてるメアリ。 その後ろで、岩の出っ張りに手綱の端をかけられた大きなチョコボが気遣わしげに彼女を覗き込んでいた。
いたいけな少女を放って行けないのだろうか。 騎手をなくしたチョコボはすぐに厩舎へと戻るよう訓練されているはずなのに、大きな駝鳥は岩に軽く掛けられただけの手綱を解こうもせず、つぶらな瞳をじっとメアリの背に落としている。
予想だにしなかった一人と一羽の出迎えに、ヤンは自分に施されていた不可視の魔法が解けている事に気付きながら、腕の中の少女を慌ててなだめる。
「だ――大丈夫、大丈夫だよ、ごめん、心配かけて」
その小さな背をあたふたと、しかし優しく叩く。 顔を上げたメアリの泣き出しそうな瞳と少し震える手に頬を撫でられながら、ヤンは彼女に尋ねた。
「それよりメアリ、一体どうしてここに――まさかこのチョコボで?」
訊きながら彼は頭の中でそれを否定する。 チョコボに乗るには騎乗免許というものが必要であり、それはここから遥か遠く、世界の中心にあるジュノ大公国でしか取得できない。 冒険者ですらないメアリに、この大鳥を乗りこなすことは不可能なのだ。
案の定メアリはううん、と首を横に振る。
「あのね、あのエルヴァーンの男の人に……あ」
その言葉と共にヤンの背後に目をやったメアリが、小さな声をあげた。 つられて彼も振り向く。
少年と少女の視線の先、洞窟の出口で、こっそりと印を切るバルトがつむじ風のような魔力を身に纏っていた。
寄り添ったままで戸惑い顔の二人に気付くと、小声で呪文を紡ぐ黒魔道士は軽く微笑むような冷やかすような眼差しを返す。
軽やかに流れる呪文の終わりで、ひゅう、と口笛を一つ。
その明るい音を残して――
「……行っ、ちゃった」
メアリが不思議そうな声でぽつりと呟いた。 吸い込まれるようにふわりとなびいた彼女の黒髪が、ヤンの鎧を流れて落ちる。
物語の終わりを飾る鼻歌のようなつむじ風。 それが黒魔道士の姿をきれいにさらって消えたその後を、故郷の大地に立ち尽くす歳若い戦士の少年は、奇妙な脱力感と共にぼんやりと眺めるばかりだった。
* * *
鉱山区の競売所で出会ったあの黒魔道士に、自分もヤンの所に連れて行ってくれと頼み込んだのだとメアリは言った。
当然、外に出るのは危険だからと諌められた。 しかしそれでも必死に食い下がる彼女に根負けしたバルトは、チョコボの鞍の後ろにメアリを乗せてくれたのだそうだ。
「でね、この鳥に乗っていれば魔物は寄って来ないから、ここで待ってなさいって言われたの。 すぐに見つけて連れ出して来るから、って。 あと、これを渡されて」
そう言ってメアリがポケットから取り出したのは、彼らには一つとして読めない不思議な文字がびっしりと書き込まれた、手の平より少し大きいサイズの呪札。
「町に帰った方がいいと思ったら、迷わずこれを使うようにって。 戻りたいと強く思えば一瞬で町に戻れる魔法がかかっているのね」
戦う事で立てた功績により、そういう道具類が国から支給されると聞かされた事をヤンは思い出す。 彼はまだそれを見た事も使った事もなかったが、きっとこれがそうなのだろう。
と、彼女が見せてくれたその呪符に手を伸ばそうとして、ヤンがずっと握ったままだった白い塊に二人は同時に気付いた。
「あら、これ……あの糸? モブリン糸ね?」
「ああ……あの人が、最後に渡してくれたんだ――」
ということは、彼が倒したモブリンのどれかが持っていたものか。
何とも見事な偶然だ。 命を救われたのみならず、ヤンがここに来た目的までも彼はあっさりと達成させてしまった――
「……至れり尽くせり、って言うのかなぁ」
その糸を渡しながら溜息まじりに呟くヤンに、メアリは笑顔を浮かべて言った。
「うん、競売所でも色々教えてくれたし。 何よりヤンを助けに行ってくれたんだもの、とっても親切な人だったと思う。 今度会ったらちゃんとお礼を言わないとね」
――親切な人。
明るいメアリの言葉に頷きかけるヤンの意識を、細い洞窟で見たほの暗い情景が一瞬で覆った。
黒衣の細い背中がざらつく闇に融けている。 肩越しに振り向く白い髪、灯りを背負って見えなかった表情、うっすら微笑む声。
聞きたいかとあの時彼が問い返したのは、彼の中で用意された答えが、まだヤンには理解できないほど難解なものだったから――だろうか。
それとも――
「…………」
「? ヤン?」
あの時、自分の体の奥底で一瞬疼いた、僅かな寒気をヤンは思い出す。
あれは……あの身震いは。 あの人の意味深な一言に、まだ見ぬ集団戦闘の奥深さを感じての――ものだったのか。
それとも――あの人の――あの人自身の、底知れなさを――……
「ヤン? どうしたの、どこか痛むの?」
傍らで不安げに呼びかけるメアリの声に、ヤンははっと我に返って顔を上げた。 まとわりつく魔法のような物思いを振り払う。
「あ……ううん、なんでもない」
「そう? ならいいけど……ね、ヤン? ヤンはこの子に乗れるの?」
メアリは振り向くと、岩にかけられた手綱を引っ張り始めたチョコボを見て言った。
「いや――俺はまだ、免許を持ってないんだ。 もっと鍛えてから、ジュノまで行かないと……」
「ふぅん、そうなの……あ」
そうだよ、と言うかのように、チョコボはくいと岩から手綱を外してあっさり自由の身に戻る。
そしてきゅぅと一声啼くと二人に背を向け、どっしりと大きいその体をものともしない軽やかな足取りで、自分のねぐらが待つバストゥーク目指し風のように走り去って行った。
その可愛らしい啼き声が――彼女は任せたよ、と言っているように聞こえて、ヤンは傍に立つメアリの手をぎゅっと握った。
暖かいその手の持ち主が振り返る。
戦士の少年を見て安心したように微笑む歌唄いの少女の瞳は、私達も帰りましょう、と言っていた。
大地を這うように一陣の風が吹いて、ヤンは彼女に向けた目を細める。
彼が日夜血と汗を流し続ける乾いた荒野を背に、汚れを知らない長い黒髪がなびく。 ふわりと踊るスカートと、ほとんど日に焼けていない白い肌が目に眩しい。
街の外には数えるほどしか出た事がないと言っていた。 どんな事でも荒事が苦手で、本や歌を相手に家の中で大半を過ごすような、大人しいメアリ。
自分の身を案じて――あの黒魔道士がついていてくれたとは言え、街の門をくぐりチョコボにしがみつき、ここまで来るのに一体どれだけの勇気がいっただろうか。
そして今、あの万能とも見えたエルヴァーンはもういない。 モンスターを寄せ付けずに走ってくれるチョコボも帰ってしまった。 二人とバストゥークの街の間に横たわるのは――牙の代わりに試練を生やす、遠いグスタベルグ。
その遥かな荒野を背に可憐に微笑むメアリの、何と儚げな異彩を放つことか――
「……メアリ。 その呪符を使って、君は先に帰っててくれる?」
少年の意外な言葉に、驚いたようにメアリは首をかしげた。
「え? 一緒に――帰るんじゃないの? ヤンがいてくれたら、歩いて帰っても大丈夫なんじゃ――ないかしらと、思ってたんだけど」
少し寂しそうにそう言う彼女に、ヤンはふっと微笑んで言う。
「うん、注意して進めば大丈夫だとは思う。 もし何かあっても、魔物の一匹や二匹なら間違いなく倒せるよ。 けど」
敵を倒せるという事と、彼女を守り切れるという事は別だ――とヤンは思った。
思うことが、できた。
――ただ単純に剣を振るう事しかできない今の自分には、あの黒魔道士がしたような、背に誰かを庇いながらの戦いができる余裕はきっと無い。 モンスターも未熟な自分を見れば見境なく襲い掛かってくる。 ただ全てを振り切ってひた走るだけのチョコボのようにすら、自分は彼女を守れないのだ。
ならば、彼女は先に帰すべきだ。 ただ愚かな自分の暴挙のために、彼女にこれ以上怖い思いをさせられるものか。
未知の「万が一」が潜むこの無彩色の荒野を、柔らかい花のような少女と一緒に歩く――それは、自分にはまだ許されない贅沢。
「――メアリを、危険に晒しながら歩くのは怖いんだ。 ここまで迎えにきてくれた君と、俺も一緒に帰りたいけど……それは、俺がもっと強くなってからでないと駄目だ。 俺はいつも通り、自力で戻るからさ」
微笑んで言うヤンのそんな言葉に、メアリは軽く目を見開いた。
初めてだったのだ。
「怖い」という言葉を、少年の口から聞いたのは。
「ヤン――?」
一体どうしてしまったのか。 思いながら彼女は彼の目を覗き込んで――そこにあるのが、恐怖や尻込みといった負の感情ではないことを知った。 むしろそれは、大地に深く根を張り始めた若木のような――
「……うん、判った。 その方がいいのね?」
その瞳を見て、メアリは自然に頷いてそう言っていた。
臆病だなんて思わない。 怖い、という言葉が、これまで聞いたどんな言葉よりも頼もしかった。 不思議な嬉しさが込み上げて、メアリの胸はぽうと暖まる。
「うん。 ごめんな、頼りにならなくて」
えーと、と呟きながら呪符を両手で握って目を瞑るメアリに、済まなそうにヤンがそう言うと。
「あら、そんなことないわよ?……かっこいいわ」
ちらりと片目を開いて微笑むメアリ。 ウィンクのようなその表情と、ついさっき自分があの黒魔道士に言ったと同じ言葉を返されたヤンの顔は、少女の姿が虚空の向こうに消えるまで照れたり驚いたりと大忙しだった。
* * *
―― ねえルカ。
―― ん?
―― 今度二人でさ、サルタバルタまで遊びに行かない? ちょいとピクニックと洒落込もう。
―― へ? いいけど、どうしたのいきなり。 そこを選んだコンセプトは?
―― これはこれは、つれない質問。 かつて俺達が出会って、共に冒険者を目指した場所なのに。
―― うわぁ、めちゃくちゃ甘酸っぱいよバルト君。
―― ふっふっふ。 たまには一緒に、初心に帰ってみようよ。 あ、弁当は俺が作るからさ。
―― ああ、それは楽しみだけど……なぁに? 私が留守にしてる間に、何かあったの?
―― いやなに。 ムバルポロスでちょっぴり、柄にもない先輩風をね……
End