テノリライオン

07-03-01

最終更新:

corelli

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退き際の選択。



口演後に会見した円楽さんは開口一番、「だめですね」。約30分の予定が40分余りに長引いた「芝浜」を「ろれつが回らなくて、声の大小、抑揚がうまくいかず、噺(はなし)のニュアンスが伝わらない」と総括。「3カ月けいこしてきて、これですから。今日が引退する日ですかね」と話した。

芸人の引き際は、終末医療に似て難しい。
何故なら「芸」とは「命」そのものだからだ。
その限界をを自覚し静かに終わりたいと願う本人、長らえてくれと願う周囲。

会見では、評論家から引退の再考を促す質問も出たが、円楽さんは「黙って去っていく形が、自然かもしれません。お客さんは『まだまだできる』と言って下さると思いますが、それに甘えてたんじゃ、あたし自身が許さないんです」ときっぱりと語った。

「あたし自身が許さない」という言葉は、何よりも自分に厳しくなければ出て来ない。
まだやればできると、信じて励ます人もたくさんいる。けれど「もう出来ない」と他ならぬ本人がそう思ってしまったら、そこが終着点なのではないだろうか。
根性がないと責めているのではない。重鎮と称されるまで登り詰めるにどれだけの努力の積み重ねが必要だったかなど、凡百の夫に想像できるものではないのだ。
だからこそ、長年にわたってそれだけの研鑽をし、私達を楽しませてくれたからこそ、それを鞘に収める潮時は本人に決めさせてあげたいと、私は思う。
それこそ命を賭けてきたであろう芸だ。そこに「恥」を塗るのは、自分の墓標に泥を塗るように辛い事ではないだろうか。

引退は、惜しむのが最高の餞(はなむけ)である。


カテゴリ: [雑記] - &trackback() - 2007年03月01日 20:06:18
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