テノリライオン

BlueEyes RedSoul 6

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 とんとん。
 小さな石造りの小屋に、木の扉をノックする音。
 ただし、そのノックは、内から外へ。

「――開けても、よろしいですか?」

 玄関先に座り込み、ドアに寄りかかる背中に感じたノックの響きと、その向こうから届いた女性の声に、ヒューイは俯けていた顔をふっと上げた。 戯れに夜気に晒していた細い刀身をぱちんと鞘に収める。
「どうされました? 何か、用事でも」
 声だけで問いながら、彼は首を捻って扉を振り向く。 ふとその目が、夜空を見上げた。

 遙か頭上を覆う濃紺のドームを、梢の影が黒い血管のように走っている。 その合間にぽつんと浮かぶ純白の月は、無限の夜空を淡く照らしていた。
 月の白さは大気の清さだ。 その輝きに、故郷のウィンダスで見た月をヒューイは思い出す。
 工業国家のバストゥークや鍛冶ギルドのあるサンドリアの月は、天頂に至っても一枚ヴェールを纏ったように少し黄色がかる。 力強いまでに白い月は、鋼や硝煙を厭い緑に抱かれるウィンダスのものなのだと、彼は冒険者になってから知った。
 それと同じように強く輝くこの高い月は、あの国の眠りも照らしているのだろうか――

「いえ、用事という訳では――ただ、お話がしたくて」
 扉の向こうで答える、控えめなデルフィーナの声。 ヒューイは言った。
「いけませんよ、もう夜も遅い。 明日に差し支えますから、どうぞ布団に入ってください」
 まるで子供に言い聞かせるような彼の台詞に、扉越しにくすりと笑う気配が返ってきた。
「明日と言っても、そんなに早く起きる用事などありませんわ。 それに、貴方がそこで寝ずの番をして下さっているかと思うと、申し訳なくて眠れません」
「……む」
 彼女の答えに、小さく唸るヒューイ。 何と返したものか戸惑う彼が、背で庇い押さえるようにして寄りかかっている扉に、家の中からデルフィーナは囁いた。
「ですから、開けてくださいな。 中にお入り下さいとは申しませんから」
 その静かな声に、やおらヒューイの背筋にぶるっと小さな震えが走った。 その理由も判らぬまま彼は言う。
「いや、いけません。 女性が夜中に錠を解くなど、不用心です」
 まるで官憲のように頑なに、その背で扉を閉ざし続けるヒューイ。 しばしの沈黙が流れ――
「そうですね――判りましたわ」
 そんな言葉と共に、扉の向こうから彼女の気配がすっと離れた。
 納得してくれたか、という軽い安堵と同時に、ヒューイは何故か僅かな戸惑いを覚える。 と、そんな彼の斜め上で、かたんという音がした。 続く声。
「これでしたら、よろしいかしら?」
 玄関先に腰を下ろしたまま、ヒューイはその音と声を振り仰ぐ。

 彼の前に広がる雑木林をその漏れる明かりで照らしていた、スライド式のガラス窓。 それを上に押し上げて、桟から軽く身を乗り出すデルフィーナの笑顔が彼を見下ろしていた。
 思わず口を開いて何かを言いかけるヒューイの先を制するように、デルフィーナはいたずらっぽく言う。
「ちゃんと玄関の鍵は閉まっております。 夜も更けましたもの、もうどんな殿方も中にお入れは致しませんわ」
 そしてにっこりと笑う。 その子供のような笑みにつられて口元をほころばせ、彼女を見上げてヒューイは言った。
「ええ、それがいい」


  *  *  *


 ――どうして、お国を離れられたのですか――?

 絹のように優しい夜風が二人を撫でる。
 長い髪のデルフィーナは、窓辺にもたれて静かに訊いた。
 金色の髪のヒューイは、宵闇を眺めて静かに答えた。

 ――あの国で……いや、この世界で。 私は、異端だったからです――

 そんな言葉を皮切りに。 忘れ去られた昔話をするように、ヒューイはゆっくりと語り出す。

「……私には、どうやら得体の知れない力が宿っていまして」

 淡々と。 ともすれば人ごとのように感情の籠もらない――いや、強いて感情を遠ざけているかのような彼の声は、彼自身を紡ぎ始める。

「幼い頃は、誰もが自分と同じようなのだと思っていました。 出来がよいと、飲み込みがよいと人は自分を褒めてくれるけれど、それでも基本的には皆自分と同じように、世界と関わっていると思っていた。 同じ条件の下で、たまたま私は少しだけ要領が良かった、ただそれだけだと――」
 ヒューイの唇が、言葉を探して止まる。 デルフィーナは静かに尋ねた。
「……貴方にとって世界は、どのようなものなのですか」
 いたわりとも違う、まして好奇心などでもない、綺麗な空気のような彼女の問いに促されて、ヒューイは答える。

「――これまで他者と自分を比較し、判った中で言うならば――私という個体は、私を取り巻く世界との……境界とでも言うべきものが、曖昧に出来ているのです。 自分の力が外に漏れ出しているようにも感じるし、他者の力が内に流れ込んで来るようにも感じる。 私にとってそれは生まれてからずっと当然のようにある感覚で、だから人間は誰しも、こうしていくばくかのものを互いに共有し合いながら成長したり学んだりしているのだと、以前の私は思っていました。 剣を交えれば相手の筋肉の流れを感じ、魔法を交えればその(ことわり)を知り。 学習というのはそういう風にするものだと。 でもそれは――間違っていた」
 最後の一言だけ、溜息混じりに言うヒューイ。 その吐息を追うように、和やかな声でデルフィーナは訊いた。
「天才と、呼ばれまして?」
 赤魔道士はくすりと笑う。
「ええ。 物事を習得するのにかかる時間が、人よりも理不尽なまでに短い訳ですから。 そうですね、こうして赤魔道士として活動を始めた頃から、明確にそう呼ばれるようになりました。 さすがにその頃には、私も自分の特異さに薄々気付いてはいましたが――」

 そのきっかけは、弟の一言だった。
『兄さんが判ってても、僕には判ってないんだよ』
 剣の稽古。 長い手合わせの後に、荒い息の下から投げられた言葉にヒューイは戸惑った。
 剣の腕で自分に追いつこうと躍起になっている弟の為に、その日ヒューイは弟の剣技に欠けているものをその腕に載せ、伝えるつもりで対峙していたのだ。
 しかしそれは、いつまで経っても弟のものにならない。 ヒューイは手段を変え、言葉を尽くした。 空気を通して伝えようとしたものを、どちらかと言えば苦手な言葉にして弟に伝えた。
 すると弟は、なるほど、そういう事か、と頷いたのだ。

 ――人は、自分のような「感覚器官」を持っていない――
 それがヒューイの自覚の、世界の乖離(かいり)の初めだった。

「……私は、その事を誰にも言いませんでした。 言った所で何にもならない。 満足に説明できない、自分自身ですら正確に分析できていないものを、人に対してつまびらかにする気にはなれませんでした。 そう、ただそのまま、人々の中で平穏に暮らしていられれば、それでよかったのに――」
 言ってヒューイは、闇を透かしていた目を伏せた。 そんな彼を覗き込むように、デルフィーナは静かに問う。
「何が、あったのでしょう」
「ある日――ジャグナーという森林を歩いていた時の事でした。 一人の学者が魔物に追われているのを、私は助けました」

 そのヒュームの学者は剣を収めるヒューイに礼を言うと、自分はこれからダボイへ調査に行かねばならない、ついては報酬を渡すから用心棒を頼まれてはくれないか、と持ちかけてきたのだ。
 そう深部にまで踏み込むのでなければ、ダボイに棲む魔物など彼の敵ではない。 ヒューイは二つ返事で請け負った。 学者を護り、手近なオークを苦もなく切り伏せ、乞われるままに敵地を進む。
 しかし、さして難儀な仕事ではないものの、戦う術を全く持たない者を護衛するというのはそれなりに気を遣うものだ。
 だから、彼は気付かなかった。
 後ろから付いてくる学者の、まさぐるような視線。 その注ぐ先がいつしかダボイの地から、目の前で駿馬の如き戦いを繰り広げる赤魔道士の背中へと移っていた事に――

「その人は、ウィンダス目の院に所属する学術魔道士でした。 その日の調査とやらが終わってからも、彼は足繁く私を訪れ、あれこれと探るような質問を繰り返した。 思えば私の魔術も、いわば世界に半ば溶けるように――人よりもずいぶんと適当に唱えてしまっていました。 私の場合はそれでも発動してしまうので。 それが彼の興味を引いたのでしょう。 よく考えれば判る事だった。 そうこうしているうち、彼はとうとう私について論文まで書き――私は、ギルドから招請されたのです」
「お招きがかかったのですか?」
「お招き――そう、お招きです。 院に入り、魔術について共に学ばないかと。 共に? ――そんなもの、信じられるはずもない。 あの学術魔道士の視線を見ていれば判る。 彼らにとって私は……『研究対象』なんだ」

 初めて、彼の言葉に暗い感情が宿る。 デルフィーナがじっと見つめる中、ヒューイは続けた。
「お昼にあなたのご馳走を頂きながら、自分の国から弾かれて来たと私は言いましたが――それは正しくない。 私こそが、あの国から、逃げ出して来たのです。 魔術師達の好奇の目が私を切り刻まないとは、私には到底思えなかった。 研究の名の下に、何をされるか判ったものではない。 人としての尊厳の危機すら感じました」
 ヒューイの顔に、苦い色が走る。 苛立ちと悲しみの混じったような、やるせない苦み。
「勿論その気になれば、彼らに協力する事はできます。 己の存在の希少性もどうにか承知していますから。 彼らは私の存在を望んでいる。 しかしそれよりも何よりも、嫌悪感が、怯えが先に立ってしまった。 ――逃げました」

 逃げました――

 夜のしじまが、戸口に座り込む彼の言葉を冷たく吸い取る。
 ヒューイの目は、窓枠に飾られたデルフィーナを見上げていた。 穏やかな彼女の顔。 ゆるくウェーブする長い髪が、背後からの灯りを受けて栗色に淡く輝いている。 大地に向けて柔らかく垂れ下がるその様は、まるで上品なつる草のようだ。
 そしてその中に実る、二つの優しい青い色――

「……私は、間違っていたのでしょうか」

 まるで祈りを捧げるように、ヒューイは言った。

「もう自分は独りなんだと思っていた。 狩られる存在になってしまった、そう思って己を儚みました。 しかし――あなたは」

 自らが救った町の民に追われ、たった一人森に暮らすデルフィーナ。
 その持つ力を忌み嫌われ、誰にも求められず、何の報いも与えられず。

「なぜ世界は、なぜ人は――こんなにも。 利己的なのでしょう、残酷なのでしょう。 相手を自分と異なる者だと思った途端に共感することをやめ、どこまでも冷淡になれる」

 徐々にヒューイの声に熱が籠もる。 抱えた剣を握り締め、何かを吐き出すように目の前の闇へと。

「私の事はまだいいのです。 いや、利己的と言うならば私とて大して変わらなかった。 例え研究対象としてでも――人から望まれ求められながら、それらを全て拒絶し姿を消したのですから。 しかも半ばは自分でまいた種だ。 けれど、けれどあなたは、あなたの受けた仕打ちは、」

 ばさっ、とどこかで何かが羽ばたく音がした。 梟か。
 静寂を貴ぶ森の賢者に見限られた、ヒューイの言葉が弾けた。

「間違っている! あなたのような人を平然とこんな所に追いやって、自分の事しか考えずにのうのうと――そんな権利が一体、その町の人々にあると言うのか! 何という身勝手な! 剣を忘れて引き返してきたのは正解でした、そんな冷血漢ばかりが住む町に身を寄せるなど、私は――」

 と。
 不意に彼の横で、ふわりと空気が動いた。
 その気配にヒューイははっと我に返った。 迸る言葉を止めて、そちらを仰ぎ見る。

 四角い窓枠を乗り越えたデルフィーナが、とん、と彼の横に降り立った。 ヒューイは思わず息を呑む。
 頼りないまでに細い素足の先が、夜露を乗せた草むらの上に落ちる。 水晶のような月明かりを照らすその白い衣服は、まるで自ら淡く輝いているようだ。
 吸い寄せられるように立ち上がるヒューイに、デルフィーナはその顔を上げると透き通った笑顔を見せた。 そして言う。

「――優しいお方」

 激しい感情は彼女に伝わってしまう――
 デルフィーナの涼やかな声を耳にして、ヒューイは今更そんな事を思い出した。 しかし、それで何の不都合がある、と彼は己を一蹴する。
 そんな彼に向かい、まるでたしなめるような穏やかさで、彼女は言った。

「でもどうか、そんなにお怒りにならないで。 町の人たちの気持ちは、ごく自然なものなのですから。 人は誰でも、その心において自由であるべきです。 誰に干渉されることもなく、何を好むも何を嫌うもその人の自由。 誰はばかることなく望むままに振る舞う事が許されなければならない聖域、それが心なのではないでしょうか。 そして私は、その聖域をおびやかしてしまうのです」

 ――あの童話は、彼女の事を描いたものだったのだろうか。
 澄んだ横笛の囁きにも似たデルフィーナの声を聞きながら、ヒューイは思った。

 彼女を初めて海辺で見た時に思い起こした、宵闇にぽつんと浮かぶ妖精の絵。 ぼんやりと蛍のような光をまとい、暗い森の中で一人月を見上げていた。 まるで世界にはその妖精と、物思わぬ月しかいないかのような、静かで寂しげな情景。
 裸足のままで森に立ち、今にも消え入りそうな笑みを浮かべる彼女の儚い輝きが、あの小さな妖精の姿と重なっていく――

「それに、私の事を知ってなお、私の身を案じてくれた人もちゃんとおりました。 この家も、その人達が用意してくれたものなのですよ。 私が一人でもやって行けるように色々教えてくれたり、機織り機を贈ってくれたり――」

 そう言うとデルフィーナは嬉しそうに微笑んだ。 それを見たヒューイの心臓に、鋭い痛みが走る。
 ――偽善だ。 結局は彼女を町から追い出しているなら、そんなものは親切なんかじゃない。 ただの偽善だ――
 そんな狂おしいまでの憤りがみるみる彼の心を染める。 するとデルフィーナは、ゆっくりと首を横に振った。 そして彼を見上げ、小さく、しかしきっぱりと言う。
「それでも私は嬉しかった――ですから、あの人達は、いい人達です」

「――怒りは、ないのですか」
 絞り出すようにそう尋ねるヒューイに、デルフィーナは少し困ったような笑みを浮かべる。 そして明るい声で答えた。
「確かに町からは離れてしまいましたけれど、だからと言ってそう悪い事ばかりでもありませんわ。 ここは、とても静かです。 人々の怒りや悲しみの声が聞こえてこない――」
「――けれど、喜びの声も笑い声も聞こえてはこない」

 思わず息を呑んで口を閉じるデルフィーナの青い瞳をまっすぐに見つめ、彼は言った。
「お願いです。 ここに、私の居場所をください」
 そして彼は、彼女の前に膝を折る。 まるでかしずくように。
「この扉の外に。 どうかこの家を、私に護らせてほしい。 私の持つ力をあなたの盾とし、そしてあなたの孤独を、私に否定させてください。 見つけたのです。 私の成すべき事を――」

 暖かい夜風が、ふわりと二人を吹き抜ける。
 胸の前、驚きの形に組まれたデルフィーナの両の手に、ぽたりと小さな滴が落ちた。

 この力が発覚してからも、親切にしてくれる人はいた。 嫌悪の目で見ずにいてくれる人はいた。
 けれど、隣に座ってくれた人はいなかったのだ。
 まる一晩も、こんな声の届くほどの距離に、自分の身を置いてくれる人はいなかったのだ――

「――私は――あなたの、お心を」
 か細く震えるデルフィーナの声を、ヒューイは迷いなく引き受ける。
「構いません。 元々私は心の機微というものに疎いのです。 口も上手くない。 大事な事を言わずとも察してもらえるのなら、むしろありがたいというもの。 扉は閉ざしたままでよいのです。 ですからどうか――」

 ひたむきな表情で彼女を見上げるヒューイ。 本当だわ、とデルフィーナは泣き笑いの顔で思う。
 自分が一体何を言っているのか、そして(わたし)の涙が何を雄弁に物語っているのか。
 あなたはちっとも、判っていないのですね――

「……そう、扉には錠を掛けないと、不用心ですものね」
 嬉しそうに笑うデルフィーナの頬からぽろりと落ちる涙は、もう何年も宿すことのなかった暖かさを夜露の上で弾けさせる。 生真面目に頷くヒューイに、でも、と彼女は言った。
 細い両手が、金髪の赤魔道士に差し伸べられる。

「扉は、朝になれば開きますわ――――」



  *  *  *



 ――一体いつになれば、手掛かりが掴めるのだろうか。
 雑然と散らかる自分の席に沈み込みながら、エヴァリオはちくちくと親指の爪を噛んでいた。

 カザムで彼の指揮する捜索隊が兄を見失ってから、半月。
 それなりの人員を投入しながらも、依然その逃走経路は全くと言っていいほど掴めていないというのが現状だった。

 海賊の隠れ里ノーグに潜んでいる、あるいはノーグから船を使い外海へと抜けた――その線を一番に想定して再度捜査に当たらせたものの、特殊捜査機関と海賊などまさに水と油、犬猿の仲そのものである。 調査に対する前向きな協力など望めるはずもなく、そこを兄が通ったという証拠も通らなかったという確証も得られずに、時は虚しく過ぎていった。
 故に広がる一方の捜査範囲。 その先でぷっつりと途切れたままの兄の消息は、エヴァリオに複雑な焦りをもたらす。

 兄の捜索依頼元となっている魔道士ギルド上層部からは、一日おきに進捗伺いが来ていた。
 難航する捜査に駆けずり回る捜索隊と、ひな鳥のように成果をせっつくギルドの板挟みという状態は、根本的には武人であるエヴァリオにとって精神衛生上大変よろしくないものだった。
 一日も早く、何とかしたい。 その一点においてギルドと完全な意見の一致を見ながらも、エヴァリオは一人煩悶する。
 この状況を解消する唯一の方法は、取りも直さず――兄の捕捉、なのだから。
 エヴァリオは机の上に落としていた視線を上げる。 現場に赴きたい、という強烈な衝動が、彼の腹の底から湧き上がっていた。

 捜索隊に発見されれば、兄の身柄は捜索依頼者であるギルドへと速やかに引き渡される事になる。 そうなってしまえば、そこに「待った」の入る余地はない。
 エヴァリオは知りたかった。 兄と話がしたかった。
 何故、逃げたのか。 ギルドに渇望される、兄の力とは何なのか。 どうする事が兄にとって一番良い事なのか。 知りたいと、知らねばならないと思った。
 それは出来ることならば、兄がこの国に連れ戻される前に。 その為には、誰よりもまず自分が一番最初に、兄へと辿り着かねばならないのだが――

 重い溜息をつき、エヴァリオは傍らの剣を取ると気だるげに立ち上がった。
 そのまますたすたと部屋を出ようとしたが、思い出したように彼はくるりと踵を返す。 そして手近な紙片に『鍛練場に居る』と大きく書き付け、机の目立つ所に放り出すように置いた。


  *  *  *


 良く言えば質実剛健、悪く言えば味も素っ気もない。
 彼が勤める特捜部のエントランスは、神秘の国ウィンダスにあってそんな類の異彩を放つ。 その空間を鍛練場に向かい足早に横切ろうとしたエヴァリオを、唐突に大きな声が引き止めた。
「――あっ! エヴァリオ、おい!」

 振り向けば、濃い緑色の連邦国式服を身に纏った長身のエルヴァーンが、彼を認めて駆け寄って来る所だった。 エヴァリオの同僚、ロアルドだ。
「どうしたロアルド。 何か――」
「居たぞ」
 向き直って自分を迎えるエヴァリオに、普段の軽薄な雰囲気を吹き飛ばしたエルヴァーンは間近まで寄ると低い声で告げた。
「お前の兄貴だ。 見たという奴が居た」
「本当か!」
 食らいつくように問い返すエヴァリオに、ロアルドはああと頷く。
「ビビキー沖を渡っていた密輸船だ。 ノーグでお前と似た顔立ちの、金髪の赤魔道士を乗せたらしい。 読みは当たってたな」
 しかしそこまで言って、だが――とロアルドは引き締めていた眉を曇らせる。
「その船は沈んだ。 証言は、そこから命からがら生還した乗組員のものだ。 折からの嵐の中を縄張り荒らしの海賊に襲われた上に、クラーケンのおまけまでついてきたそうだ。 こいつは上手くないな」
「沈ん、だ――」
 呆然と呟くエヴァリオに、ロアルドの声がかぶさる。
「そいつは、お前の兄貴がどうなったかまでは見ていないそうだ。 海に放り出されたには違いないだろうが、やられたという証言でないだけよしと見るべきだろう――どうする」
「判った」
 ロアルドの気遣わしげに問う声に、エヴァリオは一瞬で己を立て直した。 力強く頷くと、彼の捜索隊の配置先を思い浮かべながら彼は言う。
「東寄りの海岸近辺に手を回そう。 流れ着いている事を祈るしかないが、範囲が狭められれば人海戦術が使える。 そうなれば僕も出張る事ができるだろう――ありがとうロアルド、 恩に着る――」

 その時。
 話し込む二人の耳に、建物の奥から出てくる人の足音が響いてきた。
 正面玄関を半ば塞ぐ形で立っていた彼らは、そちらを見ないままですっと脇に寄る。 すると。

「エヴァリオ。 丁度いい所に」
 その足音は通り過ぎることなく、代わりにそう声を発した。 二人がそちらを振り返れば、そこにいたのは壮齢のヒューム族の男性、彼らの直属の上官。 そして彼の彼の足下で、複雑な文様をあしらったローブをひきずる小さなタルタルが、尊大そうに彼らを見上げていた。
 エヴァリオはそのタルタルに見覚えがあった。 確か兄の捜索を依頼に来た、魔道士ギルド統括からの使者――
 巡る思考とは別に、エヴァリオとロアルドの体は習慣的に直立の姿勢を取る。 上官は言った。 実に事務的に。

「通達だ。 本日を以て、ヒューイ=ヴィクレマの捜索を打ち切りとする。 派遣している捜索隊は速やかに本部へ引き揚げさせるように。 以後貴官の部隊は、次の仕事があるまでアルフォンソ班の活動支援に回ってもらう。 以上だ。 詳しくは後ほど話そう」

 エヴァリオは一瞬、何を言われたのか判らなかった。 霧がかかるように、彼の頭の中は真っ白に染まる。
 エヴァリオが失った言葉を取り戻すより前に、隣に立つロアルドが口を開いた。
「待って下さい。 打ち切りとは一体――」
「諸事情により、ギルド側から依頼が取り下げられた。 捜索は中止してよいとの事だ」

 エヴァリオは、そう言う上官の足下でじっと立っているタルタルを見た。
 彼の視線に気付いた使者は、ちらりと彼を見上げると無感情に言う。
「どうも、あなたにはお手数をお掛けしましたが。 その必要がなくなりましたので、捜索隊は引き揚げて下さって結構です。 ご苦労様でした」
「――どういう事ですか」

 タルタルに向けて、エヴァリオは低い声で訊いた。 上官の眉がぴくりと動く。 それに構わずエヴァリオは続けた。
「研究の為に彼を捜していたのではなかったのですか。 そちらの方が何やら論文まで書かれたと聞いておりますが、もしや院はもうそれについてはお手上げと?」

 エヴァリオの言葉は、使者の自尊心を刺激するに足るものだった。 タルタルは眉根を寄せ、不愉快そうに言う。
「そういう事ではありません。 我々は研究を放り出したりはしない。 今回の件については、そもそも研究する必要がなくなったのです」
「何故」
 間髪を入れずにエヴァリオは問う。 その眼光に鼻白んだように目を細めると、ますます不快げに使者は答えた。

「その論文を書いた者が、バストゥークに対してちょっとした不正をやらかしましてね。 何と申しましょうか、それが魔術師としてのモラルに抵触する行いだったもので、現在彼は院の監察下にあると、こういう訳ですよ。 色々な意味で非常に残念な事ですが、致し方ない」
 そう言うとタルタルはその小さな肩をすくめ、説明は以上だ、という風に言葉を切った。
「――それが」
 それがどうして打ち切りに繋がる。
 引き下がる事をせず更に気迫を込めるエヴァリオに、タルタルは面倒臭そうに言った。
「要はですねえ、それと同時に彼の魔術師として、学者としての技量そのものにも疑念が及ぶという事なのです。 当然彼の論文の信憑性も消滅します。 平たく言えば、そんな愚かな魔術を使う奴の論文など信用できない。 一言で言えば失脚。 そんな所ですかね」
 タルタルはふっと息をついた。 鼻で笑ったのだろうか。
「まぁそのシャルレイ氏、不正については認めたものの、この論文に関しては何らの虚偽も捏造もないと強固に主張してはいますが――そんな事よりも現在は、彼の不正の方こそが重大な問題なのですよ。 何しろギルドの沽券(こけん)に関わる事ですからね。 という事で、今や院に彼の論文をまともに取り上げる者はいません。 そんな事をすれば、逆にその者が常識を問われるというものです。 まあそんな訳で――うわっ!」

 その悲鳴と同時に、使者のタルタルの体は宙に浮いていた。 眉を吊り上げたエヴァリオが、彼の襟首を掴んで引きずり上げたのだ。
 恐怖に引きつる相手の小さな頭に食らいつかんばかりにして、エヴァリオは吼えた。
「ふざけるなっ! そんな――そんな下らないものの為に、兄さんはウィンダスを追われたのかっ!」
「エヴァリオ!」
 彼が叫び終わらないうちに、上官とロアルドの声が交錯した。
 ロアルドが背後からエヴァリオを羽交い締めにする。 上官はばたばたと宙をかくタルタルの足の下を潜るようにして素早くその身を滑らせると、部下のみぞおちに思い切り肘打ちを叩き込んだ。
 衝撃に思わず呻いて、エヴァリオの手はタルタルから離れる。 上官は落ちかけるその小さな体を巧みに受け止めると、すとんと地に立たせた。 そして喉を押さえむせ返るタルタルに、お怪我はありませんか、と詫びる。
 その間にロアルドは引きずるようにしてエヴァリオを使者から引き離し、なおももがき続ける彼の耳元に呼びかけた。
「馬鹿野郎、抑えろ! 使いの者に当たってどうする!」
 そう諭しながらも、己の心にもみるみる絶望という名の暗雲が広がっていくのを、ロアルドは止める事ができずにいた。 彼はそのやるせない気持ちを、暴れるエヴァリオを拘束する腕に込める。

 捜査の打ち切り。
 それはすなわち、彼の兄が追われる身の上ではなくなった、という事と同等に、以後誰も彼を捜さなくなるという事をも意味する。
 そう、たった今ロアルドの情報で狭められたばかりの捜索範囲は、それが組織の力の下だからこそ「狭まった」と言えるのだ。 十数人からの精鋭がその捜索から引き揚げてしまえば――「東の海岸」は、果てしなく広い。 誰の協力もなしに人一人を捜し出すには、広すぎる――

「ただ追い出しただけじゃないか!」
 髪を振り乱し、エヴァリオは叩き付けるように叫んだ。
「研究対象に、モルモットにされるのを恐れる兄さんにさんざんつきまとって追い詰めて! そのあげくに、もう価値がないから見つからなくてもいいだと!? 一体、あんたら魔道士は人を何だと――!!」
 声を張り上げるエヴァリオに、乱れた襟元を直しながらタルタルは甲高い声で応酬する。
「モルモットとは何ですか! 大体、勝手に逃げたのは彼の方でしょう! 我々は彼に協力を仰いだだけで、出て行けなどとは一言も言っていない! それを突然逃げられてこちらこそ当惑したと言うのに、言いがかりも大概にして頂きたいものだ!」
「都合のいい事を――!」
「いい加減にしないか!」
 上官の怒声が、わめく部下を一喝する。 横っつらをはたかれたように息を詰まらせ、ついにエヴァリオは口をつぐんだ。 それを一瞥して上官はタルタルに向き直る。
「大変申し訳ございませんでした。 私の監督不行届です。 彼には然るべき処分を与え、後日改めてお詫びを申し上げますので、どうか本日の所は――」
 そう言って深々と頭を下げる上官に、使者は忌々しげにふん、と鼻を鳴らした。
「何なんですか、全く……野蛮極まりない。 もう少し理性的な言動をお願いできないものですかねぇ」
 憤然とそう言うと、まるで猛獣を避けるようにしてエヴァリオとロアルドを回り込み、使者のタルタルは足早に出口へと向かう。
 その前に為す術なく歯を食いしばり俯くエヴァリオ。 彼の横を通り抜けざま、使者は吐き捨てるように言った。

「――兄が兄なら、弟も弟だ」

「――っ!」
「よせ、エヴァリオ」
 タルタルの捨て台詞に再び激昂しかけるエヴァリオの体を、ロアルドは押さえ込む。 しかしそのロアルドの瞳にもまた、隠し難い苦々しさが浮かんでいる、その様を見ようともせず。
 小さな使者は足音も高く、その場を後にしたのだった。


 ホールに戻ってきた静寂の中、同僚を羽交い締めにしていた腕を、ロアルドはゆっくりと解く。
 まるで空気が抜けるように肩を落とすエヴァリオに、歩み寄る上官は言った。
「馬鹿者が。 自重しろ」
「――申し訳ありませんでした」
 俯いたままの己の部下を睨みつけながら、しかし上官は小さく溜息をつく。 そしていつの間にかちらほらと集まり遠巻きに彼らを囲んでいた人影に聞かせまいとしてか、彼は更に一歩エヴァリオに近づくと、その声で静かに言い聞かせた。
「判らんでもない。 しかし頭を冷やせ。 本来一個人の失踪に、特捜が動いていた事の方が異常なのだ。 ヴィクレマ氏の捜索については、一度頭をリセットして考えろ。 いいな」
 そして励ますようにぽんとエヴァリオの肩を叩くと、上官は踵を返して建物の奥へと去っていった。
 その様子を見届けた人影達の輪が、三々五々ほどけていく。 その中心で、エヴァリオは小さく呟いた。
「――畜生」
「エヴァリオ……」
 傍らに立つロアルドが、絞り出すように彼の名を呼ぶ。 エヴァリオはゆるゆると首を振った。 虚ろな視線が床を彷徨っている。
「どうすればいいんだ。 これでもう兄さんを狩る者はいないと、喜べばいいのか? 本人は今もこの世界のどこかで、ギルドの影に怯えたままでいるかもしれないのに?」
「――――」
 ロアルドはかける言葉を見つけられない。 同僚がこぼし続ける声が、まるで行き場を失って術者に跳ね返っていく、呪詛のようだったから。
「何故、こんな事になるんだ。 兄さんの才能のせいか。 魔術師の好奇心が悪いのか。 論文を書いた奴がいけないのか。 それとも、最後まで兄さんの気持ちに気づけずに独り善がりな行動をした、僕が――」

 自分によく似た、しかし自分とは決定的に何かが違う、双子の兄の静かな面影がエヴァリオの脳裏に浮かぶ。
 へその緒を切られたような気分だった。 世界が彼に、後戻りのできない喪失感を押し付けてくる。

「畜生……」

 エヴァリオは、その生死すら定かでない兄を呼んでいる。
 張り裂けるような罵声の形を取ったその声が、硬いエントランスの空間に響いて砕けた。

「畜生!!」


to be continued
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