テノリライオン
BlueEyes RedSoul 8
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匿名ユーザー
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赤子が泣き叫ぶ声をバックに、ヒューイは思い切り地を蹴る。
その前に立ち塞がるは、総勢九匹中四匹のゴブリン。 彼の妻に傷を負わせ、幼い息子をかどわかした醜い獣人達が、我先にと得物を抜き放つ。 ろくに手入れされていない曲刀が三本、薄汚れた棍棒が一本。
赤魔道士の優雅な剣はそこに猛然と躍り込む。 鬼神の如き獰猛な輝きは、人の子たる彼の剣にこそ宿っていた。
ざわめく雑木林に閃く刃。 彼の代わりにどこかで鳥が高く啼いた。
ぐるぅ、と低く唸る手前の二匹が、大きく曲刀を振りかぶってヒューイを迎え撃つ。 普通の人間ならば咄嗟に身構える所だが、彼の目には既に二本の線が見えていた。 その曲刀がこれから走る軌道だ。
予備動作も何もなく、その線の上をヒューイは跳んだ。 ずんぐりと低いゴブリンの背の上を、その軌道の通りに空気を切る敵の刃の上を、彼は突風のように跳び越える。
膝を折ってずしりと着地する。 肩越しに鋭い視線が振り返る。 その時には既に限界までネジが巻かれている。
振り向きざま、彼の右手が水平に大きな弧を描いて奔った。 様々な材質がひしゃげ切れる音が雑木林に響く。
薙ぐ、などという上品なものではなかった。 一瞬で溜めた力の全てで、その鉄塊を敵へと叩き込む。 突きや切りを想定した細身の剣が悲鳴を上げんばかりの、オーガの如き粗暴な斬撃だ。
二匹の獣人の影は、赤魔道士に向き直る前に二つから四つになる――
* * *
それは祈る形にも似ていた。
デルフィーナは錠を下ろした家の中、小さなベッドの前に座り込んで俯き、胸の前でぎゅっと両手を握り締めている。 暮れ始めるオレンジ色の陽光がその細い背をさする。
彼女のアンテナは最大限に拡散していた。 ひたすらに神経を研ぎ澄まし、響いてくる心の声があればそれを聞き逃すまいと限界まで張り詰める。 夫の声を、息子の声を。
が、既に二人とも遙か遠くへ行ってしまったのだろうか。 どれだけ耳を澄ませても、焼けつくような思いで待つ声はこそとも聞こえてはこない。
途切れる事のない祈りの中、冷たい静寂が彼女の肺をきりきりと締め付ける。
この森の家に移り住んで、十年近く経つ。
その間一度たりとも見かけなかったゴブリンが、何故突然。 それがどうして赤子をさらう――
そんな疑問は、彼女の頭の奥底ですっかり押し潰されていた。
一呼吸ごとにデルフィーナは祈る。 名も知らぬ神に祈る。 あらゆるものに祈る。
何も聞こえない――
* * *
無骨な鈍器が空を切る。
仲間二匹を一太刀で真っ二つにしたヒュームの背へと、棍棒を持ったゴブリンは突進した。 低い身長を活かし、男の腰骨を狙って放ったその復讐の一撃を、獣人は疑っていなかった。
しかし男は、背中に目でもついているかのような反応で身を翻す。 その体の影から銀色の剣がまっすぐに突き出して来たかと思うと、まるで谷底の兎を狙う鷹の如きスピードと正確さで、それはゴブリンの革鎧の継ぎ目にずぶりと潜り込んだ。
鎧の中で、自分の喉笛が割り砕かれる。 ゴブリンは薄れゆく意識の中で、その光景と激痛を信じられない思いで見守っていた。
「――っ!」
喉元を串刺しにし絶命させたゴブリンを、ヒューイは邪魔だとばかりに思い切り蹴飛ばした。
そのずんぐりとした体が後ろに弾かれ、ずるっと剣が抜ける。 血糊を拭うような心の余裕はない。 魔物の赤黒い血が宙に細い弧を描く。
ぎぃん、と鋭い音が響いた。
来襲する四匹目のゴブリンが振り下ろした曲刀を、敵の血を纏った彼の細い剣が噛み付くように相手取ったのだ。 直角に交差した剣と剣が白い火花を散らし、一瞬――ほんの一瞬だけ、世界が膠着した。
「グゥ――」
ぎりぎりと押される剣に力を込めながら、ゴブリンは震えるように唸った。 汚れたマスクの奥で知性に乏しい目が揺らいでいるのは、目の前で交差する十字の向こうから睨み下ろす、火炎のような瞳が圧倒するから。
それは、怒りよりも憎しみよりも闘志よりも――疑っていない目だった。
敵であるゴブリンを、魔物達を倒し切る事を、微塵も疑わずに決定し終わった目。 その目が、同胞の血で塗れた剣の向こうで告げるから。
失せろ――と。
「らぁっ!」
赤魔道士の口から雄叫びが迸る。 瞬間、彼の剣が破裂したような錯覚をゴブリンは覚えて――その時には、もうその体は弾き飛ばされている。
爆ぜるように地を蹴り、自分が打った球 を追うヒューイ。
無防備に宙を舞うゴブリンの体に彼はやすやす追い付くと、その下でぴゅんと剣を振る。
空中で、獣人の首と胴体が鮮やかに別れを告げた。
どさりと落下する敵の体を背に、赤魔道士は素早く踵を返す。
彼の息子を抱えているものを含め、残るは五匹。 身構える魔物の集団へと、ヒューイは迷わず突進した。
その五匹は、突如乱入してきたヒュームが瞬く間に仲間の四匹を葬り去ったのを目撃している。 それはまるで、殺戮以外にどんな機能も持たないマシンが暴走したような、凄惨極まりない光景だった。
が、愚かな獣人は退くという事を知らない。 濁った叫び声を交わしつつばらばらと対峙の姿勢を見せ、曲刀や短剣を振りかざして大地を蹴る。
その背後で赤子を抱えたままのゴブリンの隣、うち一匹が何やらもごもごと呪文を唱え始めるのを、ヒューイは極限まで研ぎ澄まされた目の端で捕らえた。
――何をするつもりか。
ヒューイは眉を吊り上げる。 自分に対してならいざ知らず、息子に何か危害を加える――あるいは空間を移動して逃げる術などを、使わせる訳にはいかない。 使わせるものか。
彼の中で、ばちんと次のスイッチが入った。 金髪の赤魔道士は駆ける足を止めると、体内に眠らせていた魔性を大気にぶちまけるように解放した。
凍り付くように風が止まる。 一瞬で空気の味が変わる。 その一帯の空間に働く全ての法則が彼の支配下に置かれたような、正体不明の圧迫感と閉塞感がゴブリン達を襲った。
その変化を最も敏感に峻烈に感じ取ったのは、呪文を操っていたゴブリンだ。 魔物は軽い恐慌をきたす。
まるで自身の魔力が、目の前の赤魔道士のそれと触れる端から同化し取り込まれていくような未知の感覚に、獣人は混乱する。
――食ワ、レル――?
怖気の立つような気配にゴブリンの視野が暗く狭まる。 怯む舌が凍り、呪文がぴたりと止んだ。 そう、もはやこの一手だけで、ヒューイの目的は達されていた。
しかし油断はできない。 そう思った赤魔道士は追い打ちに入る。 彼は呼吸をするように、大気に満ちる力を吸い上げた。
その瞬間。
ずっと響いていた、赤子のいたいけな泣き声がいつのまにか聞こえなくなっている事に、ヒューイは気付いた。
氷のような悪寒を浴びて彼は息を呑む。 見開いた視線を、獣人の小脇に抱えられた息子へと転ずる。
そして――凝固した。
「――――!?」
涙に濡れた小さな顔が、ぴたりと父親に向けられていた。
それは、世界を塗り替える宴の始まり――
宝石のような瞳の青はいよいよ深く、光も闇も正も邪も、あらゆるものをあるがままに映し出す。
それが、赤魔道士の挙動を視ていた。 食い入るように視ていた。
ヒューイが満たした空間、魔力の渕。 その中で、妻と同じ色の瞳がくっきりと輝いている。 溢れ渦巻く圧倒的な力の中で溺れもせず融けもせず、目覚めるように貪るように彼を見上げる息子の目――
その刹那、二人を取り巻く魔物達は風景に埋もれる。
互いを映す親子の瞳。 黒が青へ。 青が黒を。 青いカイトが一つ、まばたきをする。
どうした事か。 取り込んだはずの空間の中で、ヒューイは己こそが何かに囚われていくような感覚を覚えていたのだ。
体の奥底から湧き上がる無限の世界。 二つの魂が起こす音無き共鳴に震え、ヒューイは心の中で遠吠えのように叫んだ。
――ああ、フィーナ。 デルフィーナ。
君の心配は、君の思いは、当たっていたのか――
そんな内なる声の狭間に、彼の体に生じていたのは――隙。
「――ぐあ」
突如みぞおちを襲う衝撃に、ヒューイの世界は一瞬で青以外の色を取り戻した。
大きくぶれる瞳に映るのは、そこにあっさりと突き立てられた曲刀。
霧がかる耳に聞こえるのは、耳障りなゴブリン達の勝ち鬨。
「――!!」
砕かんばかりに歯を食いしばり、激痛に飛びそうになる意識を食い止めた。 自分の急所を襲った曲刀の背をむんずと掴み、後ずさりながら一気に引き抜く。 鮮血が吹き出る。 あまりの激痛に苦悶の声すら上げられず、急速に暗くなる視界を必死で振り払う。
よろけるように数歩後退しながら、気力で振り上げようとする細身の剣が奪われた。 ゴブリンの得物に弾かれた銀色の戦友は、音叉のような響きと共に弧を描いて木立の中へと消えていく。
「お……!!」
ボムが震える響きにも似た、地の底から湧き上がるような短い呻き声を、徒手空拳となったヒューイは迸らせる。 その声を呪文とするように、彼の腹の底から力が、魔力が、マグマのように膨れ上がり突き上げた――が、その腹部にゴブリンの殴打が襲いかかる。 弾き飛ばされ木の幹に叩き付けられる彼の体。
反射的に吸い込もうとする息を、気管からどっと溢れ出る血が阻んだ。 また衝撃。 愉快げに振るわれる敵の曲刀が、ざっくりと彼の脇腹に食い込む。
流れ出る鮮血と一緒に、みるみる失われていく四肢の力。 もはや気力だけで支えている彼の体を、とどめとばかりに叩き付けるようなかまいたちが襲った。 彼の脅威から体勢を立て直したゴブリンの呪文だ。
無数の見えない刃物は、彼の皮膚を思うさま切り裂いて踊る。 彼の体は一秒ごとに新たな紅色を纏い、その色彩に翻弄され崩れ落ちるように、ついに赤魔道士はがくりと大地に膝をついた――
獣人達のけたたましいわめき声の向こう。
ささやかなはずの梢のざわめきが、いつしか彼の全身を包んでいた。
―― 重要なのは、どう育つかだよ…… ――
その中で、先日デルフィーナと交わした会話が蘇る。 苦痛と一緒に遠ざかっていく意識の中、頬に大地の温もりを感じながら、ヒューイの心は狂おしくもがいていた。
為す術無く地に斃れている己を罵る。 帰りを待つ妻に詫びる。 魔物の手に落ちた息子を案じ、そして刻々と冷えていく全身で彼は祈っていた。
――神よ――
――どうか、我が子の命を――
――人としての、未来を――!!
その祈りに捧げるように、繋ぎ止めるシグネットもない彼の魂は急速に空へと召し上げられていく。
開かない瞼の裏、愛するものの姿が次々とフラッシュした。 石造りの家と小さな揺りかご。 彼にとっては幸せを意味した、美しい青い色がいっぱいに広がる。 それはそのまま、故郷 の空の色になった。
その景色の中に、金髪の青年が立っている。 懐かしい顔は、息子とは違う意味で血を分けた存在――双子の弟。
ヒューイはその姿に手を伸ばす。 切なくすがるように手を伸ばす。
迸る思いの奔流はあまりに強く速く、その飛沫の一つすら言葉になれずに時と共に散っていくばかりだ。
それでも彼の唇は、ゆっくりと色を失いながらもかすかに動いていた。
頼む、という形に――――
* * *
「――? どうした、エヴァリオ」
「いや……」
金色の髪を持つ同僚が、東の地平をじっと見ている。
星でも流れたかと、彼の隣でロアルドは茜の空を見上げた。
優しく暮れ始めるウィンダスの空。
双子の弟は、まるで時を止められたように、その暖かいオレンジ色にいつまでも瞳を注いでいた。
* * *
白んでいく朝の光の絶望的な眩しさに、初めてカーテンを閉めていなかった事に気付く。
「――――」
当然の如く一睡もできないまま、デルフィーナはテーブルから泣き腫らした顔を上げた。
疲れ果てた体をひきずるようにゆっくりと立ち上がる。 長い髪がほつれる。 少しふらついた。
夫は心配するなと言った。 家で待っていろと言った。
けれど、その夫がまる一晩戻らない朝の光に照らされては、彼女はもうその刻々と身を刻むような苦行に耐える事はできなかった。
明るくなった家の中に止まったままの、冷たい夜の静寂。 その落差が恐ろしい。 何かせずにはいられない。
デルフィーナはふらふらと頼りない足取りで、火の気の消えた家を後にした。
* * *
教会の窓から斜めに射し込む光にも似た、神々しいような木漏れ日の縞模様が注ぐ。 その輝きを力ずくで希望に変えながら、デルフィーナは木立の間を宛てもなくさまよった。
光から影へ、影から光へと、まるで夜のうちに冥界に帰り損ねて彷徨う亡霊のように。
兎が茂みを揺らすたび、低い木の影が覗くたび、彼女は息を呑んでそこに駆け寄る。
が、そんな失望を何十回と重ねても、息子を抱いた夫の姿は現れない。 その度にデルフィーナの消耗しきった神経は少しずつ焼き切れていく。
希望に溢れた清浄な光は、徐々に高く濃くなる。 凡庸な日常の光にその身分を落としていく。
日常の中には家族がいなければならないのだ。 家族は彼女の元に帰ってこなければならないのだ。
ひたすらそれだけを念じて、デルフィーナは震える足を動かし続ける。
一人ぼっちに戻りたくないのではない。 幼くして両親を亡くし、若くして生家を追われ。 そんな長い孤独の末に得た、かけがえのない存在だ。 それをまた失うなどという悲劇に、どうして耐えられようか――
「あなた……カイト……」
知らず漏れる声は、木々の狭間に点々と。 まるで終わってしまったかくれんぼのように。
ひたすら歩いた。 ひたすら呼んだ。 返事はない。 何もない。
がさがさと茂みをかき分けて抜ける。 長い髪が乱れ放題に乱れ、衣服には木の葉がまとわりつく。 小枝にひっかかって、鉤裂きができる。
激しい焦燥に蝕まれ麻痺する彼女の心は、無意識に雑木林全体を探っていた。 心あるものの存在を見つけてはそれを覗き込み、家族の証を探す。 ごくまれに関知する人間は勿論、動物と言わず魔物と言わず、触れる意識の全てを次々と貪るように読み取っていく。
そうして息を切らして森をさまよう彼女の心を、いくつもの他人の声が縦横無尽に反響し続ける。
目の奥がちりちりと痛み出していた。 乗り物酔いにかかったように気持ちが悪い。
自分の力に気付いてからずっと、努めてその力を抑え、使うまいとしてきたデルフィーナ。 自ら進んで他者の意識を――それもこうまで無差別に、そして立て続けに――引き込むなど、かつてしたことがなかった。
押し寄せ受け容れ続ける心の声。 その怒濤は、小さなろうそくに吹くサラマンダーの火炎。 芦の堤防を襲うリヴァイアサンの洪水。
デルフィーナの中で、次第に、何かの境界線が崩れ始める。 壊れ始める――
いつしか彼女は海岸に出ていた。
人気のない砂浜をぐるりと見渡す、疲れ切って虚ろな彼女の目に、遠い町の屋根が映った。
――誰か、姿を見た人がいるかもしれない。 聞きたい。 何でもいい、手がかりになる事を――
熱病にかかった犬のような足取りで、デルフィーナはかつて暮らした小さな町を目指す。
* * *
「おい、あれ――」
「ああ? 何だ……?」
町民達がひそひそとささめき合う。
普段町に買い出しに来る時、彼女は人目を忍ぶように裏通りを縫って、その用事を済ませていた。
今、憚 ることなく町の大通りを行く彼女の姿を久々に見る上、あまつさえ何かに憑かれたようなその様子に、彼女に声を掛けようとする者はいなかった。
奇妙に静まり返る町並み。
――うるさい。
頭痛をこらえるように眉間にしわを寄せ、デルフィーナは思う。
――どうして今日は、こんなに騒がしいの。
いくつもの好奇の眼差しが、無言で彼女に向けられている。 しん、と静まる通りで、彼女は煩わしそうに耳を塞いだ。
――私の事なんかいいの……あの人は……カイトは、どこ……?
よろよろと歩く。 石に蹴つまずく。 絡まった髪が頼りなく揺れる。 さまよう目の焦点が合っていない。 彼女の頭の中で、がんがんと人の声が鳴り響いていた。
もはやスピーカーのスイッチは電源もボリュームもとっくに弾け飛んで、きっとあの雑木林の中に落ちている。
ねじ込まれるような色とりどりの思考の渦をかき分け続ける彼女は、そこに死に物狂いで夫と息子の気配を探す以外の機能を、すでに失っていた。
何をやってるんだ、あいつ――また何か災いが――「ほら、あれ」――いやだ、変な人――今日の夕飯、何にしようかしら――「帰ってきたの?」――なんだよ、いつまで待たせるんだ――「ちょっと、何よぉ」――あの人の好物が――もう帰らねぇと――帰らないと――どこに――どこへ――
洪水のような情報量に押しつぶされ、デルフィーナ自身の心の影は風前の灯火だ。 震えて霞がかる瞳は、鳴り続ける音が自分の外から来るものなのか、それとも自分の中で響いているものなのかをもはや見分けていない。
「デルフィーナちゃん!? どうしたの、あなた――?」
と、叫んで駆け寄ってくる人影が一つ。 それはデルフィーナがこの町を出る時に世話を焼いてくれた夫婦の妻だった。 彼女が贈ってくれた機織り機は、今もあの家でぴんと縦糸を張っている。
今にも倒れそうなデルフィーナの体を抱き止めながら、女性は覗き込むように言った。
「まあまあ、すっかり汚れて、一体……具合が悪いの? 顔が真っ青じゃない、少し休んで――」
「……カイト……」
「え?」
「うちの子を……主人を……見ませんでしたか」
熱にうかされたような声で切れ切れに呟くデルフィーナの瞳は、しかし目の前にいる女性を映していなかった。 その間もふらふらと揺らぐ彼女の体を支えながら訝しげに顔を曇らせ、女性は尋ねた。
「どうしたの? 旦那さんが、見あたらないの?」
「帰って、こないんです……カイトと一緒に、もう戻ってくるはずなのに……困ったわ、どこに行ったのかしら……」
あちこちに頼りなく視線をさまよわせながら、しかし何も見ていないような瞳で、おかしいわ、おかしいわと小さく繰り返すデルフィーナの様子に、女性は背筋に小さな悪寒を感じると言葉を詰まらせた。
その間にもぶつぶつと儚げな呟きは続く。
「ああ、どこか、遠くに行っちゃったのかしら……だめよ、早く帰ってきてくれないと……カイトに、ミルクを……ご飯だって、冷めてしまう……あの人の好きなものを、用意したのに……」
ふらりと、デルフィーナは自分を支える腕を離れた。 そのまま自分で自分を抱くようにして、彼女はまた歩き出す。
女性の、そして町民達の戸惑いの視線を背に受けながら、まるで足のないゴーストのように、歩き疲れた迷子のように、静まり返る大通りをふわり、ふわりと去っていく、細い影――
* * *
寄せては返す波の音が、優しくデルフィーナに語りかける。
海。
砂浜を踏み締めてよたよたと歩く白い足は、細かい傷に飾られている。
打ちひしがれ泣き疲れた、あどけない子供のような顔を上げて、デルフィーナは一人空を仰いだ。
暖かい太陽が、白い頬を照らす。
「……カイト……?」
彼女の耳に、何が聞こえたのだろうか。
その場に唯一響くのは絶え間ない潮騒。 さやかな波音を探るように、デルフィーナは細めた瞳で左右を見渡す。
「カイト……」
彼女のつま先が、波の跡を踏んで濡れる。
規則正しく、寄せては返す波の音。
それはまるで、生命の鼓動のように。 人の息遣いのように。 子供の寝息のように、泣き声のように――
「カイト……あなた……?」
―― いつか、俺の生まれ故郷へ、行ってみようか ――
そう……あの人は、確かそう言ったわ。
海からやって来たあの人。 こんなよく晴れた日に、あの人は海から生まれて――私の前に、現れた。
この海は、あの人の故郷に繋がってる――
さぁ……、と、波音は彼女に囁く。
ああ――そうか。
あの人は、一足先に故郷に行ったのね。 なら、きっとカイトも一緒だわ。 声がするもの。
ひどいわ、私だけ置いて、二人で行っちゃうなんて。
「私も――連れて行って――」
ぱしゃり。
「カイトが夜泣きしても……あなた、熟睡しちゃうと、目を覚まさないでしょう?……私も、一緒に行かないと……」
ぱしゃり――ぱしゃり――
波間の向こうに、優しい笑顔が浮かんで振り返る。 出会った時に着ていた、あれは紅い衣装だ。 彼のきれいな金髪によく似合うと、彼女はずっと思っていた。
その腕には、まだ綿毛のように薄い金色の髪の赤子を抱いている。 子猫のように甘える声が聞こえた。
ふわりと暖かい海風が吹く。 腰まで浸かった水面からつうと手を上げ、青い瞳のデルフィーナは、嬉しそうに幸せそうに微笑んだ。 陽の光を弾いて水滴がきらきらときらめく。
「ね、三人で……行きましょう――」
* * *
人気のなくなった海岸。
海鳥が一羽、みゃあ、と鳴いて舞い上がる。 青く澄み渡る大空へ、高く、高く。
つややかな翼を広げるその白い姿は広がる雑木林を越え、黒くつぶらな瞳は遙かに遠い景色を映し出す。
彼らの暮らした、豊かな黄昏色の雑木林の彼方。
いくつもいくつも、人を圧するようにそびえる壮大な建造物、その全ての頂で。
高々と伸びる細い針が、鋭く天を目指し突き上げている。
その影はまるで、原始の誕生の力を秘める雷 を独り占めしようと足掻く、不遜な輩の墓標のようだった。
白い鳥は飛ぶ。
海を越え、森を越え、人の営みを越え。
遠く、遠く――遙か遠く――――
* * *
そして、五年の月日が流れる。
to be continued
その前に立ち塞がるは、総勢九匹中四匹のゴブリン。 彼の妻に傷を負わせ、幼い息子をかどわかした醜い獣人達が、我先にと得物を抜き放つ。 ろくに手入れされていない曲刀が三本、薄汚れた棍棒が一本。
赤魔道士の優雅な剣はそこに猛然と躍り込む。 鬼神の如き獰猛な輝きは、人の子たる彼の剣にこそ宿っていた。
ざわめく雑木林に閃く刃。 彼の代わりにどこかで鳥が高く啼いた。
ぐるぅ、と低く唸る手前の二匹が、大きく曲刀を振りかぶってヒューイを迎え撃つ。 普通の人間ならば咄嗟に身構える所だが、彼の目には既に二本の線が見えていた。 その曲刀がこれから走る軌道だ。
予備動作も何もなく、その線の上をヒューイは跳んだ。 ずんぐりと低いゴブリンの背の上を、その軌道の通りに空気を切る敵の刃の上を、彼は突風のように跳び越える。
膝を折ってずしりと着地する。 肩越しに鋭い視線が振り返る。 その時には既に限界までネジが巻かれている。
振り向きざま、彼の右手が水平に大きな弧を描いて奔った。 様々な材質がひしゃげ切れる音が雑木林に響く。
薙ぐ、などという上品なものではなかった。 一瞬で溜めた力の全てで、その鉄塊を敵へと叩き込む。 突きや切りを想定した細身の剣が悲鳴を上げんばかりの、オーガの如き粗暴な斬撃だ。
二匹の獣人の影は、赤魔道士に向き直る前に二つから四つになる――
* * *
それは祈る形にも似ていた。
デルフィーナは錠を下ろした家の中、小さなベッドの前に座り込んで俯き、胸の前でぎゅっと両手を握り締めている。 暮れ始めるオレンジ色の陽光がその細い背をさする。
彼女のアンテナは最大限に拡散していた。 ひたすらに神経を研ぎ澄まし、響いてくる心の声があればそれを聞き逃すまいと限界まで張り詰める。 夫の声を、息子の声を。
が、既に二人とも遙か遠くへ行ってしまったのだろうか。 どれだけ耳を澄ませても、焼けつくような思いで待つ声はこそとも聞こえてはこない。
途切れる事のない祈りの中、冷たい静寂が彼女の肺をきりきりと締め付ける。
この森の家に移り住んで、十年近く経つ。
その間一度たりとも見かけなかったゴブリンが、何故突然。 それがどうして赤子をさらう――
そんな疑問は、彼女の頭の奥底ですっかり押し潰されていた。
一呼吸ごとにデルフィーナは祈る。 名も知らぬ神に祈る。 あらゆるものに祈る。
何も聞こえない――
* * *
無骨な鈍器が空を切る。
仲間二匹を一太刀で真っ二つにしたヒュームの背へと、棍棒を持ったゴブリンは突進した。 低い身長を活かし、男の腰骨を狙って放ったその復讐の一撃を、獣人は疑っていなかった。
しかし男は、背中に目でもついているかのような反応で身を翻す。 その体の影から銀色の剣がまっすぐに突き出して来たかと思うと、まるで谷底の兎を狙う鷹の如きスピードと正確さで、それはゴブリンの革鎧の継ぎ目にずぶりと潜り込んだ。
鎧の中で、自分の喉笛が割り砕かれる。 ゴブリンは薄れゆく意識の中で、その光景と激痛を信じられない思いで見守っていた。
「――っ!」
喉元を串刺しにし絶命させたゴブリンを、ヒューイは邪魔だとばかりに思い切り蹴飛ばした。
そのずんぐりとした体が後ろに弾かれ、ずるっと剣が抜ける。 血糊を拭うような心の余裕はない。 魔物の赤黒い血が宙に細い弧を描く。
ぎぃん、と鋭い音が響いた。
来襲する四匹目のゴブリンが振り下ろした曲刀を、敵の血を纏った彼の細い剣が噛み付くように相手取ったのだ。 直角に交差した剣と剣が白い火花を散らし、一瞬――ほんの一瞬だけ、世界が膠着した。
「グゥ――」
ぎりぎりと押される剣に力を込めながら、ゴブリンは震えるように唸った。 汚れたマスクの奥で知性に乏しい目が揺らいでいるのは、目の前で交差する十字の向こうから睨み下ろす、火炎のような瞳が圧倒するから。
それは、怒りよりも憎しみよりも闘志よりも――疑っていない目だった。
敵であるゴブリンを、魔物達を倒し切る事を、微塵も疑わずに決定し終わった目。 その目が、同胞の血で塗れた剣の向こうで告げるから。
失せろ――と。
「らぁっ!」
赤魔道士の口から雄叫びが迸る。 瞬間、彼の剣が破裂したような錯覚をゴブリンは覚えて――その時には、もうその体は弾き飛ばされている。
爆ぜるように地を蹴り、自分が打った
空中で、獣人の首と胴体が鮮やかに別れを告げた。
どさりと落下する敵の体を背に、赤魔道士は素早く踵を返す。
彼の息子を抱えているものを含め、残るは五匹。 身構える魔物の集団へと、ヒューイは迷わず突進した。
その五匹は、突如乱入してきたヒュームが瞬く間に仲間の四匹を葬り去ったのを目撃している。 それはまるで、殺戮以外にどんな機能も持たないマシンが暴走したような、凄惨極まりない光景だった。
が、愚かな獣人は退くという事を知らない。 濁った叫び声を交わしつつばらばらと対峙の姿勢を見せ、曲刀や短剣を振りかざして大地を蹴る。
その背後で赤子を抱えたままのゴブリンの隣、うち一匹が何やらもごもごと呪文を唱え始めるのを、ヒューイは極限まで研ぎ澄まされた目の端で捕らえた。
――何をするつもりか。
ヒューイは眉を吊り上げる。 自分に対してならいざ知らず、息子に何か危害を加える――あるいは空間を移動して逃げる術などを、使わせる訳にはいかない。 使わせるものか。
彼の中で、ばちんと次のスイッチが入った。 金髪の赤魔道士は駆ける足を止めると、体内に眠らせていた魔性を大気にぶちまけるように解放した。
凍り付くように風が止まる。 一瞬で空気の味が変わる。 その一帯の空間に働く全ての法則が彼の支配下に置かれたような、正体不明の圧迫感と閉塞感がゴブリン達を襲った。
その変化を最も敏感に峻烈に感じ取ったのは、呪文を操っていたゴブリンだ。 魔物は軽い恐慌をきたす。
まるで自身の魔力が、目の前の赤魔道士のそれと触れる端から同化し取り込まれていくような未知の感覚に、獣人は混乱する。
――食ワ、レル――?
怖気の立つような気配にゴブリンの視野が暗く狭まる。 怯む舌が凍り、呪文がぴたりと止んだ。 そう、もはやこの一手だけで、ヒューイの目的は達されていた。
しかし油断はできない。 そう思った赤魔道士は追い打ちに入る。 彼は呼吸をするように、大気に満ちる力を吸い上げた。
その瞬間。
ずっと響いていた、赤子のいたいけな泣き声がいつのまにか聞こえなくなっている事に、ヒューイは気付いた。
氷のような悪寒を浴びて彼は息を呑む。 見開いた視線を、獣人の小脇に抱えられた息子へと転ずる。
そして――凝固した。
「――――!?」
涙に濡れた小さな顔が、ぴたりと父親に向けられていた。
それは、世界を塗り替える宴の始まり――
宝石のような瞳の青はいよいよ深く、光も闇も正も邪も、あらゆるものをあるがままに映し出す。
それが、赤魔道士の挙動を視ていた。 食い入るように視ていた。
ヒューイが満たした空間、魔力の渕。 その中で、妻と同じ色の瞳がくっきりと輝いている。 溢れ渦巻く圧倒的な力の中で溺れもせず融けもせず、目覚めるように貪るように彼を見上げる息子の目――
その刹那、二人を取り巻く魔物達は風景に埋もれる。
互いを映す親子の瞳。 黒が青へ。 青が黒を。 青いカイトが一つ、まばたきをする。
どうした事か。 取り込んだはずの空間の中で、ヒューイは己こそが何かに囚われていくような感覚を覚えていたのだ。
体の奥底から湧き上がる無限の世界。 二つの魂が起こす音無き共鳴に震え、ヒューイは心の中で遠吠えのように叫んだ。
――ああ、フィーナ。 デルフィーナ。
君の心配は、君の思いは、当たっていたのか――
そんな内なる声の狭間に、彼の体に生じていたのは――隙。
「――ぐあ」
突如みぞおちを襲う衝撃に、ヒューイの世界は一瞬で青以外の色を取り戻した。
大きくぶれる瞳に映るのは、そこにあっさりと突き立てられた曲刀。
霧がかる耳に聞こえるのは、耳障りなゴブリン達の勝ち鬨。
「――!!」
砕かんばかりに歯を食いしばり、激痛に飛びそうになる意識を食い止めた。 自分の急所を襲った曲刀の背をむんずと掴み、後ずさりながら一気に引き抜く。 鮮血が吹き出る。 あまりの激痛に苦悶の声すら上げられず、急速に暗くなる視界を必死で振り払う。
よろけるように数歩後退しながら、気力で振り上げようとする細身の剣が奪われた。 ゴブリンの得物に弾かれた銀色の戦友は、音叉のような響きと共に弧を描いて木立の中へと消えていく。
「お……!!」
ボムが震える響きにも似た、地の底から湧き上がるような短い呻き声を、徒手空拳となったヒューイは迸らせる。 その声を呪文とするように、彼の腹の底から力が、魔力が、マグマのように膨れ上がり突き上げた――が、その腹部にゴブリンの殴打が襲いかかる。 弾き飛ばされ木の幹に叩き付けられる彼の体。
反射的に吸い込もうとする息を、気管からどっと溢れ出る血が阻んだ。 また衝撃。 愉快げに振るわれる敵の曲刀が、ざっくりと彼の脇腹に食い込む。
流れ出る鮮血と一緒に、みるみる失われていく四肢の力。 もはや気力だけで支えている彼の体を、とどめとばかりに叩き付けるようなかまいたちが襲った。 彼の脅威から体勢を立て直したゴブリンの呪文だ。
無数の見えない刃物は、彼の皮膚を思うさま切り裂いて踊る。 彼の体は一秒ごとに新たな紅色を纏い、その色彩に翻弄され崩れ落ちるように、ついに赤魔道士はがくりと大地に膝をついた――
獣人達のけたたましいわめき声の向こう。
ささやかなはずの梢のざわめきが、いつしか彼の全身を包んでいた。
―― 重要なのは、どう育つかだよ…… ――
その中で、先日デルフィーナと交わした会話が蘇る。 苦痛と一緒に遠ざかっていく意識の中、頬に大地の温もりを感じながら、ヒューイの心は狂おしくもがいていた。
為す術無く地に斃れている己を罵る。 帰りを待つ妻に詫びる。 魔物の手に落ちた息子を案じ、そして刻々と冷えていく全身で彼は祈っていた。
――神よ――
――どうか、我が子の命を――
――人としての、未来を――!!
その祈りに捧げるように、繋ぎ止めるシグネットもない彼の魂は急速に空へと召し上げられていく。
開かない瞼の裏、愛するものの姿が次々とフラッシュした。 石造りの家と小さな揺りかご。 彼にとっては幸せを意味した、美しい青い色がいっぱいに広がる。 それはそのまま、
その景色の中に、金髪の青年が立っている。 懐かしい顔は、息子とは違う意味で血を分けた存在――双子の弟。
ヒューイはその姿に手を伸ばす。 切なくすがるように手を伸ばす。
迸る思いの奔流はあまりに強く速く、その飛沫の一つすら言葉になれずに時と共に散っていくばかりだ。
それでも彼の唇は、ゆっくりと色を失いながらもかすかに動いていた。
頼む、という形に――――
* * *
「――? どうした、エヴァリオ」
「いや……」
金色の髪を持つ同僚が、東の地平をじっと見ている。
星でも流れたかと、彼の隣でロアルドは茜の空を見上げた。
優しく暮れ始めるウィンダスの空。
双子の弟は、まるで時を止められたように、その暖かいオレンジ色にいつまでも瞳を注いでいた。
* * *
白んでいく朝の光の絶望的な眩しさに、初めてカーテンを閉めていなかった事に気付く。
「――――」
当然の如く一睡もできないまま、デルフィーナはテーブルから泣き腫らした顔を上げた。
疲れ果てた体をひきずるようにゆっくりと立ち上がる。 長い髪がほつれる。 少しふらついた。
夫は心配するなと言った。 家で待っていろと言った。
けれど、その夫がまる一晩戻らない朝の光に照らされては、彼女はもうその刻々と身を刻むような苦行に耐える事はできなかった。
明るくなった家の中に止まったままの、冷たい夜の静寂。 その落差が恐ろしい。 何かせずにはいられない。
デルフィーナはふらふらと頼りない足取りで、火の気の消えた家を後にした。
* * *
教会の窓から斜めに射し込む光にも似た、神々しいような木漏れ日の縞模様が注ぐ。 その輝きを力ずくで希望に変えながら、デルフィーナは木立の間を宛てもなくさまよった。
光から影へ、影から光へと、まるで夜のうちに冥界に帰り損ねて彷徨う亡霊のように。
兎が茂みを揺らすたび、低い木の影が覗くたび、彼女は息を呑んでそこに駆け寄る。
が、そんな失望を何十回と重ねても、息子を抱いた夫の姿は現れない。 その度にデルフィーナの消耗しきった神経は少しずつ焼き切れていく。
希望に溢れた清浄な光は、徐々に高く濃くなる。 凡庸な日常の光にその身分を落としていく。
日常の中には家族がいなければならないのだ。 家族は彼女の元に帰ってこなければならないのだ。
ひたすらそれだけを念じて、デルフィーナは震える足を動かし続ける。
一人ぼっちに戻りたくないのではない。 幼くして両親を亡くし、若くして生家を追われ。 そんな長い孤独の末に得た、かけがえのない存在だ。 それをまた失うなどという悲劇に、どうして耐えられようか――
「あなた……カイト……」
知らず漏れる声は、木々の狭間に点々と。 まるで終わってしまったかくれんぼのように。
ひたすら歩いた。 ひたすら呼んだ。 返事はない。 何もない。
がさがさと茂みをかき分けて抜ける。 長い髪が乱れ放題に乱れ、衣服には木の葉がまとわりつく。 小枝にひっかかって、鉤裂きができる。
激しい焦燥に蝕まれ麻痺する彼女の心は、無意識に雑木林全体を探っていた。 心あるものの存在を見つけてはそれを覗き込み、家族の証を探す。 ごくまれに関知する人間は勿論、動物と言わず魔物と言わず、触れる意識の全てを次々と貪るように読み取っていく。
そうして息を切らして森をさまよう彼女の心を、いくつもの他人の声が縦横無尽に反響し続ける。
目の奥がちりちりと痛み出していた。 乗り物酔いにかかったように気持ちが悪い。
自分の力に気付いてからずっと、努めてその力を抑え、使うまいとしてきたデルフィーナ。 自ら進んで他者の意識を――それもこうまで無差別に、そして立て続けに――引き込むなど、かつてしたことがなかった。
押し寄せ受け容れ続ける心の声。 その怒濤は、小さなろうそくに吹くサラマンダーの火炎。 芦の堤防を襲うリヴァイアサンの洪水。
デルフィーナの中で、次第に、何かの境界線が崩れ始める。 壊れ始める――
いつしか彼女は海岸に出ていた。
人気のない砂浜をぐるりと見渡す、疲れ切って虚ろな彼女の目に、遠い町の屋根が映った。
――誰か、姿を見た人がいるかもしれない。 聞きたい。 何でもいい、手がかりになる事を――
熱病にかかった犬のような足取りで、デルフィーナはかつて暮らした小さな町を目指す。
* * *
「おい、あれ――」
「ああ? 何だ……?」
町民達がひそひそとささめき合う。
普段町に買い出しに来る時、彼女は人目を忍ぶように裏通りを縫って、その用事を済ませていた。
今、
――うるさい。
頭痛をこらえるように眉間にしわを寄せ、デルフィーナは思う。
――どうして今日は、こんなに騒がしいの。
いくつもの好奇の眼差しが、無言で彼女に向けられている。 しん、と静まる通りで、彼女は煩わしそうに耳を塞いだ。
――私の事なんかいいの……あの人は……カイトは、どこ……?
よろよろと歩く。 石に蹴つまずく。 絡まった髪が頼りなく揺れる。 さまよう目の焦点が合っていない。 彼女の頭の中で、がんがんと人の声が鳴り響いていた。
もはやスピーカーのスイッチは電源もボリュームもとっくに弾け飛んで、きっとあの雑木林の中に落ちている。
ねじ込まれるような色とりどりの思考の渦をかき分け続ける彼女は、そこに死に物狂いで夫と息子の気配を探す以外の機能を、すでに失っていた。
何をやってるんだ、あいつ――また何か災いが――「ほら、あれ」――いやだ、変な人――今日の夕飯、何にしようかしら――「帰ってきたの?」――なんだよ、いつまで待たせるんだ――「ちょっと、何よぉ」――あの人の好物が――もう帰らねぇと――帰らないと――どこに――どこへ――
洪水のような情報量に押しつぶされ、デルフィーナ自身の心の影は風前の灯火だ。 震えて霞がかる瞳は、鳴り続ける音が自分の外から来るものなのか、それとも自分の中で響いているものなのかをもはや見分けていない。
「デルフィーナちゃん!? どうしたの、あなた――?」
と、叫んで駆け寄ってくる人影が一つ。 それはデルフィーナがこの町を出る時に世話を焼いてくれた夫婦の妻だった。 彼女が贈ってくれた機織り機は、今もあの家でぴんと縦糸を張っている。
今にも倒れそうなデルフィーナの体を抱き止めながら、女性は覗き込むように言った。
「まあまあ、すっかり汚れて、一体……具合が悪いの? 顔が真っ青じゃない、少し休んで――」
「……カイト……」
「え?」
「うちの子を……主人を……見ませんでしたか」
熱にうかされたような声で切れ切れに呟くデルフィーナの瞳は、しかし目の前にいる女性を映していなかった。 その間もふらふらと揺らぐ彼女の体を支えながら訝しげに顔を曇らせ、女性は尋ねた。
「どうしたの? 旦那さんが、見あたらないの?」
「帰って、こないんです……カイトと一緒に、もう戻ってくるはずなのに……困ったわ、どこに行ったのかしら……」
あちこちに頼りなく視線をさまよわせながら、しかし何も見ていないような瞳で、おかしいわ、おかしいわと小さく繰り返すデルフィーナの様子に、女性は背筋に小さな悪寒を感じると言葉を詰まらせた。
その間にもぶつぶつと儚げな呟きは続く。
「ああ、どこか、遠くに行っちゃったのかしら……だめよ、早く帰ってきてくれないと……カイトに、ミルクを……ご飯だって、冷めてしまう……あの人の好きなものを、用意したのに……」
ふらりと、デルフィーナは自分を支える腕を離れた。 そのまま自分で自分を抱くようにして、彼女はまた歩き出す。
女性の、そして町民達の戸惑いの視線を背に受けながら、まるで足のないゴーストのように、歩き疲れた迷子のように、静まり返る大通りをふわり、ふわりと去っていく、細い影――
* * *
寄せては返す波の音が、優しくデルフィーナに語りかける。
海。
砂浜を踏み締めてよたよたと歩く白い足は、細かい傷に飾られている。
打ちひしがれ泣き疲れた、あどけない子供のような顔を上げて、デルフィーナは一人空を仰いだ。
暖かい太陽が、白い頬を照らす。
「……カイト……?」
彼女の耳に、何が聞こえたのだろうか。
その場に唯一響くのは絶え間ない潮騒。 さやかな波音を探るように、デルフィーナは細めた瞳で左右を見渡す。
「カイト……」
彼女のつま先が、波の跡を踏んで濡れる。
規則正しく、寄せては返す波の音。
それはまるで、生命の鼓動のように。 人の息遣いのように。 子供の寝息のように、泣き声のように――
「カイト……あなた……?」
―― いつか、俺の生まれ故郷へ、行ってみようか ――
そう……あの人は、確かそう言ったわ。
海からやって来たあの人。 こんなよく晴れた日に、あの人は海から生まれて――私の前に、現れた。
この海は、あの人の故郷に繋がってる――
さぁ……、と、波音は彼女に囁く。
ああ――そうか。
あの人は、一足先に故郷に行ったのね。 なら、きっとカイトも一緒だわ。 声がするもの。
ひどいわ、私だけ置いて、二人で行っちゃうなんて。
「私も――連れて行って――」
ぱしゃり。
「カイトが夜泣きしても……あなた、熟睡しちゃうと、目を覚まさないでしょう?……私も、一緒に行かないと……」
ぱしゃり――ぱしゃり――
波間の向こうに、優しい笑顔が浮かんで振り返る。 出会った時に着ていた、あれは紅い衣装だ。 彼のきれいな金髪によく似合うと、彼女はずっと思っていた。
その腕には、まだ綿毛のように薄い金色の髪の赤子を抱いている。 子猫のように甘える声が聞こえた。
ふわりと暖かい海風が吹く。 腰まで浸かった水面からつうと手を上げ、青い瞳のデルフィーナは、嬉しそうに幸せそうに微笑んだ。 陽の光を弾いて水滴がきらきらときらめく。
「ね、三人で……行きましょう――」
* * *
人気のなくなった海岸。
海鳥が一羽、みゃあ、と鳴いて舞い上がる。 青く澄み渡る大空へ、高く、高く。
つややかな翼を広げるその白い姿は広がる雑木林を越え、黒くつぶらな瞳は遙かに遠い景色を映し出す。
彼らの暮らした、豊かな黄昏色の雑木林の彼方。
いくつもいくつも、人を圧するようにそびえる壮大な建造物、その全ての頂で。
高々と伸びる細い針が、鋭く天を目指し突き上げている。
その影はまるで、原始の誕生の力を秘める
白い鳥は飛ぶ。
海を越え、森を越え、人の営みを越え。
遠く、遠く――遙か遠く――――
* * *
そして、五年の月日が流れる。
to be continued