テノリライオン

BlueEyes RedSoul 9

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深緑色のマントが風に翻る。
 その裾を無造作に左手で払って、金色の髪は(そら)を見上げた。

 暗い石の色で統一された建造物はみな一様に背が高く、そのほぼ全ての先端には避雷針のような飾りを頂いて、美しい空の色を細く裂いていた。
 一体どんな意味があるのだろうか。 おかしな風習だ――ヒューム族の男はそう思って、自身の金髪に似た柔らかな太陽の光に目を細める。

「エヴァリオ」

 背後から掛けられた声に、彼は振り返った。 颯爽と歩いてくるその声の主は、彼と同じく深緑のマントを羽織った長身痩躯のエルヴァーン。 そびえる建造物と同じ灰色の石畳が敷き詰められた、まるで闘技場のようにのっぺりとした広場を背景に歩きながら、精悍な顎をくいとしゃくると彼は言った。
「認可が下りた。 行くぞ」
「ああ」
 男はそれに短く答えると、踵を返す。 マントが暖かい風をはらんでふわりと舞った。


  *  *  *


 アトルガン皇国。

 クォン大陸、ミンダルシア大陸の遙か東。 大海を挟み位置するこの辺境国家に、彼ら特捜部隊の精鋭を引き連れ、エヴァリオとロアルドは数日前に上陸した。
 主にノーグから流出が始まった、新しい麻薬の密輸――彼ら特捜の努力により、その生産地と総元締めがここアトルガンであるという疑惑がようやく固まった為だ。
 六年越しの調査だった。
 何しろどことも国交が無いのだ。 サンドリアともバストゥークともウィンダスとも、そしてジュノとすらも。
 クォン大陸にあるもうひとつの辺境――最近では主に冒険者の往来により幾分人の流れを取り戻してきたタブナジアのそれに更に輪を掛けて、地理的・文化的に疎遠であるのがこのアトルガン皇国だ。 そこに公の調査隊として乗り込む、その交渉と算段と手続きに、一体どれだけの時間と手間を費やしただろうか。 思い出すだけでエヴァリオは頭痛がする。

 そう、エヴァリオは結局、特捜部を辞める事はなかった。
 六年前。 兄の捜索を理不尽とも思える形で打ち切られ、一時期は自暴自棄になり単身兄を捜しに飛び出そうと辞表を書きかけた彼だったが、同僚であり親友でもあるロアルドに説得されてその手を止めた。

 ――利用できるものは利用しろ。 個人で得られる情報はたかが知れている。 一人で動くなら、辞めるんじゃなく、休め。 穴はできるだけ俺が埋めてやるから――

 エヴァリオは思い留まる。 力強い友の思い遣りに頭を垂れ、職務の傍らで難破船の情報を集める日々を始めた。 少しだけその言葉に甘え、席を空けて東に足を伸ばしもした。
 が――ひとつも収穫はないまま、彼の月日は過ぎていく。 文書の上でも人づてでも、エヴァリオに似た金髪の男性が現れたという情報にはついに出会わない。
 長い長い徒労に磨り減り、徐々に堤に穴があくように、彼の肩の力は抜け落ちていく。

 ――やはり、海に呑まれてしまったのだろうか。

 とうとうそんな諦めを抱き始めた三年目。 エヴァリオは、とある仕事でロアルドと同じ部隊に編成される。
 それは例の麻薬密輸ルートの捜査だった。 ロアルドがエヴァリオの兄の情報を得るきっかけともなった、ノーグを起点とする海賊達の暗躍に、本格的に制圧の手が入り始めたのだ。
 日々拡大する捜査の規模と難航する調査に、ロアルドを隊長、エヴァリオを副隊長とする彼らのチームは忙殺された。 葬儀の慌ただしさに離別の悲しみを一時奪われるように、エヴァリオは兄の探索を離れてその職務に没頭する事となる。
 そうして未知の国を相手取り、危険な橋を渡り、様々な紆余曲折を経て。
 彼らの部隊が、遙か遠い海を渡ったここアトルガン皇国本土の地を踏むまでには、更に三年近い時間を要したのだった――


  *  *  *


「……で? この奇妙な生き物は、何だ?」

 曖昧な朝と昼との境界線。
 皇都と外界を繋ぐ大きな門の下で、礼装用のマントを肩から外しながらエヴァリオは言った。 彼の視線は、集まった小隊長にてきぱきと伝令を伝えるロアルドの隣にちょこんと立つ『生き物』をじっと見ている。
「キキルンと言うそうだ」
 伝達を終え、彼と同じように深緑色のマントを無造作に外しながらロアルドは答えた。 これから先は、こんなずるずるした礼装は邪魔にしかならない。
「いや、名前もそうなんだが……」
 呼ばれた『生き物』のくりんとした目に見上げられ、エヴァリオは戸惑ったように呟く。 ぱっちりと大きなその目の瞳は、よく見れば猫のように縦長だった。 二人の前に集まった小隊長達も、興味深そうな視線をそれに注ぐ。

 背の丈は、エヴァリオの腰ぐらいまで。
 ネズミともぐらを足して二で割って直立歩行させたような、何ともコミカルな出で立ちをしている。
 細い手足の指は三本、揃って鋭く長い爪がついている。 つんと長い口と鼻の先に、線香花火のような髭がぴんぴんとのびる。 ララブにも似た細く長い耳にはいくつものピアス、ボレロのような上着、ぽこりと出たお腹にゆったりしたズボン。

「ああ、キキルンは名前じゃない。 キキルン族の、えーと……」
「トビン、いいます。 よろしく」
 ロアルドの言葉に、ネズミともぐらのあいの子がぺこりと頭を下げる。 口を利いた。
 ほお、という感嘆詞が小隊長達の間から漏れる。
「総督府からの紹介で、調査に同行してくれる事になった。 今の貴君らの驚きでも判るように、何しろ我々はここの風土に疎いからな。 何かあった時の指南役という訳だ。 各自失礼のないように」
「です」
 言ってトビンがまたぺこりと頭を下げた。 長い耳がぴょこんと揺れる。 バネ仕掛けのぬいぐるみのようで、少し面白い――と思ったのは、エヴァリオだけではあるまい。

「――で? まずはアラパゴ岩礁か」
 トビンの登場に和みかける雰囲気を引き締めるように、エヴァリオは帯剣を整えながらロアルドに確認した。
「そうだ。 話ではその他にも海賊の出入りする小規模な港はあるそうだが、やはり本拠地と呼べるのはアラパゴと思って間違いない」
 少し大きく、張りを持たせた隊長の声でロアルドは言う。 エヴァリオに答える形を取って、部下達にも聞かせているのだ。 当然、尋ねた当のエヴァリオもそのつもりである。

「ま、皆理解しているとは思うが。 今回、『調査』というのは穏便に過ぎる表現だ。 麻薬取り扱いの現場を直接押さえるのが最大の目的であり、既に伝えた通り抜刀も許可するものとする。 が、いつものごろつきどもだと思って油断するな。 本土と違い、ここでは土着の魔物がその仲間に混じっている事があるらしい」
「――それは、好戦的なタイプの?」
 表情を硬くした小隊長の一人が尋ねる。 と、ロアルドではなく、その足下から答える声が上がった。
「私、おしえます。 あぶないひと、あぶなくないひと。 キキルンは、あぶなくない。 だから襲わないで」
 トビンのたどたどしい言葉に、ロアルドは頷きながら言った。
「という事だ。 道中で遭遇するであろうものも含め、彼にこの地の魔物の識別をしてもらおうと思う。 アラパゴに着くまでに、敵の特徴などをよく頭に叩き込んでおけ。 作戦に入ったら無駄な戦いなどはできないのだからな」
 それぞれに頷く部下達。 それを見てロアルドは背筋を伸ばすと、締めくくるように高らかに告げた。
「いずれにしても、無法者相手に遅れを取る事は許さん。 問題の薬物の違法性をアトルガン皇国側も認めた。 対象物を発見次第徹底的に取り締まるぞ。 往生際の悪い奴がいれば、遠慮なく張り倒してやれ」
 場に軽い緊張感が走る。 と、一転それを鼻で笑うように口の端を上げ、ただし――とロアルドは続けた。
「相手が見目麗しい女海賊だった場合に限り、最大限の敬意を払って丁寧に張り倒すように。 以上」

 男達は軽い笑い声を漏らし、彼らの肩からふっと余分な力が抜ける。 基本的には軽佻浮薄なこのエルヴァーンがよくやる手法に、エヴァリオは苦笑いを浮かべた。
「品のない奴だなぁ」
 部下達が出立準備に散っていく中、そう言うエヴァリオに悪びれもせずロアルドは楽しそうに言葉を返す。
「失敬な、フェミニストと呼んでもらいたいね」
「フェミニストねぇ。 見目麗しいなんていう余計な条件付加を一番嫌うのは、外ならぬ女性達だと思うが?」
「なに、自分がそうでないと本心から思っている女性なんぞこの世にいないさ、安心しろ」
 口の減らない同僚に、エヴァリオはやれやれと肩をすくめる。 足下で小さなトビンがひょこんと首をかしげていた。


  *  *  *


 ――何という景観だ。

 皇都を後にして数刻。 都を囲む森を抜け、一行は不思議な光に満たされた岩礁地帯へと足を踏み入れていた。
 エヴァリオは圧倒される思いでその空間を歩く。 ひやりと冷たい空気には、淀んだ潮の香りが混じっていた。 まるで夜光虫のような青とも緑ともつかない灯りが、水辺から生える背の高い植物に宿っている。
 地底深い鍾乳洞を思わせる、苔を纏い湿った岩々。 このぼんやりと月明かりにも似た、光の源はどこだろう――

「海蛇の洞窟をイメージして来たんだが……どちらかと言うと、聖地ジ・タを思い出すな」
 隣を歩くロアルドが、目を細めてぼそりと言った。 そうだな、とエヴァリオは頷く。
「ラミア、もういない。 だいじょうぶ」
 二人の前を先行して歩く部下に並ぶトビンが、子供のような声で言うのが聞こえた。 その言葉にロアルドは拍子抜けしたように呟く。
「何だ、もう終わりか。 あれはなかなか手応えがあっていい感じだったのに」
「……全く、遊びに来たんじゃないんだぞ。 見慣れないモンスターの相手をするのは神経がすり減る。 いらん危険を増やすのはご免だ」
 が、そう言うロアルドもエヴァリオも、身を包む装備には新しい傷のひとつもついていない。

 トビンが目ざとく見つけては指さして「これは仲良し、あれは危険」と教える魔物を観察し、時には襲いかかってくるそれをなぎ倒し排除する。
 敵にしてみれば多勢に無勢だ。 しかし、例えここにエヴァリオ一人しかいなかったとしても結果は同じだったに違いないという事を、その乱れもせず悠然としたままの彼の表情が物語っている。
 それは隣を歩くロアルドにしても同様だったが、彼に到っては複数の敵が来襲する度、そのうちの一匹とわざわざ一対一に持ち込んでは悠々と勝利を収めるという、一個隊を率いる隊長にあるまじき行為に及んでいるのであった。

 鼓膜を塞ぐように静まり返る洞窟を黙々と歩く。 と、前を行く部下達の後ろ姿が、不意に柔らかく輝いた。 温もりを感じさせるその色から見るに、どうやら一時的に洞窟を抜けたようだった。
 歩く二人とそれに続く隊員達が、次々とその中へ続く。
「ほう……これは」
 頭上に現れた青空を軽く仰いで、ロアルドが嘆息した。

 そこに広がっていたのは、穏やかな午後の日差しを受けてきらめく森林だった。 さわさわと梢を揺らす薫風が、岩窟を抜けてきた彼らにまとわりつく潮気を吹き払う。
 それはまるで、冷ややかな魔境の中に用意されたわずかな憩いの場のようで、彼らは思わず安堵の溜息を漏らす。 辺りを見回しても、草むらにちらほらと動くのは害をなさない可愛らしい魔物ばかりだった。

「よし、ここらで休憩を取るとしようか……トビン、ここなら大丈夫だよな?」
 幻想のように美しくても鬱々と閉ざされた洞窟から解放され、こっそりと伸びをする隊員達の気配を感じたエヴァリオは、少し離れた所に立つ道連れのキキルンにそう尋ねた。
 手元の地図を確認していたロアルドも、その声にトビンへと視線を向ける。

「…………」

 と。
 どうした事だろうか、先程まで元気に飛び回っていたトビンが、その場に置物のように固まっている。
「トビン?」
 聞こえなかっただろうかと、エヴァリオは再度声を掛ける。 すると、小さなキキルンはぴくんと飛び上がり、ぎこちなくエヴァリオにその瞳を向けて言った。
「……なんか、います……」
「何か――? どうした」

 怯えている。 エヴァリオは眉をひそめた。
 猫のように縦長なその瞳に、ここまでどんな魔物と出会っても見せる事のなかった、強い戸惑いと怯えが浮かんでいる。 部下達が一瞬で緊張を取り戻す中、彼は足早にトビンに歩み寄りながら訊いた。
「危険なものがいるのか? どっちだ」
 言いながら周囲を見回す。 トビンが長い爪のついた指を恐る恐る上げる。 木立の合間に背の高い草むら。
「あの……魔物、ないです。 つよい、も、ない……でも、思います、あぶない」
 線香花火のような髭がぴりぴりと震えている。 どうやら危険に対する恐怖と言うよりは、未知のものに対する警戒の色が強いようだ。
 いっそう文法が怪しくなるキキルンの言葉を背に、ロアルドと部下の数名がゆっくりとその茂みに近づいた。 静かに剣を抜き、抜き足で木立を回り込む。 エヴァリオは周囲に目を配りつつ、それを見守った。
 茂みの向こうにロアルドの姿が消える。 数瞬の沈黙。 そして。

「エヴァリオ!――っ?」

 同僚の奇妙な叫びが響いた。
 呼んでいるのか尋ねているのか、一瞬の混乱を含んだ語尾に、エヴァリオは地を蹴り声のした方へと駆け寄る――


  *  *  *


 後にエヴァリオ=ヴィクレマは語る。
 ――その子供は、デジャヴを纏っていたと。


  *  *  *


 部下の男達は緊張を解かないまま、しかし激しい戸惑いを漂わせてその場に立ち尽くしている。
 百戦錬磨の彼らの目の前に現れ、その動作を縛ったのは、見知らぬ生命体ではなかった。

 男の子。

 そう、年の頃なら五、六歳の――間違いなく、人の子だったのだ。
 驚いた事に、瞳が青い。 そこにいる誰一人として見た事のない、高貴なクリスタルにも似た空の色が、男達を強い警戒の色で睨んでいた。
 そしてその、少年と言うもまだ頼りない小さな体は――自身の身長に迫るばかりの、しかも見事に刃こぼれした――曲刀を携えていたのだ。 着ている衣服もまた曲刀同様にぼろぼろに破れ、見る影もなく汚れている。
 そこだけぽっかりと、大きな木漏れ日がまるでスポットライトのように照らす中。 男達の視線を全身に浴びるその子供の姿は、まるで浮浪児――いや、野生児だ。

 両者は沈黙の下に対峙する。 土色をまとわりつかせた子供は、威嚇するように相手をひたと見据えたまま何も言わない。 たったそれだけの反応を見せる小さな子供に気圧されるが如く、対する大人達は強い困惑の色を浮かべていた。
 何故なら、その強烈な困惑の原因はもう一つあって――

「……おい――エヴァリオ。 訊いていいか」
「…………」
「あれは――誰だ?」

 己の隣で呆然と立ち尽くすエヴァリオに、『あれ』から目を離さないまま、ロアルドは囁くようにそう尋ねた。
「……副、隊長、どの――?」
 背後から部下の声。 エヴァリオという人間の歴史と無縁な彼らですら、そう呟かずにはいられない。
 それほどまでに、その光景は――

 高くはないけれど、きれいに通った鼻筋。
 結んだ口元は、幼いながらに意志の強そうな印象を人に与えている。
 そして――伸び放題に伸びてはいるけれど、きっと風呂に入れて洗えば――光り輝くような、金色の、髪。

「お前……こんな所に、ガキがいたのか? いや、そんな馬鹿な話はないな。 てことは――てことは。 おい、まさか――」

 過酷な生活が、その体から子供らしいふくよかさを奪ったのだろうか。 代わりに宿る痛々しい精悍さが、子供の容貌を大人のそれに近づけている。
 しかしそれでもなお、しかしだからこそ、そこにあるのは。
 遙かな歳月を超えて鮮やかに蘇る、あの遠い面影――

「あ――あ」
 まるで、突然目の前にアルバムの中身をぶちまけられたようだった。
 その子供の容貌は、この多忙な数年間でエヴァリオの中に埋もれていった、いくつもの思いを次々と揺さぶり起こしていく。
 体がひとりでに震え出す。 魅入られたように、ふらりと彼はその子供へと一歩を踏み出した。

「……ぐぅ」

 と。
 その面影の中で唯一、かつそれ単体で美しい異彩を放つ、青い瞳が、唸った。
 敵意もあらわに小さな体を低く身構えて、喉の奥から絞るような、舌というものの存在をそもそも知らないような、それは明らかに獣じみた声。
 部下達に緊張の波が走る。 咄嗟に剣の柄に走りかける彼らの手を、待て、というロアルドの低い声が制した。 トビンがその足下に隠れて怯えている。

「君――名前は……?」
 小さな威嚇が聞こえているのかいないのか。 目の前の子供にそう問いかけながら、何かに憑かれたようにエヴァリオは進む。 ゆっくりとさしのべる手。 それはどこかすがりつくようだと、背後で静かに息を呑むロアルドは思った。
「ぐ、うぅ……」
 推定する年齢が正しければ、片言であっても言葉を話していい歳だ。 にも関わらず、返ってくる答えは完全に獣の色に染まっている。 狼がするように歯をむき出して、雷鳴にも似た低い唸りを響かせ続ける、小さな子供。
「人語を……」
 解さないのか、とロアルドは呟いた。
 手にはぼろぼろの剣。 威嚇の喉鳴り。 ああ、これではまるで――魔物(ゴブリン)じゃないか。

 木漏れ日のスポットライトの中、向かい合う二つの姿。
 片や輝かしい剣士の装備に身を包んだ男。 片や薄汚れ、野生の香りを強く放つ子供。
 何もかもが異なる。 しかし両者は――瓜二つだ。
 その対極と相似に、ロアルドは軽い目眩を覚える。 邂逅、という言葉が彼の脳裏をかすめた。

「名前を――」
 乞うように語りかけながら、エヴァリオはゆっくりと身をかがめた。 その瞬間。
「がぁっ!」
 叩き付けるような吠え声と共に、子供の持つ曲刀がぶんと奔った。 戦士の反射行動でエヴァリオの背は素早くしなる――が、その胸元からがりっという耳障りな音が響く。 僅かに行動の遅れた彼の鎧を、曲刀の切っ先がかすめたのだ。
「エヴァリオ!」
 彼を呼ぶロアルドの声は、しかし続く奇怪な現象にかき消された。
 子供が大きく息を吸ったかと思うと、それまでとは全く異なる甲高い音波をその口から迸らせたのだ。
「――っ!」
 ロアルドは思わず目を瞑り、空いた手で耳を塞ぐ。 しかしその何かをひっかくような怪音は、鼓膜よりも彼の体を直接揺さぶるものだった。 鉛を塗り込められたように不自然に重くなる筋肉。
(これは――!!)
 己に起こった現象そのものよりも、その感覚に覚えがある事に、ロアルドはぞっと総毛立つ。 再度友の名を叫ぼうと、閉じていた目を彼は慌てて開いた。 そして――目の前の光景に、声を失う。


  *  *  *


 後にエヴァリオ=ヴィクレマは語る。
 今度こそ――護るのだと。
 誰の手にも奪わせないと。


  *  *  *


「――そうなんだろう?」
 エヴァリオは囁いた。 訴えかけるような、泣いているような、切なる熱を帯びた囁き。
「なぁ、そうだと言ってくれ。 僕の目は誤魔化せないぞ。 間違えるもんか、他にいるもんか、こんな、こんなとんでもない事をやってのけるのは――」

 崩れるように地面に座り込んで、彼は目の前の子供をその腕に抱き締めていた。
 抗いわめきもがいていた幼な子は、耳元でヒュームの男が切々と訴える声に、急速に静かになっていく。

「ああ――やっと見つけた。 探していたんだ。 君の父さんを、僕はずっと、ずっと探していたんだよ……」
「エヴァリオ――」
 絞るように言い募りながら、子供を抱く手に力を込めるエヴァリオ。 細い腕が骨張っている。 子供特有の甘い匂いは、しみついた土と草の匂いに打ちのめされている。
 迷いなど見えないエヴァリオの背に、ロアルドはゆっくりと歩み寄る。 彼の足下から慌てて離れたトビンは、今度は側にいた部下の足下にそそくさと隠れた。

 先程までの粗暴さをすっかり潜めた子供は、今にも泣き出しそうな声と顔で愛おしげに自分をかき抱く男を不思議そうな目で見ていた。
 人間というものが己の主になる事を知らなかった子犬の顔で、何かを探るようにくんくんとその髪の匂いを嗅ぎ、そうしてじっと――その声に聞き入っている。
 よくよく見ればあどけない顔だ。 利発そうな眉の下で輝く青い瞳も、まるで小さなドロップのように可愛らしい潤いをたたえている。
 これまで見た事もない面差しの、それでいて親友にどうしようもなく似たその子供の様子を、しばしロアルドは何とも言えない眼差しで見下ろして。 そして一つ大きく息をつくと、腫れ物に触るように静かな声で言った。

「エヴァリオ……エヴァリオ。 いいか、落ち着け。 お前の考えている事はよく判る。 俺もまさかと思ったさ。 確かにこの子は驚くほどお前に生き写しだ。 それはすなわち、お前の兄貴に生き写しという事でもあるんだろう――が。 それでも、早計に過ぎるぞ。 大体もしそうだとして、どうしてこんな――」

 ――モンスターみたいな。
 その言葉を、ロアルドはかろうじて呑み込む。 エヴァリオの背はぴくりとも動かない。

「……とにかく。 早合点は危険だ。 気持ちは痛いほど判る。 しかしだな、この子の身元が判らない以上、お前が思い描くような――」
「例え、お前の言う通りだとしても」
 ようよう紡ぐロアルドの言葉を、エヴァリオの静かな声が止めた。
 ゆっくりと子供から体を離し、しかしその両手はしっかりと小さな肩を掴んで。 自身と同じ金髪を持つ子供の青い瞳から目を逸らさぬまま、揺るぎない声で彼は言った。

「僕は、この子を保護する」

 彼らを照らす木漏れ日が、ゆらゆらと踊った。 森の中を往く優しい風。
 何かの胞子だろうか。 妖精を思わせる小さなきらめき達が、風に乗って明るいスポットライトの中を横切っていく。
 エヴァリオは言った。
「済まない、ロアルド。 僕に、我が儘を言わせてくれ。 この任務が終わったら――僕は、このアトルガン皇国に残ろうと思う」
「な……に?」
 驚きに言葉を失う同僚を振り返りもせず、目の前の小さな子供を見つめながらエヴァリオは言葉を続ける。
「お前の言う事は正しいよ。 この子の名字なんか判りはしない。 この子の出自を調べようとすれば、それは生半可な事じゃないだろう。 でも」

 野生の子供が、エヴァリオを見上げる。
 どこか物問いたげな、何かもどかしそうな空気が、その乏しい表情にうっすらと滲み始めていた。
 それに優しく応えるように、エヴァリオは語り続ける。

「もう僕は、確信しているんだよ。 この子は、兄の子だ。 この事について僕と議論できる奴はこの世に居ない。 そんなものは、必要ない」

 困難で不条理で――ともすれば独り善がりな、理性や道理から程遠い言葉ばかりだと言うのに。
 エヴァリオの声は、表情は、何かを成し遂げたような安らぎと喜びに満ちている。
 説得することの意味を失ったロアルドの目から、ゆっくりと力が抜けていった。
 と――その時。

 エヴァリオに肩を抱かれ、完全に警戒を解いているように見えた小さな子供の体。
 そこから、ふわりと青白い光が湧き上がる。
「っ!?」
 ロアルドが眉を吊り上げ、息を呑む。 背後から、きぃっ、という怯えた悲鳴が聞こえた。 キキルンのトビンが上げた声だ。
 突然の怪異にもエヴァリオは動かない。 腰をかがめ子供の肩に両手を置いたまま、眩しそうな目でその変化をじっと見つめている。
 そして次の瞬間、青白い光は意思を持った。

「エヴァリオ!」
 ロアルドは叫ぶ。 まるで奔流のように跳ねた光が、目の前のエヴァリオをぐるりと包み込むように捉えたのだ。 にわかに木立がざわめいた。
 その中から漏れたかすかな呻き声をも呑み込み、彼を蹂躙するかの如く光は渦巻く。 背後で見守っていた部下達が再度気色ばむ中、トビンはきぃきぃと声を上げて転がるように更に後ろへと退いていった。
 不可思議な光に包まれるエヴァリオに、ロアルドが手を伸ばしかける。 するとその瞬間、それは素早く収束した。 そしてぐらりと傾ぐエヴァリオの体を蹴るように、強く凝固し輝く弾丸となった光は主の胸へとまっすぐに舞い戻り――消えた。

「エヴァリオ! エヴァリオ、大丈夫か!」
「――平気だ」
 梢の騒ぐ音が収まる。 緊迫した同僚の声に、ぎゅっと目を瞑っていたエヴァリオは唸るように答えた。 ゆっくりと息を吐いて彼は目を開き、伏せていた顔を上げ――青白い光を取り込んだ、子供の瞳を覗き込んだ。
 その場にいる全員の視線が、金色の髪の二人へと集まる。


 ――その変化を、我々は何を以て表せばよいのだろうか。

 持って生まれた力の故に、光満ちるアルタナの掌から闇へとこぼれ落ちたひとしずくは。
 持って生まれた力で、その長い闇の中を生き延びた。
 そして今再び、持って生まれたその力により、かつて抱かれていた光の世界へと這い戻るのだ。

 そこで彼は何を成すだろう。
 この世界に、一体どんな足跡を残して往くのだろうか。

 かつて混沌を映すように波打っていた、小さな青い瞳が凪いでいる。
 代わりにそこに、密かに輝くのは――

 エヴァリオは誓う。
 今度こそ、護るのだと。
 この青い存在が孤独に墜ちることなく、ヴァナ=ディールに注ぐ光の中で、健やかな歴史を紡ぐ為に――

「――――」
 金髪の子供の唇が、小さく開いた。
 獣の色を見事に廃し、そこからこぼれる幼い音色がまた一つ新たな証を立てるのを、彼は聞いた。


「……エ……ヴァ、リオ……」


 ――ああ、この声は――!

 決して口真似ではない。
 その響きを彼の名として()り、そうして呼んだ声だった。
 その奇跡に、そしてその懐かしい声に。
 双子の弟は、力の限りにその幼な子を抱き締める。
 彼の頬を一筋、熱い涙が伝って落ちた。

 祝福のような木漏れ日は、二人を包んで静かに揺れる。
 静かに揺れる――



  *  *  *



 天晶歴782年~789年。
 刻まれぬ古い史実は、アトルガン皇国の片隅で始まり、そして密かに終わりを告げた。


 伝説の青魔道士の祖、カイト=ヴィクレマが、最後に習 得(ラーニング)したもの。
 それは、人類の(わざ)。 人の武器、人の鎖、そして人の翼。

 それは、言葉であった――――


End
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