テノリライオン

ルルヴァードの息吹 2

最終更新:

匿名ユーザー

- view
管理者のみ編集可
 ――よう、死に損ない。


 間近で囁かれたその言葉に、一瞬にしてルカの時が停止する。
 一拍の、凍結――そして次の瞬間。 彼女の脳内の、記憶の引き出しとでも言うべきものを司る小人が、跳ね起きた。

 もう長いこと――そう、近頃やっと触らずに生きられるようになって、その取っ手にうっすらと埃が積もり始めていた、でも決して狭くない領域。 小人はそこに凄まじい勢いで飛びつくと、手当たり次第に全ての引き出しの中身を思考と感覚の空間にぶちまけ始める。
 暴力的に彼女の視界を埋め尽くす大量の記憶達。 そこに記されている、情報は。 情景は。

 薄暗く埃っぽい、シーフギルドの冷たい匂い。
 そこで請負う「仕事」。
 夜闇に紛れての、刃物の上を這うような気配の探り合い、鍵をこじ開ける感覚。
 時には紅く染まってしまう短剣と己の手。
 細い細い緊張感、意図的に乾かす計算機のような心、受け取る報酬。
 この声は――その頃の、同業者の一人。

 そして――最後の「仕事」――辿り着いた、暗い暗い大地の穴――

 ある時を境にもうずっと暖色系に安定していた心が、不意に浴びせられたたったの一言でみるみると刺々しい寒色系に塗り潰されていく。 冷たい瞳をした、かつての自分がはっきりと立ち上がって来るのが見える。
 その光景に覚えるあまりにやるせない絶望を、搾り出すような自分の声の冷たさが更に深める。

「――失礼ね。 死んだよ、確かに」
「はっ。 まぁ、見りゃ判るがな。 ずいぶんと丸くなったもんだ」

 語調は強くとも、その言葉の後の吐息までもが哀しく荒廃した彼女の答えを、男は鼻先で笑う。
 彼の言う通り、すぐ背後に人が忍び寄ってきたのを知覚し逃すなど、彼らの世界では手抜かり、怠慢、失態以外の何物でもない。
 ルカは自分から表情というものが失せているのを知る。 どちらも動くことはせず、低い声だけが両者の背中の間を往復している。 ゆっくりと棚に戻されるイヤリングは、鈍く細められたルカの目にはもはやただの石ころと金属の塊にしか映らない。

「噂じゃお前さん、何やら呪文書の回収で下手打って『処理』されたって聞いたんだがな。 話の尾ひれだけが泳いでたのか、それともギルドはお前には甘かったっつう事かい?」
「……そこらに美味しいネタは一つもないわよ、諦めな」
「おーやおや、愛想のねぇこった。 せっかく旧知の友の生還を喜んで声を掛けたってのによ」
 行間に満ち満ちたやりとり。 背後の男のおどけたような薄ら笑いの声が、だんだんとルカの神経を研ぎ澄まし、馴染み、そして逆撫でする。

「その件――まだ、生きてたりすんの」
 彼から出た『呪文書』という言葉を、ルカは聞き流せなかった。 否応無しに脳裏を短い白髪のエルヴァーンの姿がよぎり、どうにか素っ気なく抑えたつもりの声で彼女は聞く。
「あ? さぁな。 まぁ今のメインどころは薬に集中してるから違うんだろうよ、安心しな」
「薬――」
 どうやらルカとバルトの一件は、彼らギルドの間では既に風化しているものらしい。 その確信に対する安堵と、新たに出た『薬』という言葉に湧いた興味から、ルカの口から少し温度のある呟きがこぼれた。
 それをしっかりと聞いた男は、手持ちの情報からいくつかの邪推をしたのだろう。 何やら誘うような笑いを含んだ口調になって更に言葉を続ける。
「ああ、何でも化け物みてぇな治癒力の薬が開発されたって話だぜ。 俺も興味津々だが、まぁ今のところは当然のようにお偉いさんの独占になってるらしくガードが固い。 とはいえお前さんの件と違って、そこそこの信憑性のある噂だ。 積極的に動いてる奴もいるしな」

 わざわざ振り向いて見なくてもルカには判る。 男の顔が、「何だ、まだこっちの世界で働くつもりがあんのかい」と言わんばかりの、覗き込むようなにやにや笑いをたたえている。
 そんな彼らの背後に、二人連れの客がふらりと漂って来た。 その無邪気な邪魔者が通り過ぎるのを待つ沈黙を利用して、ルカは男のおせっかいな笑いを気配で完全に無視してみせる。
 が、そうしながらも、『仕事』に限りなく近いモードになっていた彼女の頭には、とある一つの思考がまとまり始めていた。

「――ま、お陰様で至って健康なんでね。 どうぞお気遣いなく」
 客達の気配が遠ざかったのを見計らいつつ、まとまった思考をゆっくりと腹に沈めながら、一転歌うような調子でルカはかつての仕事仲間にそう言ってみせた。
「ふぅん、もう欲はかきませんってか」
 先程までとは打って変わった、彼女の人を食ったような明るさに軽く鼻白む男の声音。 それを今度は元通りの低い声で突き放す。
「現状維持。 戻る気はないのよ。 ま、そっちはそっちで頑張れば」
「ほ、そうかい……。 まぁ、堅気にゃ堅気なりの苦労があらぁな。 じゃ、会えて嬉しかったぜ」

 自分の実益に関与するものは観察する。 そうでないものは興味の外。
 簡潔で懐かしい二元論に従って、軽くおどけたような言葉を最後に男の気配はあっさりと離れていった。


  *  *  *


 天晶堂の隅に、一人立ち尽くしたままの小柄なミスラ。 その瞳は、何も見ていない。

 微動だにしない後ろ姿は一見放心しているようだが、やや俯いた視線は放心どころか、木片に揉み込まれる鋭い錐さながらだ。 固い表情の奥に強く渦巻く思考の気配を察した者がいたならば、その者は敢えて彼女に近付こうとは露ほども思わなかったに違いない。

 ――どれだけそうしていたのだろうか。
「……っ!」
 ふと背後に自分を目指す足音を聞き取ったルカが、未だ体に残る警戒心に弾かれ、鋭い視線をその方向に投げつけた。

 と、そこにいたのは。
 彼女の思いもかけない鋭角な反応に驚き戸惑い、その肩に置こうとしたまま宙で凍りつかせた手が小さなホールドアップのような、黒いローブのエルヴァーン――バルト。
「あ……ああ」
 ルカは慌てて笑顔を作った。 しかし、古い引き出しから噴き出したままの大量の記憶たちを、一瞬で拭い去る事ができず。 口元と頬は咄嗟に笑えても、目がそれに失敗してしまっていた。
 どうかしたの、と目一杯心配そうな表情になって彼女に歩み寄るバルト。 あからさまに不安げなその様子に、今度こそルカから本当の笑みがにじみ出た。 ふっと体中の力が抜ける。
「……や、ごめんごめん、ボーっとしてた」
 彼女は屈託なくそう言うと、まだ不審げな彼の腕を取り、陳列棚の前に引き寄せる。
「ねね、これこれ、この赤いの。 可愛くない?」
 そう言いながら、ただの金属片からイヤリングに戻ったそれを指差し、ルカはにまっとバルトを見上げてみせた。
 その仕草に、彼の顔にも笑みが戻る。 そしてどれどれと、小さなイヤリングを手に取った。

 笑みを保ったままのルカの視線が、ふっと彼の顔のわずか下に降りる。
 少し開いた服の襟から覗く、大きな黒い傷跡――


  *  *  *


 バルトと共に寄宿舎へ戻ったルカは、「お昼までちょっと寝る」と言って布団に潜り込んだ。
 壁に向かって丸くなる。 背後で、バルトが本を片付ける音がしていた。


 ――化け物みてぇな治癒力の薬が、開発されたって話だぜ――

 ――当然のようにお偉いさんの独占になってるらしい――


 あの男のセリフが、頭の中をぐるぐると回っていた。 搾り出すように息を吐いて目を瞑る。

 約束、したのだ。
 男神プロマシアの手なる妖魔から受けた、黒い傷。 治らない傷。
 バルトの声を奪った傷。
 一緒に治そうと、一緒にいつかその手段を見つけ出そうと。 約束したのだ。
 なのに――

 憂いに沈むルカの心はいつしかベッドを離れ、しとしとと雨の降るベドーに浮かんでいた。 重い湿気の幕の向こう、赤く錆びた陰鬱な大地に、クゥダフが穿った小さな部屋がひとつある。
 そこは――そう、二人が、初めて会った場所だ。

 『黒魔術ギルドが隠し持っている、開錠の呪文書を奪ってくるように』

 数年前。 シーフギルドからそんな依頼を受けたルカが向かった先で、目的の呪文書を持っていた黒魔道士が、バルトだった。
 呪文書を渡せと迫るルカを、彼は冷静に拒絶した。 そしてこの呪文は開錠の為のものなどではなく、生き物の五感を奪う極めて危険な呪文であると、そして彼はそれを何とか制御すべく研究している所であり、絶対に手放す事はできないと言って、どんなに脅してもすかしても微動だにしなかった。
 ルカは今でもありありと思い出すことができる。 彼女の冷たい短剣に頚動脈を握られてなお、これは渡せませんと静かに言い放った、彼の後ろ姿を。

 が、ルカは、彼の証言によりギルドが彼女に隠していた真相を知ると同時に、その呪文書の奪回を放棄してしまった。 人を、無差別に光も音もない世界に引きずり込むような恐ろしい呪文の存在を受け入れる事が、彼女には到底できなかったのだ。
 自分の立場すら忘れ、ルカは憤った。 勢いでバルトに暴言を吐きもした。 そんな非人道的な呪文を扱うなんて、魔道士という人種は一体――と、声高に罵りもした。
 そして。

 結果、ルカはシーフギルドから抹消された。
 結果、バルトは黒魔道士ギルドから放逐された。

 極秘事項に相当する呪文の内容を知ってなお任務を遂行しなかったルカを「用済みの駒」と見なしたシーフギルドは、彼女をアンデッドモンスターの巣食う深い穴へと投棄したのだ。
 成す術なくそこでただ衰弱し、獲物となって食われるのを待つしかなかったルカ。 それをバルトは、探し出し助け上げた。
 聞けば彼は、ルカの罵りの言葉に研究の意志を翻し、黒魔道士ギルドからの破門を覚悟の上で、彼女が忌み嫌ったあの呪文書を焚書にして来たと言う。
 その上更に、そんな彼の行動に驚き呆れるルカが何故自分を助けてくれたのかと理由を問えば、それは「まだ貴方の笑顔を見ていないから」という大層ふざけたもので――


「――――」
 ルカは布団の中でもぞもぞとうつ伏せになると、枕に顔を埋めてこっそりと長い溜息をつく。

 そんな経緯がある以上。 既に呪文書の件はシーフギルド内では終わっているらしいとは言え、一度は彼を狙った組織にバルトを近づけるなどは言語道断だった。
 いや、彼に限らず、誰もあんな所には――

(上層部の独占する、薬か……)

 そして、既にギルドから「抜けた」彼女が、そんなコアな情報を生きたツテもなく集めるのはほぼ不可能に等しい。
 手間も時間も読めない、確実な情報が取れる率も低い。 そして嗅ぎ回れば嗅ぎ回るだけギルドにマークされてしまう可能性があり、時間をかければかけるだけ仲間にその行動を感付かれる、すなわち迷惑が及ぶ可能性があるだろう。
 となれば。 となれば――

(……ギャンブルは、趣味じゃないんだけどね)
 枕の中でルカは、不本意そうにふっと鼻で笑う。

 約束のうち、『二人で』という部分は、破ってしまうけれど。

 だからと言って、この話をみすみす見逃す事なんか、できない。

 そうよ。 やっと見つけた可能性の道が、きれいな靴では歩けない、細くて暗い泥道だというなら。
 その道がこっそりと私一人を指名してくれたのは、むしろ喜ぶべき事じゃないの――。

 しきりに眠りたがる重い体を、回り続ける頭が引き止めて離さない。 鈍く気だるい痺れが不満げに彼女を襲う。
 そんな中、意思が。 ゆっくりと形をとってゆく――


  *  *  *


「ルーーカーーー!! ゴハンいこぉーー!!」

 寄宿舎の扉の向こうから、静かな空気をめった打ちにするようなドリーの声が響いた。 テーブルで一人本を読んでいたバルトが、その子供のような呼ばわり声に思わず噴き出す。
 そのまま目を上げて、隣の部屋をひょいと覗き込む。 と、ルカは既にベッドから身を起こしている所だった。
 
 普段から僅かな物音でもきっちり目の覚める寝起きの良さを誇るくせに、起き抜けはとびきり機嫌の悪い彼女。
 呼ばれてすぐに起きていたのも、その表情が曇り気味なのもそのせいだろうと思って、ベッドから降りる彼女を確認したバルトは再び本に視線を戻したのだった。


  *  *  *


 深海の底のような寄宿舎。
 薄暗い部屋の中、あどけなく眠るバルトの枕元にうずくまっていたルカが、ゆっくりと立ち上がった。

 ゆるりと体の向きを変え、物音ひとつ立てず扉へと向かう。
 そっとノブを握る。 そのままほんの数秒俯いて立ち止まるそのうなじは、この部屋の空気をぎゅっと抱き締めているようだ。

 そして静かに扉を開けると、彼女は深海の底から、姿を消した。

 真白い月光が淡く照らすテーブルの上に、メモだけを残して――


to be continued
記事メニュー
ウィキ募集バナー