テノリライオン
ルルヴァードの息吹 3
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匿名ユーザー
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「古巣」というものに向かう時、人は誰でも、多かれ少なかれある種の感慨を抱くものだ。
良ければ懐かしさやくすぐったさを。 悪ければうしろめたさや寂しさを。
そして、以前の顔見知りはまだ居るだろうか、自分がいた頃とどう変わっているだろうかなどと思いを巡らせたり、懐かしい風景の断片を見つけては遠慮がちに胸の記憶と照らし合わせたりするのが世の常だ。 が。
「ふー……っ」
その「古巣」から請け負った強盗という仕事を半ばで放棄し、あまつさえ盗む対象物の情報を上層部が操作していたと知ってしまったことで存在を抹消されたはずのシーフが、わざわざその粛清からすり抜けた面をさらして再度その「古巣」に乗り込むなどという無謀かつ危険な場面に際して、そんな牧歌的な感慨などひとかけらだって湧く道理がなかった。
極限に近い緊張を抱えたルカの長い吐息を、夜が明けて間もない森の清冽な空気が冷やす。
ウィンダス連邦森の区、最北の外れの更に奥。 昼なおうっそうと茂る木々と岩壁の間に引き篭もって、寄り合い所のような質素な建物が一つある。
しかしそんな無難で控え目なたたずまいは、困った事に様式美というものだった。
シーフギルド。
その決して大きくない建物は、まさに文字通り「氷山の一角」である。
世間への露出度と実際の規模の比率をそのまま表すかのように、木造の素っ気ない建物の下には広大な地階が網の目のように張り巡らされ、昼夜を問わずその名に相応しい活動が行われているのだ。
数年前まで己が身を寄せていた闇の機関の扉を目の前にして、ルカはごくりと唾を飲んだ。
足を、洗った。
ギルドから弾き出され諦めのうちに死を待ちながら、最後の最後にバルトが運んでくれた生を掴んで暗い墓穴から逃げ出したルカ。
彼に貰った命だから、彼の為なら捨ててもいい――なんてのは、恩知らずな自己陶酔だ。 身を捨ててまでその声を取り戻してあげた所で、彼が喜ぶはずもない。 むしろそれは裏切り行為に相当する。
そう、頭では、判っていた。
あの日を境に。 彼女はそのまま彼に手を引かれて、太陽の昇る世界に身を移した。
彼がいて、そして友達が増えて、仲間が増えて――それまでは何となく遠目に無関心に眺めていた色々なものが、にわかに実体を伴って彼女を取り巻いた。
すると、彼女にとっては意外な事に、それは暖かかったのだ。 それはそれは居心地が良かったのだ。
自分が彼の隣でゆっくりと変質していく様を、毎日驚きの目で見ていた。
しかし。 だからと言って。
納得ずくでやっていた、あの頃の自分を、消すことはできない。 故に否定することもできない。
できないまま笑った。 できないまま受け入れてもらった。 本当の過去は隠したまま図々しくもこちら側に来てしまった自分が、いつ糾弾され追われるかと密かに怯えながら、それでも逃げ出すにはこの世界は甘すぎて。
「その時は、俺が一緒に怒られてあげますよ」
昼と夜の狭間で俯く彼女に、かつて彼はそう言って笑った。
それでようやく彼女は少し泣いて、そして半分だけ彼に預けた。 残りは胸の引き出しの、一番奥にしまい込んだ。
――その甘えの。 その弱さの代償が、きっとこれなのだろう。 この無謀にして皮肉な状況と、それでもそこに飛び込まずにはいられない、愚かな愚かな想いなのだろう。
でも。 でも――
「――私にしか、出来ないんだから……」
どうせ引き返す気がないのなら言い訳は不要だ。 最後には何が何でも彼の所に戻る為に、危険な迷いは捻じ伏せろ。
この仕事に相応しい、かつての自分を、舞台に引きずり上げろ――
ルカは再度、ぐいと目の前の扉を睨み据えて気持ちを切り替える。
まずはあの時の、自分を「クビ」にした、あの時の幹部と、接触を図るべし。
餌は自分自身だ。 とっくの昔に穴の底の亡者に食わせたはずの、捨て駒の再訪。
忘れられているか、無視されるか、確認の為に顔を出してくるか。 三択の確率はほぼ均等に三分の一と彼女は予想していた。 決して明るい賭けとは言えない。
その上、名乗った瞬間に新たに発生する二択がある。 裏切り者として再度、捕捉対象にされるか、否か。 どう考えても利口な賭けとは言えない。
それでも、一撃で切り込める手札を他に持たないルカは、きつく目を細めてその扉にぐっと手をかける。
「――勝負」
頭の中に残っていたスイッチを小さな呟きで一気に倒すと、彼女は扉を開けた。
* * *
ギャンブルの神様は、彼女の半ばやけっぱちな行動の方により興味をそそられたようだった。
「ロメロさん、居ますか」
木製の長椅子が並ぶ、待合室のような空間。 仕事の報酬を受け取りに来ているのであろうタルタルが一人いるっきりのその部屋をつかつかと突っ切り、かつてはそこで仕事を請け負っていた窓口の一つで、ルカは早口に目標の幹部の名を告げた。
「お名前は」
来るなり上層部の人間を指名する見覚えのないシーフに、冷たい視線を投げかける係官。
「アルカンジェロ。 取り次いでもらえば判るから」
三分の二のはったりを吐く。 と、なおも訝しげな係官を極力余裕の表情で見返すルカに、少なからず驚きの色を含む声が窓口の奥から与えられた。
「……これは、これは。 お元気そうですなあ」
――ツキを。 使い果たしてしまいそうだ――
かつてこのギルドで最後に見た、まさにその顔が、そこにはあった。 見間違うはずもない、相変わらずの胡散臭い愛想笑いと馬鹿丁寧な口調。 ルカの脳裏を苦い記憶が、ルカの体を新たな冷気が一瞬で駆け抜けた。
少し表情を引き締めて、顔を上げる。 ゆっくりと窓口を回り込んで自分の方に向かってくる、その昔彼女を地獄送りにしたヒューム族の幹部を、やはりゆっくりと歩いて彼女は迎えた。 深呼吸をこらえる。
「どうも」
「まさかまたお会いできるとは、思っておりませんでしたよ」
歩み寄るロメロの芝居がかるほどに大げさに広げられる両手が、見事に威嚇の役目を果たしている。
ルカは能面のような無表情だけを提示しながら、彼女が用意してきたそれと対を成すロジックが彼の中に組み上がるのを待っていた。 中途半端に手を進めては変則的な対応を迫られる。 どう転ぶにせよ、予測の範囲内で進めたいと彼女は願っていた。
掴んだ幸運は丁寧に扱わなければならない。
ほんの一秒で、さて、といった感じの慇懃な笑顔がロメロの顔に浮かぶ。 スタートだ。
「――あのゴミ箱、残念ながら穴があいてたわよ」
「おや。 そんな筈はないんですけどねぇ」
幹部の男は大仰に首をかしげて見せる。
「わざわざゴミ箱からゴミを拾う、酔狂な方でもいらしたのかと思いましたよ」
「あんな見つけにくいゴミ箱をわざわざ漁ってくれるような親切な人を雇ってるのかしら、ここは」
彼は言葉の代わりに鼻で笑う。 一拍の、間。
「どうかしら。 きれい好きな人たちに、修繕の依頼を出してあげても?」
ロメロの眉が、ぴくりと動いた。 ルカを見下ろすにこやかな彼の視線に含まれる棘が、数本増える。
「それともゴミの方に、あそこに行ったらお行儀良く収まってるよう先輩として進言でもして差し上げましょうか――」
平たく言えば、『表の機関やギルドメンバーに、あの粛清の穴の存在をバラされたくなければ……』という一種の、そして精一杯の脅迫である。
「そういったお気遣いは無用なんですがねぇ……」
ロメロはやれやれといった風に首を振る。 そしてさもさりげない口振りで、さらっと切り返した。
「そう言えば、あの時の黒魔道士さんはご健勝で?」
唯一武装できない個所に照準を当てられ、ルカの警戒が一段階跳ね上がった。 が、どうにか表情も気配も崩さずに済んだ。
ギルドの手から逃れて後、バルトの背後にも追っ手の気配を一切感じなかった事から、シーフギルドは彼の足取りを追う事まではしていない、とあらかじめルカは踏んでいた。
すなわちこれは、ベドーでの二人の会話を盗み聞いていたロメロの邪推――単なる揺さぶりの可能性が、圧倒的に高い。 ルカは慌てず騒がず、誰の事を言っているのか、と考えるような間をほんの一瞬だけ置いてから、熱のこもらない目でひょいと肩をすくめて言った。
「何よ、私の後に誰かがうまくやったんじゃないの」
平淡な発音。 気の抜けたような声音。 全身全霊でシラを切る。 そして再度、本題に戻すようにひたっと彼を見据えて返す。
ロメロは首をすくめてわざとらしく溜息をつくと、腕を組んでカウンターにもたれてみせた。笑っているのにもはや棘だらけの視線でルカを見下ろしたまま、その顎を僅かに上げて、細めた目でぴたりと口をつぐむ。
そのまま数秒流れる、傍から見れば不自然な沈黙の中。 彼の目が話の先を続けているのを彼女は読み取っていた。
『まぁいい。 一応、要求だけは聞いてやろうか』。 ルカはぐっと腹に力を入れる。
「上層部がとんでもなく優秀な薬をお持ちと聞いたわ。 分けてほしいんだけど」
「――はっ!」
ルカの前置きなし直球ストレートな言葉に、弾けるような笑いが幹部の男の口を突いた。
が、それは馬鹿にしたものでも呆れたものでもなく――いや、多少はその色合いも含んでいたが――むしろハプニングに興をそそられたような、思わず漏れてしまった笑い。
「これはまた。 そうですか、なるほど――いや、これはなかなか」
彼の愛想笑いが奇妙に崩れる。 そして意味のあるようでない言葉を並べながら、人目をはばかる形で部屋の更に隅へと移動した。 淡々とした表情を崩さずについていくルカ。
「そういうアプローチは決して嫌いではないですよ。 実に清々しい」
壁を背にくるりと振り返り、低く抑えた声で、しかしさも愉快そうにロメロは言った。
「今日はわたくし、少々機嫌が良いものでしてね。 それもあなたの運のうちなのでしょう。 判りました、その運と――あそこから這い上がってきた事に敬意を表して、ここは一つ応じて差し上げましょうか」
「――有難い話だわ」
釣れた。 が、詰めで気を抜くな。 落とし穴を見逃すな。 冷静に。
ルカは頭の中で自分に向かって絶え間なく唱えながら、はやる心をぐっと抑えた。 ロメロが続ける。
「ただ、残念ながらご希望のものは、ここでお売りできる性質のものではありません。 そちらから出向いて頂く事になりますので――」
彼の視線が、再度すっと鋭く細くなる。
「例によって他言無用、そこでの話が漏れたらあなたに嫌疑をかけます。 よろしいですね」
「勿論」
ルカが低く答えると、何が可笑しいのか彼はくつくつと笑い出した。
「……いや、失礼。 この件を嗅ぎ付けてうろつく動きが出始めているのは知っていましたが」
まだ笑う。 ルカは無表情でそれをも観察する。
「ここまで直球で来たのは、あなたが初めてですよ……実に、面白い」
ようやく彼はふっ、ふっと笑いを収めると、改めてルカに視線を送った。 先程までよりも、心なしか温度が低い。 無力な小動物を見るような眼差しだ――と彼女は思った。
「海蛇の奥です。 うちが警備を担当しています。 ――後は、お好きにどうぞ」
極限まで小さな声で、ロメロは早口に告げた――それは、恐らくほとんどのカードが伏せられたままの、終局だった。
それでもひとまずの成功に、心の中で大きく安堵するルカ。 が、うちが、という注釈に、思わずその瞳が翳る。 他にも噛んでいる組織があると言うのか――
「ありがとう」
それが聞ければ、こんな危険な所にもう用はない。 未練は言うに及ばず。 長居は無用とばかりに、ルカはくるりと踵を返した。
「どうぞお気をつけて――ああ」
と、その背中に心にもない言葉を送るロメロが、ふと呼び止めるような声を上げた。
「つかぬ事をお伺いしますが。 魔法の心得は、いかほどおありですかな」
「――――」
出口へと向かう足を止め、肩越しにゆっくりと彼を振り返るルカ。 質問の意図を読み取ろうとその表情を探るが、何やらまだ楽しそうなにやにや笑いだけから具体的な何かを掴むのはさすがに無理だった。
「……見ての通りだけど」
軽く捻られているルカの腰に下がる、二本の短剣。 忍者の技術を併せ持つ事を選んだシーフに、魔力の入る余地はない。
「そうですか。 いや、失礼しました。 では、お気をつけて」
またも吐く親切なセリフを最後に、今度こそ彼は全ての言葉を収める。 そのにこやかな笑顔に見送られて、ルカは足早にシーフギルドを後にした。
「……ではやはり、目的達成の暁にはタダでは済みませんね。 良くて廃人か……まぁ、抹消しなおす手間が省けて、何よりです」
茶色い髪のミスラが消えた扉に向かって、幹部の男は楽しげに呟いた。
to be continued
良ければ懐かしさやくすぐったさを。 悪ければうしろめたさや寂しさを。
そして、以前の顔見知りはまだ居るだろうか、自分がいた頃とどう変わっているだろうかなどと思いを巡らせたり、懐かしい風景の断片を見つけては遠慮がちに胸の記憶と照らし合わせたりするのが世の常だ。 が。
「ふー……っ」
その「古巣」から請け負った強盗という仕事を半ばで放棄し、あまつさえ盗む対象物の情報を上層部が操作していたと知ってしまったことで存在を抹消されたはずのシーフが、わざわざその粛清からすり抜けた面をさらして再度その「古巣」に乗り込むなどという無謀かつ危険な場面に際して、そんな牧歌的な感慨などひとかけらだって湧く道理がなかった。
極限に近い緊張を抱えたルカの長い吐息を、夜が明けて間もない森の清冽な空気が冷やす。
ウィンダス連邦森の区、最北の外れの更に奥。 昼なおうっそうと茂る木々と岩壁の間に引き篭もって、寄り合い所のような質素な建物が一つある。
しかしそんな無難で控え目なたたずまいは、困った事に様式美というものだった。
シーフギルド。
その決して大きくない建物は、まさに文字通り「氷山の一角」である。
世間への露出度と実際の規模の比率をそのまま表すかのように、木造の素っ気ない建物の下には広大な地階が網の目のように張り巡らされ、昼夜を問わずその名に相応しい活動が行われているのだ。
数年前まで己が身を寄せていた闇の機関の扉を目の前にして、ルカはごくりと唾を飲んだ。
足を、洗った。
ギルドから弾き出され諦めのうちに死を待ちながら、最後の最後にバルトが運んでくれた生を掴んで暗い墓穴から逃げ出したルカ。
彼に貰った命だから、彼の為なら捨ててもいい――なんてのは、恩知らずな自己陶酔だ。 身を捨ててまでその声を取り戻してあげた所で、彼が喜ぶはずもない。 むしろそれは裏切り行為に相当する。
そう、頭では、判っていた。
あの日を境に。 彼女はそのまま彼に手を引かれて、太陽の昇る世界に身を移した。
彼がいて、そして友達が増えて、仲間が増えて――それまでは何となく遠目に無関心に眺めていた色々なものが、にわかに実体を伴って彼女を取り巻いた。
すると、彼女にとっては意外な事に、それは暖かかったのだ。 それはそれは居心地が良かったのだ。
自分が彼の隣でゆっくりと変質していく様を、毎日驚きの目で見ていた。
しかし。 だからと言って。
納得ずくでやっていた、あの頃の自分を、消すことはできない。 故に否定することもできない。
できないまま笑った。 できないまま受け入れてもらった。 本当の過去は隠したまま図々しくもこちら側に来てしまった自分が、いつ糾弾され追われるかと密かに怯えながら、それでも逃げ出すにはこの世界は甘すぎて。
「その時は、俺が一緒に怒られてあげますよ」
昼と夜の狭間で俯く彼女に、かつて彼はそう言って笑った。
それでようやく彼女は少し泣いて、そして半分だけ彼に預けた。 残りは胸の引き出しの、一番奥にしまい込んだ。
――その甘えの。 その弱さの代償が、きっとこれなのだろう。 この無謀にして皮肉な状況と、それでもそこに飛び込まずにはいられない、愚かな愚かな想いなのだろう。
でも。 でも――
「――私にしか、出来ないんだから……」
どうせ引き返す気がないのなら言い訳は不要だ。 最後には何が何でも彼の所に戻る為に、危険な迷いは捻じ伏せろ。
この仕事に相応しい、かつての自分を、舞台に引きずり上げろ――
ルカは再度、ぐいと目の前の扉を睨み据えて気持ちを切り替える。
まずはあの時の、自分を「クビ」にした、あの時の幹部と、接触を図るべし。
餌は自分自身だ。 とっくの昔に穴の底の亡者に食わせたはずの、捨て駒の再訪。
忘れられているか、無視されるか、確認の為に顔を出してくるか。 三択の確率はほぼ均等に三分の一と彼女は予想していた。 決して明るい賭けとは言えない。
その上、名乗った瞬間に新たに発生する二択がある。 裏切り者として再度、捕捉対象にされるか、否か。 どう考えても利口な賭けとは言えない。
それでも、一撃で切り込める手札を他に持たないルカは、きつく目を細めてその扉にぐっと手をかける。
「――勝負」
頭の中に残っていたスイッチを小さな呟きで一気に倒すと、彼女は扉を開けた。
* * *
ギャンブルの神様は、彼女の半ばやけっぱちな行動の方により興味をそそられたようだった。
「ロメロさん、居ますか」
木製の長椅子が並ぶ、待合室のような空間。 仕事の報酬を受け取りに来ているのであろうタルタルが一人いるっきりのその部屋をつかつかと突っ切り、かつてはそこで仕事を請け負っていた窓口の一つで、ルカは早口に目標の幹部の名を告げた。
「お名前は」
来るなり上層部の人間を指名する見覚えのないシーフに、冷たい視線を投げかける係官。
「アルカンジェロ。 取り次いでもらえば判るから」
三分の二のはったりを吐く。 と、なおも訝しげな係官を極力余裕の表情で見返すルカに、少なからず驚きの色を含む声が窓口の奥から与えられた。
「……これは、これは。 お元気そうですなあ」
――ツキを。 使い果たしてしまいそうだ――
かつてこのギルドで最後に見た、まさにその顔が、そこにはあった。 見間違うはずもない、相変わらずの胡散臭い愛想笑いと馬鹿丁寧な口調。 ルカの脳裏を苦い記憶が、ルカの体を新たな冷気が一瞬で駆け抜けた。
少し表情を引き締めて、顔を上げる。 ゆっくりと窓口を回り込んで自分の方に向かってくる、その昔彼女を地獄送りにしたヒューム族の幹部を、やはりゆっくりと歩いて彼女は迎えた。 深呼吸をこらえる。
「どうも」
「まさかまたお会いできるとは、思っておりませんでしたよ」
歩み寄るロメロの芝居がかるほどに大げさに広げられる両手が、見事に威嚇の役目を果たしている。
ルカは能面のような無表情だけを提示しながら、彼女が用意してきたそれと対を成すロジックが彼の中に組み上がるのを待っていた。 中途半端に手を進めては変則的な対応を迫られる。 どう転ぶにせよ、予測の範囲内で進めたいと彼女は願っていた。
掴んだ幸運は丁寧に扱わなければならない。
ほんの一秒で、さて、といった感じの慇懃な笑顔がロメロの顔に浮かぶ。 スタートだ。
「――あのゴミ箱、残念ながら穴があいてたわよ」
「おや。 そんな筈はないんですけどねぇ」
幹部の男は大仰に首をかしげて見せる。
「わざわざゴミ箱からゴミを拾う、酔狂な方でもいらしたのかと思いましたよ」
「あんな見つけにくいゴミ箱をわざわざ漁ってくれるような親切な人を雇ってるのかしら、ここは」
彼は言葉の代わりに鼻で笑う。 一拍の、間。
「どうかしら。 きれい好きな人たちに、修繕の依頼を出してあげても?」
ロメロの眉が、ぴくりと動いた。 ルカを見下ろすにこやかな彼の視線に含まれる棘が、数本増える。
「それともゴミの方に、あそこに行ったらお行儀良く収まってるよう先輩として進言でもして差し上げましょうか――」
平たく言えば、『表の機関やギルドメンバーに、あの粛清の穴の存在をバラされたくなければ……』という一種の、そして精一杯の脅迫である。
「そういったお気遣いは無用なんですがねぇ……」
ロメロはやれやれといった風に首を振る。 そしてさもさりげない口振りで、さらっと切り返した。
「そう言えば、あの時の黒魔道士さんはご健勝で?」
唯一武装できない個所に照準を当てられ、ルカの警戒が一段階跳ね上がった。 が、どうにか表情も気配も崩さずに済んだ。
ギルドの手から逃れて後、バルトの背後にも追っ手の気配を一切感じなかった事から、シーフギルドは彼の足取りを追う事まではしていない、とあらかじめルカは踏んでいた。
すなわちこれは、ベドーでの二人の会話を盗み聞いていたロメロの邪推――単なる揺さぶりの可能性が、圧倒的に高い。 ルカは慌てず騒がず、誰の事を言っているのか、と考えるような間をほんの一瞬だけ置いてから、熱のこもらない目でひょいと肩をすくめて言った。
「何よ、私の後に誰かがうまくやったんじゃないの」
平淡な発音。 気の抜けたような声音。 全身全霊でシラを切る。 そして再度、本題に戻すようにひたっと彼を見据えて返す。
ロメロは首をすくめてわざとらしく溜息をつくと、腕を組んでカウンターにもたれてみせた。笑っているのにもはや棘だらけの視線でルカを見下ろしたまま、その顎を僅かに上げて、細めた目でぴたりと口をつぐむ。
そのまま数秒流れる、傍から見れば不自然な沈黙の中。 彼の目が話の先を続けているのを彼女は読み取っていた。
『まぁいい。 一応、要求だけは聞いてやろうか』。 ルカはぐっと腹に力を入れる。
「上層部がとんでもなく優秀な薬をお持ちと聞いたわ。 分けてほしいんだけど」
「――はっ!」
ルカの前置きなし直球ストレートな言葉に、弾けるような笑いが幹部の男の口を突いた。
が、それは馬鹿にしたものでも呆れたものでもなく――いや、多少はその色合いも含んでいたが――むしろハプニングに興をそそられたような、思わず漏れてしまった笑い。
「これはまた。 そうですか、なるほど――いや、これはなかなか」
彼の愛想笑いが奇妙に崩れる。 そして意味のあるようでない言葉を並べながら、人目をはばかる形で部屋の更に隅へと移動した。 淡々とした表情を崩さずについていくルカ。
「そういうアプローチは決して嫌いではないですよ。 実に清々しい」
壁を背にくるりと振り返り、低く抑えた声で、しかしさも愉快そうにロメロは言った。
「今日はわたくし、少々機嫌が良いものでしてね。 それもあなたの運のうちなのでしょう。 判りました、その運と――あそこから這い上がってきた事に敬意を表して、ここは一つ応じて差し上げましょうか」
「――有難い話だわ」
釣れた。 が、詰めで気を抜くな。 落とし穴を見逃すな。 冷静に。
ルカは頭の中で自分に向かって絶え間なく唱えながら、はやる心をぐっと抑えた。 ロメロが続ける。
「ただ、残念ながらご希望のものは、ここでお売りできる性質のものではありません。 そちらから出向いて頂く事になりますので――」
彼の視線が、再度すっと鋭く細くなる。
「例によって他言無用、そこでの話が漏れたらあなたに嫌疑をかけます。 よろしいですね」
「勿論」
ルカが低く答えると、何が可笑しいのか彼はくつくつと笑い出した。
「……いや、失礼。 この件を嗅ぎ付けてうろつく動きが出始めているのは知っていましたが」
まだ笑う。 ルカは無表情でそれをも観察する。
「ここまで直球で来たのは、あなたが初めてですよ……実に、面白い」
ようやく彼はふっ、ふっと笑いを収めると、改めてルカに視線を送った。 先程までよりも、心なしか温度が低い。 無力な小動物を見るような眼差しだ――と彼女は思った。
「海蛇の奥です。 うちが警備を担当しています。 ――後は、お好きにどうぞ」
極限まで小さな声で、ロメロは早口に告げた――それは、恐らくほとんどのカードが伏せられたままの、終局だった。
それでもひとまずの成功に、心の中で大きく安堵するルカ。 が、うちが、という注釈に、思わずその瞳が翳る。 他にも噛んでいる組織があると言うのか――
「ありがとう」
それが聞ければ、こんな危険な所にもう用はない。 未練は言うに及ばず。 長居は無用とばかりに、ルカはくるりと踵を返した。
「どうぞお気をつけて――ああ」
と、その背中に心にもない言葉を送るロメロが、ふと呼び止めるような声を上げた。
「つかぬ事をお伺いしますが。 魔法の心得は、いかほどおありですかな」
「――――」
出口へと向かう足を止め、肩越しにゆっくりと彼を振り返るルカ。 質問の意図を読み取ろうとその表情を探るが、何やらまだ楽しそうなにやにや笑いだけから具体的な何かを掴むのはさすがに無理だった。
「……見ての通りだけど」
軽く捻られているルカの腰に下がる、二本の短剣。 忍者の技術を併せ持つ事を選んだシーフに、魔力の入る余地はない。
「そうですか。 いや、失礼しました。 では、お気をつけて」
またも吐く親切なセリフを最後に、今度こそ彼は全ての言葉を収める。 そのにこやかな笑顔に見送られて、ルカは足早にシーフギルドを後にした。
「……ではやはり、目的達成の暁にはタダでは済みませんね。 良くて廃人か……まぁ、抹消しなおす手間が省けて、何よりです」
茶色い髪のミスラが消えた扉に向かって、幹部の男は楽しげに呟いた。
to be continued