テノリライオン
ルルヴァードの息吹 6
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匿名ユーザー
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高く暖かい日差しの気配に、バルトは目を覚ました。
「…………っ」
布団の中で、大きくあくびをする。 ついでうーんと力いっぱい伸びをしながら、壁の時計に目をやった。
「――?」
既に昼を回っている。 あれ、と思ったバルトはもぞもぞとベッドから降り、室内をぐるりと見回した。
カーテン越しにも眩しい日の光。 十分に明るい部屋は、その明るさに対して不自然に、空しくしんと静まりかえって――
ルカが、いない。 代わりにテーブルの上に、ぽつんといつものメモ帳。
『ちょっと出かけてきます。 遅くなるかも』
バルトはひょこんと首を傾げた。 何か急な用事でもできたんだろうか。 言って行けばいいのに――と思いかけて、彼は思い直した。
彼女によれば、寝起きに交わした会話の多くをバルトは覚えていないらしい。 寝惚けたまま、比較的しっかりしたやりとりを、彼はするのだそうだ。
またやっちゃったかな、と彼は一人想像し納得すると、再度あくびをしながらわしわしと頭をかきまわし、キッチンへ向かった。
* * *
各階競売。
天晶堂。
M&Pマート。
免税店。
武器店、防具店、ゴブリンの店。
特にすることもないので、部屋にあったものを軽く食べてから街着に着替えて寄宿舎を出ると、バルトはルカが立ち寄りそうなスポットをぶらぶらと順に一通り回ってみた。
が、どこにも彼女の姿はない。 移動している間もそれなりに注意していたが、道ですれ違うこともなかったようだ。
どこかで入れ違ってしまったか、と寄宿舎に戻ってみる。 しかし部屋は目覚めた時と変わらずのっぺりと明るく、そして誰もいない。
「…………」
立ち尽くすバルトの胸に、妙だ、という思いが湧き上がる。 行き先を書いていない以上、遅くなるとは言ってもせいぜい街の中にいると思っていた。 それが、見当たらない。 街から出るぐらいに遠出するなら、もう少し詳しく言って行くだろうし――
ふっと何かに呼ばれたかのように、バルトは部屋の奥の物置きスペースに向かった。
納戸のようになっている収納をがたんと開ける。 二人分の、ごっちゃになった装備の山――が。
「――――」
一人分になっていた。
武器も防具も、道具類まで。 本気の狩りに行く時の装備が、見事に全部消えている。
バルトの表情から余裕が失せた。 くるりと踵を返すと、部屋の隅の収納キャビネットにつかつかと歩み寄る。
頭の中で、失礼、と一言断って、ルカの引き出しをがらりと開けた。
すると、雑多な小物に混じってそこにあったのは――通信パール。 オレンジの光をたたえて、半透明の真珠が無邪気にころんと転がっている。
……うっかりを、装っている。
バルトの中に、何故だかそんな確信が閃いた。
置いていくつもりで置いていったくせに、つい忘れちゃって、と言おうとしているような――何故か、そんな気配。
――君が、素っ気ない振りしてきっちり寂しがり屋の君が、皆との通信手段を手放して行動するなんて、ありえない。 そりゃ説得力に欠けるってもんだ――
バルトは心の中できっぱりと彼女に反論すると、ぱたんと引き出しを閉めた。
もう一回、回ってみよう。
バルトは自分の通信パールをポケットに収める。 机の上のメモとペンを取るとルカの書き置きをぴっとはぎ取り、次の一枚に戻ったら連絡をくれるように書いてそれも切り取るとテーブルの上に置いて、メモ帳をポケットに突っ込みながら足早に寄宿舎を出た。
* * *
ル・ルデの庭から、上層、下層。
先程よりも強いて周囲に目を配りながら、バルトはジュノの街を上から順になぞっていく。
髪の色が茶色のミスラを視界に捉えてはっとしては他人だと気付き、そのたびに理由もない焦燥が少しずつ彼の中に募っていく。
人混みの厳しいジュノ下層を往復して戻ってきた彼の目に、天晶堂の扉が飛び込んできた。
そして彼は思い出す。 昨日、彼女が天晶堂でふいに見せた、射るような眼差しを。
探すミスラの姿を見逃さないよう、ぎりぎりまでせわしなく周囲の人混みに目を走らせながら、バルトはばたんとその扉を開いた。 ほとんど駆け足で天晶堂へと降りると、軽く息を切らせて店内を大きく見回す。 その明らかにお客ではない慌ただしさに、入り口近くにいた数人が何事かと彼に訝しげな視線を送った。
店の奥へと走る。 あの時彼女が見ていた棚。 立ち止まるバルト。 何もない空間に、彼の瞳の中にだけ像が結ぶ。 そうだ、あれは――
「どなたかお探しでいらっしゃいますか」
突然駆け込んできて静謐な空気を無言で乱したあげく木偶のように立ち尽くす不審なエルヴァーンに、礼儀正しくしかし気配もなく歩み寄った店員がサービス六割牽制四割の静かな声をかけた。
その声に、バルトは弾かれたように振り向く。 そして栗毛のミスラを見なかったか、と尋ねようとしてポケットのメモを探り――
「…………」
が、とっくに慣れたはずのそんな僅かな動作に、彼の中で久しく覚えなかった強烈なもどかしさが突如として突き上げた。
喋れれば、口さえ利ければ、一言二言で確認して先に進めるのだ。 それを自分は全て紙に書いて、意図が通じなければその度に書き直さなければならない。 万一その間にルカが外を通りでもしたら、行き違ってしまったら……
「――――」
バルトはぎゅっと唇を噛み締めると乱暴に一つ頭を下げ、訝しげな店員の脇を早足ですり抜けると外への階段を駆け上がった。
自分の事ならいくらだって時間をかけよう。 だけど、今は――
再度扉を跳ね開けて、バルトは競売前の雑踏に舞い戻った。 地下の天晶堂で取りこぼした時間をかき集めるかのように、伸び上がりながら周囲の人混みを繰り返し大きく見渡す。 まるで自分こそが迷子になってしまったかのような、頼りない焦りに染まった表情だ。
――判らない。 判らないけどあれは、あの時のルカの眼差しは、そうだ、出会った時の、刺客として自分の前に姿を現した時の――何故今になって気付く、何故今になってそんな目をする、いや違う、単なる気のせいだ、パールの事だってただの偶然で、焦っているからこんな世迷言を……大丈夫、見つかればすぐ判る、きっと何でもない、どこだ、どこへ行った――
駆け足で螺旋階段を降り、バルトはジュノ港へと移動する。 輝くような海辺の太陽に射られ、下層で酷使して鈍く疲れ始めた目をぎゅっと瞑って開くと、鎮める切り札を見つけられないままの胸騒ぎに突き飛ばされて走り出す――
すぐ右手の、バストゥーク行きの飛空挺発着場を見下ろすレンガ造りの低い壁にばっと取り付く。
ぐいと大きく身を乗り出して遥か眼下を臨むが、船着き場手前の大きな建物がそこへの視界を遮っていた。
見えない発着場に向けて、バルトの口が無意識に大きく開く。 はぁっと息を吸い込み――
一瞬の後。 彼は忌々しげに顔を歪めてぎりっと歯を食い縛ると、その息を足元に吐き捨てた。
* * *
――居ない。
一人のままジュノ港出口に辿り着いてしまったバルトは、ソロムグ平原へ抜ける大きな門を背にぽつんと立ち止まっていた。 虚ろな眼差しが、惰性であたりをさまよっている。
と、行動目標を使い果たして途方に暮れていた彼の足が、再度ふらりと動き出す。 どうやら寄宿舎に向かうようだ。 急いでいないと居られないような、頼りない表情とは裏腹の切羽詰った足取りで、元来た道を引き返していく。
「バルト」
と。 地下へ続く階段の入り口を通り過ぎた彼を、声が呼び止めた。
はっと振り向くバルトの目の前に、長い白髪のエルヴァーン――ヴォルフの姿。
「――、どうした」
何気なく声をかけただけのヴォルフの表情が、バルトと目が合うや否や、訝しむような空気をまとって曇った。
「――――」
そうして早足で歩み寄ってくる友の心配そうな面持ちを見て、自分の顔から血の気が引いているらしい事を知ったバルトが、咄嗟にある種の冷静さを取り戻した。 軽く乱れていた息をぐっと呑み込むと、どうにか浮かべた微笑と共にふるふると首を振ってみせる。
そう、そもそも、事はただ単にルカの姿が見えないだけなのだ。 書き置きもある。 子供じゃあるまいし、人を巻き込んで大騒ぎをするような事では、と――
ヴォルフは騙されなかった。 何でもないですよ、という風に手を挙げて行き過ぎようとする彼の二の腕をひゅっと掴む。 驚いたように振り向くバルト。
ぎりぎりの戦いの中にあっても冷静な判断を振るう黒魔道士が、こんなうららかな街中で顔色を失っている。 寡黙な赤魔道士は短く訊いた。
「手は要るか」
――それは。 余分なやりとりの一切を省いて、即座に無条件に差し伸べられる手で――
バルトの肩から、ばさりと力が抜けた。 途端にがくがくと折れそうになる膝に、バルト本人の方が驚いてしまう。 自覚していたよりもずっと張り詰めていた自分を目の当たりにして一瞬自虐的な苦笑を浮かべると、彼はすぐそばの壁にずるりと身を預けた――
「ルカさんの姿が見えない――?」
ポケットのメモ帳に書き殴るようにして、バルトはヴォルフに状況を説明しはじめた。 書き置き、装備、パール、天晶堂。
文字で一杯になった紙をびっと破く。 するとその動作で、またバルトは気付いてしまった。
昨日の夜に新しくおろしたばかりだったはずのメモ帳。 よくよく見れば、すでにかなり破られた後がある。
あの書き置きの前に、何枚も使ったのか……
「……バルト?」
メモを破ったままの動作で動きを止める彼を、ヴォルフの低い声が覗き込む。
俯くバルトは破り取った紙切れを、手の中で祈るようにゆっくりと握り潰した。
* * *
二人のエルヴァーンは手分けをしてもう一度ジュノの街をしらみ潰しにしたが、やはり何の収穫も得られなかった。
「ジュノから出た事は、恐らく間違いないだろう」
落ち合った下層の噴水前で、ヴォルフが言った。 思案顔のバルトは小さく頷く。
「もし他国にいれば、すれ違うかもしれない。 ルードやドリーさん達にも連絡を入れておくか」
ヴォルフの提案に彼はまだ少し迷うような気配を見せたが、結局すまなそうに首を縦に振った。
長身の赤魔道士が通信パールを取り出す。
『――あ、ヴォルフさん?』
通信を開くなり二人の耳に飛び込んできたのは、急いたようなルードの声だった。
『あの、今バルトさんって連絡つきます? っつーか、ルカさんがどうしてるか知りたいんすけど』
二人は咄嗟に顔を見合わせた。
「バルトは今一緒に聞いている。 ルカさんを探していた所だが、どうした」
『う、やっぱり居ないんすか……いや、あのですね――』
ルードが早口に語る内容に、バルトの表情がみるみる険しくなっていく。 急いでメモにペンを走らせると、それを覗き込んだヴォルフがパールの向こうのルードに訊いた。
「――シーフギルドから来た、というのは間違いなさそうか」
『恐らく。 尾行していた奴の口ぶりに、咄嗟に誤魔化したという感じはありませんでした。んで……まぁ、そのせいなのか判んないっすけど、ルカさん――俺が見た感じ、なんつーか、こう……近寄り難いって言うか……』
言葉を選んでいるのか、そもそも言葉が見つからないのか、パールの向こうで戸惑いも顕わに言いよどむルード。 バルトが絞るような深い溜息を吐いた。
ヴォルフがルードにジュノ側の状況を説明する。 その間、バルトはじっと虚空を睨んでいた。 迷いや思案を表すように細かく泳いでいた視線が、何らかの方向性を掴んで徐々に一点に座っていく。
その目から憔悴と困惑の色が徐々に消え、硬い理性の光が戻り始める黒魔道士の様子を横目で見ながら、ヴォルフが説明を締めくくった。
「――じゃ、ルード達は念の為ノーグに向かってみてくれ。 すぐ出られるか」
『え、――っと、すいませんこれからちょっと、ヤボ用でその。 夜前ぐらいに移動魔法で向かいますから』
「判った。 バルト、何かあるか」
ルードの決まり悪そうなどもり声をヴォルフは彼らしくスルーし、バルトに尋ねる。 ルードにとっては有難かったに違いない。
その横で、既にメモは文字列で埋まっていた。 バルトは険しく細めた目ですいとそれをヴォルフにかざす。 彼はその文字列を三秒ほど注視すると、そこから目を逸らさないまま言った。
「――ルード、俺達はちょっとジュノで調べ事をする。 何かあったらまた連絡を」
「判りました」
ぷつんと通信を切ると、二人のエルヴァーンの足はル・ルデの庭へと向けられた。
to be continued
「…………っ」
布団の中で、大きくあくびをする。 ついでうーんと力いっぱい伸びをしながら、壁の時計に目をやった。
「――?」
既に昼を回っている。 あれ、と思ったバルトはもぞもぞとベッドから降り、室内をぐるりと見回した。
カーテン越しにも眩しい日の光。 十分に明るい部屋は、その明るさに対して不自然に、空しくしんと静まりかえって――
ルカが、いない。 代わりにテーブルの上に、ぽつんといつものメモ帳。
『ちょっと出かけてきます。 遅くなるかも』
バルトはひょこんと首を傾げた。 何か急な用事でもできたんだろうか。 言って行けばいいのに――と思いかけて、彼は思い直した。
彼女によれば、寝起きに交わした会話の多くをバルトは覚えていないらしい。 寝惚けたまま、比較的しっかりしたやりとりを、彼はするのだそうだ。
またやっちゃったかな、と彼は一人想像し納得すると、再度あくびをしながらわしわしと頭をかきまわし、キッチンへ向かった。
* * *
各階競売。
天晶堂。
M&Pマート。
免税店。
武器店、防具店、ゴブリンの店。
特にすることもないので、部屋にあったものを軽く食べてから街着に着替えて寄宿舎を出ると、バルトはルカが立ち寄りそうなスポットをぶらぶらと順に一通り回ってみた。
が、どこにも彼女の姿はない。 移動している間もそれなりに注意していたが、道ですれ違うこともなかったようだ。
どこかで入れ違ってしまったか、と寄宿舎に戻ってみる。 しかし部屋は目覚めた時と変わらずのっぺりと明るく、そして誰もいない。
「…………」
立ち尽くすバルトの胸に、妙だ、という思いが湧き上がる。 行き先を書いていない以上、遅くなるとは言ってもせいぜい街の中にいると思っていた。 それが、見当たらない。 街から出るぐらいに遠出するなら、もう少し詳しく言って行くだろうし――
ふっと何かに呼ばれたかのように、バルトは部屋の奥の物置きスペースに向かった。
納戸のようになっている収納をがたんと開ける。 二人分の、ごっちゃになった装備の山――が。
「――――」
一人分になっていた。
武器も防具も、道具類まで。 本気の狩りに行く時の装備が、見事に全部消えている。
バルトの表情から余裕が失せた。 くるりと踵を返すと、部屋の隅の収納キャビネットにつかつかと歩み寄る。
頭の中で、失礼、と一言断って、ルカの引き出しをがらりと開けた。
すると、雑多な小物に混じってそこにあったのは――通信パール。 オレンジの光をたたえて、半透明の真珠が無邪気にころんと転がっている。
……うっかりを、装っている。
バルトの中に、何故だかそんな確信が閃いた。
置いていくつもりで置いていったくせに、つい忘れちゃって、と言おうとしているような――何故か、そんな気配。
――君が、素っ気ない振りしてきっちり寂しがり屋の君が、皆との通信手段を手放して行動するなんて、ありえない。 そりゃ説得力に欠けるってもんだ――
バルトは心の中できっぱりと彼女に反論すると、ぱたんと引き出しを閉めた。
もう一回、回ってみよう。
バルトは自分の通信パールをポケットに収める。 机の上のメモとペンを取るとルカの書き置きをぴっとはぎ取り、次の一枚に戻ったら連絡をくれるように書いてそれも切り取るとテーブルの上に置いて、メモ帳をポケットに突っ込みながら足早に寄宿舎を出た。
* * *
ル・ルデの庭から、上層、下層。
先程よりも強いて周囲に目を配りながら、バルトはジュノの街を上から順になぞっていく。
髪の色が茶色のミスラを視界に捉えてはっとしては他人だと気付き、そのたびに理由もない焦燥が少しずつ彼の中に募っていく。
人混みの厳しいジュノ下層を往復して戻ってきた彼の目に、天晶堂の扉が飛び込んできた。
そして彼は思い出す。 昨日、彼女が天晶堂でふいに見せた、射るような眼差しを。
探すミスラの姿を見逃さないよう、ぎりぎりまでせわしなく周囲の人混みに目を走らせながら、バルトはばたんとその扉を開いた。 ほとんど駆け足で天晶堂へと降りると、軽く息を切らせて店内を大きく見回す。 その明らかにお客ではない慌ただしさに、入り口近くにいた数人が何事かと彼に訝しげな視線を送った。
店の奥へと走る。 あの時彼女が見ていた棚。 立ち止まるバルト。 何もない空間に、彼の瞳の中にだけ像が結ぶ。 そうだ、あれは――
「どなたかお探しでいらっしゃいますか」
突然駆け込んできて静謐な空気を無言で乱したあげく木偶のように立ち尽くす不審なエルヴァーンに、礼儀正しくしかし気配もなく歩み寄った店員がサービス六割牽制四割の静かな声をかけた。
その声に、バルトは弾かれたように振り向く。 そして栗毛のミスラを見なかったか、と尋ねようとしてポケットのメモを探り――
「…………」
が、とっくに慣れたはずのそんな僅かな動作に、彼の中で久しく覚えなかった強烈なもどかしさが突如として突き上げた。
喋れれば、口さえ利ければ、一言二言で確認して先に進めるのだ。 それを自分は全て紙に書いて、意図が通じなければその度に書き直さなければならない。 万一その間にルカが外を通りでもしたら、行き違ってしまったら……
「――――」
バルトはぎゅっと唇を噛み締めると乱暴に一つ頭を下げ、訝しげな店員の脇を早足ですり抜けると外への階段を駆け上がった。
自分の事ならいくらだって時間をかけよう。 だけど、今は――
再度扉を跳ね開けて、バルトは競売前の雑踏に舞い戻った。 地下の天晶堂で取りこぼした時間をかき集めるかのように、伸び上がりながら周囲の人混みを繰り返し大きく見渡す。 まるで自分こそが迷子になってしまったかのような、頼りない焦りに染まった表情だ。
――判らない。 判らないけどあれは、あの時のルカの眼差しは、そうだ、出会った時の、刺客として自分の前に姿を現した時の――何故今になって気付く、何故今になってそんな目をする、いや違う、単なる気のせいだ、パールの事だってただの偶然で、焦っているからこんな世迷言を……大丈夫、見つかればすぐ判る、きっと何でもない、どこだ、どこへ行った――
駆け足で螺旋階段を降り、バルトはジュノ港へと移動する。 輝くような海辺の太陽に射られ、下層で酷使して鈍く疲れ始めた目をぎゅっと瞑って開くと、鎮める切り札を見つけられないままの胸騒ぎに突き飛ばされて走り出す――
すぐ右手の、バストゥーク行きの飛空挺発着場を見下ろすレンガ造りの低い壁にばっと取り付く。
ぐいと大きく身を乗り出して遥か眼下を臨むが、船着き場手前の大きな建物がそこへの視界を遮っていた。
見えない発着場に向けて、バルトの口が無意識に大きく開く。 はぁっと息を吸い込み――
一瞬の後。 彼は忌々しげに顔を歪めてぎりっと歯を食い縛ると、その息を足元に吐き捨てた。
* * *
――居ない。
一人のままジュノ港出口に辿り着いてしまったバルトは、ソロムグ平原へ抜ける大きな門を背にぽつんと立ち止まっていた。 虚ろな眼差しが、惰性であたりをさまよっている。
と、行動目標を使い果たして途方に暮れていた彼の足が、再度ふらりと動き出す。 どうやら寄宿舎に向かうようだ。 急いでいないと居られないような、頼りない表情とは裏腹の切羽詰った足取りで、元来た道を引き返していく。
「バルト」
と。 地下へ続く階段の入り口を通り過ぎた彼を、声が呼び止めた。
はっと振り向くバルトの目の前に、長い白髪のエルヴァーン――ヴォルフの姿。
「――、どうした」
何気なく声をかけただけのヴォルフの表情が、バルトと目が合うや否や、訝しむような空気をまとって曇った。
「――――」
そうして早足で歩み寄ってくる友の心配そうな面持ちを見て、自分の顔から血の気が引いているらしい事を知ったバルトが、咄嗟にある種の冷静さを取り戻した。 軽く乱れていた息をぐっと呑み込むと、どうにか浮かべた微笑と共にふるふると首を振ってみせる。
そう、そもそも、事はただ単にルカの姿が見えないだけなのだ。 書き置きもある。 子供じゃあるまいし、人を巻き込んで大騒ぎをするような事では、と――
ヴォルフは騙されなかった。 何でもないですよ、という風に手を挙げて行き過ぎようとする彼の二の腕をひゅっと掴む。 驚いたように振り向くバルト。
ぎりぎりの戦いの中にあっても冷静な判断を振るう黒魔道士が、こんなうららかな街中で顔色を失っている。 寡黙な赤魔道士は短く訊いた。
「手は要るか」
――それは。 余分なやりとりの一切を省いて、即座に無条件に差し伸べられる手で――
バルトの肩から、ばさりと力が抜けた。 途端にがくがくと折れそうになる膝に、バルト本人の方が驚いてしまう。 自覚していたよりもずっと張り詰めていた自分を目の当たりにして一瞬自虐的な苦笑を浮かべると、彼はすぐそばの壁にずるりと身を預けた――
「ルカさんの姿が見えない――?」
ポケットのメモ帳に書き殴るようにして、バルトはヴォルフに状況を説明しはじめた。 書き置き、装備、パール、天晶堂。
文字で一杯になった紙をびっと破く。 するとその動作で、またバルトは気付いてしまった。
昨日の夜に新しくおろしたばかりだったはずのメモ帳。 よくよく見れば、すでにかなり破られた後がある。
あの書き置きの前に、何枚も使ったのか……
「……バルト?」
メモを破ったままの動作で動きを止める彼を、ヴォルフの低い声が覗き込む。
俯くバルトは破り取った紙切れを、手の中で祈るようにゆっくりと握り潰した。
* * *
二人のエルヴァーンは手分けをしてもう一度ジュノの街をしらみ潰しにしたが、やはり何の収穫も得られなかった。
「ジュノから出た事は、恐らく間違いないだろう」
落ち合った下層の噴水前で、ヴォルフが言った。 思案顔のバルトは小さく頷く。
「もし他国にいれば、すれ違うかもしれない。 ルードやドリーさん達にも連絡を入れておくか」
ヴォルフの提案に彼はまだ少し迷うような気配を見せたが、結局すまなそうに首を縦に振った。
長身の赤魔道士が通信パールを取り出す。
『――あ、ヴォルフさん?』
通信を開くなり二人の耳に飛び込んできたのは、急いたようなルードの声だった。
『あの、今バルトさんって連絡つきます? っつーか、ルカさんがどうしてるか知りたいんすけど』
二人は咄嗟に顔を見合わせた。
「バルトは今一緒に聞いている。 ルカさんを探していた所だが、どうした」
『う、やっぱり居ないんすか……いや、あのですね――』
ルードが早口に語る内容に、バルトの表情がみるみる険しくなっていく。 急いでメモにペンを走らせると、それを覗き込んだヴォルフがパールの向こうのルードに訊いた。
「――シーフギルドから来た、というのは間違いなさそうか」
『恐らく。 尾行していた奴の口ぶりに、咄嗟に誤魔化したという感じはありませんでした。んで……まぁ、そのせいなのか判んないっすけど、ルカさん――俺が見た感じ、なんつーか、こう……近寄り難いって言うか……』
言葉を選んでいるのか、そもそも言葉が見つからないのか、パールの向こうで戸惑いも顕わに言いよどむルード。 バルトが絞るような深い溜息を吐いた。
ヴォルフがルードにジュノ側の状況を説明する。 その間、バルトはじっと虚空を睨んでいた。 迷いや思案を表すように細かく泳いでいた視線が、何らかの方向性を掴んで徐々に一点に座っていく。
その目から憔悴と困惑の色が徐々に消え、硬い理性の光が戻り始める黒魔道士の様子を横目で見ながら、ヴォルフが説明を締めくくった。
「――じゃ、ルード達は念の為ノーグに向かってみてくれ。 すぐ出られるか」
『え、――っと、すいませんこれからちょっと、ヤボ用でその。 夜前ぐらいに移動魔法で向かいますから』
「判った。 バルト、何かあるか」
ルードの決まり悪そうなどもり声をヴォルフは彼らしくスルーし、バルトに尋ねる。 ルードにとっては有難かったに違いない。
その横で、既にメモは文字列で埋まっていた。 バルトは険しく細めた目ですいとそれをヴォルフにかざす。 彼はその文字列を三秒ほど注視すると、そこから目を逸らさないまま言った。
「――ルード、俺達はちょっとジュノで調べ事をする。 何かあったらまた連絡を」
「判りました」
ぷつんと通信を切ると、二人のエルヴァーンの足はル・ルデの庭へと向けられた。
to be continued